奈良時代一覧

玄昉の色恋・ロマンス 歴史に残る宮中の噂

奈良時代中期、橘諸兄政権のブレインの一役を担った玄昉(げんぼう)。遣唐使に随行し、唐で20年に渡り、7世紀初めに生まれたインド思想がもとになった仏教宗派の法相(ほっそう)を学んだ僧でした。735年に唐から帰国する際に多くの書物や仏像などを持ち帰りました。唐での活躍や貴重なものを持ち帰ったことで、奈良時代の封禄制度下で高級貴族にのみ与えられた特別給与にあたる封戸(ふこ)を、僧の立場で与えられるほどでした。737年、玄昉は聖武天皇の母である藤原宮子の病気を回復させるために、内裏(皇居)に仏像を安置し、仏教行事を行う建物である内道場に入りました。宮子の寝所で祈祷を行うことで、宮子の病状は回復し、これまで対面することができなかった聖武天皇との対面も実現させました。それを評価され、玄昉は僧官職の上級職の僧正(そうじょう)に任じられます。そして母を回復させたことで、聖武天皇からも寵愛されるようになり、政治にも口出しするようになりました。同年、国内に蔓延した天然痘により、当時の政治を担っていた藤原四子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)をはじめ、ほとんどの公卿が病没します。生き残った橘諸兄は、太政官の立て直しのため聖武天皇により大納言に、翌年には右大臣に任じられます。この橘諸兄政権において、玄昉は吉備真備(きびまきび)とともに側近として重用されました。ともに唐に遣唐使として留学した実績を持ち能力も高かったことや、聖武天皇や光明皇后など、皇族からの寵愛を受けていたためでした。僧として異例の出世をした玄昉でしたが、宮中での男女の色恋にまつわる噂があったと云われています。その相手と云われるのが、聖武天皇の母である藤原宮子と皇后の光明皇后でした。

藤原広嗣の乱とは?なぜ?その理由、玄昉・吉備真備との人間関係、広嗣の怨霊、エピソードなどわかりやすく解説

藤原広嗣の乱とは、740年に藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)が九州で挙兵した内乱をいいます。わずか2ヶ月で鎮圧された乱でしたが、壬申の乱以降の朝廷内で起こったはじめての反乱となる事件でした。その背景には、藤原不比等が築いた藤原氏の権力や地位が、天然痘の蔓延による不比等の子どもたちの病没により、大きく崩れ変容していったことがあげられます。孫である藤原広嗣はその変化の中に置かれた藤原氏の一人として、橘諸兄政権に抗い、そして滅ぼされてしまったのです。

聖武天皇の時代、政治。聖武天皇は何をした人、どんな人?したこと、行ったことまとめ

第45代聖武天皇(しょうむてんのう。701年~756年、在位724年~749年)といえば、東大寺の建立や奈良の大仏(盧舎那仏(るしゃなぶつ))を造仏した天皇として認識されている方は多いと思います。ですが、なぜ仏教に傾倒したかについては知らない方も多いと思います。聖武天皇は即位後から、様々な問題や天災に襲われます。臣民(しんみん)を多く亡くし、自身の不徳の限りだと心を痛め、次第に仏教を深く信仰するようになり、政治に仏教を取り込んでいきました。また娘の阿倍内親王(あべないしんのう)に天皇を譲位し、男性天皇で初の太上天皇(だいじょうてんのう。譲位した天皇)になり、譲位前後に出家し、入道となり、仏教を信仰しつつ、第46代孝謙天皇(こうけんてんのう。718年~770年、在位749年~758年)の補佐を行い、生涯を閉じました。

長屋王の呪い?長屋王の変と藤原不比等四子の末路

奈良時代の初頭、藤原不比等の四人の子どもたち(藤原四子:武智麻呂、房前、宇合、麻呂)と反藤原氏勢力であった皇族の長屋王との間で対立が深刻化し、藤原四子の謀略により長屋王は自害に追い込まれました。この出来事を長屋王の変といいます。この事件のきっかけは、天智天皇が崩御する際の皇位継承までさかのぼります。