日本建築の歴史 、建築様式
日本の建築に大きな影響を与えたのが古代に伝来した仏教です。仏教建築の影響を受けつつ、在来の技術を発展させたのが神社建築でした。また、時の有力者である貴族や武士も、寝殿造りや書院造り、数寄屋造りといった独特の住居に住みました。
さらに、邸宅とともに発展したのが庭園です。日本庭園は寝殿造りの庭園に始まり、浄土式庭園や池泉回遊式庭園へと発展し、禅宗の影響により借景庭園や枯山水の庭も盛んに作られました。
日本の建築様式
日本の建築は3つに分けてとらえるとわかりやすくなります。1つ目は中国から伝来した仏教建築の様式、2つ目は日本古来の信仰の場である神社建築の様式、そして3つ目は時の有力者が住んだ住宅の建築様式です。
仏教建築の様式
仏教は6世紀半ばに中国大陸から伝来しました。その際、仏教建築の様式も日本に伝えられたと考えられます。初期の仏教建築は百済からもたらされましたが、7世紀初めの遣隋使や7世紀中ごろから9世紀末まで派遣された遣唐使は、中国(隋・唐)の建築様式を日本に伝える役割を果たします。
そして、日本に伝えられた仏教建築は日本の風土や日本人の感覚に合うよう改良されていきました。
伽藍配置
・飛鳥時代・奈良時代
伽藍とは、土地及び建物を含む寺院の総称です。伽藍を構成する主な建物は次の通りです。
- 金堂(本堂・仏殿)
- 塔
- 講堂
- 中門
- 南大門
まず、金堂は寺院の中心となる建物で、本尊を安置する建物です。本堂、あるいは仏殿(禅宗:臨済宗・曹洞宗)ともよばれます。塔はインドの仏教建築である仏塔(ストゥーパ)を起源とする建物で、釈迦の遺骨である仏舎利を祀りました。塔には三重塔や五重塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)などがあります。
講堂は説法などの儀式の場として用いられる広い建物で、奈良時代までは通常、金堂の背後に建てられました。
南大門は寺院の南にある門です。平安時代の初めごろまでは、正面を南として建築するのが一般的でした。そのため、南大門は寺院の正面玄関と位置づけられます。中門は、金堂や仏塔など寺院の中核部分を囲む回廊に設けられた門です。
なお、飛鳥・奈良時代の伽藍配置は、四天王寺式→飛鳥寺式→法隆寺式→薬師寺式→興福寺式→東大寺式と変化していきます。特に金堂と塔の関係を見ることで、仏教への考え方の変遷を見ることができます。
参照:鏡清澄の部屋
・四天王寺式は南から塔、金堂という順で並んでいます。南側は正面であり上位にあたるため、塔が金堂より重要視されていたことになります。
・飛鳥寺は塔を取り囲むように金堂が建っていますが、塔が中心となっており、塔が金堂よりも重要視されていたことを示しています。
・法隆寺は塔が西側、金堂が東側に配置されています。金堂の地位が上がり、塔と同じくらい重要になっていることがわかります。
・薬師寺は中央に金堂があり、塔が2つありますが、金堂が中心となっており、塔より金堂の方が重要になったことを示しています。
・興福寺の塔は薬師寺と同じく2つですが、金堂が3つあり、塔が次第に中央から離れており、塔の重要度が下がり金堂の重要度が増しています。
・東大寺は薬師寺と似たような伽藍配置ですが、2つの塔は中門の外に配置されています。これは更に塔の重要度が下がり、装飾としての意味合いの方が強くなってきたことを示しています。
このように奈良時代の伽藍配置は塔中心だったものが金堂中心に変わっていく様子がわかりますが、これは古くはお釈迦様の遺骨が重要視されていましたが、次第に遺骨よりも仏像や経典(教え)に重きが置かれるようになったことを示しています。
・平安時代・鎌倉時代
平安時代以降、整然とした伽藍配置は行われなくなり、地形に応じた伽藍配置となりました。その理由は、平安時代に密教が隆盛したことにあります。
密教寺院の多くは、平地が少ない山中に建てられることが多かったため、飛鳥時代・奈良時代のような広い敷地を確保するのが困難でした。そのため、規則性よりも地形に即した伽藍配置が行われるようになりました。
