京都太秦に残る京都最古の寺院『広隆寺』の歴史、伽藍、仏像(弥勒菩薩像、聖徳太子像、半跏思惟像)など見どころご紹介

広隆寺の歴史、伽藍、仏像(弥勒菩薩像、聖徳太子像、半跏思惟像)などご紹介

広隆寺(こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦蜂岡町にある真言宗系単立の寺院です。インターネットなどでは真言宗御室派(おむろは)本山、御室派の大本山というような、御室派との関わりが書かれた情報が散見されますが、これは広隆寺が平成初期まで御室派に所属しその後脱退しているのですが、当時の情報をそのまま掲載しているためです。

現在は御室派をはじめ各派には所属しない単立という立場の真言宗寺院です。

山号は蜂岡山で、広隆寺という呼び名の他、蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺(うずまさでら)、葛野寺(かどのでら)などとも呼ばれており、地名を冠した太秦広隆寺とも呼ばれています。

渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した京都最古の古刹で、国宝の弥勒菩薩半跏像をはじめ、数多くの国宝や重要文化財が残る寺院で知られています。本尊は聖徳太子像であり、聖徳太子信仰の寺でもあります。

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広隆寺の開基

広隆寺の開基は聖徳太子の同志として国造りに大きく貢献し、秦氏の族長的な役割の人物として朝廷の財政に関わったといわれる秦河勝(はたのかわかつ)です。

秦氏は、第15代応神天皇の時代に日本に渡ってきた『弓月君(ゆづきのきみ)』を祖とする渡来人系の豪族でした。弓月君は日本に渡ってきた後、現在の太秦周辺を本拠地とし、近畿一帯に強い地盤を築いていきました。

その子孫である秦河勝は、弓月君から築かれてきた基盤や朝廷とのつながりの中、四天王寺の慈善事業制度であった四箇院の設置に関わるなど、四天王寺の建立や運営で聖徳太子に強く影響を及ぼした豪族でした。

広隆寺の創建

広隆寺の創建にまつわる話は、現存する歴史資料に違いがあることから、諸説あります。これは、818年の広隆寺の火災の際に古い記録を焼失してしまったことによります。

関連する歴史資料や発掘調査で分かったことは、いずれも現在の広隆寺につながる話であるものの、元々は別の寺であったと推測され、それらの寺が合併により一つの広隆寺となった説が現在有力視されています。

『聖徳太子伝暦』では、聖徳太子の楓野別宮(かえでのべつぐう)を寺にしたという説が残されています。楓野別宮とは、秦河勝の領地であった山城国の蜂丘の南に、聖徳太子の指示により建てた宮でした。

これは、太子が秦河勝に大きな桂の枯れ木がある楓に囲まれた霊地で五百羅漢が集まり読経しているという夢を見たと言ったところ、秦河勝は、自身の所領の葛野(かどの)であると伝え、太子をその地に案内します。太子は夢の中で見たような桂の枯れ木があり、そこに集まった無数の蜂の羽音がまるで尊い説法に聞こえたとのことでした。そのような霊験から、その地に楓野別宮を建て、そこに寺を作らせたのが始まりとされています。

また『日本書記』では、603年に聖徳太子が臣下の者に、「尊い仏像があるので誰かこれを崇拝する者はいないか」と質問した際、秦河勝が名乗り、仏像を安置するために「蜂丘寺」を建立したとなっています。

さらに838年に作成された「広隆寺縁起」においては、広隆寺は622年、同年に崩御した聖徳太子の供養のために建立されたと記されています。

このように、秦氏が開基となり建立した史実はあるものの、広隆寺の創建についてはいくつかの説が存在し、正しい創建の歴史は確定されていません。

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中宮寺の歴史

広隆寺の創建当初は聖徳太子より賜った弥勒菩薩像を本尊としていました。

奈良時代の724年頃、聖武天皇の勅願により毎年、伝法会(でんほうえ)が行われるようになります。伝法会というと現在では真言宗における法会を指しますが、当時の伝法会は宗派における教えを伝える講演ではなく、伝来された仏教について教えを伝える講演会のようなものでした。

797年には本尊を当初の弥勒菩薩像から薬師如来像に改められました。しかし、この薬師如来像は、818年の伽藍を全焼する火災において、伽藍もろとも焼失してしまいました。

