法起寺(ほうきじ)の歴史、伽藍配置、三重塔、コスモスなど見どころご紹介

法起寺の歴史、見どころご紹介

法起寺は奈良県生駒郡斑鳩町岡本にある聖徳宗の寺院です。法隆寺の近くにありますが、堂宇もいくつかのものが残るのみとなっており、法隆寺と比べても規模の小さな古刹として現在に残っています。

山号(さんごう)は岡本山であり、名前も岡本寺や池後寺(いけじりでら)とも古くから呼ばれてきました。

聖徳太子による建立という伝承がある七つの寺を指す『聖徳太子建立七大寺(しょうとくたいしこんりゅうしちだいじ)』の一つとして数えられていますが、寺が完成したのは聖徳太子が亡くなってから数十年も経った後のことで、太子の遺言により子どもの山背大兄王(やましろのおおえのおう)が発願したとされています。

ユネスコの世界遺産に法隆寺を申請するにあたり、「法隆寺地域の仏教建造物」として法起寺も該当の建造物として申請。この世界遺産への登録にあたり、読み方を法隆寺と一貫性を持たせたいという理由から、それまでの『ほっきじ』から『ほうきじ』へと正式な呼び名を変更しました。ただ地域住民をはじめ、法起寺関係の人々は20世紀末頃までは「ほっきじ」と呼んでいたことから、これまでの呼び方の親しみからも、「ほうきじ」ではなく「ほっきじ」と呼ぶ方が多くいます。

この法起寺の最大の見どころは、日本最古の三重塔として現存する国宝指定の三重塔です。また秋になると、法起寺周辺にはコスモスが咲き誇り、三重塔と合わせた風景は格別のものです。

ここでは、日本最古の三重塔がシンボルとなる法起寺にまつわる歴史と、現存する伽藍の詳細について紹介します。

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法起寺の歴史

法起寺は、聖徳太子が亡くなる前の遺言が元で興った寺院です。かつて聖徳太子の宮殿の一つであった岡本宮を岡本寺としたのが始まりとされています。聖徳太子が亡くなる前に山背大兄王に遺言を残し、その指示に従い岡本宮を寺に改めたとされています。

法起寺の創建は、推定で638年とされており、上記背景から発願者は聖徳太子と山背大兄王とされます。創建にあたり、金堂造設については中国から渡来した福亮(ふくりょう)が発願、三重塔については685年に恵施(えし)僧正が発願し、706年頃には三重塔は完成していたとみられています。

創建時から奈良時代にかけての法起寺は、聖徳太子ゆかりの寺であったことから、法隆寺と合わせて繁栄を極めていたと云われています。しかし平安時代中期頃には荒廃をはじめ、法隆寺傘下の寺となり、寺としての活動については法隆寺の判断を必要とするようになりました。

鎌倉時代になると、1350年には三重塔以外の金堂、講堂、回廊、僧房が倒壊してしまい、三重塔や講堂は修理されます。室町時代には三重塔を中心に再興され、仏像を安置する御堂が作られるも、戦国時代になると兵乱により、三重塔と本堂を残し、残りの堂宇は火災で焼失してしまいました。

江戸時代になり1678年には、法起寺の僧侶であった真政円忍(しんせいえんにん)が浄財を集め、三重塔の修理を行いました。その後も寄付活動を続け浄財を集めることで、1694年には講堂も再建させました。

その後、1863年には金堂があった場所に聖天堂が造営されました。この江戸時代後期に再建された伽藍が、現在に残されています。

宗派については、1872年に明治政府の出した政策により、本山である法隆寺が真言宗の所管とされました。これに合わせて法起寺も真言宗となりました。そこから20年後には、法隆寺や興福寺が法相宗として真言宗から独立します。その際も法隆寺に随従して法相宗となります。

昭和期になると、1950年には法隆寺を総本山、法起寺や法輪寺を小本山とした聖徳宗に法相宗から独立を果たし今に至ります。現在は単独のお寺ではなく、法隆寺の管理下にある寺となっています。

