石見銀山遺跡とその文化的景観 日本の世界遺産

Table of Contents

世界遺産_石見銀山遺跡とその文化的景観

1.登録基準

石見銀山(いわみぎんざん)は世界遺産リストに「石見銀山遺跡とその文化的景観」という名前で登録されています。

世界遺産リストに登録されるためには、「世界遺産条約履行のための作業指針」に示される登録基準の内、少なくとも1つ以上の基準に合致する必要があります。

石見銀山は登録基準ⅱ、ⅲ、ⅴを満たし、世界遺産リストに登録されました。

基準 ⅱ.(人類の価値観の交流があったことを示すもの)の適用について

16〜17世紀初旬の間、石見銀山で生産された大量の銀により、日本とその取引相手である東アジア、ヨーロッパの間では多大な商業的・文化的交流がなされました。
この点が登録基準ⅱ.に該当するとして評価されました。

基準 ⅲ. (文化や文明を証明する珍しい証拠となるもの) の適用について

石見銀山は日本の小規模な労働集約経営の進化を示すものです。日本では鎖国をしていたため、産業革命で発展した欧州の銀採掘技術導入が遅れました。そのため石見銀山は外部の技術が入ることなく独自の進化を遂げます。そして外部技術が導入されることのないまま、銀が枯渇し閉山したため、その地域の伝統技術の足跡をよく残しています。
この点が登録基準ⅲ.に該当するとして評価されました。

基準 ⅴ. (ある文化を代表する集落や土地利用の見本となるもの) の適用について

採掘から精錬に至る鉱山の遺跡、街道、港などの銀鉱山経営に関わる豊富な足跡は、現在は多くが山林に覆われてしまっています。その結果、それらの豊富な足跡は「残存する景観」として、その中で暮らす人々の集落などは「継続する景観」として存在し、優れた文化的景観を有しています。
この点が登録基準ⅴ.に該当するとして評価されました。

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2.遺産価値総論

石見銀山の遺産価値は「鉱山開発の歴史が詰まった文化的景観」です。

ポイントに分けて説明します。

(1)世界との交流の証

石見銀山遺跡は16~17世紀において大量の銀を産み出しました。その銀は東アジアや欧州との交易に用いられ、日本国内だけでなく貿易国との多くの経済的、文化的交流をもたらしました。

例えば中国に対しては銀を輸出し、生糸・絹織物・陶磁器などの高度な手工業製品を輸入するという交流、欧州に対してはキリスト教などの新しい文化の交流が生まれました。

(2)伝統的技術の証拠

石見銀山は16世紀に朝鮮から伝わった伝統技術である灰吹法(はいふきほう)の手法を中心として銀を産出していました。その手法は他国との交流を制限していた日本国内で独自の進化を遂げ、大量の銀産出に繋がりました。

こういった産業革命以前の伝統技術で大量生産を実現しただけでなく、その様子が現代にまで良好に残る遺跡はとても貴重なものです。

(3)優れた文化的景観

石見銀山は優れた文化的景観を有する遺産です。文化的景観とは人間と自然との相互作用によって生み出された景観を言います。世界遺産では1992年に「世界遺産条約履行のための作業指針」の中に、文化的景観の概念が盛り込まれています。

この文化的景観の中には、既に停止した土地利用の総体を示す「残存する景観(relict landscape)」と、現在も行われている土地利用の総体を示す「継続する景観(continuing landscape)」が存在します。石見銀山遺跡にはこの両方の文化的景観が存在しており、文化的景観として優れた価値を持っています。

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3.歴史

石見銀山は16世紀に発見されてから約100年で大きく発展しました。

その歴史を以下に紹介いたします。

(1)1526年 石見銀山発見

石見銀山は1526年に博多の豪商・神屋寿禎(かみやじゅてい)によって開発されました。神谷寿禎は石見地方を守護する戦国大名・大内(おおうち)氏の保護の下に活躍した豪商で、中国貿易とも深い関わりを持つ人物です。

寿禎は中国・朝鮮への主要な輸出品であった銅を入手するために石見地方の東隣に当たる出雲地方に向けて日本海の沿岸を航行していた際に、南の山に霊光を発見して銀山の存在を知ったとされています。

(2)1533年 灰吹法伝来

1533年に神屋寿禎は朝鮮から伝来したとされる灰吹法の技術を持った技術者を石見銀山に送ります。それにより現地で銀精錬を行うようになった結果、銀の生産量は飛躍的に増大しました。

