お寺一覧

京都太秦に残る京都最古の寺院『広隆寺』の歴史、伽藍、仏像(弥勒菩薩像、聖徳太子像、半跏思惟像)など見どころご紹介

広隆寺は、京都市右京区太秦蜂岡町にある真言宗系単立の寺院です。インターネットなどでは真言宗御室派本山、御室派の大本山というような、御室派との関わりが書かれた情報が散見されますが、これは広隆寺が平成初期まで御室派に所属しその後脱退しているのですが、当時の情報をそのまま掲載しているためです。現在は御室派をはじめ各派には所属しない単立という立場の真言宗寺院です。山号は蜂岡山で、広隆寺という呼び名の他、蜂岡寺、秦公寺、太秦寺、葛野寺などとも呼ばれており、地名を冠した太秦広隆寺とも呼ばれています。渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した京都最古の古刹で、国宝の弥勒菩薩半跏像をはじめ、数多くの国宝や重要文化財が残る寺院で知られています。本尊は聖徳太子像であり、聖徳太子信仰の寺でもあります。

中宮寺(聖徳宗)の歴史、伽藍、半跏思惟像、天寿国繍帳など見どころ紹介

中宮寺(ちゅうぐうじ)は奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳太子建立七寺の1つで、16世紀末頃、法隆寺東院伽藍に隣接する場所に移設され現在に至ります。聖徳太子の住んでいた斑鳩宮と東側にあった岡本宮との中間辺りにあったことから中宮と呼ばれ、そのゆえんから中宮寺(中宮尼寺)と呼ばれるようになりました。創建期から法相宗、鎌倉時代から太平洋戦争終結後までは真言宗、その後は法隆寺が総本山である聖徳宗に属しています。中宮寺跡の発掘調査で、尼寺である向原寺(桜井尼寺)と同じ系統の瓦が出土していることから、創建時から中宮寺が尼寺であったことを出土物が立証しており、創建時代から法隆寺に対なす尼寺だったことが確認されています。また、皇族の女性が住職として入寺する門跡寺院であり、圓照寺・法華寺とともに大和三尼門跡に数えられている寺院でもあります。ここでは、聖徳太子ゆかりの寺であり、国宝が複数点残る中宮寺について紹介します。

法起寺(ほうきじ)の歴史、伽藍配置、三重塔、コスモスなど見どころご紹介

法起寺は奈良県生駒郡斑鳩町岡本にある聖徳宗の寺院です。法隆寺の近くにありますが、堂宇もいくつかのものが残るのみとなっており、法隆寺と比べても規模の小さな古刹として現在に残っています。山号は岡本山であり、名前も岡本寺や池後寺とも古くから呼ばれてきました。聖徳太子による建立という伝承がある七つの寺を指す『聖徳太子建立七大寺(しょうとくたいしこんりゅうしちだいじ)』の一つとして数えられていますが、寺が完成したのは聖徳太子が亡くなってから数十年も経った後のことで、太子の遺言により子どもの山背大兄王が発願したとされています。ユネスコの世界遺産に法隆寺を申請するにあたり、「法隆寺地域の仏教建造物」として法起寺も該当の建造物として申請。この世界遺産への登録にあたり、読み方を法隆寺と一貫性を持たせたいという理由から、それまでの『ほっきじ』から『ほうきじ』へと正式な呼び名を変更しました。ただ地域住民をはじめ、法起寺関係の人々は20世紀末頃までは「ほっきじ」と呼んでいたことから、これまでの呼び方の親しみからも、「ほうきじ」ではなく「ほっきじ」と呼ぶ方が多くいます。この法起寺の最大の見どころは、日本最古の三重塔として現存する国宝指定の三重塔です。また秋になると、法起寺周辺にはコスモスが咲き誇り、三重塔と合わせた風景は格別のものです。ここでは、日本最古の三重塔がシンボルとなる法起寺にまつわる歴史と、現存する伽藍の詳細について紹介します。

四天王寺(和宗総本山)の歴史 開基、創建、伽藍配置、金堂、講堂、五重塔、中門など伽藍紹介

大阪府大阪市天王寺区にある四天王寺は、聖徳太子建立七大寺の一つであり、法隆寺と同様に聖徳太子が開基である寺の一つになります。日本仏法史上最初に官寺(かんじ)として創建され、本格的な仏教寺院としては最も古い歴史があり、法興寺や法隆寺などとともに最古の古刹に数えられています。当時の朝廷が置かれていた飛鳥ではなく、難波津(なにわのつ)に創建され、約1400年に渡り幾度となく自然災害や戦災に見舞われ、そのたびに再建されてきた歴史を持ちます。ここでは、四天王寺の創建から現在に至る歴史、地理的背景、現存する伽藍の詳細などについて紹介します。

日本の建築の歴史 、仏教・神社・住宅・城郭・庭園の建築様式

日本の建築に大きな影響を与えたのが古代に伝来した仏教です。仏教建築の影響を受けつつ、在来の技術を発展させたのが神社建築でした。また、時の有力者である貴族や武士も、寝殿造りや書院造り、数寄屋造りといった独特の住居に住みました。さらに、邸宅とともに発展したのが庭園です。日本庭園は寝殿造りの庭園に始まり、浄土式庭園や池泉回遊式庭園へと発展し、禅宗の影響により借景庭園や枯山水の庭も盛んに作られました。

