聖武天皇の時代、政治。聖武天皇は何をした人、どんな人?したこと、行ったことまとめ

聖武天皇は何をした人、どんな人?東大寺大仏づくり、遷都、詔、政治など聖武天皇がしたこと、行ったことまとめ

第45代聖武天皇(しょうむてんのう。701年~756年、在位724年~749年)といえば、東大寺の建立や奈良の大仏(盧舎那仏(るしゃなぶつ))を造仏した天皇として認識されている方は多いと思います。ですが、なぜ仏教に傾倒したかについては知らない方も多いと思います。

聖武天皇は即位後から、様々な問題や天災に襲われます。臣民(しんみん)を多く亡くし、自身の不徳の限りだと心を痛め、次第に仏教を深く信仰するようになり、政治に仏教を取り込んでいきました。

また娘の阿倍内親王(あべないしんのう)に天皇を譲位し、男性天皇で初の太上天皇(だいじょうてんのう。譲位した天皇)になり、譲位前後に出家し、入道(仏道に入った位階が三位以上の者を表す)となり、仏教を信仰しつつ、第46代孝謙天皇(こうけんてんのう。718年~770年、在位749年~758年)の補佐を行い、生涯を閉じました。

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聖武天皇の政治と政治主導者

聖武天皇は、第42代文武天皇(もんむてんのう、683年~707年、在位697年)と藤原宮子の子として生まれ、首(おびと)と名付けられました。首皇子は文武天皇崩御時にはまだ幼く、即位できる状況ではありませんでした。

当時は親子での皇位継承が主流であったこともあり、草壁皇子からの血統を首皇子につなぐため、祖母の元明天皇(げんめいてんのう、661年~721年、在位707年~715年)、伯母の元正天皇(げんしょうてんのう、680年~748年、在位715年~724年)が中継ぎとして即位し、724年2月に元正天皇からの譲位を受け、聖武天皇として即位しました。

聖武天皇時代初期には、長屋王、藤原不比等の子どもたちである藤原四子、中期以降には橘諸兄(たちばなのもろえ)といった有力な政治主導者がいました。

長屋王は、聖武天皇の祖父である草壁皇子の弟、高市皇子の子で、同じ天武天皇の血統の皇族でした。

橘諸兄は、元々は葛城王(かずらきのおおきみ)という名の皇族でした。第30代敏達天皇(びだつてんのう。538年~585年。在位572年~585年)の玄孫であり、敏達天皇と老女子(おみなご)夫人の子である難波皇子の血統の子孫でした。
そのため、敏達天皇と広姫から聖武天皇につながる血統とは違う母方の血統の皇族でした。

長屋王政権時代の聖武天皇の政治

聖武天皇即位時の朝廷は、長屋王に対する反発のため政治的に不安定でした。

長屋王は、聖武天皇即位前の721年、それまで政界を主導していた藤原不比等が薨去したことにより、不比等の代わりとして右大臣に叙任されました。新たな政治主導者として元正天皇を補佐しますが、その後の聖武天皇即位時にも、正二位左大臣に叙任されたことで、長屋王の朝廷内での立場は増々強いものとなりました。

また、当時は皇親政治を強化していたこともあり、長屋王の子どもたちは715年の元明天皇の勅により二世王(皇孫)扱いとされ、天武天皇の血統を持つ長屋王や天智天皇の血統を持つ妃の吉備内親王を含め、聖武天皇に何かあった時の皇位継承権を長屋王家として与えられていました。

この皇親政治を強化させる動きにより、長屋王は藤原不比等の四人の子どもや長屋王に批判的な勢力から警戒されました。

さらに長屋王は、政治手腕がとても高い実力者でした。

元正天皇時代には、食糧の増産や安定化を図るため百万町の水田開墾を行う「百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうふかいこんけいかく)」を実施。さらに、開墾がすすむよう、開墾した田は3代目まで私有することを認める「三世一身法(さんぜいっしんほう)」を制定しました。

