中宮寺(聖徳宗)の歴史、伽藍、半跏思惟像、天寿国繍帳など見どころ紹介

中宮寺の歴史、見どころご紹介

中宮寺(ちゅうぐうじ)は奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳太子建立七寺の1つで、16世紀末頃、法隆寺東院伽藍に隣接する場所に移設され現在に至ります。

聖徳太子の住んでいた斑鳩宮と東側にあった岡本宮との中間辺りにあったことから中宮と呼ばれ、そのゆえんから中宮寺(中宮尼寺)と呼ばれるようになりました。

創建期から法相宗、鎌倉時代から太平洋戦争終結後までは真言宗、その後は法隆寺が総本山である聖徳宗に属しています。

中宮寺跡の発掘調査で、尼寺である向原寺(桜井尼寺)と同じ系統の瓦が出土していることから、創建時から中宮寺が尼寺であったことを出土物が立証しており、創建時代から法隆寺に対なす尼寺だったことが確認されています。また、皇族の女性が住職として入寺する門跡寺院であり、圓照寺・法華寺とともに大和三尼門跡に数えられている寺院でもあります。

ここでは、聖徳太子ゆかりの寺であり、国宝が複数点残る中宮寺について紹介します。

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中宮寺の歴史

中宮寺は聖徳太子が、母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)のために建てたとされる御所跡を寺とし創建したと伝承されています。発掘調査の結果から、法隆寺と同じ頃の7世紀前半の創建が推定されているものの、創建に関して詳しく記されたものは残っていないことから詳細は不明。747年の法隆寺縁起や上宮聖徳法王帝説には、聖徳太子建立七寺の一つと記録されているものの、それ以前のもので記録されたものがないことから確証はありません。

平安時代に入ると、法隆寺の末寺に属したことから、法相宗の寺院になります。ただ、当時は都が奈良から京都に移ったこともあり、法隆寺の末寺になったとはいえ、中宮寺は衰微していきます。創建時にあった堂宇は朽ちてなくなり、いくつかの堂宇と本尊のみの状態になったとされています。

鎌倉時代になると、興福寺学僧・璋円(しょうえん)の娘で後に中興の祖とされる信如比丘尼(しんにょびくに)によって復興が図られました。信如は1274年、法隆寺の綱封蔵(こうふうぞう)から聖徳太子ゆかりの「天寿国繡帳」を発見し、中宮寺に戻しました。しかし、1309年には境内で火災が発生し、ほとんどの寺宝を法隆寺に移し、以後、再び荒廃の一途をたどりました。

その後室町時代に入り、約200年間は目立った動きの記録は残されていませんが、室町時代末期の戦国時代に入った1532~1555年頃、残されていた中宮寺の境内は炎上して焼失してしまいます。この火災がきっかけで、現在地の法隆寺夢殿隣にあった法隆寺の子院に避難し、そのままそこに寺基を移すこととなりました。

江戸時代初期の慶長7年(1602年)には、世襲親王家の伏見宮より、北朝3代崇光天皇(すこうてんのう、1334年~1398年)から数えて6代目である伏見宮貞敦親王(ふしみのみやさだあつしんのう)の子、尊智女王(そんちじょおう)を初代門跡に迎えます。伏見家は第二次世界大戦終戦後に皇籍離脱となるまで続いた世襲親王家であり、昭和天皇妃香淳皇后も伏見宮の血統であり、現天皇家に近い血統の宮家でした。南北朝時代の北朝3代崇光天皇の第一皇子である栄仁親王(よしひとしんのう)が伏見宮の初代であり、そこから終戦時にGHQからの指示で皇籍離脱するまで世襲親王家として続きました。その伏見宮家から王女が住職に入寺したことをきっかけとし、それ以後女性皇族が入寺する尼門跡寺院として、現在にいたります。

門跡寺院…皇族・公家が住職を務める寺院

この世襲親王家とは、南北朝時代から江戸時代にかけての日本の皇室にて、その時代の天皇との血統の遠近に関わらずに、親王の宣下を受け親王の身分を保持し続けた宮家をいい、伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮の4つの宮家がありました。天皇家同様に男系での継承となっており、明治14年に桂宮、昭和63年に閑院宮、平成16年に有栖川宮が断絶しており、残る伏見宮も男子がいないことから当代で断絶の見込みとなっています。

また明治維新を境に、中宮寺は法隆寺とともに廃仏毀釈の影響をうけます。法隆寺が廃仏毀釈により明治政府より独自本山として認可が受けられず、真言宗傘下とされてしまいます。中宮寺についても法隆寺の所属を一度離れ、真言宗泉涌寺派となりました。

太平洋戦争終戦後の昭和25年(1950年)11月、法隆寺は聖徳太子の理念に基づいて法隆寺を総本山とする聖徳宗を開きます。中宮寺も聖徳太子を本願とすることから法隆寺に随従する形で昭和28年(1953年)3月10日に聖徳宗に合流し入宗しました。

