聖徳太子ゆかりの寺 世界最古の木造建造物法隆寺の歴史的背景

聖徳太子ゆかりの寺 法隆寺 世界最古の木造建造物の歴史的背景

関西は、古くには都が置かれ、長い歴史が豊かな文化をはぐくんできたエリアです。

特に、京都府・奈良県は数多くの寺社・仏閣が存在し、その中には世界遺産に登録されたものもあります。

その中の一つに、法隆寺はあります。

法隆寺の歴史は古く、寺を構成する建物の中には、世界最古の木造建築物が含まれます。

また、建物を建立したのが聖徳太子だということも興味深いことです。

聖徳太子が活躍した時代といえば、西暦600年頃の話しになります。

つまり、法隆寺ができてから1400年以上もの年月が過ぎているということです。

ここでは、この世界遺産に登録されている歴史的な価値の高い法隆寺についてご紹介します。

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今に残る飛鳥時代の面影、法隆寺は文化財の宝庫

法隆寺は、別名「斑鳩(いかるが)寺」と呼ばれ、奈良県生駒郡斑鳩町に立地します。

現存する世界最古の木造建築群として重要な史跡であることから、「法隆寺地域の仏教建造物」のひとつとして、世界文化遺産に登録されています。

宗派は聖徳宗で、法隆寺は聖徳宗の総本山です。

第2次世界大戦終戦頃までは、法相宗の大本山の一つという位置づけでしたが、終戦後の1950年、聖徳宗として法相宗より離脱しました。

この聖徳宗は現在、門跡寺院中宮寺、本山法輪寺、法起寺など、聖徳太子縁の寺と共に大小合わせて約30の寺院で構成されています。

法隆寺の境内の広さは非常に広く、約18万7千平方メートルあります。
東京ドームにして約4つ分の広さになります。

法隆寺は東大門を境として、西院と東院にわかれます。

このような配置を「法隆寺式伽藍(がらん)配置」と呼びます。

伽藍とは、僧侶が集まって修行したりしていた場所を意味し、寺院や寺院を構成する主要な建物を言います。

西院は、聖徳太子が建立した当初の伽藍で構成されています。

一方東院は、聖徳太子が法隆寺建立前に建てた聖徳太子の宮である「斑鳩宮」があった場所に、聖徳太子供養のために建立された伽藍となります。

その建立の経緯からも、西院の伽藍は、法隆寺の寺機能としての中枢部分となります。

国宝である金堂と五重塔が並んで建っており、北側には国宝の大講堂、南側には国宝の中門があり、それを結ぶように、国宝の回廊が囲むように建っています。

法隆寺には、これらのような国宝や重要文化財が、建物だけで55棟も現存しているのです。

また、仏教美術品も多数貯蔵されていて、国宝だけでも150点、重要文化財も合わせると、3,104点もが収められているのです。

このことからも、法隆寺は文化財の宝庫だといえます。

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法隆寺が世界遺産に登録された理由

法隆寺は、日本が世界遺産条約に批准したのち、国内で最初に世界遺産に登録されたものの1つです。

世界遺産に登録するかの可否を決定する基準は、全部で10項目あります。

ユネスコでは、各国から提出された推薦状をもとに、「世界遺産条約履行のための作業指針」で定められたこの基準に合致しているか、専門機関で現地調査などを行います。

その結果を世界遺産委員会にて審議・決議を行い、世界遺産登録が決定します。

この基準のうち、文化遺産に適する基準は6つあり、そのうち法隆寺は基準の1・2・4・6を満たしていると判断されました。

一つ目として、法隆寺の建築物としての価値です。

建物一つ一つのデザインは計算されつくされており、美しさは卓越したものになっています。

また、伽藍の配置では、五重塔と金堂の配置バランスが取れるように回廊が絶妙に計算されている点で評価を受けたのです。

二つ目として、日本国内における初期仏教の建造物として、のちの日本の仏教建築に大きく影響を与えたという点です。

伽藍は一度、火災で失われますが、7世紀後半に再建されました。

建立当初の建物ではありませんが、日本仏教の黎明期の建物として、手本になったことにかわりありません。

こうして、法隆寺が建立されたことがきっかけとなり、日本国内に仏閣が建てられるようになりました。

