長屋王の呪い?長屋王の変と藤原不比等四子の末路

長屋王の呪い?長屋王の変と藤原不比等四子の末路

奈良時代の初頭、藤原不比等の四人の子どもたち(藤原四子:武智麻呂(680年~737年)、房前(681年~737年)、宇合(694年~737年)、麻呂(695年~737年))と反藤原氏勢力であった皇族の長屋王との間で対立が深刻化し、藤原四子の謀略により長屋王は自害に追い込まれました。

この出来事を長屋王の変といいます。
この事件のきっかけは、天智天皇が崩御する際の皇位継承までさかのぼります。

第40代天武天皇(~686年、在位673年~686年)は、第38代天智天皇(626年~672年、在位668年~671年)の次代天皇として大皇弟の地位にありました(同世代がいる場合は皇位継承は兄弟間で行われていました)。しかし、晩年の天智天皇は、大海人皇子(おおあまのおうじ)ではなく息子の大友皇子(おおとものおうじ。648年~672年)に跡を継がせたいと思うようになり、それを察した大海人皇子は、出家し朝廷と距離を取りました。天智天皇崩御後、大友皇子は第39代弘文天皇(こうぶんてんのう。在位671年~672年)として即位したものの、大海人皇子との間で皇位継承争いとなる壬申の乱が勃発(672年)。勝利した大海人皇子は第40代天武天皇として即位しました。

このような兄弟間での皇位継承トラブルで悲劇的な争いを経験した天武天皇は、自身の後の世代での皇位継承時に、兄弟間での悲劇を生まないよう皇位継承に関するルールを作ります。こうして天皇の皇位継承は、親から子へと一つの血統の継承を行うことになりました。

一方、天智天皇の側近として仕え、生涯をともにした中臣鎌足は、天智天皇が崩御する前に亡くなりました(669年)。亡くなる直前に、鎌足は生まれた地の呼び名をもとにした『藤原』という姓を天智天皇より授かります。藤原の姓は、この時点では鎌足一代に与えられたもので、冠位十二階の中では上から二番目の朝臣に位置し、非皇族の臣下の中で最高位でした。その藤原の姓を、鎌足の次男である不比等も名乗ることを天武天皇に認められたことから、藤原氏族は始まりました。

壬申の乱が起こったとき、中臣氏は弘文天皇側についたため、天武天皇即位後に処罰されたのですが、不比等はまだ14歳で朝廷の官職などにもついていなかったことから処罰されることはありませんでした。

朝廷から距離を置くことになった中臣氏ですが、不比等は最下級の官職から自身の力で政治の世界に足を踏み入れ、徐々に力をつけていきました。その過程で、天皇の皇位継承の思惑と、非皇族で最高権威を持つことになる藤原氏の朝廷内権力への欲求が絡み合い、皇親勢力と藤原氏との間での権力争いは次第に大きくなっていったのでした。

天武天皇のひ孫である聖武天皇(しょうむてんのう。701年~756年、在位724年~749年)が即位する頃には、藤原不比等の四人の子どもたちと長屋王との対立はピークを迎えていました。

そのような背景のもと、長屋王の言動に危機感を覚えた藤原四子の謀略により、悲劇的な「長屋王の変」が起こったのです。

【壬申の乱から奈良時代の皇統図】

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持統天皇の皇位継承への想いが導きだした長屋王の変までの皇位継承

奈良時代は、710年に第43代元明天皇(げんめいてんのう。661年~721年、在位707年~715年)によって平城京に都が移されたことから始まります。奈良時代の天皇の血統は、飛鳥時代の末に起こった壬申の乱以降、勝利した大海人皇子の男系の血筋を主流とし、天智天皇の娘(鸕野讚良(うののさらら))が天武天皇の皇后であったことから、天智・天武両天皇の血筋をつなぐ皇位継承が行われていました。

天武天皇は、壬申の乱のような兄弟や甥といった近い皇族間での争いを、皇子たちの間では起こらないようにしたいと願い、天武天皇と皇后、自身の4人の皇子、天智天皇の2人の皇子とで、皇子同士で互いに争わずに、協力することを約束する『吉野の盟約』を交わしました(679年)。

当時皇位継承について明確なルールがなかったため、皇位は兄弟間ではなく、直系の皇子に継承し、皇太子以外の皇子は、協力して天皇を支えるというルールを作りました。

そして、この盟約の2年後、長男の高市皇子(たけちのおうじ。654年~696年)ではなく、天武天皇と皇后の鸕野讚良との間に生まれた(大海人皇子の第二皇子)草壁皇子(662年~689年)を皇太子として指名しました。高市皇子は実力からは皇位継承候補になり得たのですが、母親が福岡を拠点とした豪族の娘で皇族ではなかったこともあり、皇太子にはなれませんでした。