1530年代後半には、それまで年間16kgであった大内氏への献上銀が80kgへ増加したとされています。

(3)1550~1560年代 内乱時代

1550年代、内紛によって石見地方を支配していた大内氏が滅亡します。その後、出雲(いずも)地方を本拠地とする戦国大名・尼子(あまご)氏が一時、石見銀山を支配します。

しかし、最終的には1562年に安芸(あき)地方の戦国大名・毛利(もうり)氏が石見地方を軍事的に制圧し、その支配権を確立しました。

(4)1560年以降 温泉津(ゆのつ)、沖泊(おきどまり)の発展

石見地方の制圧後、毛利氏は石見銀山の西約9kmの位置にある港・温泉津や沖泊も支配下に置きます。その後、銀山から温泉津・沖泊までの街道が整備され、銀の搬出だけではなく銀山で必要な物資の搬入も行われるようになりました。

その結果、温泉津は宿泊施設や商業施設を含む繁華な町に発展し、沖泊はそれまでの鞆ヶ浦(ともがうら)港に代わって石見銀山の銀の搬出港となります。また、1570年には沖泊港南側の岬の先端に銀山の物資搬出入を守るための城も建設されました。

(5)1600年以降 江戸幕府の経営

1600年、徳川家康が天下を統一すると、石見銀山の支配権は豊臣氏の配下であった毛利氏から徳川家(江戸幕府)へと移りました。家康は鉱山支配に有能な大久保長安(おおくぼながやす)を石見銀山の支配に当たらせました。この頃開発されたのが、間歩(まぶ)と呼ばれる小規模な坑道で、大久保間歩、釜屋(かまや)間歩、本(ほん)間歩などは銀を盛んに産出しました。

また、江戸幕府になってから新しい経営方法も導入されました。従来は山師による民間単独資本による経営でしたが、奉行所から公的資本が投入されるという経営方法が加えられました。新しい経営方法によって生産量は増加し、1600~1602年頃には山師の安原伝兵衛(やすはらでんべえ)という人物が年間13,500kgもの上納を一人で行いました。

(6)17世紀 銀山の繁栄

徳川家康が天下統一し、17世紀になると石見銀山周辺地域はますます栄えることとなります。人口は数万人にも達したとされ、温泉津は多くの人口の消費と生産を支える重要な港町としての役割を果たしていました。

17世初めにはオランダ人・イギリス人が日本に来航し、対外貿易が盛んになります。また、国内においては戦乱が終息し経済が活況になることで銀の需要が増大しました。その結果、1620~1640年代頃、石見銀山の銀生産は最盛期を迎えます。

17世紀の中頃には銀山繁栄に伴い、銀山柵内(ぎんざんさくのうち)の東側にある大森地区の建設も始まりました。

(7)17世紀 銀山の衰退

石見銀山の銀の生産量は1620~1640年代頃を最盛期として、その後は減少に向かいます。17世紀後半には年間平均1,000〜2,000kgの銀生産を維持していましたが、19世紀半ばには100kg台にまで減少してしまいます。

1896年に江戸幕府が倒れると石見銀山は個人経営者へと払い下げられることとなりました。その後、銅の精錬なども行われますが、1923年に休山となりました。

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4.構成資産の概要

石見銀山の構成資産は下記の3分野14資産です。

(1)銀鉱山跡と鉱山町

①銀山柵内(ぎんざんさくのうち)

銀山柵内は面積320haの銀鉱山跡です。銀山柵内には16世紀~20世紀までの坑道や製錬及び精錬の作業場兼住宅地などの生産・生活に関わる遺跡、城や役所といった支配に関わる遺跡、寺社や石塔などの信仰に関する遺跡などが良好に保存されています。

それぞれの分野に関して、以下に記述いたします。

ⅰ)銀生産・生活

銀山柵内では採掘から選鉱・製錬・精錬に至る銀生産の諸作業が一貫して行われていました。(製錬:鉱石から金属を取り出すこと、精錬:金属から不純物を取り除き純度を高めること。)この場所には現在までに600ヵ所以上もの採掘の跡が発見されています。採掘の跡は地表面に残る露天掘りの跡と鉱脈を地中に掘り進んだ坑道掘りの2種類に大別できます。坑道掘りの代表的なものには、仙ノ山南側の大久保間歩や釜屋間歩、北麓の龍源寺(りゅうげんじ)間歩などがあります。