三つ目に、法隆寺の建物が、隋時代の文化を伝える現存する唯一の建物であるということです。

聖徳太子は、当時の中国の王朝である隋に、遣隋使を派遣していました。

そこからもたらされた中国の技術と日本の技術が融合され、以後の日本の仏教建築の発展につながっていったのです。

法隆寺の次の時代の建物には、すでに唐の影響が表れているため、法隆寺は隋の文化を伝えるものとして、貴重な建物なのです。

最後は仏教奨励の政策との係りです。

当時、日本にはまだ仏教が伝わってきたばかりで、仏教を受けいれるか、受け入れないかで朝廷内でも意見が分かれていました。

その中で、仏教を推奨し、法隆寺やその他寺院を建てたことで、日本に仏教が広がるきっかけを作ったのでした。

法隆寺は、このような基準をみたしたことから、世界遺産として登録されることになったのです。

法隆寺地域の仏教建造物群 日本の世界遺産

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法隆寺を建立した聖徳太子とは

法隆寺を建立したとされる聖徳太子は、一時期日本のお札に描かれていた歴史上の偉人です。

冠位十二階や十七条の憲法を制定した人ということで、歴史の授業で習った記憶が残っているかもしれません。

この聖徳太子は、第31代用明天皇の息子で厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていました。

聖徳太子とはのちの世でつけられた尊号であり、「日本書紀」には「厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)」の名前で登場します。

叔母である第33代推古天皇の摂政として、当時の政治にかかわったのでした。

この推古天皇は、用明天皇の同母妹でしたが、推古天皇や用明天皇の異母兄である第30代敏達天皇の皇后でした。

当時の皇族は、兄弟間での婚姻が普通に行われていました。

夫である敏達天皇が崩御し、兄である用明天皇や異母弟であった第32代崇峻天皇の死によって、実の子である竹田皇子(たけだのみこ)に皇位継承するまでのつなぎとして、女性として初めて、天皇に即位したのでした。

ですが、推古天皇即位後の当たりから、竹田皇子は資料の中に登場しなくなります。

このことから、推古天皇の即位前後で崩御したのだと推察されており、厩戸皇子が立太子((りったいし)公式に皇太子とさだめること)となったのだろうと推測されているのです。

その後、推古天皇の摂政として能力を発揮し、国政に関しては厩戸皇子がすべて取り仕切りました。

能力は非常に高く、人望も厚い聖徳太子だったのですが、本人は天皇になることを躊躇っていたのではという見解もあります。

そのような聖徳太子でしたが、当時は生前での退位の習慣がなく、推古天皇存命中に聖徳太子が亡くなってしまったことから、聖徳太子が天皇に即位することはありませんでした。

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法隆寺の歴史

仏教は、第29代欽明天皇(509年~571年)の時代に日本に伝えられてきました。

法隆寺が建立(607年(推古15年))された当時、仏教は日本国内ではまだ入ってきたばかりの謎の思想でした。

そのため、当時、政局を運営していた蘇我氏と物部氏が仏教の擁護か排除で対立するようになりました。
その対立は、第30代敏達天皇(538年~585年)の時世でさらに激化します。

大臣であった蘇我馬子が仏教を擁護したために、国内に病気が蔓延したとし、大連(おおむらじ)であった物部氏は仏像を廃棄させます。

しかし、その直後より、天然痘が蔓延し、仏を粗末に扱ったことによるものだということになったうえ、敏達天皇も天然痘で崩御してしまいます。

その後第31代用明天皇は仏教を擁護し、元々身体の弱かった自身の健康を祈願し、寺を建立することを発願しました。

ですが、即位後2年で病にかかり、寺の建立は叶わずして用明天皇は崩御してしまいました。

その後、用明天皇の後継争いで、物部氏は第29代欽明天皇の子である穴穂部皇子(あなほべのみこ)を即位させようと軍を動かそうとしました。

ですが、それを察した蘇我馬子は先に穴穂部皇子を殺害し、物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼします。