また、災害などにより生活困窮する庶民には税である「租庸調」の一部を免除するなど、庶民の暮らしを支える政策を行うことで、社会の安定化を図る政策を進めたのでした。

一方、官職に対しては、能力を評価する制度を作り、評価によりボーナスを出し、能力の低い者は官職を解きました。

しかし、律令制度による支配を推進し、律や令が浸透していったことにより、朝廷の支配に反発していた蝦夷(東北方面)や隼人(九州方面)での反乱が頻発するようになりました。724年の蝦夷の反乱の際には、長屋王は、素早い派兵で鎮圧し、軍事面でも一定の成果を上げました。

聖武天皇即位後も、長屋王は天武天皇時代より進められてきた律令制を強化しました。さらに聖武天皇自身が皇位につく前の元明天皇や元正天皇の時代から進められていた皇親政治を継承したため、長屋王の政策には反対せずに政治を進めました。

そのため藤原四子はじめ、その政策に反発した者は多く、長屋王を陥れ自害させる長屋王の変が起こり、長屋王の死後は、藤原四子が政治主導を握りました。

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藤原四子政権時代の聖武天皇の政治

聖武天皇は、妃の藤原光明子を正式な皇后の地位につけようと思っていました。光明子の兄弟である藤原四子も、その思いは聖武天皇と同じでした。

しかし、当時の皇后には、天皇が急逝した際などに、次の天皇へのつなぎとして即位しなくてはいけない場合があり、皇后は天皇の血統の女性とされていました。そのため、長屋王や皇親勢力は藤原光明子を皇后にすることに反対し、聖武天皇の思いは実現できませんでした。

しかし長屋王が自害したのち、聖武天皇に真っ向から意見できる者がいなくなり、同じ目的をもっていた藤原四子が立后を支持したことで、聖武天皇は光明子を立后するために動きました。

729年8月10日、聖武天皇は光明子を皇后にする詔を出します。この詔は、皇后を立后する際の伝統的な儀式として行われるものでした。ただ、天皇の血統以外からの立后に反対の意見を持つ最有力者であった長屋王亡き後でも、光明子の立后に反対や不満を漏らす臣下は多くありました。そのため、聖武天皇は立后の宣明を8月24日に出し、2回目の立后の儀式を行いました。

宣命とは天皇の命令を漢字だけの和文で書いた命令書です。この宣明には、光明子が皇后になることを反対するものへ、なぜこれまでの皇族から皇后を迎える原則を破り、臣下の者から皇后を立てるのかという説明が含まれていました。

731年には、議政官であった藤原武智麻呂(むちまろ)・藤原房前(ふささき)に加え、官人からの推挙により藤原宇合(うまかい)・藤原麻呂(まろ)も参議に加えられます。この人事により、9人の公卿のうち4人を藤原四子が占めることになり、藤原四子政権と呼ばれる時代に入ります。文官や武官の人事権を長男の藤原武智麻呂が掌握することとなり、四子の中でも政治主導者として政権を動かすようになりました。

太政官の公卿職種
太政大臣 ・国政の最高機関である太政官の最高の官
・適任者がいなければ選任されない則闕の官職
左大臣 ・太政官の長官の一つで、正・従二位相当
・右大臣の上席に当たり、事実上の首席
・定員は1名
右大臣 ・太政官の長官の一つで、相当位は左大臣と同じ正・従二位相当
・職掌左大臣と同じだが、官としては左大臣の下位
・左大臣不在時に政務・儀式を総理する
・定員は1名
大納言 ・大臣に継ぐ地位で正三位
・大臣と政事を議論し、大臣を補佐する役割
・定員は2名
中納言 ・大宝律令により一度廃されたが、705年に復活(令に記載の無い冷外の官)
・大納言に次ぐ重職
・従三位
・定員は3名
参議 ・三位、四位から有能な者を任命し、国政の審議に参加させた官職
・大臣、大・中納言に次ぐ重職で令外の官
・制度化されてからの定員は大体8名