平成期に入り1993年には、総本山である法隆寺を中心とした「法隆寺地域の仏教建造物」として世界文化遺産に登録されました。

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法起寺の伽藍配置

仏教が公伝され寺院がどんどんと建てられていく中、飛鳥時代における伽藍の配置については先例に沿った配置がされていきました。そのような中で、伽藍の配置には多くのパターンが生まれていきました。四天王寺式、飛鳥寺式、法隆寺式などがあり、また時代とともにそのパターンは変遷していきました。

法起寺の創建時では、同じ斑鳩に建っている法隆寺と比べても違う伽藍配置になっていました。法隆寺の伽藍配置には似ているものの、金堂が西側、三重塔が東側に建ち、法隆寺の伽藍配置とは真逆の伽藍配置となっていました。またこの伽藍配置は他の寺で採用されていた伽藍配置とも違っていたことから、法起寺式伽藍配置と呼ばれています。

発掘調査の結果、創建時の法起寺の大きさは、約109mの正方形の敷地となっており、敷地の中央部付近に、中門、東西に回廊、北側に講堂が配置された伽藍配置であったとされています。

現在は過去に塔の東側を囲っていた回廊があった場所は、周囲の田園地帯に飲み込まれてしまっており回廊は持っていません。

現存する創建時の伽藍としては三重塔だけですが、再建された講堂や江戸時代に創建された聖天堂は金堂の跡地に建っていることからも、創建当時に堂宇が立てられていた配置で伽藍が残っている状態になっています。


出典:古寺巡訪 法起寺

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法起寺の建物と歴史

法起寺は、江戸時代初期までに、創建時からの堂宇は三重塔を残し倒壊し、崩れたまま残っていた伽藍も戦国時代の兵火により、一度焼失していました。その後、江戸時代に復興され、現在の伽藍の姿に至ります。

講堂


講堂は638年創建、現存する講堂は1694年に再建された堂宇です。建築様式は寄棟造りで、しころ葺き。屋根は本瓦葺となっています。また屋根の頂きには、名古屋城のしゃちほこのような『しび』が据えられているのが特徴的です。

江戸の再建時には、創建時に講堂があった場所に再度講堂が建てられました。また、この再建時には金堂は再建されずに講堂に本尊である十一面観音菩薩立像を安置していました。

そのため、再建以降の講堂は本堂とも呼ばれていました。

現在、本尊は講堂西側にある収蔵庫に安置されています。

三重塔(国宝)


法起寺の三重塔は685年に恵施(えし)僧正が発願し、706年頃に創建されました。大きさは一層目と二層目が三間(約6m)の正方形で、三層目は一辺が二間(約4m)。高さは地上24mとなっています。

創建以降、数多くの修復を受けながら現在まで残りますが、大きな修復として記録に残るのは、1678年の江戸時代、1897年~1898年の明治時代、そして1972年~1975年の昭和時代のものがあります。

最初の大きな修復であった江戸時代の修復ですが、室町時代末期の1570年頃、三重塔や本堂を残し、法起寺の伽藍は兵乱により焼失してしまいました。それから100年後の1677年、真政律師(しんせいりっし)が法起寺の再興を発願し、復興が開始されることになります。その際、創建時の三重塔に見られた初層・二層目と三層目の大きさが違っていた形状を、他の寺の三重塔と同じように三層目も下層と同じ大きさに改修されました。この時の修復は1678年に完了しました。

明治時代の修理においては、1897年1月に明治政府が三重塔修理費を捻出し、修理が開始されます。この背景には明治維新以降、廃藩置県により藩主であった大名家が生活に困窮し、所持していた美術・芸術品が海外の美術商などに買い取られ海外に渡ってしまうということが起こりました。そのため古器旧物を保存する動きが1871年頃より明治政府主導で起こり、1880年頃には主要な社寺に対して保存するための費用が交付されるようになります。その一環として、法起寺にも三重塔保存用の費用が交付されたのです。

また、1897年には文化財をより強い規制と手厚く保護することを目的として『古社寺保存法』が制定されます。これにより、その年12月には特別保護建造物の指定を受けました。明治時代の修理においては、翌1898年9月に完了しました。

昭和の修理については、1972年に解体しての大がかりな修理が行われました。昭和の修理における特徴は、三層目を創建時当時と同じである二間に戻す工事、それまでの時間経過の中で消失してしまっていた二層目と三層目の手すりの復元が施されました。これにより、創建当初に存在していたとされる「卍崩しの高欄」が設置され、勇壮な威容を再び放つようになりました。