これにより、草壁皇子以外の皇子・皇族は、次の天皇の可能性が無くなりました。そして吉野の盟約の通り、天武天皇は他の皇子・皇族を朝廷の要職に充てることで、天皇を中心とし皇族が天皇を支える皇親政治を始めました。こうして、朝廷では豪族が上級官職につくのではなく、皇族が政治を行う体制となったのでした。

この影響もあり、藤原不比等は下級役人の登用制度にて出仕し、裁判を司る役人の下働きから朝廷の仕事につきました。元々神事を司る中臣氏でしたが、壬申の乱での処罰により朝廷中枢から一掃されていたこともあり、その氏族の一員である不比等も例外なく、下級役人から役人の世界に入ったのです。

天武天皇が崩御した際、吉野の盟約を揺るがす事件が起こりました。崩御の翌日、草壁皇子の1歳年下の異母弟である大津皇子(おおつのおうじ。663年~686年)が謀反を計画していると、天智天皇の皇子である川島皇子(かわしまのおうじ。657年~691年)より密告がありました。大津皇子は捕らえられ、翌日に自害しましたが、川島皇子の密告の背景には、大津皇子が有能であり、実力で皇位を求めようとする動きを鸕野讚良皇后が察知し、草壁皇子への皇位継承の妨げにならないよう即座に対処したのではと考えられています。

天武天皇の葬礼の儀式は2年を越して行われました。当時の天皇の葬儀には、皇位継承の儀式の意味も込められ、次期天皇に即位予定だった草壁皇子が、鎮魂の儀式を行っていたのです。しかし、即位につながる儀式を続けている中、草壁皇子は病に倒れ、天皇に即位することなく、そのまま崩御してしまいました(689年)。

鸕野讚良皇后は、天武天皇の他の皇子への皇位継承ではなく、草壁皇子の子である軽皇子に皇位を継承させることを望みました。しかし、当時7歳であった軽皇子への皇位継承はおろか、皇太子に指名することも年齢的に難しい状況でした。そこで、軽皇子に継承させることを目的に、立太子できる年齢まで鸕野讚良皇后自身が天皇に即位し、第41代持統天皇(じとうてんのう。645年~703年。在位690年~697年)になりました。

持統天皇は、天武天皇の皇子の中で草壁皇子亡き後の最年長者であった高市皇子を太政大臣に据え、政権運営を行いました。しかし、高市皇子も696年に崩御します。

その翌年697年8月、持統天皇は15歳になった軽皇子に譲位し、第42代文武天皇(もんむてんのう。683年~707年、在位697年~707年)が即位しました。これにより、持統天皇の望みであった自身の血筋への皇位継承がされました。持統天皇は文武天皇の即位後、上皇として天皇を支えましたが、703年58歳で崩御しました。

文武天皇が即位した直後、藤原不比等は娘の宮子を文武天皇の夫人として宮中に嫁がせます。その後、文武天皇と宮子の間に皇子が生まれ、これにより不比等は天皇家の外戚としての地位も手に入れ朝廷内でも頭角を現すようになりました。

しかし、文武天皇は、わずか10年で崩御してしまいます。文武天皇には皇后がおらず、正統な皇太子となれる皇子はありませんでした。残された夫人(宮子)との子である首皇子(おびとのおうじ。後の聖武天皇)も7歳と幼く、文武天皇の嬪(ひん。皇后・妃・夫人の下位)として仕えた石川氏(蘇我安麻呂(蘇我連子(蘇我倉山田石川麻呂の兄弟)の子ども)が天武天皇から与えられた朝臣を表す姓)の娘との間に生まれていた広世王(ひろよおう|高円広世)も幼かったことから、文武天皇の子どもたちを立太子することができず、皇太妃として文武天皇を支えていた阿閇妃(あへひ)が第43代元明天皇として即位しました。

この当時、天皇には正妻には皇后、皇太子や皇子の正妻には妃の称号が与えられました。天皇や皇太子の後宮には、位階が三位以上の者には夫人、四位以下の者には嬪の称号が与えられました。妃は内親王しか与えられない規則だったことから、後に皇太子が天皇に即位した際に皇后と呼ばれるものも、必然的に皇族出身者だったというわけです。このことから、文武天皇に皇子は生まれていたものの、当時の規則からは、首皇子も広世王も正当な皇太子というわけではなかったのです。

