京都五山物語~東福寺の歴史~

東福寺の歴史

「京都五山」それは、13世紀から14世紀にかけて禅宗が発展した歴史を色濃く残す五つの寺院です。今回はその一つ「東福寺(とうふくじ)」について紹介し、京都での禅宗発展の歴史を、当時の政治情勢を踏まえながら、知っていきましょう。

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●第一話 国宝・無準師範像~東福寺建立秘話~

京阪電鉄ならびにJR「東福寺」駅より徒歩10分のところに慧日山東福寺(えにちざんとうふくじ)はその門を構えています。多くの国宝と文化財を所有する、まさに「古都」京都の文化が詰まっている一方で、1881年に起こった大火が原因で、建造物のほとんどは近代以降に建てられたものになります。しかし、それでも、禅を基調とする風情が伝わってきます。

多くの国宝の一つに、一人の禅僧の肖像画があります。「無準師範(ぶじゅんしばん)像」と称されるそれは、日本で禅が発展した経緯を象徴するものです。東福寺の建立経緯から見ていきましょう。

そもそも「東福寺」という名前にはどのような由緒があるのでしょうか。実は由緒などありません。奈良最大の寺院である「東大寺(とうだいじ)」と「興福寺(こうふくじ)」からそれぞれ一文字ずつ拝借した結果、その名が誕生したのです。考えたのは、九条道家(くじょうみちいえ)。貴族の名門である藤原家(ふじわらけ)の血を引く、当時京都で最も権力を握っていた人物でした。道家は禅僧として出家するために、東福寺の建立を考えたのでした。

東福寺が建立された地には元々、法性寺(ほっしょうじ)という寺院がありました。925年に創建された天台宗の寺院とされており、時の権力者である藤原忠平(ふじわらのただざね)の発案だと言われており、藤原家にゆかりのある寺院として発展し、道家の祖父である九条兼実(くじょうかねざね)も法性寺で出家しました。幼少期に兼実にいたく可愛がられた道家は、何度も法性寺に足を運んだことがあると思われます。

さて、出家するためには、その指導をおこなう禅僧の存在が不可欠。道家が選んだ禅僧は臨済宗(りんざいしゅう)という宗派の、円爾(えんに)という者でした。臨済宗とは中国発祥の宗派で、はじめて日本に広めたのはかの有名な栄西(えいさい)でした。日本の臨済宗は当初、武士階層を中心に関東や九州で広まりました。円爾も駿河国(現在の静岡県)で生まれ、臨済宗の寺院で禅の修行を行いました。そして、1235年には本場である中国で修行をしました。この時、円爾が弟子入りした禅僧が、上記に紹介した国宝に描かれた、無準師範なのです。

無準師範は、中国・径山寺(きんざんじ)の禅僧でした。その名前にピンときた人もいるかもしれませんが、あの金山寺味噌の由来とも言われています。それくらいこの寺院は日本とゆかりがあるのです。中でも無準師範は、無学祖元(むがくそげん)をはじめ、その弟子の多くを日本に送り出しています。無準師範から禅の真髄を学んだ円爾は帰国後、博多に承天寺(しょうてんじ)を建立、天台宗などの既得権益による迫害もある中で禅の普及に努めました。国宝の肖像画はいわば修行の印可状のようなもので、無準師範自身から円爾に渡されたものでした。

円爾は1243年に道家に迎えられる形で東福寺の住職となりました。建立から円爾の就任まで空白があるので不思議に思われる方も多いかと思います。しかし、建立された時点では、東福寺は天台宗や真言宗を兼ねた寺院だったので問題はありませんでした。名前を奈良仏教の寺院から引用しているくらいなので、道家は宗派にはこだわりを持っていなかったのでしょう。

また、円爾自身も宗派争いにこだわりを持つような人物ではありませんでした、東福寺の住職に就任後、円爾は東大寺など様々な権威ある諸宗派にも指導を行いました。その中には天台宗もありました。総本山の延暦寺の座主(ざす:天台宗の総監)である慈源(じげん)は道家の子であったことから、道家の人脈が活かされたのは言うまでもありません、

禅宗の普及に努めた円爾は1280年に79歳の生涯を閉じます。死後、「聖一国師」の賜号を天皇から与えられました。それは禅僧としては初のことでした。

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●第二話 九条道家~京都に君臨した元祖・太閤さま~

以上が円爾の生涯に関する簡単な紹介ですが、東福寺の歴史は、建立に携わったもう一人の人物、九条道家の生涯をたどることで更に深まります。

1193年に藤原家の本流である九条家に生まれた道家は、若くして朝廷内で出世を重ね、天皇を補佐する摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)として政治を主導していきました。ちなみに母は、かの源頼朝(みなもとのよりとも)の姪にあたります。このことは道家の政治的立ち位置を語る上で非常に重要となります。

当時は、鎌倉に武士の政権である幕府ができて間もない頃。武家政権との付き合い方は、当時の朝廷の最重要課題でした。道家は朝廷と幕府の関係構築をすることで、自身の権威を高めました。

