聖徳太子生誕の地 橘寺の歴史 開基、創建、伽藍配置、本堂(太子堂)、観音堂、聖倉殿、往生院、五重塔跡塔礎石、二面石、蓮華塚、三光石、阿字池、黒駒の銅像、御朱印など

聖徳太子の生誕地 橘寺の歴史、開基、創建、伽藍配置など

橘寺は奈良県高市郡明日香村橘にある飛鳥時代(6世紀末〜7世紀)から歴史を紡ぐ古刹の一つです。

現在は天台宗の比叡山延暦寺の直末(じきまつ)で、正式には仏頭山上宮皇院菩提寺(ぶっとうざんじょうぐうおういんぼだいじ)といい、別名で橘樹寺(たちばなのきでら)・橘尼寺(たちばなのあまでら)とも呼ばれています。尼寺とあるように、当初は尼が住んだ寺でした。

明日香村は、飛鳥時代に都がおかれ、日本初の律令国家体制が築かれたところです。渡来人がもたらした高い文化が栄え、日本の仏教が興隆したところでもあり、当時の史跡が数多く発掘されています。

なお、橘という名の由来は、『日本書紀』にあります。

第11代垂仁天皇(すいにんてんのう、紀元前69年~70年、在位紀元前29年~70年)が田道間守(たじまもり)に命じて、常世の国と呼ばれる海のはるか彼方の理想郷(中国雲南省か?)にある不老不死の薬・非時香菓(ときじくのかくのみ)を探させました。

田道間守は、10年もの間探し求めた末、ようやく非時香菓の実を得て帰国します。しかし、天皇はすでに1年前に亡くなっており、田道間守は嘆き悲しんで、天皇のお墓のそばで自害してしまいます。

第12代景行天皇(けいこうてんのう、紀元前13年~130年、在位71年~130年)が田道間守の遺徳を忍んでこの実を植えるとミカンの原種である橘が芽を出したので、植えた土地一帯を橘と呼ぶようになりました。

橘の木は今も橘寺の境内のいたるところに植えられ、毎年5月3日には「橘祭」が行われています。なお橘寺は、時間によって花の色が変わる酔芙蓉(すいふよう)の名所としても知られています。

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橘寺創建の歴史的背景

開基・創建

橘寺の開基(創建者)は、日本初の女性天皇である推古天皇(554年~628年、在位593年~628年)の摂政として、冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使の派遣など古代日本に大きな足跡を残した聖徳太子(574~622)です。

寺伝によれば、橘寺の前身は、第29代欽明天皇(きんめいてんのう、509年~571年、税委539年~571年)の別宮であった橘の宮でした。この橘の宮で聖徳太子が誕生したことがきっかけとなり、橘の宮は橘寺に姿を変えることになります。

欽明天皇を父に持つ第31代用明天皇(ようめいてんのう、~587年、在位585年~587年)は、異母妹で蘇我の稲目(そがのいなめ)の孫の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を后としました。

欽明天皇が崩御し第30代敏達天皇(びだつてんのう、538年~585年、在位572年~585年)が即位した頃、『日本書紀』や太子の伝記『上宮聖徳法王帝説』によれば、太子を身ごもっていた穴穂部間人皇女が橘の宮の敷地を散策していた際、厩(馬小屋)の入口付近で産気づき出産したとされています。

太子の正式な名前である「厩戸皇子(うまやどのみこ)」の名前も、このエピソードから来ているとされています。この出生時のエピソードのあった橘の宮を、のちの聖徳太子が橘寺に改めたことから、橘寺が聖徳太子の生誕地と呼ばれるようになったのでした。

日本に仏教が伝来したのは、『日本書紀』によると552年だといわれていますが、聖徳太子が生まれた当時、共に有力豪族だった崇仏派の蘇我氏と日本古来の神道を崇める排仏派の物部氏は仏教受容をめぐって対立していました。