平安時代後期になると浄土の教えが盛んになり、阿弥陀信仰が広まりました。浄土の教えとは、阿弥陀仏(阿弥陀如来)を信仰すれば、死後に阿弥陀仏が治める西方浄土(極楽)に往生できるという信仰のことです。
藤原道長や藤原頼通をはじめとする貴族たちは死後の極楽往生を願い、きそって阿弥陀仏を祀る阿弥陀堂を建立しました。そのため、平安時代後期の伽藍配置は阿弥陀堂を中心としたものとなります。
しかし鎌倉時代に入ると、浄土真宗の寺において、阿弥陀堂と開祖親鸞を祀る御影堂(ごえいどう)が並立する伽藍配置が現れ、中には、阿弥陀堂より御影堂が大きい寺院も出現しました。
さらに鎌倉時代に臨済宗・曹洞宗といった禅宗が伝わると、飛鳥時代・奈良時代の南大門にあたる総門、中門にあたる山門、仏殿、講堂にあたる法堂(はっとう)と呼ばれる中心的な建物を一直線に縦に長く並べる伽藍配置がみられるようになりました。
縦長に伽藍を配置する理由は、伽藍配置を法堂が頭、仏殿が心臓、その他の建物が手足というふうに人体に見立てたからです。
また、寺院の敷地内に師や高僧の死後、その弟子が師の徳を慕い建てた塔頭(たっちゅう)という子院(しいん)も存在しました。
平安時代から鎌倉時代にかけての仏教建築
平安時代末期から鎌倉時代にかけての仏教建築の様式は以下の4タイプに分類できます。
- 和様
- 大仏様(天竺様)
- 禅宗様(唐様)
- 折衷様(新和様)
・和様(わよう)
和様は6世紀半ばに大陸から伝わってきた建築様式が日本の風土や日本人の文化に合わせて変化した建築様式のことで、ゆるい勾配の屋根、低い天井や細い柱、簡素な装飾といった特徴を持ちます。代表的建築物は三十三間堂や石山寺多宝塔、平等院鳳凰堂や、唐招提寺の金堂があります。
・大仏様(だいぶつよう)(天竺様(てんじくよう))
大仏様は鎌倉時代に中国から伝わった建築様式で、東大寺を再建した僧の重源(ちょうげん)が採用した建築様式です。雄大豪壮なつくりで、「貫(ぬき)」と呼ばれる柱と柱を繋ぐ構造が特徴的です。「貫」は建物の強度を増すための優れた技法で、その後の日本の建築に大きな影響を与えました。しかし、重源が亡くなってからは急速に衰退していきました。代表的建築物は東大寺南大門、兵庫の浄土寺の浄土堂があります。
・禅宗様(ぜんしゅうよう)(唐様(からよう))
禅宗様は大仏様と同じく中国から伝わった建築様式で、禅宗寺院に多く採用されました。屋根が急勾配で軒反りの強いのが特徴で、「貫」など大仏様と共通する特徴も多いですが、大仏様より装飾が細やかな花頭窓(かとうまど)という禅宗様の特徴である窓が用いられています。代表的建築物は円覚寺舎利殿、山口県の功山寺の仏殿、和歌山県の善福院の釈迦堂などがあります。
・折衷様(新和様)
折衷様は和様が大仏様、禅宗様の特徴を部分的に取り入れて生まれた様式で新和様ともいいます。代表的建築物は観心寺金堂です。
仏教建築の細部
・基礎部分
仏教建築の建物の土台となる基礎部分を基壇(きだん)といい、基壇の上に礎石を置き、柱を立てます。
基壇は土を積み上げて作りますが、目的は水の浸入を防ぐことや水はけをよくすることです。
この工法は仏教とともに中国や朝鮮から伝来したと考えられます。
・屋根飾り
仏教建築の屋根飾りの代表は、屋根の妻側に取り付けられる破風(はふ)で、破風には入母屋破風、比翼入母屋破風、切妻破風、千鳥破風、比翼千鳥破風、唐破風などがあります。
・窓
仏教寺院でよくみられる窓飾りに連子窓(れんじまど)と花頭窓があります。連子窓は四角い形の窓に縦の格子を並べたで、花頭窓(火灯窓)は窓の上枠を花や炎の形のように飾った窓枠です。
連子窓 | 花頭窓 |
神社建築の様式
神社建築は寺院建築と比べ成立過程に不明点が多いですが、仏教建築の影響を受けながら独自の発展をしたと考えてよいでしょう。仏教伝来直後は仏教建築との差別化が図られましたが、奈良時代に神仏習合思想が広がると、相互に影響を受けるようになります。
神社建築の基本
神社の建物は次の5つに区分できます。
- 本殿(ほんでん)
- 幣殿(へいでん)
- 拝殿(はいでん)
- 舞殿(まいどの)
- 権殿(ごんでん)
・本殿