光明子が立后されたことで、藤原氏は外戚という立場になり、聖武天皇にも進言できる立場を手に入れ、周囲の皇族・貴族を抑え権力を持つようになったのです。

軍事面では、平城京や畿内周辺の軍の指揮官の配置や東北遠征を行い、治安維持の強化を進めました。長屋王時代に軍備費を別の政策に回し、軍縮傾向であったものを、藤原四子の進言により再度軍拡路線に変更したのでした。

外交としては、遣唐使だけではなく、新羅に対しての使節団の派遣も行いました。しかし、この遣新羅使の派遣が最悪の事態を招くこととなります。

新羅から持ち込まれたと考えられる伝染病の天然痘が九州に上陸。九州では多くの農民が亡くなり、737年には平城京にまで蔓延してしまいます。この疫病に藤原四子は相次いで罹患し、四人ともに病死ししてしまいました。

平城京内では長屋王の祟りという噂も流れたのでした。

長屋王の呪い?長屋王の変と藤原不比等四子の末路

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橘諸兄政権時代の聖武天皇の政治

天然痘の蔓延により、藤原四子にとどまらず、中納言であった多治比県守(たじひのあがたもり)ら議政官達も次々に死去してしまいました。朝廷に出仕できる公卿で残っていたのは、高市皇子の次男で長屋王の弟にあたる鈴鹿王、美努王と橘三千代との子である橘諸兄(葛城王)のみでした。

出仕できる者が3人しかいない状態では政治が止まってしまうため、聖武天皇は急遽、鈴鹿王を知太政官事(ちだいじょうかんじ)に、橘諸兄を次期大臣の資格を持つ大納言に任命し、応急的な体制を整えました。翌738年には、橘諸兄を正三位・右大臣に任じ、新しい朝廷をスタートさせました。

天然痘の大流行で30~50%もの日本人が亡くなったと云われており、聖武天皇にとっての近々の課題は、国力の回復でした。聖武天皇は、皇族と貴族が一体となって政治が執り行える体制作りとして、橘諸兄を中心とした政権運営を行いました。大宝律令制定後、天皇への権力集中化が進んだことで、中央の豪族は位階を与えられ、序列化されていました。中央集権化したとはいえ、国力回復には皇族と貴族が一体になり、国を動かす必要があったのです。

橘諸兄は、父に敏達天皇の末裔の皇族、母に県犬養三千代((あがた(の)いぬかいのみちよ)橘三千代)をもつ、皇族でした。当初は葛城王という名でしたが、臣籍降下して橘諸兄となりました。橘の姓は、朝臣(あそみ、あそん)という日本古代の姓の一つで、天武天皇時代に定められた八色の姓(やくさのかばね)の第2位となる姓でした。

橘諸兄は、光明皇后から見ると異父兄であり、藤原不比等の娘を妻にしていたことから、藤原氏とも強いつながりもありました。そのため、主導者としてすぐに頭角を現しました。

聖武天皇は、橘諸兄の進言から、遣唐使として唐に渡った経験のあった下道真備(しもつみちまきび。後の吉備真備)と玄昉を政策参謀としました。翌739年には橘諸兄を従二位へ昇叙させ、国政主導者として政策を任せます。

この昇叙に伴い、橘諸兄は、母の橘三千代の同族であった県犬養石次(あがたのいぬかいのいわすき)を参議として登用、また自身の派閥に所属する朝廷内で大きな職務についていた陸奥国按察使兼鎮守府将軍であった大野東人(おおののあずまびと) 、朝廷の八省の一つであった民部卿と阿倍内親王の春宮大夫を兼務して勤めていた巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ) 、摂津大夫と兵部卿を兼務していた大伴牛養(おおとものうしかい)を参議に任じ、橘諸兄政権を成立させました。

さらに、聖武天皇は、国力回復のため地方行政を簡素化させました。
・農民に課せられていた防人の廃止
・地方諸国での兵士や健児(こんでい)といった平民に課せられていた制度の停止
これらの施策で、平民の負担を軽減させました。