用明天皇が即位2年で病に倒れた際も、仏に病気平癒を祈る蘇我氏に対して、「日本古来の神をないがしろにするから病気がよくならない」と言って物部氏が反論するなど、対立はさらに深まりました。

そして用命天皇が没すると、次の皇位をめぐって泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を推す蘇我氏と、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を推す物部氏の間で587年に国を二分するほどの激しい争い(丁未の乱(ていびのらん))が起こりますが、蘇我氏がこの戦いに勝利し、泊瀬部皇子が崇峻天皇(すしゅんてんのう、553年~592年、在位587年~592年)として即位しました。

しかしその後、次第に崇峻天皇と蘇我馬子の不仲が目立つようになり、崇峻天皇が蘇我氏に暗殺されると、聖徳太子の叔母にあたる第33代推古天皇(すいこてんのう、554年~628年、在位593年~ 628年)が即位しました。

推古天皇は即位する際、親族でもあり、非常に優秀で次の天皇の有力候補でもあった20歳の聖徳太子に、摂政として国政に参加するよう依頼します。
当初、政治への参加に積極的ではありませんでしたが、仏教を学んだ意義を考え、仏教の教えを土台にした為政を行うことを条件に摂政を引き受け、蘇我馬子とともに、仏教思想を取り入れた政治を行いました。

606年には、聖徳太子は推古天皇の命により、橘の宮で勝鬘経(しょうまんぎょう)の講義を3日間行いました。この講義が終わると、講義のあまりのすばらしさに天から美しい蓮の花びらが舞い降りてきて庭に1mも積もり、また、南の仏頭山に光明を放つ千の仏頭が現れたり、太子の冠から太陽や月、星々を思わせるような光が輝いたりするなど、不思議な出来事が起こりました。

推古天皇は驚き、聖徳太子に橘の宮を寺に改めるように命じました。これが橘寺の始まりだといわれています。

太子が寺院に改築した際の名前は「橘樹寺(たちばなのきでら)」でしたが、時代が下って、現在の「橘寺」になりました。

なお、後の発掘調査では、太子が活躍した時代の瓦が発見されておらず、橘寺のすぐ北に7世紀半ばに建立された川原寺で使われていたものと同じ型の瓦が出土しています。そのため、橘寺も本格的な造営は7世紀半ばとされています。

発掘調査の成果と寺伝の創建時期に違いがあり、正確にいつ建てられたのかは今も謎です。

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奈良時代の隆盛、発掘調査

飛鳥時代から奈良時代にかけて、橘寺は皇族や貴族の崇敬を受けて繁栄します。

出土した瓦の文様から、7世紀前半に小さなお堂が建てられ、7世紀後半に大規模な整備が行われたと考えられています。

南向きの寺院が多い中、橘寺は珍しく東向きで、東西870メートル、南北650メートルという広大な寺域に、講堂・金堂・塔・東門が一直線に並ぶ四天王寺式の伽藍配置で、金堂、五重塔、その他60もの堂塔が並び建っていました。

奈良時代の756年には、聖武天皇(701~756年、在位724年~749年)の皇后・光明皇后が訪れ、高さ丈六(1丈6尺=約4.85m)もの釈迦三尊像を寺院に寄贈したという記録が残されています(この釈迦三尊像は現存しておらず、室町時代の衰退期までのあいだに紛失もしくは破壊されたのではないかとみられています。)。

なお、680年に火災が発生し尼房を10房焼失するという記録があり、この記録から橘寺は尼寺だったのでは?という説があります。

平安時代の隆盛

平安時代になり、都が平城京から平安京に移されると、平安京へ移る寺院も出てきましたが、大寺院となっていた橘寺はそのまま斑鳩にあり、引き続き皇族や貴族からの庇護を受け、三間四面二階の金堂や、丈六釈迦尊(じょうろくしゃかそん)を安置する五間四面の講堂や五重塔が配置されました。

淳和天皇(786年~840年、在位823年~833年)や藤原道長まで訪れたほどで、淳和天皇は、827年に薬師三尊像を寄贈しています(この三尊像も光明皇后が安置した釈迦三尊像と同様に現存していません。)。

