姫路城 日本の世界遺産

世界遺産 姫路城

1.世界遺産登録基準

姫路城は世界遺産リストに「姫路城」という名前で登録されています。

世界遺産リストに登録されるためには、「世界遺産条約履行のための作業指針」に示される登録基準の内、少なくとも1つ以上の基準に合致する必要があります。

姫路城は登録基準ⅰ、ⅳを満たし、世界遺産リストに登録されました。

基準 ⅰ.(人類の創造的才能を表現する傑作)の適用について

姫路城は木造建築の傑作です。白漆喰を用いた壁面、建物配置と屋根の重なりの絶妙なバランスなどの美的完成度の高さが、城としての効果的かつ機能的な役割と結びついています。この点が基準ⅰ.に該当するとして、評価されました。

基準 ⅳ.(時代を表す建築物や景観の見本となるもの) の適用について

姫路城は日本の木造城建築の極致であり、その重要な特徴は今も損なわれずに残っています。

例えば、天守群を中心とした櫓、門、土堀の建造物、石垣、濠などの土木工作物は良好な状態で保存され、防御に工夫した日本独自の城郭の構成をよく示しています。この点が基準ⅳ.に該当するとして、評価されました。

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2.遺産価値総論

姫路城の遺産価値は「木造城郭建築の最高傑作であること」です。ポイントに分けて説明します。

(1)美しさと実用性の融合

姫路城はその真白な壁面、均整の取れた形状といった外観の美的完成度が非常に高く評価されています。姫路城の優れているところは、その美的完成度が城郭にとっての実用的な機能を兼ね備えている部分です。

例えば、壁面は白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりごめ)と呼ばれる工法で木地が外に出ないように白い漆喰が塗られています。これは美観を良くするだけでなく、防火・耐火・発砲への防御という実用性も兼ね備えています。

このように非常に高い美的完成度と実用性を兼ね備えた木造建築物は世界的にも他に類例がなく、木造建造物の最高傑作と言われています。

(2)現存天守日本一の規模

姫路城は現存する日本の城建築の中で最大規模を誇っています。城の顔ともいえる天守の大きさでは日本に現存する12個の天守の中で最大です。

要因としては姫路城建築後に江戸幕府の定めた法律のために新たな築城や城の補修・改修が出来なくなり一大名のもので姫路城ほどの規模の城が建築されにくくなったこと、また後述の類まれな保存状態の良さが挙げられます。

(3)類まれな保存状態の良さ

姫路城は数ある破壊の危機を免れ、ほぼ建造当時の姿を残しています。地震や火災などに弱い木造建築、そして城郭という破壊対象になりやすい建造物で、これほどの規模のまま現在まで残っているというのは非常に稀有な事例です。

また、姫路城には奇跡的とも言えるエピソードも残っており、第二次世界大戦での姫路空襲の際は焼夷弾が天守に直撃し焼失の危機に瀕しましたが、それが不発弾であったために被害を免れたという話があります。現在まで建造当時の姿が残っているのは本当に幸運なことと言えるでしょう。

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3.歴史

姫路城が現在の形になったのは、1600年に城主となった池田輝政(いけだ てるまさ)による大改修の後です。しかし、それ以前からこの地には姫路城の前身となる城がありました。その歴史を紹介します。

(1)南北朝~室町時代(1346~1555年)

姫路城は築城当時「姫山城(ひめやまじょう)」という名前でした。初代城主は赤山貞則(あかやま さだのり)、南北朝時代に美作国(みまさかこく)守護を務めた人物です。その当時は現在ほどの大きさはなく小規模なものでした。その後、約200年間、城主が変わりますが大きな改修などはありませんでした。

(2)室町~安土桃山時代(1555~1580年)

1555年、黒田重隆(くろだ しげたか)・職隆(もりたか)親子により、中世城郭に拡張したと考えられています。

黒田重親・職隆は黒田官兵衛として有名な黒田孝高(くろだ よしたか)の祖父・父に当たります。その黒田孝高は1567年から姫路城の城主を務め、1580年に羽柴秀吉(はしば ひでよし)(後の豊臣秀吉)に姫山城を献上します。

(3)安土桃山~江戸時代(1580~1600年)