昭和43年には高松宮妃殿下の発願により、本堂の大規模な改築が行われ、また昭和46年10月10日に聖徳太子ならびに間人皇后の千三百五十年御忌法要が厳修されました。

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中宮寺の伽藍と歴史

中宮寺に現存する伽藍は戦国時代に移設されてからのものとなっており、当初の中宮寺の伽藍は史跡となっています。
現在の中宮寺より東へ約400mほどの地点に旧の中宮寺の伽藍が築かれていたと調査によって判明しています。

この史跡を調査した結果、当初の伽藍は南北に伽藍が配置されており、南から南大門、中門、仏塔、金堂、講堂と直線状に並ぶ状態だったようで、この配置は大阪の四天王寺と同じ四天王寺式伽藍に近い様式でした。

この史跡は1990年5月19日に史跡名勝天然記念物に指定され、2013年から史跡公園として整備工事が始まり、2018年5月に中宮寺跡史跡公園として完成しました。

ここからは、現在の中宮寺伽藍について紹介します。

本堂

現在の本堂は1968年、高松宮妃殿下の発願により再建されました。設計は万願寺本堂や成田山新勝寺の大本堂を設計したことで知られる吉田五十八(よしだいそや)氏であり、最新の耐震構造や空調も完備した内部に対し、外からは歴史を感じさせる造りが施されています。

本堂には、国宝である木造菩薩半跏像(如意輪観音)と天寿国繡帳残闕(てんじゅこくしゅうちょう ざんけつ)のレプリカが安置されています。国宝指定された天寿国繡帳残闕の現物については、学術研究の為、奈良国立博物館に収蔵されており寺宝としての天寿国繡帳残闕はレプリカが本堂に展示され一般公開されています。

堂内は一般公開されており、自由に立入可能です。国宝について、動画と音声案内による解説が用意されており、見るだけでなく詳しく学ぶこともできるようになっています。

表御殿(おもてごもん)

表御殿とは、宮家の一族をお迎えするために造営された御殿でした。中宮寺は創建以来、尼寺として女性が寺の管理を行ってきましたが、その中でも門跡寺であったことから、皇族の女性の方が僧侶となり住職として運営してきました。

横幅は6間(約12m)、奥行きは4間半(約9m)で、木造平屋建の入母屋造、本瓦葺の屋根を持ちます。内部は、南東隅に木を組んで格子形に仕上げた格天井(ごうてんじょう)に書院造の御上段の間が設けられています。全体では6部屋が配置されており、貼付壁や襖絵等が上質であり、細部の意匠等も含め書院建築の遺構として貴重であることから2006年11月29日に登録有形文化財に指定されました。

現存の表御殿の創建時期は不明ですが、1751~1829年の江戸時代後期頃の造営と見られています。通常は一般公開されておらず、立ち入ることができませんが、不定期に行われる特別公開時のみ拝観することが可能です。

鳩和殿(きゅうわでん)

本堂よりさらに奥の通常時は立入が禁止され非公開の鉄筋コンクリート造りの本堂の東側にある中宮寺の宝物庫です。不定期で展示会などが行われ、その際に特別公開され立ち入ることができます。

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中宮寺の国宝や重要文化財

木造菩薩半跏像(如意輪観音)


出典:中宮寺

木造菩薩半跏像は楠を使った木製で、像の高さは87.9cm、台座から頭までで132cm、台座から光背までで167.7cmの大きさで作られています。半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を膝の上に置き、右手を曲げて、その指先をほのかに頬に触れ、人の悩みをいかにせんかと思惟される清らかな気品をたたえています。
半跏思惟のこの像は、飛鳥時代の最高傑作のひとつであると同時に、太古の時代から現代に残る古典美術品として、その歴史と美しさから日本芸術史に欠かせない存在となっています。

国際美術史学者間では、この像の顔の優しさを評して、数少ない「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価されており、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれています。

造立された時期は、推定説として638年とされるものと、650年~710年の飛鳥時代とされるものがあります。

天寿国繡帳残闕(てんじゅこくしゅうちょうざんけつ)


出典:中宮寺

天寿国繡帳残闕は、現存する日本最古の刺繍品です。別名「天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)」といい、聖徳太子が亡くなった後の622年に、聖徳太子の妃である橘大郎女と推古天皇の発願により作成されました。

図柄の内容は、聖徳太子が亡くなった後に向かわれた天国の様子を刺繍したものとなっており、もとは二帳の繍帳からできていました。

百個の亀甲が刺繍されており、亀の甲一つずつに四字ずつの文字が書かれ、あわせて四百文字で、刺繍作成の由来が書かれていました。その銘文の全文が『上宮聖徳法王帝説』という本に書き留められており、刺繍の絵を描いたのは東漢末賢、高麗加世溢、漢奴加己利の3名であり、これを椋部秦久麻が監督したと記録されていました。

作成から1400年を経過したこともあり、経年劣化から刺繍は破損し、現存するものは作成当初のものからはかなり欠けてしまった状態となっています。そのような中でも、色鮮やかなより糸 を使用し、伏縫の刺繍が施された繍帳は、今も現存しています。

七世紀中頃の染色技術、服装、仏教信仰などを知るうえでも貴重な学術資料にもなっており、現在、実物は奈良国立博物館に研究と保管目的のため寄託されており、中宮寺にはレプリカが展示されています。

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