藤原広嗣の乱とは?なぜ?その理由、玄昉・吉備真備との人間関係、広嗣の怨霊、エピソードなどわかりやすく解説

藤原広嗣の乱とは、740年に藤原広嗣(ふじわらひろつぐ、~740年)が九州で挙兵した内乱をいいます。

わずか2ヶ月で鎮圧された乱でしたが、壬申の乱以降の朝廷内で起こったはじめての反乱となる事件でした。

その背景には、藤原不比等が築いた藤原氏の権力や地位が、天然痘の蔓延による不比等の子どもたちの病没により、大きく崩れ変容していったことがあげられます。
孫である藤原広嗣はその変化の中に置かれた藤原氏の一人として、橘諸兄政権に抗い、滅ぼされました。

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橘諸兄政権誕生までの藤原氏

持統天皇(645年~703年)の時代、下級官吏であった藤原不比等(659年~720年)は、大宝律令の制定(701年)に関与したことにより、朝廷で影響力を持つようになりました。持統天皇から軽皇子へ皇位を継承する際には、他の天武天皇(~673年)の皇子に皇位が渡らないように貢献。文武天皇(683年~707年)即位(697年)後には、不比等は娘の藤原宮子を夫人として天皇におくり、文武天皇と宮子との間に首皇子(後の聖武天皇(701年~749年))が生まれたことで外戚関係が成立。不比等は、更なる地位と権力を固めていきました。

不比等の四人の子どもたちも元明天皇(661年~721年)・元正天皇(680年~748年)時代に役人として、力をつけていましたが、不比等は息子たちが権力や影響力を手にする前に亡くなりました。長男の藤原武智麻呂は、この時点では従四位上相当の官位で東宮傅(とうぐうのふ)という皇太子付きの教育官であり参議にも昇格していなかったものの、参議を飛ばして中納言に昇格しましたが、藤原家では不比等の後継者でも、朝廷では右大臣後継というわけにはいかず、皇族の長屋王が右大臣に昇格し、権力を握りました。
次男の房前は元明天皇の崩御直前に参議から内臣に任じられました。

しかし、長屋王を自殺に追い込む長屋王の変が729年に起こり、藤原武智麻呂は大納言に昇格。731年8月には三男の宇合、四男の麻呂も参議に昇格し、権力を藤原一族で押さえてしまいました。

731年の時点では、太政大臣・左大臣・右大臣の大臣は選任されていませんでした。
大臣が不在であったことから、太政官で権力をもったのは大臣に継ぐ地位であった大納言で、多治比池守と藤原武智麻呂が付いていました。

中納言それに次ぐ参議は9名で構成されており、武智麻呂以外の兄弟全てが参議に登用されたことと、聖武朝以降は藤原氏寄りの立場を取っていた知太政官事の舎人親王の存在もあり、藤原一族の発言力はとても大きくなっていたのです。

この知太政官事とは、律令で定められた太政官の官職とは別の令外官でした。令で定められた臣下の代表としての太政大臣に対し、皇族の代表として形的に付けていたものでした。その皇族代表の立場の舎人親王も親藤原の立場だったのです。

このような中、藤原広嗣は藤原四子の三男である藤原宇合の長男として715年頃に誕生しました。

母は蘇我山田石川麻呂の娘であったことから、蘇我の血脈も持っていました。朝廷の役人としても出世していました。

しかし、737年4月17日、藤原四子の房前が天然痘による薨去以降、7月13日には麻呂、7月25日に武智麻呂、8月5日には宇合が薨去。

藤原四子をはじめとした公卿の多くが天然痘で病没したことにより、聖武天皇は政治が止まらないよう同年9月28日に、公卿で生き残っていた参事の橘諸兄を大納言に昇格させ、その4ヶ月後には橘諸兄を右大臣に任命しました。