そうして蘇我馬子が付いた泊瀬部皇子(はつせべのおうじ)が第32代崇峻天皇(欽明天皇の第12皇子)として即位します。

第33代推古天皇の代になると、甥であり用明天皇の子である厩戸皇子(うまやどのおうじ)が摂政となり、立太子(公式に皇太子を立てる)して聖徳太子となります。

その際に、聖徳太子は父の遺志を継ぎ、法隆寺を建立しました。

そして、薬師如来像も病気平癒・健康長寿を願い聖徳太子の発願でつくられたのでした。

推古天皇の、叔父である蘇我馬子も政敵であった物部氏を滅ぼしたことにより、朝廷を担う最大勢力として台頭しました。

こうして、推古天皇と聖徳太子とともに、仏教的道徳観に基づいた三人の有力政治家の結びつきによって行われる三頭政治が行われました。

聖徳太子の父である用明天皇の代より、仏法を重んじており、各地に堂塔を建立したり、法会を催したりと国政にも積極的に仏教を推進しており、この三頭政治によって国内に仏教が浸透していきました。

この時作られた伽藍は、築後64年で火災にあい、燃えてしまいます。

それから約40年前後の710年頃に再建され、現在に至ります。

ですが、五重塔の解体修理が2001年に行われた際に、腐食して取り出された柱の標本を年輪年代法で分析した結果、594年に切られた木材であると判明しました。

このように594年に伐採された木材を利用している五重塔については、当時の火災から免れたのではないかという説もあります。

710年以降は、925年に講堂と鐘楼が消失、1435年には南大門が消失しており、最近では1949年に修理を行っていた際に、壁画が焼損しています。

ですが、五重塔や金堂など、最古の木造建築物には変わりないので火災から逃れたという節も有力です。

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法隆寺の建物

法隆寺には西院・東院があり、それぞれの伽藍には、歴史的な建物が多くあります。
それぞれの特徴について、ご紹介します。

南大門

法隆寺 南大門

画像:法隆寺 南大門

法隆寺の南大門の建立は、593年から709年頃と、飛鳥時代とされていますが、正確な時期はわかっていません。

現在の中門近くに当初建立されていた記録がありますが、平安時代に現在の場所に移され、室町時代の1438年に再建されており、それが現在の南大門となっています。

1953年(昭和28年)3月31日に国宝として指定をうけました。

南大門の建築様式には、歴史的な特徴を持つ部分が多くあります。

1つは、横木となる貫の端で飛び出た部分の木鼻や古代中国の「軒反り」という建築技法が取り入れられている点です。

2つ目は、柱の上部にある肘木です。

南大門には、花形の肘木が設置されています。

これを花肘木と呼び、これも室町時代を象徴する大きな特徴となる部分です。

3つ目は、南大門には仁王像や狛犬が設置されていないということです。

仁王像を設置する文化は、歴史を辿ると奈良時代以降からの文化となります。

つまり、仁王像や狛犬が設置されていない門は、奈良時代より以前のものだということです。

また、南大門には少し変わった床石があります。

鯛石と呼ばれるもので、魚の鯛のような形をしています。

参拝前にこの石を踏みしめて境内でお参りをし、帰りに再度この石を踏みして帰ることで、「水難除けの御利益」があるとのことです。

これは、昔より、洪水があったとしてもこの石より奥に水がきたことがないということが伝説化され、結果この石を踏むと水難にあわないという話になったのだそうです。

また、自宅に帰りつくまでの守護の御利益もあるとのことなので、忘れずに踏むようにしましょう。

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東大門

法隆寺 東大門

画像:法隆寺 東大門

法隆寺東大門は、607年に創建され、670年の大火事で一度焼失しました。そして、間もなく再建されたものが、現在の東大門となります。