鎌倉幕府の源氏将軍は3代目の源実朝(みなもとのさねとも)の暗殺で途絶えたというのは有名な話ですが、その次の将軍はどうなったのでしょうか。幕府の秩序には、形式的でこそあれ、朝廷より任命された征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の存在が不可欠でした。そこで、道家は幕府の要請に応じて、自身の子にしてわずか1歳の頼経(よりつね)を第4代将軍として鎌倉に送りました。頼朝の遠戚であることを幕府と道家が互いに利用したのです。これにより道家は幕府と朝廷という政治の二大勢力に権勢を伸ばすことに成功しました。

ちなみに、東福寺で出家をした頃にはすでに摂政の座を一族の者に譲っていますが、そういう者のことを太閤(たいこう)といいました。よって道家も太閤を名乗っていました。太閤というと一般的に豊臣秀吉(とよとみのひでよし)を指す言葉として用いられていますが、正確にいうと豊臣秀吉は「太閤を名乗った者の一人」となります。もっとも豊臣秀吉はその知名度の高さから、「太閤=秀吉」というイメージが定着しています。田中角栄(たなかかくえい)や松下幸之助(まつしたこうのすけ)など、現代において、実力だけで栄華を極めた者を「今太閤(いまたいこう)」となぞらえる場合、太閤は秀吉のことを指す場合はほとんどです。

道家の権勢が終わりを告げるのは、1246年の「宮騒動(みやそうどう)」においてです。これは、鎌倉幕府の内部抗争で、実質的な最高実力者である執権(しっけん)の北条時頼(ほうじょうときより)が反対勢力を一網打尽にしたのです。その反対勢力には、四代将軍の頼経が関わっていたのでした。頼経は将軍職とはいえ、実質は執権の時頼が権力を握っていました。自身に権力がないことから頼経は不満を抱いており、反対勢力と結びびついたのです。

頼経の失脚は当然道家の政治生命にも影響を与え、道家の発言力は地に落ちてしまいました。そして1251年に失意の中で、60歳の生涯を閉じました。

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●第三話 あの「西郷どん」も通った!~島津家ゆかりの塔頭・即宗院~

その後、東福寺は、南北朝の動乱を経て、大火と再建を繰り返し、1346年には完全な禅寺となっていました。足利尊氏が京都に武家政権を打ち立てたことから、京都での禅の需要がさらに高まったことが大きいと考えられます。この頃には多くの名僧を輩出していました。そして、五山制度に組み込まれた東福寺は禅寺の代表格として、現在まで根づくこととなるのです。

さて、東福寺には多くの塔頭(たっちゅう)がありますが、この記事では、今年の大河ドラマ「西郷どん」にちなみ、西郷隆盛(さいごうたかもり)も通ったと言われる塔頭、即宗院(そくしゅういん)を紹介いたします。

そもそも、塔頭とは、高僧が死んだ後に弟子がその徳を称えるために建築した塔や庵のことを指します。即宗院は、1387年に薩摩国(現在の鹿児島県)の守護大名であった島津氏久が、自らの菩提寺として、当時の東福寺住職の剛中玄柔(ごうちゅうげんじゅう)を開基(寺院を創立した僧)として建立した塔頭です。

氏久と東福寺の直接的な関係ははっきりとはわかりませんが、剛中玄柔が薩摩出身の武士の家系に連なっており、その筋から両者がかねてより懇意にしていたことが推測されます。その後、一度は大火で焼失するものの、1613年には、島津義久によって再建されます。現存している即宗院は、再建されたものになります。

そんな島津家とのかかわり故か、幕末期にはかの薩摩藩士、西郷隆盛も自身の政治活動のために通ったと言われています。「西郷隆盛密議の地」という立て札が示す通り、西郷は即宗院にて僧侶の月照(げっしょう)と謀議を重ねました。

月照とは、清水寺で務めながらも、上級公家の近衛家(このえけ)との縁が深いことから、朝廷に対し広い人脈を持つ僧侶でした、そして、尊王攘夷運動に身を置き、近衛家と遠戚にあたる島津家家臣の西郷と共に、政治活動を展開していました。

京都において島津家ゆかりの地である即宗院は、二人にとっては都合の良い場所だったのでしょう。しかし安政の大獄によって西郷と月照は幕府から激しい弾圧をうけることとなり、月照は入水自殺をしましました。生き残った西郷は、友の死をバネにして、倒幕運動に邁進。そして、明治新政府の樹立に成功したのです。

旧幕府軍との戦いである「鳥羽・伏見の戦い」においても、西郷は即宗院を屯所に構えました。そして西郷は大勝利を収めました。1869年に立てられた「東征戦亡の碑」は西郷が戦死した薩摩藩士524名を供養するために自ら石にその名を彫ったと言われています。

いかがでしたでしょうか。京都五山の一つとして、歴史を刻んだ東福寺、この記事を読んだあなたも、足を運んでみてはいかがでしょうか。

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