橘諸兄は、疫病の蔓延による国難を乗り切るため、唐で法相宗を学び、帰国後には藤原宮子の病気を治療し僧正についていた実力者の玄昉、唐から帰国して正六位下・大学助に任官されていた吉備真備を側近としました。

一方で、藤原不比等の孫たちは、橘諸兄の政権発足時の官職・位階は低く、特に優遇されることはありませんでした。

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藤原広嗣の乱はなぜ起こった?背景、理由

藤原広嗣は737年9月時点では従六位上の式部少輔でしたが、三階級昇格し、従五位下となりました。その翌年の738年には大養徳守(おおやまとのかみ)も兼任することになり、出世への階段を着実に昇っているように思われました。

しかし、同年12月、式部少輔・大養徳守の任は解かれ、官位は同じ従五位下の太宰少弐(だざいのしょうに)という大宰府の次官に任じられました。平城京のあった大養徳国のトップ、今でいう県知事の立場から、地方役所の三番手の役人へと変更になったのです。広嗣から見れば左遷的な人事でした。


この人事には、反藤原勢力の台頭が背景にあったとされます。

橘諸兄政権発足時は、疫病により人口が減少、農業など内政の対策強化の必要があったため、新羅に対しての軍事的緊張を緩和させました。一方父や叔父達が進めた軍事拡大路線を継承していた広嗣は、新羅に対しては強硬論を持っていたため、この政策変更が気に入らなかったのです。そのため広嗣を、中央の政治から遠ざけるためだったと云われています。

藤原氏の対新羅政策には、新羅と唐との関係、そして朝鮮半島北部に建国された渤海との関係がありました。7世紀末に建国された渤海は、727年に大和朝廷に使者を送り、728年に国書と貢物を聖武天皇に献上しました。そこから渤海と通交が始まりました。

その後732年に渤海が唐の山東部を攻撃し占領したことで、唐は新羅に渤海攻撃を要請し、新羅は要請に答え渤海を攻撃します。それがきっかけで新羅は唐と関係を修復し和解、結果的に735年に朝鮮半島の領有を正式に認められました。

このことにより日本に従う必要がなくなった新羅は、大和朝廷に「新羅」という国号を「王城国」と改称したことを告知し、日本との対等な関係を求めたことから、大和朝廷は反発。新羅との関係が悪化していきました。

新羅と渤海との関係、新羅が唐を背後につけたことで強気に出てきたことから、藤原氏は新羅に対して警戒し、軍事力で新羅を抑えつけ、対等な国家関係という主張を押さえつける政策だったのです。しかし橘諸兄たちは、新羅の主張はすぐの脅威ではなかったことから、国力の回復に力を注ぐ政策に舵を切ったのでした。

こうして橘諸兄たちは、人事の口実を、藤原広嗣が、「宮子と宮子の病気治療を行った玄昉との間に良からぬ関係があり、玄昉を朝廷から排除するべき」という親族の大夫人藤原宮子へ誹謗を行ったこととしました。身内に対しての誹謗であれば大した問題ではありませんが、誹謗の対象となっていたのは、大夫人で聖武天皇の母である藤原宮子でした。

藤原広嗣は九州の筑前国に設置された地方行政機関であった大宰府へ飛ばされたのでした。

大宰府赴任後の740年8月、広嗣は朝廷に対して「天地による災厄は右衛士督・吉備真備と僧正・玄昉に起因するもので、2人を追放すべき」という内容の上奏文を送ります。広嗣の気持ちを推測するに、「疫病の蔓延は、これらのものが唐から持ち込んだことが要因であり、そのような病気を持ち込んだものを朝廷中枢に置いておくのはいかがなものか?」と訴えたのです。

橘諸兄はその内容から、重用を進めた自身への批判、つまり朝廷の要職である右大臣への批判、朝廷に対しての謀反として受け取りました。
聖武天皇は、この上奏に対して、広嗣召喚の詔勅を出しました。