670年頃に再建された飛鳥時代の建物であり、現存する日本最古の門として、1952年11月22日に国宝に指定されています。

この門は西院伽藍から東院伽藍に向かっていく途中に設置された門で、中間点にあることから「中ノ門」とも呼ばれています。

ですが、この門は、元々別の場所に設置されていたものが、平安時代に現在の場所に移設されたとのことです。

昔の建物は木造なので、重量もそれほどないことから、東大門に限らず寺社やお城などでもよく移設が行われました。

この東大門の大きな特徴は、「三棟造り」という飛鳥・奈良時代の建築技法で建立されているということです。

これは、門の中心の前後に屋根があり、その上に大屋根を被せる形の建築構造になります。

つまり、屋根の横材である棟が3つあり、それぞれに屋根があることから三棟造りと呼ばれるのです。

飛鳥・奈良時代の建物でしか見られることがなく、現存するものでは、宮島の厳島神社など少数の建物のみになっています。

中門

法隆寺 中門

画像:法隆寺 中門

中門は、南大門から入って真正面にある門です。

こちらは東大門の別名である中ノ門(なかのもん)とは別で、「ちゅうもん」と読みます。

この中門をくぐると金堂・五重塔・大講堂などがあります。

この中門と北側の大講堂は、口の字のように回廊でつながれており、その回廊に囲われた中に、金堂、五重塔が東西に並び伽藍となっています。

この中門の創建年は不明なのですが、推定で593年から709年頃と言われています。

1903年と2015年に再建されています。

1度目の再建前にあたる1897年12月に重要文化財指定を受け、1951年6月9日には、国宝指定を受けています。

この建物の特徴は、二重門になっていることです。

二階建てで一階部分には屋根のない楼門とは違い、各階に屋根がついています。

奈良時代以前の建物の特徴としては、南大門のような玄関門よりも中門が立派に作られています。

法隆寺も例外ではなく、この中門が質素ながらも堂々とした作りになっています。

この中門には、阿形と吽形の対となっている金剛力士像が据えられています。

ともに約380cmの高さになっており、材質は粘土で作られています。

現代に至るまでに、何度も上から粘土を塗り固めて補強をしていることから、当時の面影は、像の奥深くに眠っているのだそうです。

なお、現在はこの中門をくぐることが出来なくなっており、門の外側から回廊を抜けて内側に入るようになっています。

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鐘楼

法隆寺 鐘楼

画像:法隆寺 鐘楼

鐘楼(しょうろう)は、西院と東院にそれぞれ建てられています。

鐘楼は、お寺の鐘が奉納されている建物のことを指しており、鐘と建物を合わせて鐘楼と呼びます。

鐘楼の「楼」は楼閣という意味であるため、鐘が収められた楼閣ということになります。

鐘は通常時は突かれることはありません。

東院鐘楼では、法要の際のみとなっており、西院鐘楼では、5月16日から8月15日の夏安居(げあんご)の期間中の毎朝1回のみとなっています。

なお、毎朝8時から16時までの約2時間おきに突かれる鐘は別にあり、その鐘は西円堂の脇にあります。

経蔵

法隆寺 経蔵

画像:法隆寺 経蔵

経蔵(きょうぞう)は、710年から793年の間に創建された建物です。

「一切経(いっさいきょう)」と呼ばれる大乗仏教の大蔵経(仏教の聖典を総集したもの)が収められた経蔵となっています。

法隆寺の経蔵は、経典を収める棚がないのが特徴です。

この経蔵は楼造りの堂舎となっており、楼造りの堂舎としては日本最古の建物です。

その歴史価値から、1899年に重要文化財に登録され、1951年6月9日には国宝に指定されています。

大講堂

法隆寺 大講堂

画像:法隆寺 大講堂