また境内の如意輪観音像も、平安時代後期に当時を代表する仏師・定朝(じょうちょう)が、最新の仏像様式を活かして制作したもので、さらに現在法隆寺にある国宝の玉虫厨子(たまむしのずし※)が平安時代中期の1078年に橘寺から移された記録もあるため、平安時代の半ばごろまでは橘寺が保管していたと考えられます。

※ 小型の仏像を安置するもので、透かし彫りの金具が用いられた宮殿部の下に、当時は玉虫の羽が埋め込んであった入り母屋づくりの屋根を持つ高さ2.3mほどの工芸品。

平安末期の衰退

しかし平安時代は政治の中心が京都に移ったことも影響し、末期になってくると、皇族・貴族からの庇護も陰りを見せ、南都七大寺とともに衰退していきました。1148年には、五重塔が雷に撃たれ焼失したりもしています。

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太子信仰により復興

橘寺は、鎌倉時代に太子信仰が盛んになったことを背景に復興の兆しを見せます。太子信仰とは、聖徳太子が観音菩薩の生まれ変わりとして日本を救いに導くとするもの存在とみなした考え方です。

平安時代末期に雷に打たれ焼失した五重塔も鎌倉時代初期の1185~1189年に、一気に広がる聖徳太子信仰の影響もあり三重塔として再建されました。

太子信仰が広まった背景には、平安時代から信じられてきた末法思想があります。釈迦が入滅して2000年経つ頃に、仏教の教えが衰退して世が大いに乱れるという思想のことで、人々は太子が世を救ってくれる存在として再び現れると考えるようになりました。

そして、橘寺は太子が生まれた場所であるとともに、彼が開いた寺院でもあったため、多くの人々が参詣するようになり、橘寺はかつての繁栄を取り戻すようになりました。

室町時代の焼き討ちで伽藍消失

室町時代になると、橘寺もさまざまな戦乱に巻き込まれていきました。

『看聞御記(かんもんにっき)』によると、1438年と1497年に多武峰(とうのみね)(現在の談山神社)の宗徒に攻められ、如来堂と太子堂以外の大部分が焼失したということです。

さらに1506年には、室町幕府管領の細川政元(ほそかわまさもと。応仁の乱で東軍を率いた細川勝元の子)が、敵対する近隣の多武峰(とうのみね)妙楽寺(現在の談山神社)を討伐するため、家臣であった赤沢朝経(あかざわともつね)を大和に派遣し、法華寺の他、正暦寺、龍門寺、多武峰妙楽寺攻めを行いました。

その際、橘寺は赤沢軍に付いたため、多武峰の衆徒により焼き討ちにあい、正堂や念仏堂なども大破してしまいました。

以降、橘寺は僧舎一棟を残すだけという廃寺同然の状態となり、戦国時代に入ったため、焼失した橘寺の再建に乗り出す余裕のある人物はなく衰退し、再建は戦国時代の次にやってくる江戸時代まで先送りとなったのでした。

江戸時代に太子堂などが再建されて現在に至る

江戸時代の1624年頃に書かれた『南北二京霊地集』(なんぼくにきょうれいちしゅう)によると、この頃の橘寺は講堂だけが残り、その他の堂は失われ、礎石だけだったということです。また「正堂と念仏堂は大破し、僧舎一棟のみ」という江戸時代の記録も残されています。

しかし、1777年に大阿闍梨(だいあじゃり)の實道(じつどう)法師によって現在の観音堂が本堂として再建されます。

そして江戸時代の終わりごろである1864年には本堂となる太子堂が再建され、本堂機能も観音堂から移転し、本尊として聖徳太子座像が安置されました。加えて経堂や護摩堂も再建されています。またその他の伽藍も幕末から明治にかけて、多くの人々の尽力によって再建されて現在の姿になりました。
現在橘寺を訪れた際に見られるのは、江戸時代に再建されてからの姿です。