しかし広嗣は、この勅に従うことがなく、朝廷からの召喚に応じませんでした。

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挙兵から鎮圧まで

9月に入ると広嗣は弟の藤原綱手(ふじわらのつなて)とともに、大宰府の手勢、隼人などを加えた1万余りの兵力を準備しました。

藤原広嗣が大宰府で挙兵したことが、朝廷に伝わり、朝廷内は混乱に陥りました。

聖武天皇は、参議の一人である大野東人(おおののあずまひと)を持節大将軍に、紀飯麻呂(きのいいまろ)を副将軍に任命。また佐伯常人(さえきのつねひと)と安倍虫麻呂(あべのむしまろ)の2名を勅使としました。東海道・東山道・山陰道・山陽道・南海道の諸国から1万7千人の兵を用意、また隼人から朝廷に出仕していた24人も従軍させ、九州に進軍させました。

神仏への必勝祈願も行います。伊治部卿の御原王を勢神宮で参拝させ、平城京近隣諸国には観世音菩薩像をつくり、観世音経10巻を写経して戦勝を祈願するように勅を出しました。

広嗣は、豊前国板櫃鎮(いたびつのちん)にて官軍を3方向から包囲するため、軍を3つに分けて進軍しました。

広嗣が5千余りの兵を率い、弟の綱手に5千人、側近の多胡古麻呂(たごのこまろ)に数千人を託し、それぞれ筑前国鞍手(ちくぜんのくにくらて)、豊後国国東(ぶんごのくにくにさき)、豊前国田川(ぶぜんのくにたがわ)の3方面から、豊前国板櫃鎮へ向かいました。板櫃鎮は、関門海峡を本州側から渡り大宰府方面に進軍する際に防衛できる最初の要塞で、ここを落されると、朝廷軍の九州侵入を許してしまうためです。


出典:日本史で遊ぼう

朝廷軍は、9月21日に長門国に到着。その日のうちに額田部広麻呂が40人の兵とともに密かに関門海峡を渡海し、登美(とみ)、板櫃、京都(みやこ)の三鎮を奇襲し制圧し、広嗣軍はまだ板櫃鎮に到達していなかったことから、それほど早く九州に入ってくると想定していなかったと推測されます。結果、それぞれの拠点に配置されていた兵も油断していたと考えられ、営兵1,767人が捕虜となり、官軍の前進拠点として抑えられたのでした。

翌日、勅使であった佐伯常人と阿倍虫麻呂が、隼人24人、兵4,000人を率いて長門から渡海、板櫃に陣を構え、豊前国北東部の板櫃鎮周辺地域を朝廷軍が制圧しました。この時点で、広嗣の作戦は失敗となりました。

朝廷軍が板櫃鎮周辺を制圧したことから、近隣の郡司達がそれぞれ兵を率い朝廷軍に投降しました。

板櫃鎮の西側には板櫃川が流れており、広嗣が板櫃川に到着した際には、板櫃川の対岸に陣を構えていた官軍の布陣は、勅使が率いる6,000人余りに増えていました。

広嗣軍は隼人を先鋒にし、いかだで板櫃川を渡らせようとしましたが、朝廷軍の勅使であった佐伯常人は、川を渡ってこようとしている敵側の隼人に、広嗣に投降するよう呼びかけ、さらに勅使は、対岸から広嗣を呼びました。

何度かの呼びかけの末、広嗣は姿を現し勅使が誰かを確認すると、下馬して「わたしは朝命に反抗しているのではない。朝廷を乱す二人(吉備真備と玄昉)を罰することを請うているだけだ。もし、わたしが朝命に反抗しているのなら天神地祇が罰するだろう」と答えました。