大講堂は、仏教を学んだり、法要を執り行ったりするための施設です。

金堂や五重塔の奥手側に建つ建物で、中門と左右の回廊でつながっています。

大講堂が創建された年は不明ですが、925年に雷が落ちたことで、一度焼失しています。

65年後の990年に再建され、その後鎌倉時代後期から江戸時代前期までの間に修繕工事が行われており、その姿が今に至っています。

1951年6月9日に、国宝に指定されています。

この大講堂の内部には、国宝である薬師三尊像と重要文化財の四天王像が安置されています。

薬師三尊像は大講堂の御本尊であり、薬師如来を中心に、左側に日光菩薩、右側に月光菩薩が配置されています。

高さは2.5mもある背の高い像で、ふっくらとした体つきをしており、優しい顔つきをされています。

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五重塔

法隆寺 五重塔

画像:法隆寺 五重塔

法隆寺の五重塔は、605年から607年の間に創建され、680年頃に再建されています。

塔の高さは32.45mあります。

五重塔を見ると屋根が実は6階分あります。

一見六重塔のように見えるのですが、実は初層部にある屋根は裳階(もこし)屋根であり、見せかけの屋根になります。

通常、裳階屋根は雨除けなどで作られる場合があるのですが、この五重塔の裳階屋根は作られた経緯が違います。

五重塔の屋根は平行垂木で組まれており、この平行垂木を支える垂木が屋根の重量を支え切れずに下がってきたことがきっかけとなります。

この下がってきた屋根を支えるために四隅の隅木に木の棒を当てたのですが、見た目がカッコ悪かったため、棒を隠すために窓に連子を埋め込んだ連子窓と間口の付いた壁を四辺に張り巡らせました。

これが法隆寺の五重塔の初層の裳階屋根です。

1604年頃に制作されたとみられています。

1897年12月には重要文化財に指定され、1951年6月9日には国宝指定されています。

金堂

法隆寺 金堂

画像:法隆寺 金堂

金堂(こんどう)は、本堂にあたる建物で593年の推古天皇即位以降に建立され、670年の焼失を経て、672年以降に再建されています。

飛鳥時代から平安時代中期頃までのお寺は、本堂を金堂と呼んでいる例が多いようです。

金堂と呼ばれるようになった理由には、
・仏様の姿をあらわした仏像が金色をしている
・金堂の堂内は、仏様の七光りにあやかり金色に装飾されている
という2つの説があるとのことです。

金堂の特徴は、外見でみると2階建てのように見えるのですが、実際には、部屋も階段もない、見た目だけの2階となっていることす。

これは、権力の象徴となるお寺の中心的な建物を、豪華に見せるためだったのではないかと云われています。

また、2つ目の特徴として、柱がエンタシスと呼ばれる中心の直径が上下より太くなっている柱を使用していることです。

そして、もう一つの特徴として、2階部分のベランダのようにみえる部分に施されている欄干(らんかん)※の形状です。

※階段やバルコニー、橋などで墜落防止用につけられた手すり

ここには、卍くずしというデザインがほどこされています。

金堂の内部には内陣と呼ばれる仏像を安置する部屋があります。

東の間、中央の間、西の間と3つの部屋にわかれています。

そこにはそれぞれ、薬師如来像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像が安置されています。

この仏像の並びには、平安時代後期から鎌倉時代にかけて起こった、聖徳太子信仰の影響があると言われています。

釈迦の生まれ変わりと聖徳太子を拝した信仰のため、中央に太子である釈迦三尊像を配置したのです。

ですが、それ以前には、聖徳太子が父である用明天皇の病気平癒を祈願する目的で建てたかった法隆寺であったため、中央の部屋には病気を治すご利益のある薬師如来像が安置されていたという可能性もあるのだそうです。