元明天皇は、天智天皇を父とした持統天皇の異母姉妹であり、天武天皇の子である草壁皇子の妃でした。持統天皇は生前に、文武天皇と夫人の宮子との間に生まれた首皇子へと皇位継承することを望み、不比等も自身孫が皇位継承することを画策していました。持統天皇崩御後、元明天皇も同様に、草壁皇子と自身の血統である孫の首皇子の皇統が安定的に継承されることを考えます。

しかしその頃の朝廷では、持統天皇や藤原不比等の考える皇位継承への思惑を推奨するグループと、蘇我氏系の皇統への皇位継承を模索するグループという意見の違う動きがみられはじめていました。そのような動きもあったことから、元明天皇は、首皇子のライバルとなる異母兄弟の広世王を、臣籍降下させることで首皇子と並ぶ皇子を排除し、首皇子を唯一の皇子としたのでした。

蘇我氏は、『古事記』や『日本書紀』で神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰を祖としています。武内宿禰は欠史八代に含まれる第8代孝元天皇のひ孫であることから、皇統から臣籍降下した豪族とされていました。当時は大臣職に就いた氏族として尊貴性が高かったことも影響しており、皇族の次に身分の高い母方として見られていたようです。

さらに、元明天皇の年齢と首皇子の年齢から皇位継承までに再度中継ぎを立てる必要性を感じていたため兄弟にも策を講じ、文武天皇の姉である氷高内親王(ひだかのひめみこ。後の元正天皇(げんしょうてんのう)。680年~748年。在位715年~724年)には、将来的な中継ぎの皇位継承者として、親王など皇族に与えられる品封(ほんぷ)を他の皇族より増やし、妹の吉備内親王(きびないしんのう、~729年)は、高市皇子の子である長屋王に嫁がせました。長屋王は天武天皇の孫であったものの皇位継承の主流ではありませんでしたが、特別に取り上げ、草壁皇子の血統と同等の皇孫として待遇をうけました。この特別待遇により、長屋王は高市系統として草壁系統の皇統を補佐する役割を担うようになり、皇親政治の中で天皇をサポートする立場に身を置くようになりました。

また、長屋王と吉備内親王の子である膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王も、皇孫待遇としました。この措置により、首皇子やその皇統が途絶えた場合には、皇位継承権を持って皇嗣(こうし。皇室典範において、皇位継承順位第1位の皇族)となる可能性を与え皇親政治を強化しました。
一方で、実務面に長けた不比等を重用し、大納言から正二位右大臣に昇格したうえで、政治面でサポートさせました。

平城京に都を遷都してから4年後の714年、首皇子は元服し正式に皇太子に指名されました。しかし病弱であったことや藤原氏と皇親勢力との間での皇位継承に対する考え方での対立が大きくなっていたこと、また皇太子として一定期間天皇をサポートさせる習わしがあったことから、すぐに天皇への即位は出来ない状況でした。翌年の715年、元明天皇は老いを理由として氷高内親王に譲位を行い、第44代元正天皇として即位させ、首皇子に皇太子として経験をつませたのでした。元明天皇は、上皇として元正天皇の政権をサポートし、持統天皇から続く皇位継承路線を維持しました。

元正天皇の治世時である720年、藤原不比等は病で没します。不比等により藤原氏の権力基盤が築かれたかと思われたものの、不比等の子どもたちはまだ朝廷での力を持っていませんでした。また、皇親政治を強化していたこともあり、不比等の後任には、長屋王が任命されました。

このとき、不比等の長男である藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)は従三位に昇進し中納言に任官されましたが、不比等の子どもたちにとっては対立するライバルが上に立つ形になりました。

その後元明上皇は、死後の政局を安定させるため、藤原氏主導での政権運営を目指す長男の武智麻呂ではなく、協調路線であった藤原房前(ふじわらのふささき)を内臣に任命し、長屋王ととともに元正天皇や首皇子の補佐を命じました。

首皇子が天皇に即位した際に長屋王を筆頭として藤原四子が政権をサポートするという構想を実現させるための動きであり、元明上皇だけでなく不比等も生前に構想を練っていた内容でした。

724年、24歳となった首皇子が皇位を継承し、第45代聖武天皇が即位しました。

しかし聖武天皇は出生時から、皇位継承における血統に正当性が疑問視されていました。奈良時代までは、父から子どもに相続する父兄出自の原則が定まっていない時代でしたので、母方の出身の系統が子どもの地位に大きく影響を与えていました。そのため、父親が天皇でも、母親が藤原氏出身だったことから、聖武天皇の皇統としての地位は、長屋王家といった蘇我氏系の血統を持つ王族と比べても低いのではとみられていたのでした。