勅使は「なぜ召喚の勅を無視し、軍兵を率いて押し寄せて来たのか」という問を返しましたが、広嗣はこれに答えられず、無言のまま馬に乗って引き返したのでした。

このやりとりを見ていた広嗣側の30名近い隼人や兵が川に飛び込み、官軍に降伏し、広嗣の作戦や綱手軍と多胡古麻呂軍がまだ到着していないことを伝えました。

板櫃川での戦いに敗れた藤原広嗣は、弟の綱手と備前国松浦郡値嘉島(現在の五島列島)から新羅に逃げようとしました。しかし、済州島近くで西風に煽られ値嘉島に戻されてしまい、値嘉島に潜伏していましたが、10月23日に値嘉島の長野村(現在の五島列島の宇久島にある宇久町)で安倍黒麻呂により捕らえられました。

740年11月1日、広嗣と綱手の兄弟は肥前国松浦郡唐津にて処刑され、翌年1月には、広嗣・綱手以外の兄弟は親族の犯罪責任に対しての連帯責任として流罪の処分を受けました。こうして、藤原広嗣の乱は幕を閉じたのでした。
広嗣を含め、死罪16人・没官5人・流罪47人・徒罪32人・杖罪177人でした。


出典:日本史で遊ぼう

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玄昉や吉備真備、橘諸兄、大野東人との人間関係

藤原広嗣の乱の背景には、藤原氏と反藤原氏の人間関係があったと考えられています。

・橘諸兄

橘諸兄は、敏達天皇の末裔で、皇族である美務王と橘三千代を母にもつ公卿です。聖武天皇の皇后である光明皇后とは母を同じとする異父妹という関係でした。また、藤原不比等と母三千代との娘である藤原多比能を妻にしており、異父兄弟での結婚であり、藤原氏とのつながりも強い背景がありました。

長屋王の変以降、729年に正四位下に叙せられ、731年には藤原宇合や藤原麻呂とともに参議に任じられ、公卿となりました。737年、天然痘の蔓延により公卿が次々と命を落とし、同年9月には出仕できる公卿は参議の鈴鹿王と橘諸兄だけになりました。

公卿とは現在の内閣のようなもので、参議は現在の各担当大臣のようなポスト、大納言は大臣をサポートする官職で次期大臣が見込まれるポスト、右大臣や左大臣は内閣総理大臣のようなポストでした。このような要職についていた者が担当大臣二人だけになっていたのです。

聖武天皇は体制立て直しのため、急遽、参議の橘諸兄を大納言に、翌年には右大臣に昇格させました。右大臣になった橘諸兄は吉備真備・玄昉を側近とし、聖武天皇を補佐し政治運営を行うことにしました。

橘諸兄は739年に、同族の県犬養石次を次の参議への登用を含んだ従四位下に昇格させました。また、諸兄の自派であった大野東人、巨勢奈弖麻呂、大伴牛養も参議に任じ、藤原氏と関係ない能力の高い人物を重用しました。

藤原氏は、親の世代で築かれた権力を全て持っていかれましたが、橘諸兄は、皇后と異父兄弟で、藤原四子とも義兄弟であったことから、藤原氏との関係は良好でした。しかし藤原広嗣を大宰府へと左遷したことで、広嗣の政権への不満が大きくなり、広嗣とは敵対する関係性に陥ってしまい、反乱まで発展してしまったのでした。

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・玄昉

玄昉は、717年に遣唐使として唐に渡った法相宗の僧でした。唐には18年間滞在し、唐の第9代皇帝であった玄宗(げんそう)に才能を認められ、唐の三品(日本の位階でいう三位で大納言や中納言相当)に準じた袈裟を下賜されるほどでした。

736年に帰国したのち、聖武天皇の母である藤原宮子の病気を祈祷により回復させました。その結果、聖武天皇や宮子から寵愛されるようになり、737年に僧官として僧正に任命されました。内裏に仏像を安置し天皇、皇后、皇子など皇族が仏を礼拝し修行を行う内道場が設立されると、玄昉も内道場に立ち入ることが許されました。このような天皇との関わりから、政治にも関わりはじめました。