神社の建物のうち、ご神体を安置している場所を本殿といいます。原則として、一つの社殿(神社の建物)に安置される神は一柱だけです。本殿は御祭神のための建物であり、参詣者が本殿に立ち入ることはありません。
御祭神が自然物である場合、自然物そのものが御神体となるので、その神社に本殿はありません。たとえば、奈良県桜井市にある大神神社(おおみわじんじゃ)は、三輪山自体が御神体であるため、御神体を祀る本殿は存在しません。
・幣殿
幣殿は神への貢ぎ物である幣帛(へいはく)を備える場所です。本殿と拝殿の間に位置しますが、社殿によっては拝殿と一体化しているものもあります。
・拝殿
拝殿は祭祀や儀式を行う社殿で、祭礼の時は神職が座る場所となります。参拝者は拝殿の手前で柏手を打ちますが、祈祷などの場合は参拝者も拝殿に登ります。拝殿は多くの神社で見られますが、伊勢神宮には拝殿がありません。
・舞殿
舞殿とは、舞楽を行う社殿のことで、平安時代以降に建てられるようになりました。神に献ずる神楽(かぐら)が行われることから、神楽殿ともいいます。
・権殿
社殿を修復する間、御神体などを一時的に移す建物です。権の字は正当なものへの代用の際に用いられる文字で、権が付くものは“臨時”や“仮”といった意味合いを持ちます。
神社本殿の主な建築様式
神社本殿の建築様式は大きく2つに分けられます。神明(しんめい)系と大社(たいしゃ)系です。神明系の代表格は流造り(ながれづくり)と権現造り(ごんげんづくり)、大社系の代表格が春日造り(かすがづくり)です。
流造り(ながれづくり)
流造りは、全国的に広く普及している本殿の建築様式です。切妻屋根の頂点と平行になる部分に入り口を持ちます。日本の屋根には平(ひら)と妻(つま)という向きがあり、屋根の平側に入り口を持ち、入口側正面の屋根を前面に延ばし入口を覆っているのが流造りの特徴です。この前面が伸びた形状を向拝(こうはい)といい、参拝者が礼拝するための場所になります。
参照:コトバンク【流造】
正面の横幅により、三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)や一間社流造り(いっけんしゃながれづくり)などといい(一間:約1.82m)、一間社流造りの神社のほうが圧倒的多数を占めます。
三間社流造りの代表は上賀茂神社や下鴨神社で、一間社流造りの代表は京都の宇治上神社の内殿です。
権現造り
本殿と拝殿が分かれていて、二つの建物を「相の間(あいのま)」という細長い部屋でつなげる建築様式です。相の間は神様への捧げものを奉るための幣殿(へいでん)としての役割も果たしており、近代神社建築を代表する様式です。
屋根は仏教建築でよく用いられる入母屋造りを用います。神社建築としては比較的新しく江戸時代以降、徳川家康を祀った東照宮(とうしょうぐう)に採用されたことにより、各地に広まりました。
京都の北野天満宮なども権現造りとなっています。
参照:コトバンク【権現造】
春日造り
春日造りは流造りに次いで普及している建築様式で、切妻屋根の頂点と垂直になる部分に入り口を持ち、入口の上に向拝が設けられています。主に近畿地方に分布し、代表的な建築物は奈良県の春日大社や熊野三山の本殿です。
参照:コトバンク【春日造】
本殿に見る仏教建築と神社建築の違い
仏教建築と神社建築は互いに影響しあってきました。その反面、仏教独自、神道独自の建築要素もあります。
屋根の形式
仏教建築の屋根形式
仏教建築の屋根は寄棟造り(よせむねづくり)が基本となり、宝形造り(ほうぎょうづくり)や入母屋造り(いりもやづくり)といった屋根も用いられます。
屋根の材質は瓦葺きが基本です。
神社建築の屋根形式
神社建築で最も用いられるのは切妻屋根です。古来、切妻屋根は伝統建築のみならず、家屋にも使用されました。屋根の材質は檜皮葺き(ひわだぶき)か杮葺き(こけらぶき)が多くみられます。
神仏習合が一般的だった江戸時代に建てられた権現造りの神社では、寺院に用いられた入母屋造りの屋根の建物もあります。
住宅の建築様式
日本の住宅建築は貴族や豪族、大名などの支配階級の住宅建築様式と一般庶民の住宅建築様式があります。