このようなことから、聖武天皇は『正当な皇統をつなぐものではない』という蘇我系皇族を推す派閥が生まれるなど、朝廷内の勢力は一枚岩ではなく、即位時には権力基盤が安定しない状態に陥っていたのでした。

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辛巳事件(しんしじけん)

聖武天皇は即位から2日後、天皇の生母である藤原宮子を「大夫人」(だいぶにん)と呼ぶように命じ、勅を公布しました。

しかし、この天皇の指示に対して長屋王ら議政官たちが、翌3月22日に当日の法律である令に定める内容と、聖武天皇が出した勅の内容が噛み合わないことを指摘する申し立てを行います。大夫人という称号は法律である令には存在せず「皇太夫人」があるのみであることから、大夫人をつかうと違令となり、皇太夫人を用いれば違勅になるという難癖のような指摘を行い、聖武天皇に指示を仰いだのでした。

この指摘に対し聖武天皇は文章で書く場合は、「皇太夫人」とし、口頭では「大御祖(おおみおや)」とするように、一般的に周知させる詔をだし、先の勅を退け事態を収拾しました。

この勅について、聖武天皇は自身を出産後うつ状態になり、藤原不比等の指示により軟禁状態になったことで一度も会ったことのない母に敬意を込めて称号を与えたかったものでした。しかし、長屋王の進言は、この聖武天皇の想いに配慮しないもので、また、天皇の生母が藤原氏によって軟禁状態になっているということを世に知られるきっかけにもなりました。

この時代、天皇の命令は絶対だったので、聖武天皇から好ましくない人物とみられるとともに、藤原氏としても顔を潰され、長屋王に対して怒り、さらに疎むこととなる事件でもあったのです。

この詔が出された神亀元年3月22日の干支が辛巳であったことから、辛巳事件と呼ばれるようになりました。

基皇太子の誕生と夭折

神亀4年(727年)閏9月、藤原四兄弟の妹で聖武天皇の夫人であった光明子は、藤原不比等邸で皇子を生みました。聖武天皇は大変喜び、生後わずか32日で皇太子としてしまいました。

しかし基皇子は生まれ持って病弱であり、聖武天皇は平癒祈願を行ったのですが、祈願の効果な728年9月13日に薨去したのでした。

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長屋王の変

藤原兄弟は、基皇子の死による藤原氏直系天皇としての皇位継承の目論見が破れてしまいます。さらに、長屋王は祖母に蘇我姪娘、妃に同じく蘇我姪娘を祖母に持つ吉備内親王がいたこと、石川虫麻呂の娘の石川夫人、藤原不比等の娘の藤原長娥子といった蘇我系、藤原系の夫人もいたことから、長屋王や吉備内親王といった蘇我氏系皇族の血統、石川氏(蘇我氏)の血統、藤原氏の血統といった複数の血統を持っていました。その皇位継承の可能性を持つ長屋王や長屋王の皇子に次期天皇としての系統が流れてしまうことを恐れ、長屋王を失脚させるための謀略を画策しました。

729年2月10日、下級官人であった漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)と無役の中臣東人(なかとみのあずまびと)の両名を使い、長屋王がひそかに妖術を学んで国家を傾けようとしていると朝廷に密告させました。聖武天皇は、この密告から皇太子の死も長屋王の妖術によるものと思い、長屋王を捉えようと動きました。

まず、その夜のうちに、東国からの長屋王の支援者の軍が機内に入ることを防ぐため固関使(こげんし)を東国との交通の要となっていた三つの関である不破関・鈴鹿関・愛発関に派遣し、固守させました。

天武天皇の時代以降、中央で天皇の交代や反乱などの兆しがあるなど政情に不安がある場合、東国からの反乱軍の流入や反逆者が東国に逃れることを防ぐため、朝廷は固関使をそれぞれの関に派遣し、東の地域との交通を遮断していました。

それと合わせ、藤原宇合率いる六衛府(りくえふ)の兵が、平城京左京三条二坊の長屋王の邸宅を取り囲み逃げられないようにしました。

翌日、天武天皇の皇子で後の淳仁天皇の父である舎人親王(とねりのみこ)、同じく天武天皇の皇子で大将軍だった新田部親王(にいたべのみこ)、公卿の多治比池守(たじひのいけもり)、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)らを長屋王邸に派遣し、長屋王に問いただしました。