橘諸兄が右大臣になると、遣唐使として渡唐経験があったことから政権の担い手の一人として側近に任命されました。

藤原広嗣は、藤原氏の血筋をもつ自分を差し置いて政治運営で重用されていることに不満を募らせたのでした。

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・吉備真備


吉備真備は、旧姓下道氏という地方豪族を祖先にする学者でした。現在の岡山県倉敷市辺りに生まれ、氏族としての身分は高いものではなく、朝廷で官位を得られる家柄ではありませんでした。

しかし、717年に遣唐使として唐への留学生として抜擢されます。21歳でした。唐の学校に関する法令では、14歳から19歳までが正規の学校への入学基準となっていたことから、苦学を強いられたのではないかと考えられています。しかし18年に及び、唐で音楽、兵学、天文学など、いろいろな学問を学び、唐でも知識人として名を上げたと云われています。

735年に帰国した際は、唐から持ち帰った多くの書物や弓矢などの武器を、朝廷に献上します。これにより真備は従八位下から十階級昇進し、正六位下が与えられました。さらに737年には従五位下、同年12月には中宮職の官人となり、従五位上へと、当時では尋常でない速さで出世していきました。

738年、右大臣となった橘諸兄により政権運営で重用されるようになります。遣唐使として唐に渡り、最新の知識を持っていたからでした。

藤原広嗣は、どこの馬の骨かわからないような吉備真備が、自分達を差し置いて政権で活躍していることに不満を抱きました。藤原広嗣の乱が起こるまでに何かを行ったわけでなく、出自の身分の低さから逆恨みを買ったのかもしれません。

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・大野東人

大野東人は、飛鳥時代末期から奈良時代の武人でした。生誕は不明ですが、714年には新羅使の入京を迎え入れる役割をしており、藤原四子と世代的には変わらないのではないかと推察できます。

聖武天皇が即位したのち、724年2月に従五位上が与えられ、同年3月に蝦夷で起こった反乱鎮圧に進軍します。この遠征軍には大将軍として藤原宇合が任じられ、大野東人は副将軍として出陣しました。

その後、蝦夷開拓などの役割を担い、739年に参議に任じられ公卿になりました。

藤原広嗣が反乱を起こした際、持節大将軍として討伐を命じられました。過去に副将軍として仕え、ともに蝦夷の反乱討伐で戦った藤原宇合の子である広嗣を、今度は自身が大将軍となり討伐に出向いたことで、過去の上司の子ども広嗣と綱手兄弟を処刑しなければならない因縁の関係になってしまったのです。

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藤原広嗣の祟りと慰霊


出典:ふらっと太宰府

藤原広嗣が処刑された3年後、朝廷では藤原武智麻呂の子である藤原仲麻呂が参議に任じられ、役人の査定や人選を行う式部卿となっていました。人事を担当する官僚だったことで、左大臣に上り詰めていた橘諸兄の勢力を削ぎ落し、藤原仲麻呂の派閥を形成する大幅な人事を行いました。

745年には、橘諸兄の側近であった玄昉が筑紫観世音寺別当に左遷されました。この際、国から与えられていた報酬としての土地は没収され、朝廷官職としての僧正の地位もはく奪され、朝廷から追い出される形での左遷でした。また吉備真備も、749年に筑前国の国司、その翌年には広嗣が処刑された肥前国の国司に左遷されました。

玄昉は、左遷された翌746年に筑紫観世音寺にて没しました。玄昉が左遷されてすぐに、広嗣ゆかりの地である筑紫で没したことで、都では、広嗣の怨霊の仕業だとうわさされました。

聖武天皇は広嗣の怨霊を恐れ、吉備真備に、広嗣を処刑した地に広嗣の怨霊を鎮めるための神社を創る勅を出し、また平城京の都に住む人々の不安も払うために、平城京にも広嗣を祀る神社を創建しました。