なお再建されるまでの間、橘寺がかろうじて存続し続けたのも、観音菩薩の化身とされる聖徳太子にゆかりの深い寺院だったために、太子信仰により橘寺を支える人々がいたため、廃寺にならずに続いてきたと考えられます。

また江戸時代の橘寺は、もう1つ大きな変化を迎えました。聖徳太子による創建以来、同寺は南都六宗の一つであり興福寺や法隆寺など日本仏教の礎を築いた法相宗の寺院として活動してきましたが、江戸時代中期に天台宗へと宗旨替えとなりました。所属も天台宗の総本山である比叡山延暦寺の直末寺という扱いになっています。

改宗した正確な年代はわかっていませんが、本山直属の末寺に置かれたのでした。

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橘寺の現在の伽藍配置

本堂(太子堂)

橘寺の本堂で、江戸時代末期(幕末)の1864年に、創建当時の講堂があった場所に再建されました。

国の重要文化財にも指定されている「木造聖徳太子三十五才坐像」が祀られています。

これは、太子が35歳だった606年、推古天皇に『勝鬘経』の講義をされた時の聖徳太子の姿を表現したもので、室町時代の1515年に奈良市椿井町の仏師、舜慶(しゅんけい)によって製作されたものです。

像の高さは55センチ、冕冠(べんかん)を戴き、法衣に袈裟をつけ、左手に麈尾(しゅび)を持って座っています。

このほかにも、太子が16歳の時、父の用明天皇の病気平癒を祈願する姿を表現した「聖徳太子孝養像」(しょうとくたいしきょうようぞう)や、垂仁天皇のために中国大陸から不老不死の果物とされた橘の実を持ち帰った「田道間守像」があります。

観音堂

1777年に本堂として再建されたものです。

1864年に太子堂が再建されるまでは、橘寺の本堂として役割を果たしていました。

現在の位置に移ったのは、太子堂再建の翌年(1865年)のことです。

本尊には、国の重要文化財に指定され、6本の手を持ち、仏教で説かれた六道(天上・人間・修羅・餓鬼・畜生・地獄)に住むすべての存在を救うとされる「六臂如意輪観世音菩薩」(ろっぴにょいりんかんぜおんぼさつ)の像が安置されています。

平安時代後期の11世紀の作といわれ、定朝様式(じょうちょうようしき ※)を採り入れ、像の高さは170センチ、右膝を立て、その足を左足に重ね、右手で頬杖をつき、慈悲の趣のある穏やかな表情をしています。

※平安時代の仏師 定朝からはじまる和様の仏像彫刻様式。

また寺の歴史を示す資料や発掘調査で出土した瓦も展示されています。

聖倉殿(しょうそうでん)(宝物殿)

橘寺の社宝が納められており、春と秋の年2回、特別開扉が行われています。

聖徳太子の師で、百済の賢人と呼ばれた「日羅上人像」があります。

なおこの日羅上人像は、像の腕や衣の形から当初は地蔵菩薩として造られ、聖徳太子を祀るお寺だったため、後に日羅上人像とされて篤く信仰されたという説が有力です。

このほかにも「地蔵菩薩立像」や、2頭の龍が天へと昇っていく様が表現された「だ太鼓の縁」、「橘寺型石塔炉」などが納められ、いずれも重要文化財に指定されています。

往生院


往生院の天井画

聖徳太子が『勝鬘経』の講義をされたところといわれています。阿弥陀三尊を本尊とし、念仏写経研修道場として1997年に再建され、多目的道場として活用されています。

天井には往生院再建の際に著名画家が1人ずつ製作・奉納した260点もの天井画が描かれ、極楽浄土の風景を表したものとされています。

天井画の花はそれぞれ種類が異なる上に色とりどりでもあるため、拝観の際に見上げると言葉で言い尽くせないほどの感動を与えてくれます。

なお天井画は写真撮影OKで、寝転がって撮影しても問題ないとされています。

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五重塔跡塔礎石

門の前の土壇に創建当時の五重塔跡の心礎が残っています。直径約90センチ、深さ10センチの柱の入る孔で、円孔の三方に半円形の孔(添え柱孔)が掘ってあり、花のような形をしています。五重塔は、現存すれば約38メートル余りの高さだったといわれています。