しかし、農民人口は疫病により減少していましたので、負担軽減を実施するものの、三世一身法にて新しく開墾されていた農地も含め、荒れ果てていました。そこで橘諸兄は、再開発を促すため、長屋王が制定した三世一身法を改定し、墾田永年私財法を進言します。これにより、自身で開墾した田については、個人の持ちものとして認める私有財産の権利が庶民にも認められ、開墾は進み、後の世に荘園が広がるきっかけにもなりました。

一方、軍事面では、藤原四子が新羅に軍事圧力をかける外交方針をとっていたものから、藤原不比等の時代から長屋王時代まで行っていた軍縮路線に変更する緊張緩和政策をとり、軍事力も藤原四子時代より縮小させていきました。

このように、聖武天皇は、橘諸兄の進言により、能力の高い人物を要所に重用し、国難を乗り切るための政策を進めました。

一方、藤原氏の一族は、橘諸兄との関係性は当初よかったものの、藤原四子の病死以降、藤原氏ということで取り立ててもらえることがありませんでした。そのため、藤原氏は権力基盤をごっそりと奪われ長屋王時代のように政権から離れた状態になっていました。

例えば、藤原宇合の長男である藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ。715年~740年)は、中央から離れた大宰府に、次官である太宰少弐として任命されました。藤原広嗣は新羅に対して強硬姿勢を示していたこともあり、朝廷から遠ざける人事と云われているものの、同じ藤原家の親族への誹謗中傷が原因だとみられています。階級は従五位下のままで国司からの官職変更でした。
役割的には新羅使の出迎えと応接を対応させるためのものでしたので、藤原広嗣は大和国の国司からの変更だったことから、この人事を左遷と認識し、不満を抱えていました。

740年に新羅に派遣した遣新羅使が、新羅より追い返される事件が起った際には、藤原広嗣は、朝廷が新羅に舐められていると批判を強め、藤原広嗣の乱を起こしたのでした。

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関東行幸と彷徨五年

藤原広嗣の乱は、藤原広嗣と橘諸兄の政治方針で意見が違ったことが原因でした。遣新羅使が新羅から追い返された原因について、藤原広嗣は、軍備費を抑えたために『大和朝廷は新羅には海を渡ってまで攻めてこないと判断し、追い返しても影響がない』と新羅から舐められたからだと考え、朝廷に対し緊張緩和政策を主導する吉備真備や玄昉を追放するように迫ったのでした。

結果的には藤原広嗣が捕らえられ鎮静化するのですが、藤原広嗣の反乱のさ中、聖武天皇は突如として都を離れ、関東(現在の関東エリアではなく、平城京東の関より東の地域|伊勢・美濃)への行幸を行いました。この行幸は、藤原広嗣の反乱にショックを受けた聖武天皇が平城京から逃げ出そうとしたという説が通説でしたが、歴史書の解析から、藤原広嗣が反乱を起こす前から計画されていた行幸であったという説が現在ではみられるようになっています。

この行幸のルートは、曾祖父である天武天皇が壬申の乱の際に、飛鳥から離れるときと同じでした。そのため、聖武天皇がこの行幸で、天武天皇の追体験を行ったのではと考えられています。

聖武天皇は、行幸途中の740年12月15日、恭仁宮(くにきょう)に入ります。その際、この地を平城京に変わる新たな首都として造営し遷都する勅を出しました。

恭仁京は現在の京都府木津川市の辺りに位置していました。疾病の流行による社会不安と、藤原広嗣が反乱を起こすなど政界で発生している混乱を一気に収束させるため、自然に満ちた新たな土地に都を造営し、汚染されていない新たな場所に計画的に都を移したのでした。この地域は右大臣橘諸兄の本拠地であったことから選ばれたのではと考察されています。

聖武天皇は、行幸途中にこの恭仁京に留まり、そのまま首都機能を平城京から移していきました。741年3月には、五位以上の官職者に今日中に恭仁京に移れという通達を出し、恭仁京が本格的な首都として政治拠点になりました。