824年、淳和天皇の勅願により、宮中で仏名会(ぶつみょうえ)が開催されました。仏名会は過去、現在、未来のそれぞれの仏様の御名を一仏一仏お称えしてその年の懺悔を行う仏事でした。

836年には弘法大師空海の高弟であった道昌僧都(どうしょうそうず)が別当となります。「広隆寺縁起資財帳」「広隆寺資財交替実録帳」といった資料によると、道昌僧都が別当に就任した後、818年の火災で焼失した伽藍の再建を行い、金堂、歩廊、中門、講法堂、鐘楼、食堂、僧房、宝蔵、政所庁屋、厨房、大炊屋、湯屋、厩屋、客房などが再建されました。また、あわせて火災で焼失してしまった仏像の再造仏などを行ったことから、道昌僧都は広隆寺の中興の祖と云われています。

860年には、道昌僧都が別当であった当時の第56代清和天皇の命で、これまでの本尊であった薬師如来は勅封されました。史実から清和天皇11歳の年であり、なぜ勅封されたかはわかっていませんが、その4年後の864年に願徳寺の薬師仏を迎え、以後この薬師如来が本尊とされました。

平安時代は広隆寺にとっては平穏な時代であり、特に大きな事件などはありませんでしたが、第60代醍醐天皇や第62代村上天皇、第64代円融天皇より水田や荘園が寄進されるなど、所領を増やしていきました。

平安時代後期1120年の、聖徳太子五百年忌の際には聖徳太子立像が製作されました。現在の本尊となっている像で、現在は秘仏として扱われており、通常時の公開はされていません。

1150年には火災により伽藍が再度焼失するものの1165年に藤原信頼の勅命により、講堂や阿弥陀堂をはじめ、回廊や鐘楼などが再建されました。

鎌倉時代の1251年頃には聖徳太子像を安置する桂宮院本堂が建立されます。この桂宮本堂は、京都における太子信仰の中心地となり、太子信仰から公家だけでなく庶民にも広がりを見せました。また代々の天皇も参拝を行うだけでなく、荘園を寄進していました。

1469年から1487年頃には、現在の薬師堂が建立され、1565年には講堂が修理され、応仁の乱やその後の戦国時代で、戦場として戦渦に巻き込まれることもありませんでした。

戦国時代末期には、全国の寺社では、寺領・神領と呼ばれた寺社の領地が戦国武将に奪われていきます。広隆寺も同様でしたが、織田信長から朱印地を安堵されたのち、関白となった豊臣秀吉により600石を安堵されました。これにより、租税を免除された土地が与えられました。

江戸時代中期の1702年には南大門が再建されたほか、1730年には上宮王院太子殿が建立されました。その後江戸時代末期には秦河勝を祀る太秦殿が建立されました。

明治時代になると、明治維新後の神仏分離令や廃仏毀釈により、鎮守社であった大酒神社は寺境内から東側の現在地に移され分離されました。一方で一時期境内は荒れてしまったと云われているものの、伽藍が取り壊しになったりすることはなく、仏像や物宝などが持ち出されることもありませんでした。

大正期には伽藍の修理も行われ、この際に寺の宝物を収めるための霊宝殿が建立されました。また国宝や重要文化財の指定条件を満たす歴史的価値の高い伽藍や仏像などが多数あることから、国宝の指定が始まって以降、次々と国宝や重要文化財の指定を受けることになりました。

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広隆寺の伽藍

広隆寺には多くの伽藍があります。歴史の古い堂宇には、国宝の指定や重要文化財の指定を受けているものもあります。

一方で、飛鳥時代の寺院は各地に建立されていく中で、この伽藍の配置にもさまざまな様式ができていきました。広隆寺はそのような代表的な伽藍配置とは違い、南大門から入るとバラバラに伽藍が配置されています。

上宮王院(じょうぐうおういん)太子殿(本堂)

広隆寺の本堂である上宮王院太子殿は1730年に建立されました。建築様式は入母屋造(いりもやづくり)の檜皮葺(ひわだぶき)で、宮殿風の建物となっています。

広隆寺の本尊である聖徳太子立像が安置されていますが、太子像については普段は公開されていません。毎年11月に年に1度だけ一般公開される日がありますが、2020年、2021年はコロナ禍の影響で行事が中止となり一般公開されませんでした。