寝殿造り(しんでんづくり)
平安時代に貴族の邸宅に用いられた建築様式です。広大な敷地を粘土を固めて作った築地塀(ついじべい)で囲み、多くは敷地内の南半分に池を配した庭園を、北半分に邸宅を構えました。
庭に面した中心に高床式の木造の寝殿(正殿)を建て、屋根は檜皮葺きや茅葺き、または板葺き、床は基本的に板張りで、畳は部分的にしか使われませんでした。
寝殿の東西には対屋(たいのや)が置かれ、寝殿と各建物は渡殿という廊下で繋げられました。対屋から庭園に延びた廊下の先には釣殿があります。釣殿は夏の暑い日に涼むための場所として利用されました。
なお、寝殿造りの住宅には部屋を区切る間仕切りがなく、御簾(すだれ)を使い必要に応じて部屋を区切っていました。
参照:コトバンク【寝殿造】
書院造り(しょいんづくり)
平安時代の終わりころから武士の勢力が強まり、武家政権の室町幕府が成立したことにより、住宅の建築様式も寝殿造りから武家風の書院造りへと変化しました。
書院造りとは、室町時代後期から安土桃山時代にかけて成立した武家住宅の建築様式で、書院と呼ばれる書斎を兼ねた居間を建物の中心とします。
そして日常生活の住まいから対面儀礼をおこなう接客空間としての機能が重視されました。
これは、平安時代に比べ動乱が頻発する中世において、書院での交渉や情報交換が重視されるようになったためです。
書院造りの構造上の特徴は、格式を重視し、主人の座を荘厳化するための場を設けたことです。主人の着座する場所は上段の間となり、その背後に床や棚、付書院などを設けました。これらの要素は現代日本住宅の和室に通じるものとなりました。
書院造りの代表例としては慈照寺 (銀閣寺)の東求堂の同仁斎などがあります。
武家風書院造り(ぶけふうしょいんづくり)
江戸時代に入ると、華麗な障壁画などの多様な室内装飾を発展させた武家風書院造りが生まれます。これは将軍や大名といった人々が対面の場として発展したもので、住宅としてというより儀式の場として発展した結果といえます。
武家風書院造りの代表的な建物としては西本願寺の書院対面所があります。
参照:浄土真宗西本願寺
数寄屋造り(すきやづくり)
数寄とは風流であることを意味し、数寄屋造りとは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて書院造りに茶室を取り入れた建築様式です。
数寄屋造りの特徴は、書院造りで重視された格式を極力排し、瀟洒でありながら、多彩な建材や襖、障子などの細部のデザインにこだわることで茶道に通じる簡素な美を追求したことです。
茶道の大成者である千利休が、無駄なものをそぎ落としシンプルさの中に美しさを見出す感性を重視し、その考えが茶室や茶室の影響を受けた数寄屋造りに反映されたからです。
数寄屋造りの代表例は西本願寺黒書院です。
一般庶民の住宅
一般庶民の住宅は縄文時代の竪穴住居からはじまります。竪穴住居は、円形や方形に地面を掘り下げ、床の部分を地面より低くした半地下の住居です。
奈良時代以後、地面を掘り下げず、柱を地面に埋め込んで屋根をかける掘立柱住居が出現します。平安時代には竪穴住居と掘立柱住居が混在していたと考えられます。以後、江戸時代の終わりまで民家の主流は掘立柱住居でした。
明治時代以降になると、レンガやコンクリートの使用が盛んになり、土台をつくることが一般的となったため、掘立柱住居は徐々に姿を消しました。
城郭建築
城郭建築とは、敵の侵入をはばむ軍事的な建築物の総称です。戦国時代の初期は、戦いの機能が重視され、地形が険しい場所につくられましたが、やがて、住居としての機能が重視されるにしたがって、城郭が平野部に築かれるようになりました。城郭の種類は次の3タイプに分けられます。
- 山城(やまじろ)
- 平山城(ひらやまじろ)
- 平城(ひらじろ)
山城
山城は最も古くから存在した城郭建築で、険しい地形を防御に利用するため山地につくられました。山城には山全体を城塞とするものと、居住地と城郭を分離し、いざというときに山上の城郭にこもって戦うものがあります。
代表的な山城は竹田城や石見銀山を守った石見城です。
平山城