1580年に城主となった羽柴秀吉は1580~1581年にかけて姫山城を近世城郭に改修します。石垣で城郭を囲い、天守が建築され、この段階で姫山城から姫路城へと改名されました。翌1582年、秀吉は姫路城で大茶会を開催します。

その後、天下統一を果たした秀吉は大阪城へと移動、姫路城の城主は秀吉の弟・秀長(ひでなが)、秀吉の正室高台院の兄・木下家定(きのした いえさだ)と続きます。

1600年、徳川家康が天下統一をすると関ヶ原の戦いでの功を認められた池田輝政が西国大名として姫路城に入ります。

(4)江戸時代(1600~1868年)

1600年に城主となった池田輝政は、1

601~1609年にかけてそれまでの古城を廃して新たに城を築城しなおします。この大改修により姫路城はほぼ現在見られる形となりました。

1618年には当時の城主・本多忠政(ほんだ ただまさ)の息子・忠時(ただとき)のもとに家康の孫娘の千姫(せんひめ)が嫁ぎます。その際に千姫の住居として西の丸が整備されました。

その後は江戸時代が滅ぶまで姫路藩主が城主を務めます。

(5)明治時代(1868~1912年)

1868年、江戸幕府が滅びると姫路城にも危機が訪れます。1873年には明治政府によって廃城令が出され、日本各地の城が破却されてしまいます。姫路城は競売に出されましたが、最終的に陸軍省の手に渡ることになりました。

1874年には城郭内の西側に陸軍司令施設や兵舎が建てられ、もともと千姫の住居であった武蔵野御殿(むさしのごでん)や外郭にあった武家屋敷などの建物はこの時に取り壊されてしまいます。

1877年頃になると、今度は日本の城郭を保存しようという動きが見られるようになります。当時、荒廃が進んでいた姫路城でしたが、陸軍大佐である中村重遠(なかむら しげとお)の働きなどにより修復への動きが強まり、1910年に明治の大修理が行われることとなりました。

(6)近代(1912年~現在)

近代に入ると姫路城保存の動きが高まり、1929年には史跡に指定、1931年には国宝に指定されます。1934年に豪雨によって建造物の一部が損壊すると、そこから姫路城全体の修理が始まります。

この修理は1964年まで続き、「昭和の大修理」と言われています。(1956~1964年までの大天守の修理を「昭和の大修理」とすることもあります。)

また、この修理の間には第二次世界大戦もありましたが、1945年に姫路は空襲の被害を受けます。この際、姫路城下は焼き尽くされ、姫路城にも焼夷弾が着弾しましたが、これが不発弾だったために幸いにも焼失は免れました。

平成に入ってからは1992年に世界遺産リストへ登録され、2009~2015年まで「平成の大修理」が行われました。それにより、現在も白鷺城(しらさぎじょう・はくろじょう)の名にふさわしい美しい姿を見ることが出来ます。

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4.構成資産の概要

姫路城見学ルート

画像:姫路市

姫路城は姫山(ひめやま)という丘を利用した平山城(ひらやまじょう)です。平山城は城下町を含めた総構え(そうがまえ)と呼ばれる構造をしています。ポイントごとに姫路城の概要を紹介します。

(1)縄張(なわばり)

縄張とは城の設計や構成、仕組みのことです。姫路城の縄張は螺旋式(らせんしき)縄張と呼ばれ、天守の北側を起点とし、左廻りに中心である天守に向かって渦を巻くような城郭構成になっています。

防御線が3重の螺旋構造になっている縄張りで、姫路城の他には江戸城しか類例のない複雑巧妙なものです。

(2)曲輪(くるわ)

曲輪
赤線内が内曲輪、緑線内が中曲輪、青線内が外曲輪。

画像:Wikipedia 姫路城

曲輪とは石垣や堀などで区分けされた城内の区画のことです。姫路城には内曲輪(うちくるわ)、中曲輪(なかくるわ)、外曲輪(そとくるわ)があり、内曲輪の中には更に本丸、二の丸、三の丸、西の丸という曲輪があります。姫路城は螺旋式縄張のため、外曲輪→中曲輪→内曲輪と入るまでに左廻りに渦を巻くような配置をしています。