銀山柵内には山のあちこちに人為的に削平された大小の平坦部が1000ヵ所以上も存在します。これらの平坦地には石垣や排水路跡などと合わせて採掘の痕跡があります。また陶磁器・櫛・下駄・キセルなど多量の生活遺物も出土しており、居住区と作業場が一体化していたことがわかります。

石見銀山ではこのような小単位での銀の生産が多数の場所で行われることで大量の銀生産が行われていました。

ⅱ)支配

支配に関する要素には、山城跡・役所跡・柵列跡・番所跡があります。
支配に関する要素というのは、支配するのに当たって必要な施設という意味です。

山城:石見銀山を支配下に置くために建設された軍事施設
(管理下に置いている場所を防衛するための施設)

役所:石見銀山を支配するために必要な情報などを管理する施設
(政務を行うための施設)

柵列:支配している地域を明確にするためのもの

番所:支配している地域への人・物の出入りを管理するための施設

石見銀山発見から17世紀初頭までは支配の拠点は要害山(ようがいさん)の山吹城(やまぶきじょう)でした。17世紀中頃に大森地区が増設されると、支配の拠点はそちらに移ります。

17世紀に入ると日本国内の鉱山は政治的に厳重な管理下に置かれます。石見銀山でも周囲8kmに渡り木柵が巡らされたほか、その要所である出入り口には番所が設けられました。

ⅲ)信仰

信仰に関する要素には神社・寺院・小祠(しょうし)などがあります。これらは銀山の繁栄を祈願して建立されたものと窺うことができます。現在、銀山柵内には寺院又は寺院跡が約70ヵ所、これらに付属する墓地又は単独の墓地が計6000以上、神社は4ヵ所に存在します。

その中でも佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)は鉱山の神を祀る神社として1434年に創建されたとされ、銀山支配者や鉱山労働者からの崇敬を集めていました。この神社は鉱山神を祀る神社としては国内最大級の社殿を誇ります。

②代官所跡(だいかんしょあと)

代官所跡は大森地区の北東側に位置する江戸時代の役所跡です。ここには17世紀から19世紀半ばまで江戸幕府が石見銀山を支配するための代官を派遣していた場所です。現在は「石見銀山資料館」となっており、石見銀山に関する調査研究、資料の保存管理、公開展示などがされています。

③矢滝城跡(やたきじょうあと)

矢滝城跡は銀山柵内から南西2.5kmに位置する16世紀の山城跡です。北側に存在していた矢筈城(やはずじょう)とともに石見銀山西方の出入り口を防備する役割を果たしていました。標高638mの眺望のきく山頂部に建てられ、平坦地や空濠が設けられていましたが、このような城の構造は日本の中世における山城の特徴をよく表しています。

④矢筈城跡(やはずじょうあと)

矢筈城跡は矢滝城跡と同様に銀山柵内の西方2.5kmに位置する16世紀の山城跡です。1556年の製作と推定されており、矢筈城をはじめとする周辺の3ヶ所の城において銀山支配を巡る戦国大名の攻防があったとされています。矢滝城と同様、山頂部を利用し平坦地や空濠が設けられている日本の山城の特徴をよく示す城跡となっています。

⑤石見城跡(いわみじょうあと)

銀山柵内の北北西約5kmに位置する16世紀の山城跡で、銀山北側の守備のための重要拠点でした。矢滝城や矢筈城と同様、山頂部を利用し平坦地、空濠も良好に残る城跡です。

⑥大森・銀山(おおもり・ぎんざん)

大森・銀山は鉱山に隣接して銀山川沿いの谷間に発展した鉱山町で、南北約2.8kmにわたって伝統的な木造建築でできた集落が展開しています。江戸時代の「銀山町」と「大森町」という行政区分を踏襲した、南側の「銀山地区」と北側の「大森地区」に別れています。石見銀山開発後、銀山地区の方から居住区が形成され、17世紀に入ると次第に大森地区の建設が進み、その比重が大きくなっていきました。

⑦宮ノ前(みやのまえ)

宮ノ前は大森・銀山の北東端にある銀精錬施設の遺跡です。発掘調査により16世紀末~17世紀初頭の遺跡であると考えられています。この作業場は精錬専用施設であり、産出銀の品位を高めるための作業場であったと考えられています。

⑧熊谷家住宅(くまがいけじゅうたく)

熊谷家住宅は代官所跡から南西約50mに位置する、大森・銀山の街路に面して建つ建築物の中で最大の町家建築です。熊谷家は遅くとも17世紀には銀山柵内に住み、銀山の経営を行っていたとされる商家です。18世紀初頭に現在地に移住し、大森・銀山の中で最も有力とされた商家の一つでした。1800年の大火により焼失しましたが、その後再建されました。19世紀における石見銀山の有力商人の生活の様子を良好に示す町家建築です。