金堂の内部には、壁画が描かれています。

ですが、1949年の昭和の大修理の際に火事が起こり、壁画の大部分が真っ黒になってしまいました。

仏像や一部の壁画については、工事に際して取り外しており無事だったようです。

この焦げてしまった壁画は保存されており、2020年頃を目途に公開される予定になっています。

金堂は、1897年12月に重要文化財に指定され、1951年6月9日に国宝に指定されました。

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西円堂

法隆寺 西円堂

画像:法隆寺 西円堂

西円堂(さいえんどう)は、聖武天皇の皇后である光明皇后の母である橘夫人が、718年に東大寺の大仏建立の立役者である僧侶の行基に創建させた寺院だと云われています。

この西円堂の最大の魅力は、安置されている薬師如来坐像です。

薬師如来は病気平穏・健康長寿の御利益があるといわれる仏様です。

高さ2.25mある背の高い坐像ですが、部屋に入るとその大きさで、かなりの存在感があります。

若干顔を傾けておられるので、拝観すれば目が合うようになっています。

他の建物より少し遅いのですが、1901年に重要文化財に指定され、国宝指定は1955年の2月2日となっています。

大宝蔵院

法隆寺 大宝蔵院

画像:法隆寺 大宝蔵院

大宝蔵院(だいほうぞういん)は、西院伽藍の北北東に位置する建物です。

歴史は浅く、1998年に完成した建物です。

建物の形は、口という漢字のようになっており、東側に東宝殿、西側に西宝殿という配置になっています。

回廊で結ばれており、大宝蔵院のシンボルとなる百済観音堂が東と西の宝殿の合流地点に建立されています。

この建物には、国宝である百済観音立像・夢違観音像・玉虫厨子の他、色々な歴史的価値のある品物が収められています。

大宝蔵殿

大宝蔵殿は、大宝蔵院が建立される以前より法隆寺の寺宝を所蔵する建物として創建されたものです。

西院から東院にむかう道路に面した北側にある建物であり、大宝蔵院同様に、口の形をした建物となっています。

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夢殿

夢殿

画像:法起寺 夢殿

法隆寺の東院伽藍の一つである夢殿(ゆめどの)ですが、当初は「ゆめどの」と呼ばれていませんでした。

「正堂」や「八角円堂」と呼ばれていたとのことです。

夢殿(ゆめどの)の由来ですが、聖徳太子が瞑想していたときに夢に現れた「金人(きんじん)」に法華経の難解であった経典の教えを授かった伝説に由来するのだそうです。

夢殿は八角形のお堂なのですが、この八角形のお堂は、通常は故人の供養をするために建てられる建物でした。

建物の特徴としては、2段の基礎でできていることがいえます。

これは二十基壇(にじゅうきだん)と呼ばれるもので、法隆寺のみに見られる特徴です。

飛鳥時代に造営された建造物を示す大きな特徴でもあります。

夢殿の創建は、聖徳太子が亡くなってから100年以上経過した739年と言われています。

これには、故人である太子の供養であるほか、聖徳太子に対する信仰が依然として強かったこともあり、参拝する場所を作ったというのが理由の1つとされています。

ですが、もう1つ説があり、その説では、夢殿が創建される2年前の737年に、天然痘が流行し、政治の中心にいた藤原不比等の4人息子である藤原4兄弟が次々に亡くなるという大事件が起こりました。

これが、聖徳太子の怨霊による祟りだと考えた人々が、霊を鎮めるために建てさせたというものです。

夢殿の御本尊は、救世観音菩薩立像であり、聖徳太子の等身大の像であると伝えられます。

178.8cmと大人の身長と同じくらいある高さで、楠で作られた像です。

全身に金箔が押されているのも特徴的です。

夢殿は、1897年に重要文化財に指定されており、1951年には国宝に指定されています。

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法隆寺の御朱印

法隆寺の御朱印は、聖霊院と西円堂で授与しています。

以前は大宝蔵院でも授与されていましたが、現在はこの2ヶ所での授与となります。

西円堂では、西円堂のお薬師さんの御朱印となるため、聖霊院とは別の内容の御朱印となります。

聖霊院で頂ける御朱印には、何種類かパターンがあります。

・「以和為貴」
聖徳太子の制定した十七条の憲法の1条の文言である「和をもって貴しとなす」が取り入れられています。

・「南無佛」
聖徳太子が2歳の頃に唱えたとして、伝わっています。
「身命を捧げて、仏様に服従し、おすがりします」という意味になります。
仏教を推進した聖徳太子ならではの伝承です。