上宮王院太子殿の聖徳太子立像は、148㎝で他の寺院などに多くみられる幼少期の聖徳太子像ではなく、33歳の姿であることが特徴です。1120年の聖徳太子500年忌の際に造られたとされています。

この太子像は下着姿に下袴を着用した状態に、天皇が即位儀式で着用された衣装である黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)が下賜され、御像に着装されてきました。この習慣は室町時代より代々の天皇の即位ごとに続けられております。

この黄櫨染御袍は、天皇のみに着用が許された衣装であり、天皇でなかった聖徳太子になぜこの衣装を着せているかの理由は不明ですが、1526年即位の第105代後奈良天皇の即位時以来、歴代の天皇が、即位時に着用した黄櫨染御袍を贈ることになっています。2022年現在は、上皇陛下が天皇即位時に使用された黄櫨染御袍を着用した状態となっています。

桂宮院(けいきゅういん)本堂【国宝】

桂宮院は、広隆寺境内の西の端に位置し、白壁に囲まれた一画を持つ寺中です。
建立は、建物建立時の勧進帳が残されており、鎌倉時代中期の1251年頃と見られています。

聖徳太子をお祀りするために建てられた建物のため広隆寺の奥の院としての位置付けがされ、法隆寺夢殿と同じ八角円堂で、純和様で檜皮葺きの建物です。
ただし、他の寺院の八角円堂と比べると、一辺が7尺(約2.12メートル)と最も規模の小さな建物となっています。

創建時に作られた聖徳太子半跏像が安置され太子をお祀りしていましたが、半跏像は現在、霊宝殿に移されています。

室町時代末期の応仁の乱や戦国時代、昭和期の太平洋戦争時などでも火災にあうことなく焼失から逃れ、日本に残る数少ない八角円堂ということや鎌倉時代から現代にまで残る貴重な建造物ということから評価され、1953年に国宝建造物として指定を受けました。

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講堂(赤堂)【重要文化財】

現在の講堂は、1165年に再建されたもので、正面5間、側面4間(9メートル×7メートル)の寄棟造、本瓦葺きとなっています。創建時は檜皮葺きでしたが、1565年の修理時に規模が縮小され、その際に瓦葺に変更されました。

創建時は金堂と呼ばれたり、朱色に塗られた建物だったことから、赤堂(あかどう)とも呼ばれていましたが、時代の流れとともに講堂と呼ばれるようになりました。

講堂の内部には入場できないため、拝観は堂の外からしますが、本尊として、国宝の阿弥陀如来坐像、右側に重要文化財の地蔵菩薩坐像、左側に重要文化財の虚空蔵菩薩坐像が安置されています。

なお京都に残る最古の建造物であることから、1901年3月27日に重要文化財に指定されました。

霊宝殿

霊宝殿は、仏像や広隆寺の文化財を収蔵し展示することを目的に1982年に新しく建てられた堂宇です。

弥勒菩薩像2体、十二神将像といった国宝の仏像をはじめ、数多くの国宝や、重要文化財が安置されています。

広隆寺の本尊である聖徳太子像は本堂に安置されていますが、奥の院である桂宮院の本尊であった聖徳太子半跏像は、現在霊宝殿に安置されています。

旧霊宝殿

旧霊宝殿は、霊宝殿の西隣にある建物で、1922年の聖徳太子1,300年忌に建設されました。

1982年の霊宝殿の新築にともない、それまで安置されていた仏像や文化財は霊宝殿に移され、現在は公開されていない建物となっています。

太秦殿(うずまさでん)

太秦殿は、上宮王院太子殿の右脇に佇んでいる江戸時代末期の1843年に建立された伽藍の一つです。

軒丸瓦に特徴があり、巴紋や花柄紋、稲や鎌といったものではなく、鷲や鷹といった鳥をモチーフにしたデザインとなっています。

広隆寺を創建した秦河勝を祀り、後に弓月君と一緒に渡来した4人の織女のうちの2人である漢織女(あやはとりめ)、呉秦女(くれはとりめ)を合祀しお祀りしています。

秦氏の祖である弓月君の時代より秦氏が養蚕や絹織物の生産に努めたことに由来することから、養蚕や織物の神様とされています。

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弁天社

弁天様をお祀りするための弁天社が建立されており、池を望むように木々に囲まれてたたずんでいます。
広隆寺の周辺には、かつて弁天池と呼ばれる池がありました。現在の境内から東西に40メートル、南北に30メートルもあった池でしたが、昭和50年代に宅地造成のため埋められ、その池の名残が境内に残ります。