現在、姫路城の主な遺構として回覧出来るのは内曲輪の本丸、二の丸、西の丸部分です。おおよそ中曲輪より内側部分が世界遺産リストへの登録地域となっています。

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(3)天守群

姫路城 天守群

姫路城 天守群

画像:Wikipedia 姫路城

姫路城の中心となる建物が天守群です。幾重にも重なる屋根が白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりこめ)の外装と相まって、華やかな構成美をつくっています。姫路城の天守群は4つの天守が廊下状の渡櫓(わたりやぐら)で繋がれた連立式天守群と呼ばれるものです。

4つの天守は大天守から反時計回りに東小天守(ひがしこてんしゅ)、乾小天守(いぬいこてんしゅ)、西小天守(にしこてんしゅ)です。また、それぞれの天守を結ぶ渡櫓が4つあります。それぞれの紹介をしていきます。

①大天守(だいてんしゅ)

大天守

大天守は連立式天守群内の南東側に位置する最大の天守です。5層7階(地上6階地下1階)の建物で、高さは31.5mです。屋根は弓なり状の唐破風(からはふ)と三角形状の千鳥破風(ちどりはふ)が組み合わさり、美しい造形を生み出しています。

安土城を模したとされており、入母屋(いりもや)造りの二重櫓の上に小規模の二重櫓、その上に望楼(ぼうろう)式天守があります。1~4階は要塞部で5~6階が住居部となっています。

②東小天守(ひがしこてんしゅ)

姫路城 東小天守

画像:Wikipedia 姫路市

東小天守は大天守の北側に位置する天守です。南面は大天守に繋がる「イの渡櫓」、西面は乾小天守に繋がる「ロの渡櫓」に面しています。3層4階(地上3階地下1階)の建物で、西古天守、乾小天守とは異なり、唐破風は使われておらず、シンプルな造りとなっています。

③乾小天守(いぬいこてんしゅ)

姫路城 乾小天守

画像:Wikipedia 姫路城

乾小天守は大天守の対角・北西方向に位置する天守です。東面は東小天守に繋がる「ロの渡櫓」、南面は西小天守につながる「ハの渡櫓」に面しています。3層5階(地上4階地下1階)の建物で、3つの小天守の中では最大の大きさを誇っています。

唐破風、入母屋破風の両方が使われ、花頭窓(かとうまど)が用いられるなど、住居風の意匠が特徴となっています。乾小天守は敗北につながる「北」という文字を使わずに北西の方角を指すために「乾」という文字を使ったとされています。

④西小天守(にしこてんしゅ)

姫路城 西小天守

画像:Wikipedia 姫路城

西小天守は大天守の西側に位置する天守です。北面は乾小天守に繋がる「ハの渡櫓」、東面は大天守に繋がる「ニの渡櫓」に面しています。また、地階東面に水六門を備えており、出入り口としています。

3層5階(地上3階地下2階)の建物で、乾小天守と同様、唐破風、入母屋破風、花頭窓が用いられ、住居風の意匠が特徴となっています。西小天守は大天守攻撃の際の最後の砦とされています。

⑤イ、ロ、ハ、ニの渡櫓(わたりやぐら)

大天守、東小天守、乾小天守、小天守を結ぶ4つの櫓は渡櫓とい言います。全て2層3階で、大天守から東小天守を結ぶ櫓を「イの渡櫓」、東天守から乾小天守を結ぶ櫓を「ロの渡櫓」、乾小天守から西小天守を結ぶ櫓を「ハの渡櫓」、西小天守から大天守を結ぶ櫓を「ニの渡櫓」と言います。

・イの渡櫓

姫路城 イの渡櫓

画像:文化遺産オンライン

南面で大天守に、北面で東小天守に接続し、建物の高さ9.03メートル、高さ8.88メートルの石垣の上にあります。

・ロの渡櫓

姫路城 ロの渡櫓

画像:文化遺産オンライン

東面で東小天守に、西面で南端間が乾小天守に接続し、建物の高さ9.03メートル、高さ8.3メートルの石垣の上にあります。

・ハの渡櫓

姫路城 ハの渡櫓

画像:文化遺産オンライン

南面で西小天守に、北面で乾小天守に接続し、建物の高さ9.167メートル、高さ10.061メートルの石垣の上にあります。

・ニの渡櫓

姫路城 ニの渡櫓

画像:文化遺産オンライン

東面で大天守に、西面で西小天守に接続し、建物の高さ9.679メートル、建物面積56.784平方メートルです。

(4)備前丸

姫路城 備前丸

画像:城めぐり

備前丸は本丸内、天守群の南側にあり、池田輝政が居住地としていた建物があった場所です。この建物は残念ながら明治15年の火災により焼失してしまいましたが、備前丸は現在も見ることができます。