二面石

背中合わせに右善面、左悪面と呼ばれる2つの異なる表情をした面を持つ奇石です。2つの表要は、人間の心の中にある善悪の二面性を表現したものとされ、右善面はふくよかな表情をし、左悪面は醜い表情になっています。

飛鳥の奇石の1つとされ、飛鳥時代から残る、境内でも数少ない人工物ですが、設置された具体的な時期や設置した人物、目的などすべてが不明です。

また橘寺には「亀石」と呼ばれる亀を模した石もありますが、この亀石もいつ何のために設置されたのか解明されていません。

蓮華塚

聖徳太子が勝鬘経を推古天皇に講讃した時に降った蓮の華を集めて埋めたところだといわれています。

大化の改新の後、これを一畝(せ)(当時36坪・現代は30坪・約100平方メートル強)と定め、面積の基準として田畑が整理されました。そのため「畝割塚」とも呼ばれています。

三光石

一つの岩の上部が三つに分かれており、大変不思議な形をした奇岩です。

聖徳太子が勝鬘経を推古天皇に講義した際、庭に蓮の花びらが1m積もるとともに、南の山に千の仏頭が現れ光を放ち、太子が着用していた冠も日・月・星の光を放ちました。推古天皇は仏様の手によるものと考え、太子に寺院(橘寺)の創建を命じます。三光石は冠から放たれた3つの光の故事を表現したものです。

阿字池

梵字の「阿(ア)」をかたどった池で、聖徳太子が作られたといわれています。

黒駒の銅像

聖徳太子の愛馬の像です。太子が27歳の時、甲斐国から黒駒が献上されました。空を駆ける天馬とされ、太子はこの黒駒に乗り、空を飛んで富士山の山頂に立ったという伝説があります。

また太子は仏教を学ぶために郊外の斑鳩の宮に住みましたが、そこから飛鳥まで続く太子道(たいしみち)と呼ばれる道を、この黒駒に乗って通ったともいわれています。

その他の社宝

橘寺の寺宝で、現在、奈良国立博物館所蔵のものは以下の通りです。

・聖徳太子絵伝八幅(室町時代)(国重要文化財)
・釈迦涅槃図(室町時代)(県重要文化財)

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橘寺の御朱印

橘寺で頂ける御朱印は3種類あります。

・新西国三十三ヶ所第10番札所本尊 墨書:「聖徳殿 橘寺」・印:「新西国第十番」
・新西国三十三ヶ所第10番札所 墨書:「御詠歌」・印:「新西国第十番」
・聖徳太子御遺跡霊場第8番札所 墨書:「太子誕生所 橘の宮 橘寺」・印:「聖徳太子御遺跡第八番」

・新西国三十三ヶ所第10番札所本尊
通常頂ける御朱印です。
墨書の「聖徳殿」は、ご本尊・聖徳太子勝鬘経講讃像が安置されている本殿のことで、聖徳太子を祀る寺院である橘寺自体も意味します。

・新西国三十三ヶ所第10番札所
御詠歌とは、仏道修行の信者が霊場巡礼の際に詠む歌で、橘寺の「御詠歌」の御朱印には、「仏いで 花ふるにはのありけるに 遠きくにとは 何おもふらん」という、太子が推古天皇に勝鬘経を講義した際に庭に蓮の花びらが降ったエピソードが書かれています。

・聖徳太子御遺跡霊場第8番札所
「聖徳太子御遺跡霊場第8番札所」は、太子にゆかりのある「聖徳太子御遺跡」を表すもので、としての御朱印には、聖徳太子がお生まれた地であることから、中央に「太子誕生所」と書かれています。
また、太子が生まれた当時、皇室の別宮だった歴史も踏まえて「橘の宮」とも記されています。

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