・「唯佛是真」
聖徳太子が言った名言の1つとされるもので「世間は虚仮(こけ)なり。唯仏のみ是れ真なり。」という意味の言葉となります。
一言でいえば、「仏のみが真実である」という意味になります。

これは一例で、実は17条憲法の分だけバリエーションがあります。

法隆寺の御朱印は、このような聖徳太子ゆかりの言葉が書かれていることもあり、自己申告で内容が変わっていきます。

一度きりではなく、参拝されるごとに別の種類のものがいただけるので、訪れた際は忘れずにいただくようにしましょう。

御朱印は、300円となっています。

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法隆寺の拝観料・拝観時間

法隆寺を拝観する場合、一般1,500円、小学生750円の拝観料が必要になります。

この拝観料は、西院伽藍内、大宝蔵院、東院伽藍内の拝観料を含みます。

30名以上になると団体割引が受けられ、一般1,200円、大学・高校生1,050円、中学生900円、小学生600円となります。

なお、小学生や中学性の場合で30名に満たない団体の場合は、減免申請書を提出することで、団体扱いを受けることができます。

ただし、教育委員会もしくは学校長の公印が、減免申請書に必要になります。

法隆寺の拝観可能な時間は、2月22日から11月3日までは午前8時から午後5時、11月4日から翌年2月21日までは午前8時から午後4時半までとなります。

閉館時間が近くなると入れない施設があります。

拝観する際は、時間に余裕をもって、訪れるようにしましょう。

法隆寺へのアクセス

法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1にあります。

奈良県を代表する観光スポットである法隆寺は、高速道路のインター名や鉄道の駅名になっていたりします。

そのため、大まかな場所は分かりやすいのですが、この最寄りのICや駅から少し離れていることから、土地勘がなければ、行きづらいスポットとなっています。

・自動車でのアクセス
自動車で来られる場合、京都方面からと大阪方面からのルートがあります。
大阪方面からの場合、阪神高速東大阪線から第二阪名有料道路を経由するルートと阪神高速松原線から西名阪自動車道に入るルートがあります。

京都方面からの場合、阪神高速京都線を利用し、奈良に向かいます。
途中一般道を経由し、法隆寺に到着となります。

・電車でのアクセス
JRの場合、法隆寺駅で下車後、徒歩で約20分。バスの場合は、法隆寺駅から「法隆寺参道」行きに乗り、法隆寺参道で下車します。
近鉄の場合、筒井駅で下車後、「JR王寺駅」行きのバスに乗り、バス停「法隆寺前」で下車します。

まとめ

聖徳太子のゆかりの地、斑鳩に今もなお残る太古の木造建築物である法隆寺ですが、非常に伽藍の美しい建物となっています。

実際に法隆寺に一歩足を踏み入れれば、とても広大な敷地の中で、飛鳥・奈良の時代に舞い込んだような建物群に魅了されます。

飛鳥時代という、仏教が日本に伝来してすぐの頃、神道のみの宗教が広がる世界に、新たな教えとして伝わりだした仏教は、得体のしれない教えだったに違いありません。

それ故、国の政治にまで影響を及ぼしてしまったのです。

ですが、この法隆寺を建てることになった聖徳太子やその渦中で病死してしまった用明天皇、推古天皇や蘇我氏などの活躍など、調べれば大変興味深い内容が多く、歴史を知って拝観すれば、さらに興味深く見ることができます。

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