741年から造営に入り平城京から太極殿が移築されるなど、宮殿作りは進みましたが完成しないまま743年末に造営が中止されました。翌744年1月、聖武天皇は恭仁京から天武天皇時代から副都として造営されていた難波宮へ突如遷都すると勅を出したのです。なぜ難波宮に遷都する方針になったかは、理由はわかっていないのですが、744年2月には天皇の公文書に使用される印なども全て難波宮に移され、首都としての恭仁京は廃止されました。

首都機能を難波宮に移した直後の聖武天皇ですが、それまでの行幸において、離宮として都を造営させていた紫香楽宮(しがらきのみや)に移ります。紫香楽宮は現在の滋賀県甲賀市信楽町に位置していました。

聖武天皇は関東行幸を行う際、仏教の力で、平城京の浄化を行うとともに、日本の国を護ろうと考えるようになっていました。国民全体が仏に見守られていると実感できたら、2度と社会の乱れは起こらず、平穏に暮らせるようになると考えたのです。吉備真備や玄昉から聞かされていた唐の見聞内容に、洛陽郊外にある龍門石窟の石仏についての話があり、それと同じような大仏を創ることで人々の心のよりどころとなり、仏教信仰の対象ともなる盧舎那仏を紫香楽宮に造仏しようとしたのです。

聖武天皇は、造立工事が円滑に促進するよう、政治ではなく造仏に専心するようになります。政治を主導する橘諸兄など臣下の者も紫香楽宮に移動しました。そのため、難波宮から紫香楽宮に首都機能が再度移ることになったのでした。

しかし、この度重なる遷都により人々は不満を抱えました。この不満が原因とみられる放火により、山火事が度々起こりましたが、この不審火による火災は、神仏の祟りだとみなされました。聖武天皇は自身の不徳ととらえ、大赦と租税免除を行いました。しかし、その当日、美濃を震源とする大地震が発生し、余震がしばらく紫香楽宮を襲ったのでした。

聖武天皇はこの一連の火災や地震が、自身の判断の誤りと考え、自身の判断ではなく太政官や平城京の四大寺の僧の判断を参考に検討することとし、どこを都にすればいいのかを問いました。太政官、四大寺の僧全員が平城京という回答を出したことから、745年、聖武天皇は平城京に都を戻し、再び首都としたのでした。平城京の都市機能は、これまでの遷都によって放棄されたわけでなく、新しい場所に都市機能を整備する必要がないことや、仏教寺院も遷都に合わせて追随していたわけでなく平城京にあったことが平城京回帰への要因でした。

この5年間に渡る度重なる遷都を行ったことを、聖武天皇の彷徨五年(ほうこうごねん)といいます。

平城京に遷都したことで、紫香楽宮での大仏造仏は中止されました。そして、改めて平城京の東側にあった金光明寺に大仏を建立することになりました。以後、聖武天皇は、大仏造仏や国分寺・国分尼寺の造立を中心とした政策を進めました。

4年後の749年、聖武天皇は仏教にさらに傾倒し、突如出家して娘の阿倍内親王に譲位し、第46代孝謙天皇が誕生します。聖武天皇は太上天皇として孝謙天皇を支えながら、大仏造仏と仏教信仰に力を入れました。

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聖武天皇の仏教帰依と政治方針

聖武天皇が仏教に帰依し、政治方針に仏教を取り入れ、仏に護られた国造りに傾倒していった背景には、聖武天皇が即位した724年以降、日本中で起こったさまざまな災いが影響していました。

734年に生駒断層の活動による内陸型の地震とみられる畿内七道地震(きないしちどうじしん)が発生。平城京一帯はかなり大きな揺れに見舞われ、住居エリアでは、多くの民家が倒壊し、人々は圧死するなど、辺りは悲惨な状態になり果ててしまいました。