聖徳太子生誕の地 橘寺の歴史 開基、創建、伽藍配置、本堂(太子堂)、観音堂、聖倉殿、往生院、五重塔跡塔礎石、二面石、蓮華塚、三光石、阿字池、黒駒の銅像、御朱印など

橘寺は奈良県高市郡明日香村橘にある飛鳥時代から歴史を紡ぐ古刹の一つです。現在は天台宗の比叡山延暦寺の直末で、正式には仏頭山上宮皇院菩提寺といい、別名で橘樹寺・橘尼寺とも呼ばれています。尼寺とあるように、当初は尼が住んだ寺でした。明日香村は、飛鳥時代に都がおかれ、日本初の律令国家体制が築かれたところです。渡来人がもたらした高い文化が栄え、日本の仏教が興隆したところでもあり、当時の史跡が数多く発掘されています。なお、橘という名の由来は、『日本書紀』にあります。第11代垂仁天皇が田道間守に命じて、常世の国と呼ばれる海のはるか彼方の理想郷にある不老不死の薬・非時香菓を探させました。田道間守は、10年もの間探し求めた末、ようやく非時香菓の実を得て帰国します。しかし、天皇はすでに1年前に亡くなっており、田道間守は嘆き悲しんで、天皇のお墓のそばで自害してしまいます。第12代景行天皇が田道間守の遺徳を忍んでこの実を植えるとミカンの原種である橘が芽を出したので、植えた土地一帯を橘と呼ぶようになりました。橘の木は今も橘寺の境内のいたるところに植えられ、毎年5月3日には「橘祭」が行われています。なお橘寺は、時間によって花の色が変わる酔芙蓉の名所としても知られています。

山田寺 開基と歴史、興福寺との関係、伽藍配置および出土品(奈良県桜井市)

山田寺は奈良県桜井市にある、飛鳥時代の寺院跡地です。創建時の山田寺は現存しておらず、当時の寺院の姿かたちを実際の目で見ることはできません。しかし、山田寺の歴史的価値は高く、現在は国の史跡公園として整備されています。山田寺の開基は蘇我倉山田石川麻呂です。乙巳の変に中大兄皇子と中臣鎌足によって倒された蘇我蝦夷・入鹿と血縁関係にあります。しかし、石川麻呂は蘇我氏本家であった2人をよく思っておらず中大兄皇子に加担しました。

飛鳥寺の歴史、伽藍配置、大仏・仏像(釈迦如来像)、御朱印など

古代の朝廷が都と定め、政治を行う中心地としていた奈良・京都の地には、数多くの古刹が立ち並びます。その中でも、日本において歴史の最も古い古刹が飛鳥寺です。現在は真言宗豊山派に属する寺院で、本元興寺、安居院とも呼ばれています。日本で最初の本格的な仏教寺院として蘇我馬子により創建された蘇我氏の氏寺でもあります。創建当時の伽藍は過去の火事などで焼失し今に残っておらず、現存する伽藍は近代に復旧されたものです。創建当時のもので現存するものとしては、本尊である飛鳥大仏と呼ばれる釈迦如来坐像があり、約1400年経った今でも重要文化財として飛鳥寺に安置されています。ここでは、日本最古の仏教寺院である飛鳥寺にまつわる歴史と、現存する伽藍の詳細について紹介します。

京都五山物語~相国寺の歴史・武家政治と禅寺

萬年山相国承天禅寺、通称「相国寺」は1392年に竣工されました。実は、鎌倉時代後半から室町時代初期に建立された他の寺院に比べると、建立時期が遅く、臨済宗の最高ランク「五山」にノミネートされるには、伝統的にもむずかしいはずです。ではなぜ、相国寺は京都五山の一つであり続けることができたのでしょうか。そこには、室町幕府三代将軍の足利義満が大きくかかわってきます。義満は建立にあたって、相国寺を「五山」に入れることを画策します。しかし、すでに決まっている以上、その実現は難しいと考えられていました。そこで義満は五山の一つである南禅寺を「五山の上」とし、その空いた一枠に相国寺を入れました。建立からわずか数年での「五山」入りは、義満の政治力によって実現されたのでした。

京都五山物語~天龍寺・元祖禅寺の歴史~

世界遺産にも認定され、京都五山の中でも一番長い伝統を持つ天龍寺は、どんな歴史をたどってきたのでしょうか。9世紀前半、仏教に深く帰依していた、当時の皇后橘嘉智子によって、招かれた義空という中国の僧侶がいました。彼は嘉智子の使者からの誘いを何度も断ってきましたが、最終的には来日を決意しました。来日した背景には、「会昌の廃仏」がありました。これは、当時中国を支配していた唐王朝によって行われた、仏教の排斥運動です。これによって中国で発展していた多くの寺院が廃止されました。義空はそれから逃れる形で日本に入ったと言われています。そして、義空が来日したことによって、嘉智子は檀林寺という寺院を今の天龍寺付近に建立いたしました。日本史上初の禅寺です。