広隆寺が建っている地には、かつて弁天池と呼ばれる大きな池がありました。現在の境内から東西に40メートル、南北に30メートルもあった池でしたが、宅地造成のため埋められることになり、その名残の残る池が広隆寺の境内に残ります。

この弁天池には、弁天様をお祀りするための弁天社が建立されており、池を望むように木々に囲まれてたたずんでいます。

鐘楼

広隆寺の鐘楼は南大門から境内に入り正面にある講堂の東側にあります。

梵鐘の多くは青銅製ですが、広隆寺の梵鐘は鉄製です。鎌倉時代初期の1217年、秦末時が発願し作られました。鉄鐘にはそれを証明する「建保五年七月日秦末時」の銘が残されています。

この鉄鐘は1927年7月21日に国の重要文化財に指定されています。

能楽堂

能楽堂は、薬師堂の隣にある建物です。過去には能楽を奉納するためのステージとなった建物ですが、現在は四方には板張りがされており、舞台の中がどのようになっているかは見ることが出来ないようになっています。

地蔵堂

地蔵堂は能楽堂の隣に位置する建物で、宝形造の屋根に桟瓦葺(さんがわらぶき)の建築様式となっています。この堂宇には空海が作ったと云われる腹帯地蔵尊(はらおびじぞうそん)が祀られています。

腹帯地蔵尊とは、身に着けている下腹部の裳(も)の紐の結び目が、妊婦の腹帯に似ているということに由来し呼ばれる地蔵菩薩像です。地蔵菩薩は人々の苦しみを引き受けるという菩薩様ですが、腹帯地蔵尊は特に妊婦の産みの苦しみを引き受けてくれるという安産のご利益があると云われています。

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薬師堂

薬師堂は、東大寺の大仏殿や正倉院と同じ寄棟造の桟瓦葺の建物です。重要文化財の薬師如来立像が安置されています。

広隆寺の薬師堂に安置されている薬師如来は高さ101.3センチで木造で、吉祥天のような像容を持つ「吉祥薬師」という珍しい像です。
平安時代前期に造仏されたと云われていますが詳しい年代は不明です。

797年に向日神社由来の霊験薬師仏壇像を迎え入れ、創建時の本尊であった弥勒菩薩から霊験薬師仏壇像に変更していましたが、818年の火災で焼失し、現在に残る薬師如来立像が造仏されました。

南大門(楼門・仁王門)

広隆寺の正門にあたる南大門は、三条通に面して建立されています。

現存する南大門は、江戸時代中期に当たる1702年(元禄15年)に建立されたと云われており、約320年の歴史を持ちます。

寺社の入口にある重層(二階建て)の門には、下層に屋根のないものとあるものがあり、下層の屋根が無いものを楼門、有るものを二重門と呼びます。広隆寺の南大門には屋根が無いことから、広隆寺楼門とも呼ばれています。屋根は桟瓦葺の入母屋造となっています。

また、南大門には金剛力士像が安置されていることから、仁王門とも呼ばれています。この金剛力士像は南大門より古い室町時代に制作されたものだと云われていますが、縁起については不明です。

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広隆寺の国宝・重要文化財

広隆寺には9件の国宝があり、そのうち6件は仏像が指定され、この6件は、国内では法隆寺や興福寺、東大寺、東寺についで第5位となっています。
特に国宝の第一号として指定された弥勒菩薩を安置することで有名です。

また重要文化財については、建物や仏像など30件を超えて指定された文化財があります。

ここでは、6件の国宝指定の仏像について詳しく解説します。

弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)

広隆寺の国宝である弥勒菩薩半跏像は2体。霊宝殿の中央にある弥勒菩薩エリアの中央に祀られているのが、宝冠弥勒と呼ばれる弥勒菩薩像です。1951年に国宝第一号として指定されました。

像の高さは84.2㎝、座っている人と同じくらいの大きさです。右手を頬にあて、物思いにふけるようなポーズとなっているのが特徴です。

作られたのは飛鳥時代とされています。

弥勒菩薩半跏像(泣き弥勒)

泣き弥勒は、宝冠弥勒の隣に安置されているもう一つの弥勒菩薩半跏像です。こちらはクスノキで作られた木製の仏像で、高さは90.5㎝と宝冠弥勒よりも少し大きな像となっています。