1897年12月28日に国の重要文化財に指定され、1951年6月9日には国宝に指定されました。また1993年には、日本で初となる世界遺産として、姫路城と「法隆寺地域の仏教建造物」が認定されましたが、法起寺においては、三重塔がこの世界遺産に含まれています。

聖天堂(しょうてんどう)


聖天堂は幕末の1863年2月、当時の住僧であった順光により創建された、歓喜天(かんぎてん)を安置するための建物です。木造で棟を持たないピラミッド型の宝形造(ほうぎょうづくり)となっており、一辺当たり約6mの建物となっています。

法起寺の創建時に金堂が建っていた場所に再建された建物で、本尊に歓喜天像を安置するために建てられており、名前も歓喜天の別称である聖天を冠して聖天堂と名付けられています。

聖天堂が歓喜天を安置するための建物だということを視覚的に証明しているのが、軒瓦や柱などのいたるところに施された二股の大根のデザインです。これは歓喜天の好物が大根だということで、大根をあしらったと云われています。

聖天堂が法起寺に建てられた理由としては、江戸時代に聖天信仰が流行したことが影響しているものと考えられます。創建時期が江戸時代末期ということもあり、民衆に親しまれた「聖天さん」をお祀りすることが目的だったとみられています。

また、歓喜天は、十一面観音の化身である像頭の女神と魔物のヴィナーヤカが仏教に帰依した同じく像頭の男神の二神で一つの仏教の神といわれ、法起寺の本尊が十一面観音菩薩像であることから、歓喜天を安置したのかもしれません。

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収蔵庫

収納庫は他の堂宇と違い、今から40年前の1982年に新しく作られた鉄筋コンクリート造の建物です。

法起寺では、創建時は本堂である金堂に本尊を安置していましたが、江戸時代の復興時には金堂が復元されなかったため、講堂を本堂とし本尊である十一面観音菩薩立像を安置していました。現在は本尊と他7体の仏像と合わせて、収蔵庫に安置しています。

飛鳥時代に造立された高さ22cmの菩薩立像も安置されていましたが、重要文化財指定をされ、現在は奈良国立博物館に所蔵されています。

木造十一面観音像(重要文化財)

法起寺本尊の十一面観音像は平安時代に造立された木造の仏像です。高さは3.5mあり、金堂の無い法起寺では現在は収納庫に安置されています。

十一面観音像というと、女性らしい美しいプロポーションをした像が全国的に多いのですが、法起寺の十一面観音像は肩幅ががっしりとした男性的な体つきをしています。

奈良時代の十一面観音像には、このような男性的な特徴を持った像が多く見られたですが、平安時代に製作された仏像としては、大変貴重な仏像だといえます。

南大門

法起寺が創建されて以降、最初に南大門が造営された時期は、わかっていませんが、現存する南大門は江戸時代初期の1678年頃、真言律宗の円忍とその弟子により、法起寺が復興された際に、あわせて建てられたものと伝えられています。

南大門の建築様式は四脚門(しきゃくもん)と呼ばれ、門柱の前後に控柱を2本ずつ、左右合わせて4本立てた様式となっています。正面に配されることが多い格式の高い門であり、現在は開かずの門となっている南大門も、過去には法起寺の正面の門として多くの人々を迎え入れていたと想像されます。

現在は、寺への通用口としては西側にある門が使われていることから、南大門は門として使われることはありません。門の外は農道とつながっていることから、門の近くまでは農道を歩いて近づくことは可能となっています。

法起寺周辺のコスモス


飛鳥の雰囲気を今に残す斑鳩町は、斑鳩の里の景観形成の一環とし、農家の方々と協力した「花いっぱい運動」に取り組み、地域一体でコスモスが栽培されています。秋になると、町内5地域で約50,000平方メートル、法起寺周辺だけでも約20,000平方メートルに渡りコスモスの花の絨毯が広がります。

よく見かけるコスモスの花と三重塔の風景写真は、法起寺を南東側写したもので、斑鳩の秋の風景として有名です。

特に、コスモスと三重塔、夕日をセットに撮影できる法起寺南東側のスポットは人気スポットとなっています。

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