平山城は戦国末期ごろに多く築かれた平野部にある低い丘を利用した城郭です。これは、外国から鉄砲が伝わったことにより、遠距離からの集団戦へ戦法が変化し、より多くの人を城に住まわせておくためや人質をとらえておくために住居としての機能も併せ持つようになり、山ではなく小高い丘の上に建てられるようになったためです。
代表的な平山城は姫路城や三重県の丸山城です。
平城
平城は平野部に築かれた城です。軍事拠点としてだけでなく、住居としての機能を持ち、また、政治・経済の拠点としての役割も果たすようになったため、交通や商業の要衝である平地に築かれるようになりました。その代り、険しい地形で防御することができないため、高い石垣や水堀をつくり、防御を固めました。周囲に大規模な城下町が形成されました。
代表的な平城は京都の二条城や名古屋城、松本城などです。
日本の庭園様式
日本庭園様式の原点は、平安時代に書かれたとされる『作庭記(さくていき)』にあります。著者は不明ですが、寝殿造りの庭園の地形の取り扱いや立石の技法などについて詳細に述べられています。『作庭記』によれば、日本の庭園は自然と共にあることを目指していました。
寝殿造りの庭園
平安時代の庭園様式です。貴族たちの住居である寝殿造りの住宅には、必ず庭園が付属し、宴や儀式が催されていました。
庭園には池が設けられたものが多く、池には中島が配置され、中島へ渡る橋がかけられ、船を浮かべて楽しんだといわれています。
水に親しむ庭園形式は、水辺を神聖な場所と考える古代日本人の感性を反映したものかもしれません。
現存する寝殿造りの庭園はありませんが、歴史民俗博物館には典型的な寝殿造りの邸宅である藤原氏の邸宅である東三条殿と付属の庭園を復元した模型があります。
浄土式庭園
平安時代末期、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを願う浄土の教え(浄土教)が流行し、貴族たちは競って阿弥陀堂を建て、浄土思想にのめりこみます。
浄土式庭園は浄土思想の影響を色濃く反映した庭園で、園内を阿弥陀如来が創造した仏国土(浄土)にみたて、建物や庭の造形物を配置しました。極楽浄土は西にあると考えられていたので、園内の阿弥陀堂は東を正面にして建立されました。
阿弥陀堂の後方には築山(つきやま)と呼ばれる鑑賞用の山があり、阿弥陀堂と阿弥陀堂の後方にある築山(つきやま)と呼ばれる山が極楽浄土そのものを表現していました。
代表的な浄土式庭園には、平等院の庭園、平泉の毛越寺(もうつうじ)庭園などがあります。
池泉(ちせん)回遊式庭園
回遊式庭園は、園内を回遊して風景の変化を鑑賞し、楽しむ庭園のことです。池泉回遊式庭園は池や泉が中心の回遊式庭園で、江戸時代に大名たちがこぞって自らの広大な屋敷に造ったことで全国的に広まりました。
代表的な池泉回遊式庭園は、京都の二条城二之丸庭園や桂離宮の庭園です。
借景庭園
借景庭園は、庭の外にある風景や山並みも庭の要素と考える庭園様式のことです。
禅宗寺院では修行も兼ねて作庭に力が入れられていたため、借景庭園は禅宗寺院で多く見られ、借景庭園の名手として鎌倉時代末期の禅僧である夢窓礎石(むそうそせき)が知られます。
夢窓礎石の傑作の一つに、後醍醐天皇の菩提を弔うため足利尊氏が建立した天龍寺庭園があり、庭園内の曹源池を手前とし庭の外の嵐山や亀山を借景とする庭は、周囲の山も庭の一部と感じさせるつくりで、桜や紅葉といった山の四季も庭の造形の一部として取り込んでいます。
枯山水
枯山水は、水を使わず石や砂だけで山や川などの自然造形を抽象的に表現する庭園様式です。池泉回遊式とは異なり、庭園を歩くことよりも室内から庭園を眺めることを重視しています。
最も有名な枯山水は龍安寺の石庭ですが、書院造りや数寄屋造り、茶室の庭園としても枯山水は取り入れられました。
世界中の庭園建築において、水の流れや池は不可欠の要素ですが、枯山水では水を使用せずに水を表現しており、これも日本文化の独自性をよく表しています。
[参考書籍]
すべてがわかる世界遺産大辞典(上)(世界遺産検定事務局)
[参照サイト]
Wikipedia 大仏様