表情が泣いているように見えることから泣き弥勒とも呼ばれています。

こちらも作られたのは飛鳥時代とされており、宝冠弥勒より後に造仏されたとみられています。

不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)立像

不空羂索観音立像は、宝冠弥勒の向かいに安置された仏像です。平安時代初期に作られたとされており、高さは313㎝とかなり大きな仏像となっています。

この不空羂索観音立像は、一面三目八臂といわれる、一つの顔に三つの目、胸前で両手を合掌し、その他の3対の手が左右から出ている8本の腕を持つ姿をしています。

木造千手観音立像

宝冠弥勒の向かいに安置された3体の仏像のうち、右側に立つのが木造千手観音立像です。像の高さは266㎝と不空羂索観音立像より50㎝程小さいのですが、ヒノキの一木造りで作られた像となっています。

不空羂索観音立像と同様、平安時代初期には作られたとみられているものの、不空羂索観音立像よりは20年程度後に造られたと考えられています。9世紀末頃には、当時の金堂に祀られていたということが判明しています。

木造十二神将立像

木造十二神将立像は霊宝殿に安置された十二体の仏像です。いずれも120㎝程度の大きさで、少し小柄な像となっています。新薬師寺にある十二神将像が最も古く、それに次いで歴史の古い像となっています。

鎌倉時代に活躍する仏師の集団である『円派(えんぱ)』の祖とされる長勢(ちょうせい)により制作されました。

十二神将像は、薬師如来の脇侍として安置され薬師三尊として祀られる日光菩薩・月光菩薩とともに、薬師如来の眷属として薬師如来や仏教を守護するために武将姿をした仏尊です。薬師如来の十二の大願に応じて、それぞれが午前・午後の十二の時間、一年を通じた十二の月、十二の方角を護るとされています。

この像群は、1953年3月31日に国宝に指定されました。

木造阿弥陀如来坐像

国宝の木造阿弥陀如来坐像は講堂に安置されています。像高は260㎝程あり、坐像としてはかなり大きめの像です。

840年に亡くなった第53代淳和天皇の后の一人であった永原御息所(ながはらのみやすどころ)の発願により造られたと考えられています。

資料から、完成当初は金色をしていたとみられており、肩幅の広さや頬のふっくらした特徴が平安初期特有の力強さを持った像となっています。

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京の三大奇祭の一つ『牛祭』

京都には、鞍馬の火祭、今宮神社のやすらい祭、そして太秦の牛祭という『京の三大奇祭』と呼ばれる祭りがあります。

太秦の牛祭は大酒神社の牛祭、広隆寺の牛祭と呼ばれ、元々は広隆寺の境内社であった大酒神社の祭りとして執り行われていました。

牛祭の起源

牛祭の起源はかなり古く、1012年、第67代三条天皇の時代までさかのぼります。この年の9月11日に比叡山の恵心僧都(えしんそうず)が、お経に節と音階を付けて唱える声明(しょうみょう)念仏を行っていたところ、仏法守護神である摩多羅神(またらしん)から「この声明念仏の法会は末世まで絶やしてならない」という夢のお告げがあり、その翌日に祭文を書いて摩多羅神の祭祀を行ったことに由来すると云われています。

この摩多羅神とは、仏教の中でも密教、特に天台宗にかつて存在した玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)と呼ばれる一派における本尊であり、阿弥陀経および念仏の守護神とされる神様です。

牛祭の祭事

牛祭の祭事では、摩多羅神が牛に乗っていることから『牛祭』と呼ばれるようになりました。仮面や飾りつけをした摩多羅神が牛にまたがり、四天王と呼ばれる青鬼・赤鬼が松明を持って従い、境内と周辺を一巡します。その後、薬師堂前で祭文を読み、これが終わると同時に、摩多羅神と四天王は堂内に飛び込みます。

これは、かつて祭文を読み終わった後に摩多羅神の仮面が厄除けにつながるといって奪い合ったことから、その名残で逃げ込むようになったと云われています。

摩多羅神のお告げから、国家安全・五穀豊穣・魔障退散を祈願する祭となっています。

京都市登録無形民俗文化財に指定されていますが、現在は祭りで必要になる牛の調達が困難となったことから、2003年の開催以降開催されておらず、再開も目途がたっていません。

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