弓削道鏡.出自から宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)で日本三悪人にされ、失脚まで
奈良時代末、仏僧でありながら、一時は臣下・宗教界における最高権力者である太政大臣禅師・法王にまで上り詰めた弓削道鏡(ゆげのどうきょう)。 ...
奈良時代末、仏僧でありながら、一時は臣下・宗教界における最高権力者である太政大臣禅師・法王にまで上り詰めた弓削道鏡(ゆげのどうきょう)。 ...
壬申の乱に勝利した天武天皇は、自身の皇子たちに同じ思いをさせないよう親から子への皇位継承方針を定め、壁皇子を選ぶと、それ以外の皇子には草壁皇子に協力し、お互い助け合って争わないよう誓いを立てさせました。しかし、草壁皇子は天武天皇崩御後の喪中に薨去したため、天武天皇の皇后であった鸕野讚良は、草壁皇子の子である軽皇子へ皇位継承させるため、自らが軽皇子への橋渡しのために天皇に即位。皇子は持統天皇から譲位を受け文武天皇として即位するものの慶雲4年6月15日、25歳で崩御します。文武天皇の皇位継承予定者であった首皇子は、まだ7歳で即位させるには無理な年齢でした。即位の適齢期まで文武天皇の生母であり草壁皇子の正妃であった阿閇皇女が、姉の持統天皇に倣い、橋渡しの即位。これにより慶雲4年7月17日、第43代元明天皇が誕生し、第44代元正天皇が譲位する養老8年2月4日までの約17年間、二代二人の女帝による聖武天皇への橋渡しが行われました。
奈良時代は、710年の第43代元明天皇による平城京への遷都から始まり、794年に第50代桓武天皇が平安京に遷都するまでの84年間を指します。
橘奈良麻呂の乱(橘奈良麻呂の変)とは、756年に橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼし孝謙天皇を退位させて新たに別の皇族から天皇を立てようとした反乱をいいます。計画段階で情報が漏洩したことで実行できなかったクーデター未遂事件でした。クーデターは実現しなかったものの多くの皇族や貴族が処罰を受けることとなり、獄死や遠流、官職を外されるといった朝廷に大きな影響をもたらせた事件でした。この事件の背景にあったのは、橘奈良麻呂が抱いた聖武天皇から譲位を受け即位した孝謙天皇や光明皇太后を後ろ盾として台頭する藤原仲麻呂への危機感でした。命を狙われた藤原仲麻呂にとっては権力掌握の面で有利に働いた事件となったのでした。
奈良時代中期、橘諸兄政権のブレインの一役を担った玄昉(げんぼう)。遣唐使に随行し、唐で20年に渡り、7世紀初めに生まれたインド思想がもとになった仏教宗派の法相(ほっそう)を学んだ僧でした。735年に唐から帰国する際に多くの書物や仏像などを持ち帰りました。唐での活躍や貴重なものを持ち帰ったことで、奈良時代の封禄制度下で高級貴族にのみ与えられた特別給与にあたる封戸(ふこ)を、僧の立場で与えられるほどでした。737年、玄昉は聖武天皇の母である藤原宮子の病気を回復させるために、内裏(皇居)に仏像を安置し、仏教行事を行う建物である内道場に入りました。宮子の寝所で祈祷を行うことで、宮子の病状は回復し、これまで対面することができなかった聖武天皇との対面も実現させました。それを評価され、玄昉は僧官職の上級職の僧正(そうじょう)に任じられます。そして母を回復させたことで、聖武天皇からも寵愛されるようになり、政治にも口出しするようになりました。同年、国内に蔓延した天然痘により、当時の政治を担っていた藤原四子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)をはじめ、ほとんどの公卿が病没します。生き残った橘諸兄は、太政官の立て直しのため聖武天皇により大納言に、翌年には右大臣に任じられます。この橘諸兄政権において、玄昉は吉備真備(きびまきび)とともに側近として重用されました。ともに唐に遣唐使として留学した実績を持ち能力も高かったことや、聖武天皇や光明皇后など、皇族からの寵愛を受けていたためでした。僧として異例の出世をした玄昉でしたが、宮中での男女の色恋にまつわる噂があったと云われています。その相手と云われるのが、聖武天皇の母である藤原宮子と皇后の光明皇后でした。
藤原広嗣の乱とは、740年に藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)が九州で挙兵した内乱をいいます。わずか2ヶ月で鎮圧された乱でしたが、壬申の乱以降の朝廷内で起こったはじめての反乱となる事件でした。その背景には、藤原不比等が築いた藤原氏の権力や地位が、天然痘の蔓延による不比等の子どもたちの病没により、大きく崩れ変容していったことがあげられます。孫である藤原広嗣はその変化の中に置かれた藤原氏の一人として、橘諸兄政権に抗い、そして滅ぼされてしまったのです。
第45代聖武天皇(しょうむてんのう。701年~756年、在位724年~749年)といえば、東大寺の建立や奈良の大仏(盧舎那仏(るしゃなぶつ))を造仏した天皇として認識されている方は多いと思います。ですが、なぜ仏教に傾倒したかについては知らない方も多いと思います。聖武天皇は即位後から、様々な問題や天災に襲われます。臣民(しんみん)を多く亡くし、自身の不徳の限りだと心を痛め、次第に仏教を深く信仰するようになり、政治に仏教を取り込んでいきました。また娘の阿倍内親王(あべないしんのう)に天皇を譲位し、男性天皇で初の太上天皇(だいじょうてんのう。譲位した天皇)になり、譲位前後に出家し、入道となり、仏教を信仰しつつ、第46代孝謙天皇(こうけんてんのう。718年~770年、在位749年~758年)の補佐を行い、生涯を閉じました。
奈良時代の初頭、藤原不比等の四人の子どもたち(藤原四子:武智麻呂、房前、宇合、麻呂)と反藤原氏勢力であった皇族の長屋王との間で対立が深刻化し、藤原四子の謀略により長屋王は自害に追い込まれました。この出来事を長屋王の変といいます。この事件のきっかけは、天智天皇が崩御する際の皇位継承までさかのぼります。
飛鳥時代の主な出来事は、・三頭政治による天皇を中心とした国造り・乙巳の変による蘇我氏の排除・大化の改新による律令制度の確立・白村江の戦いによる敗戦・壬申の乱における皇位継承トラブルと律令国家の成立・藤原京への遷都や貨幣の導入
広隆寺は、京都市右京区太秦蜂岡町にある真言宗系単立の寺院です。インターネットなどでは真言宗御室派本山、御室派の大本山というような、御室派との関わりが書かれた情報が散見されますが、これは広隆寺が平成初期まで御室派に所属しその後脱退しているのですが、当時の情報をそのまま掲載しているためです。現在は御室派をはじめ各派には所属しない単立という立場の真言宗寺院です。山号は蜂岡山で、広隆寺という呼び名の他、蜂岡寺、秦公寺、太秦寺、葛野寺などとも呼ばれており、地名を冠した太秦広隆寺とも呼ばれています。渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した京都最古の古刹で、国宝の弥勒菩薩半跏像をはじめ、数多くの国宝や重要文化財が残る寺院で知られています。本尊は聖徳太子像であり、聖徳太子信仰の寺でもあります。