この一連の騒動が藤原氏の陰謀であり、同じ皇親勢力で長屋王の叔父にあたる天武天皇の皇子たちも包囲網に入っていたこと、またこれほどの軍勢が動くということは天皇の許可も出ていると認識し逃げ場がないと悟った長屋王は、毒を飲み自害しました。また、長屋王の妃であった吉備内親王と、長屋王夫妻の子である膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王ら皇子たちも、長屋王に続き、首をつり自害したのでした。

長屋王家に仕えていた役人などは捉えられました。臣下で最高位であり皇族であった長屋王の家には、多くの家事を取り仕切る機関がありました。また、長屋王だけなく吉備内親王にも多くの役人が仕えており、97名の関係者が捕らえられたのでした。

その後の取り調べで捕らえられた長屋王の関係者のうち、特に交流が深かった7人は流罪となり、90人は放免されました。

長屋王の自害した翌日、聖武天皇は使者を派遣し長屋王と吉備内親王の亡骸を埋葬しました。聖武天皇は、長屋王については、犯した罪に対しての仕置きとして滅ぼされたこともあり、罪人といえその葬儀をいやしいものにしてはならないとし、吉備内親王には罪はないので皇族の葬儀にかかる法令と同じ扱いで行うように指示し、埋葬させたのでした。

この事件をきっかけに全国の国司に向け、3人以上が集まって何事かをたくらむのをないようにせよという勅を出しました。この勅は2月12日の長屋王が自害した日にさかのぼって施行させました。

その翌日、直接関係のなかった長屋王の兄弟・姉妹・子孫と妾らなどの捉えられていた関係者は、赦免されました。また、今回自害など無念の死に至った者の呪いを恐れた時代であったこともあり、長屋王とその亡くなった家族を弔うため、百官は大祓を行ったのでした。

こうして、長屋王は藤原四子によるえん罪により滅び、朝廷は皇親勢力から藤原氏が力を持つようになったのでした。

【壬申の乱から奈良時代の皇統図】

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長屋王の呪い・祟り(?)による藤原四子の死亡

天平年間になってから天候不順が続き、天平6年の畿内七道地震というマグニチュード7程度とみられる大地震やその余震が続いたりするなど天変地異が続きました。そして、735年(天平7年)に大宰府で発生した天然痘が拡大をはじめ、翌年には本州に広がり、737年頃には都でも猛威をふるうようになりました。

この天然痘に罹患したことで、737年4月には藤原房前、7月に麻呂と武智麻呂、8月に宇合が相次いで病死しました。

さらに738年の秋には、長屋王について密告を行った中臣東人も長屋王に仕えていた大伴子虫(おおとものこむし)により殺されてしまいます。生前の長屋王に仕えていた大伴子虫は、任務の合間に中臣東人と囲碁を打っていましたが、その際に、中臣東人の話が長屋王のことに及び、長屋王を罵った内容に大伴子虫は憤って中臣東人を怒りのまま斬り殺してしまいました。こうして、無役から官職を手に入れた中臣東人も、長屋王を罵しったことで命を落としたのでした。

長屋王の死後立て続けに起こった地震や疫病の蔓延、当事者たちの続く死亡から、長屋王を自殺に追い込んだ祟りではないかという噂が世の中で広がり、人々はその祟りを恐れました。

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奈良そごうの閉店は長屋王の呪いなのか?現世にも引き継がれる長屋王伝説

長屋王の死から約1300年。今でも長屋王の呪いはその邸宅のあった場所に残されていると云われています。

現在、奈良市二条にある観光型商業施設『ミ・ナーラ』は当初、奈良そごうでした。奈良そごうは黒字でしたが、2000年のそごうグループの民事再生により閉店しました。わずか11年での閉店は、長屋王の呪いとして、地元で噂されました。

そごうの出店が決まり、奈良国立文化財研究所(現在の独立行政法人 国立文化財機構 奈良文化財研究所)が発掘調査を行いました。その結果、予定地から約4万点の木簡が出土し、調査の結果、奈良そごうが建つ場所が長屋王の邸宅跡だとわかったのでした。

長屋王の死が藤原氏の陰謀による自害であり、最期を迎えた場所を1260年ぶりに掘り起こしてしまったことから、長屋王の呪いがこの土地に残っているのではないかと噂になったのでした。

さらに奈良そごうの閉店後、三越と大塚家具が共同出店を表明するも断念。イトーヨーカドーが2003年に出店しましたが、2017年に業績不振により閉店。

その後ミ・ナーラという商業施設として継承し、1階にはイオン系の「KOHYO」が出店しましたが、2021年に撤退しました。

無念の死を遂げた長屋王は、最期を迎えたその場所で今もなお影響を与えているのかもしれません。

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