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・鏡神社

吉備真備は、聖武天皇から藤原広嗣の怨霊を鎮めるための神社創建の勅を受け取ると、当時松浦国の総社として尊崇されていた松浦宮(現在の鏡神社(佐賀県唐津市鏡))に、広嗣を祀るための二ノ宮を創建しました。ここでの二ノ宮とは、鏡神社の2柱目の神を祀る宮という意味です。

鏡神社の由緒は、第14代仲哀天皇の時代までさかのぼります。仲哀天皇妃であった神功皇后が、仲哀天皇の死後、三韓征伐で新羅に出陣する前に、鏡山で戦勝祈願を行いましたが、その場所では、神功皇后が旅立った後に、夜な夜な霊光が現れるようになりました。
この話を皇后が凱旋した際に聴き、祖神がわが軍を護ってくれたと喜ばれ、「ここに御鏡を捧げ、自身の生霊がこの地を鎮めよう」と祀られたのが鏡神社です。

このような由緒のある鏡神社の二ノ宮として広嗣は祀られたのでした。

・南都鏡神社

広嗣の祟りを恐れたのは、平城京に住む人たちも同じでした。平城京の人々は、玄昉が祟り殺された噂から、都でも怨霊が暴れるのではないかという不安を抱えていました。

そんな人々の不安を鎮めるため、聖武天皇は広嗣を祀り供養する神社を創建する勅を出しました。

玄昉の弟子である報恩は、736年に聖武天皇が勅願し玄昉が創建した清水寺(現在の福智院:奈良市福智院町)に、広嗣を祀った肥前国松浦の鏡神社から広嗣の分霊を迎えいれ、鏡神社を勧請しました。

そこから約50年後の806年、光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈るために創建した新薬師寺隣にあった広嗣の屋敷跡に、新薬師寺の鎮守社として南都鏡神社は移設され広嗣は屋敷跡で祀られるようになりました。

現在の本殿は、1746年の春日大社第46次式年遷宮の造営時、春日大社の旧本殿第三殿を譲り受けた建物で、『春日移しの社』と云われています。
春日大社の社紋であり藤原家の家紋である『下り藤』が壁に残されています。移築から約280年経った今でも、当時に近い姿を残している価値のある建物で、1982年3月1日に奈良市指定文化財に指定されました。

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・玄昉の墓

玄昉の墓は、観世音寺の北西にあります。観世音寺に左遷された玄昉は、恐らくその地で一生を終えたのでしょう。一方で九州に左遷されて間もなく死んでしまったこともあり、玄昉は広嗣に祟り殺されたという伝説が生まれます。それはこの地や奈良にも残っているのです。

【祟り殺された玄昉の伝説】
玄昉は大宰府にあった観世音寺の別当として左遷され、観世音寺の僧をまとめる導師となっていました。あるとき、突然空一面に暗雲が立ち込め真っ暗になったかと思うと、雷が鳴り始めました。そのような中、緋色の衣に冠をつけた広嗣の霊が現れ、玄昉は掴まれてそのまま空高くに連れ去られてしまいました。

玄昉は、空中で広嗣の霊に身体をバラバラにされてしまいました。地上の弟子たちは驚き、空を見上げていました。すると弟子たちのもとに、空からバラバラになった玄昉の手足や胴体が落ちてきたのです。弟子たちは慌てて拾い集め、葬ったのだそう。それが今に残る玄昉の墓と云われています。

出典:太宰府市文化ふれあい館

【奈良の頭塔(ずとう)にまつわる伝説】
奈良にある頭塔でも、同様の伝説になっています。玄昉は、筑紫の観世音寺で読経中、暗雲が空一面を覆いました。玄昉は雲から伸びた手に掴み上げられ、奈良の都まで飛ばされ、興福寺近くに投げ落とされました。体はバラバラになり、頭は現在の高畑町に落ちてきたと云われています。

その頭を埋め、玄昉を供養するために作られたのが、頭塔だと伝わっているのです。

出典:奈良県

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