(5)二の丸

二の丸は本丸の南~西側にかけて広がる場所です。秀吉時代の縄張りを活かした雛壇上の造りになっており、通路は迷路のように入り組んでいます。また多くの門や櫓が配置されており、敵が侵入しにくく、味方が戦いやすいようになっています。

主な構造物には三国堀(さんごくぼり)、菱(ひし)の門などがあります。三国堀は播磨・淡路・備前の三国に名前の由来があると言われる堀で、二の丸の本道と間道の要所をおさえる重要な位置にあります。城郭建築で言うところの「捨堀(すてぼり)」で、敵の動きを分断する役目をしていたと考えられています。菱の門は二の丸入り口にある城内最大の門で、現存する城内の門では唯一、安土桃山時代の意匠を残しています。両柱の上の冠木に木彫りの菱の紋があることから、この名前になったとされています。

(6)西の丸

姫路城 西の丸

西の丸は江戸時代の城主・本田忠政が、長男の忠刻とその妻・千姫の住居のために整備した場所です。西の丸には現在はなくなってしまいましたが、千姫の住居であった武蔵野御殿がありました。現存する建物としては化粧櫓(けしょうやぐら)、長局(ながつぼね)があります。化粧櫓は千姫が男山の天満宮を遙拝する際に化粧を直した場所と言われています。長局は百間廊下(ひゃっけんろうか)とも呼ばれ、複雑に屈折しながら約300m続いています。姫路城の各所には石や沸騰した湯を敵にそそぐための石落(いしおとし)や弓や鉄砲を使用するための穴が開いた狭間(さま)と呼ばれる防御施設がありました。長局にある三角、丸、四角の鉄砲狭間、長方形の弓狭間などは一種の装飾にも見えます。

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5.その他

真正性の評価基準への影響

①真正性の評価基準とは
真正性の評価基準とは、遺産の真正性の有無を評価するために必要な基準のことです。真正性(Authenticity)というのは世界遺産登録の際に評価される項目の一つですが、簡単に言うと「その遺産が本来の価値を継承しているかどうか」ということです。

真正性の適正な評価のためには明確な基準が必要となりますが、ICOMOSは1964年に採択されたヴェニス憲章(ヴェネツィア憲章)を評価の基準としていました。

※ ICOMOS…Council on Monuments and Sitesの略で、国際記念物遺跡会議。文化遺産保護に関わる国際的な組織。

②姫路城が与えた影響
姫路城の世界遺産登録が世界遺産委員会に与えた影響として、この真正性の評価基準を再検討させたことが挙げられます。

それまでの真正性に対する評価基準であるヴェニス憲章は、ヨーロッパに多く見られる補修の少ない「石の文化」を中心としたものでした。しかし、姫路城を始めとした日本の「木の文化」では解体修理が前提とされており、それまでの評価基準では正当に評価できない恐れがありました。

姫路城の推薦・登録は真正性の評価に対して再検討の必要性を投げかけ、その結果、翌1994年の「Authenticity(オーセンティシティ(真正性、真実性))に関する奈良ドキュメント」の採択に繋がりました。この文書は、アジア・アフリカの文化遺産登録にとって、極めて重要な意義を持つことになりました。

※ 奈良ドキュメント…文化遺産がオリジナル性は、その遺産に固有の文化に根ざして考慮されるべきとする国際宣言で、文化と遺産の多様性を尊重するもの。

【参考書籍】

すべてがわかる世界遺産大辞典(上)(世界遺産検定事務局)

【参考HP】

UNESCO World Heritage centre

世界遺産一覧表記載推薦提案書(文化庁)

Wikipedia 姫路城

日本の世界遺産 姫路城

世界文化遺産・国宝 姫路城

ニッポン旅マガジン 姫路城・三国堀

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