⑨羅漢寺五百羅漢(らかんじごひゃくらかん)

羅漢寺五百羅漢は大森地区内の銀山地区に近い地域にある信仰関連施設です。岩盤の斜面に3ヶ所の石窟が穿たれ、中央窟に石造三尊仏(さんぞんぶつ)、左右両窟に250体ずつの石造羅漢坐像(らかんざぞう)を安置しています。仏教の興隆と領内の安寧を祈願して造営され、1766年に完成しました。500体の羅漢像は一つとして同じものがなく、この石造物群は石見銀山における石工の技術をよく表す遺産です。

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(2)鉱山と港をつなぐ街道

⑩石見銀山街道鞆ヶ浦道(いわみぎんざんかいどうともがうらどう)

鞆ヶ浦道は16世紀の前半に、銀山柵内から当時銀の積出港であった鞆ヶ浦を結んでいた街道です。全長は約7.5km、道幅は0.6~2.4mと狭く、起伏の多い道でした。通行を容易にするための道普請の跡や、安全祈願のために沿道に建てられた石塔・小祠・小堂などが残っています。

⑪石見銀山街道温泉津・沖泊道(いわみぎんざんかいどうゆのつ・おきどまりどう)

温泉津・沖泊道は16世紀後半に鉱山と当時の石見銀山の外港と位置付けられた温泉津・沖泊を結んだ街道です。全長約12km、道幅は0.8~3.3m、鞆ヶ浦道と比べて、比較的なだらかな街道となっています。

街道には安全祈願のための石塔・石仏をはじめ、石材が切り出された石切場の跡などが残っています。中継地として賑わった西田で温泉津と沖泊に別れています。

(3)銀を積み出した港と港町

⑫鞆ヶ浦(ともがうら)

鞆ヶ浦は銀山柵内から北西約6kmの日本海沿岸に位置する港です。石見銀山開発初期の16世紀前半に銀を積み出すために利用されていた港です。鞆ヶ浦は幅34m、奥行き約140mの入り江で湾の開口部に波除となる小島が2つ位置しています。

入り江の南岸には岩盤を削り出して作られた船舶の係留装置や、湾の奥には銀を船へ積みだした砂浜が残っています。またそこから南西に向かって伸びる狭隘な谷間に約20軒の木造家屋が立ち並んでいます。

集落内には銀鉱石を一時的に貯槽していた場所、港への出入りを管理していた施設の跡、船舶への給水施設であった井戸などが残り、港湾集落の様子がよく保存されています。

⑬沖泊(おきどまり)

沖泊は銀山柵内から西方約9kmに位置する港です。戦国大名・毛利氏が16世紀後半に銀を積み出す拠点としており、石見銀山への物資の補給地や毛利水軍の基地としても機能した港です。湾は奥行480m、幅40mと深く湾入しています。

湾の南岸に当たる丘陵の先端部には1570年に毛利氏が築いた城跡があります。この城は沖泊だけでなく、温泉津港も守備する機能を果たしました。

鞆ヶ浦港と同じく、16世紀における港湾と集落の土地利用の形態が良く残されています。

⑭温泉津(ゆのつ)

温泉津は沖泊に隣接し、日本海のリアス式海岸に面する港町で、16世紀後半の石見銀山の消費と生産を支え、銀山および周辺地域の支配における政治的中心地として重要な役割を果たしていました。また、温泉のある町としても古くから知られ、著名な戦国大名や代官など多くの旅人が逗留する場所でもありました。

温泉津は谷から東へと向かう谷地形に沿って主軸の街路が伸びています。狭い地形を克服するために、家屋の背面に迫る傾斜地の岩盤を削って敷地を確保しており、町並みの背後に岩盤が露出する温泉津の特徴的な景観を形作っています。

現在の温泉津には19世紀以前から20世紀のものまで幅広い建造物群が見られ、それらは各時代の特徴を表す木造建築となっています。それにより温泉津は歴史の重層性をよく表しています。

【参考書籍】

すべてがわかる世界遺産大辞典(上)(世界遺産検定事務局)

【参考HP】

UNESCO World Heritage centre

世界遺産一覧表記載推薦提案書(文化庁)

島根県 石見銀山の歴史

日本の世界遺産 石見銀山とその文化的景観

文化遺産オンライン

文化庁 文化的景観

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