この地震を受け、聖武天皇は、天照大御神の子孫である自身の不徳が神を怒らせ地震を発生させてしまったと、深く心を痛め、自身の徳の欠落や政治の落ち度を反省する詔を出し、その3ヶ月後には、大赦を行いました。 このような大赦を行う事例は、前例として平安時代まで見られることとなりました。

また735年には、九州の大宰府に海外から天然痘と思われる疫病が流入します。遣唐使や新羅使といった中国・朝鮮との使節団が、大陸で流行していた疫病を持ち帰ったとみられています。当初は大宰府を中心に徐々に広がりを見せたのですが、数年の間に日本国内で猛威を振るい、737年頃には畿内にも広がりを見せ、藤原四子も病死し、当時の人口の約30~50%が亡くなったと推定されています。

これらの災害により、農業従事者も減ってしまい、当時の税は米や特産品だったので、朝廷には税が入ってこなくなり、さらに庶民の食料も少なくなり飢饉になってしまいました。

聖武天皇は、仏に救いを求めました。国を安定させるために、国家の災いを取り払う教えとして伝わった『金光明最勝王経』を自ら写経し、737年には、日本国内の律令国ごとに釈迦仏像1体と脇侍の菩薩像2体を作り大般若経を写経する指示を国司に出し、740年には「法華経」を10部写経、さらに『仏が創造された現世世界全てが完成している姿』を象徴とした七重塔を建てるように指示を出しました。

仏教の思想として、宇宙すべてのものは地・水・火・風・空の五つの要素からできていると考える五大思想があります。その五大要素を象徴としてあらわした建物が五重塔でした。そして古来、東洋の伝統で、7は『すべて』『完成』を意味していたことから、『仏が創造した地・水・火・風・空のすべての要素により完成した世界』を象徴する七重塔を作らせました。

これらの指示は、741年に「国分寺建立の詔」として改めて出されました。
・国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置すること
・僧寺は「金光明四天王護国之寺」、尼寺は「法華滅罪之寺」とすること
・各国に七重塔を建て、金光明経と法華経を写経すること
・聖武天皇自身も金字で「金光明最勝王経」を写し、あわせて塔ごとに収めること
・僧寺には僧20人、尼寺には尼僧10人を置くこと

写経は国家事業として、官立写経所が設けられました。写経は試験に合格した写経生だけができました。700名近い写経生がいたとみられています。
1人が1日平均7枚(おおよそ3,000字程度)の写経を行ったと云われ、大般若経は一式で600巻あることから、かなりの労力が必要でした。

国分寺建立の詔を出した2年後の743年、聖武天皇は仏教の力によって国中の人々が心安らかに暮らせる世の中にするため、争いがない世の中や建築や治水の発展、福祉医療の充実の功徳を持つ廬舎那仏づくりに動きます。そこで「廬舎那大仏造立(るしゃなだいぶつぞうりゅう)の詔」を出しました。

745年、場所は基皇子の菩提のために建てられた山房が前々身であった現在の東大寺に定められ、大仏造立が始まりました。この寺は、全国の国分寺の総国分寺としても位置付けられました。

しかし、国司の怠慢により、多くの国分寺の造営は滞り、造営は進みませんでした。

聖武天皇は国分寺造立の詔を発布した6年後の747年、「国分寺造営督促の詔」を新たに出し、造営の監督体制を国司から郡司層に移行させます。三年以内に、金堂・塔・僧房を完成させた郡司には、その子や孫、末代に渡り世襲を認め、一族が永久に郡司に任官される権利を与えました。これによりほとんどの国分寺の本格造営が始まりました。

朝廷から僧に与えられる官職のうち最高位の官職である大僧正に指名された行基の活躍もあり、752年には盧舎那仏造は完成し、大仏に魂を迎え入れる供養である開眼法要を執り行うことができました。しかし、聖武天皇は756年に崩御します。大仏殿の竣工は758年であったため、完成を見届けることはできませんでした。

このような聖武天皇の生涯の活躍により、奈良時代に多くの寺や仏像が作られましたが、その一部の国分寺や国分尼寺などの仏閣、仏像などは今も受け継がれています。

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