真言宗総本山 東寺(教王護国寺) の歴史と建物

東寺

東寺は真言宗の根本道場として、真言宗全体の総本山であるとともに、宗派の一つである『東寺真言宗』の総本山であり、真言宗十八本山(真言宗の主要16派の総大本山の18の寺)の一つです。

創建は平安時代で、国の鎮護を目的とし、天皇の発願(ほつがん)により創建されました。
正式名称は教王護国寺(きょうおうごこくじ)といいます。

中世以降の東寺は、弘法大師に対する信仰の高まりにより「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになりました。

東寺を含む近隣一体の古刹は、1994年12月、『古都京都の文化財』として、ユネスコより世界遺産に登録されました。

ここでは、東寺やその伽藍の歴史、現在の東寺について紹介していきたいと思います。

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東寺の歴史

東寺の歴史は、平安遷都よりはじまります。

794年、第50代桓武天皇(737~806年)は平安遷都(794年)を敢行し、長岡から平安に都を移しました。

784年に行った平城京から長岡京への遷都からわずか10年で再び遷都を行ったのです。

これには、長岡京への遷都(784年)後、遷都の実質責任者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)暗殺事件が関係しています。

天皇に即位してすぐの桓武天皇は、平城京が抱える大きな課題に直面していました。

・下水処理能力不足による衛生上の問題
平城京は水路の問題により、下水処理能力が低く、排せつ物などで衛生的な問題を抱えていたといいます。
そのため、清潔さを保つため、水路が必要と考えました。

・奈良仏教勢力や天武天皇血統皇族の影響力
第45代 聖武天皇(701年~756年)以降、奈良仏教勢力が政治に介入するようになります。

特に聖武天皇の娘であり、第48代称徳天皇(第46代代孝謙天皇)の際には、宇佐八幡宮神託事件が起こります。

道鏡という僧が宇佐八幡宮の神託を受け、皇位を手に入れようとした事件でした。

このような事件が起こるようになったこともあり、奈良仏教を遠ざけようと考えたのです。

また、第40代天武天皇血統皇族の影響力も桓武天皇には脅威となりました。

桓武天皇は、天武天皇の兄、第38代天智天皇の曾孫に当たります。

その桓武天皇の父である第49代光仁天皇((こうにんてんのう)709年~782年)は、天智天皇の第7皇子の子どもであり、孫にあたります。

この天智天皇は、即位前に蘇我入鹿を暗殺する乙巳の変(いっしのへん)を起こし、天皇中心の政治を行う中央集権的な政治体制づくりであった大化の改新を推し進めました。

天智天皇は当初、弟である大海人皇子(おおあまのみこ)を立太子していたのですが、病に伏せた際に子どもである大友皇子(おおとものみこ)に皇位を継承したいと考えるようになります。

それを悟った大海人皇子は吉野に隠棲しました。

その後、大友皇子が大海人皇子を打つため兵を集めているという情報を得ると、吉野を離れ挙兵します。

その後、両勢力はぶつかり、天智天皇の死後に即位していた大友皇子(第39代弘文天皇)は敗北し自害したのです。

この壬申の乱をもって、大海人皇子が40代天武天皇として即位します。

天武天皇は、天智天皇が行った天皇中心による律令国家づくりを継承しました。

それ以降、天武天皇の作った制度をもとに、天武天皇血統の天皇が48代称徳天皇((しょうとくてんのう)第46代孝謙天皇が一度退位したが再び即位)まで続くようになります。

48代称徳天皇は女性天皇で独身でした。そのため、後継者がいなかったこともあり、天智天皇の孫であり、称徳天皇の姉妹であった井上内親王を妻にしていた光仁天皇が即位することになりました。
天智天皇の血統の貴族も限られた状態であり、光仁天皇自身も62歳という年齢でした。
そのため、49代光仁天皇が即位した際の朝廷は、天武天皇から続く天武天皇系統の貴族が中心となっていました。

そのような経緯があったことから、いつ天武天皇系の貴族が自身を陥れ、皇位を奪おうとするかわからないという不安が桓武天皇にはあり、天武天皇系の血統の貴族の力を恐れていたのです。

このような課題を解決するため、平城京から40km離れた長岡に都を移すことになりました。

長岡は桓武天皇が信頼を寄せていた藤原種継の出身地であり、藤原種次は長岡を推薦し、遷都が決定しました。

経緯から藤原種継が造営使となり、遷都が行われたのです。

遷都が完了し、下水の問題は解決されました。

奈良仏教勢力については平城京に寺があるため、僧たちは寺を離れられず、政治からも距離がとられました。

また、遷都に伴い、家臣を天武天皇系統から一新したのでした。

翌785年、種継は造宮の監督中に矢を打たれ、翌日に死亡しました。

桓武天皇が大和国に出向いて留守にしている間に起こった事件でした。

藤原種継とのライバル関係など、種継が死んで得する人間関係の記録は残されておらず、長岡京遷都直後であることから、この暗殺は桓武天皇新体制への不満によるテロではないかと考えられています。

藤原種継の暗殺事件では、皇太子の御所の内政を担当していた春宮坊(とうぐうぼう)という機関の関係者、平城京の寺院に関連の深い貴族・皇族が処罰されました。

現在では、春宮坊の長官であった大伴家持の死後、春宮坊に関係のあった大伴氏をはじめ反桓武天皇勢力が暴発的に事件を起こしたとみられているのですが、当時の皇太子である桓武天皇の弟、早良親王(さわらしんのう)が首謀者として処罰されたのでした。

早良親王は幼いころ出家していました。

東大寺の開山である良弁が死の間際だった頃、早良親王は東大寺で僧をしていました。

僧として優秀であった早良親王に、良弁は後事を託したのでした。

桓武天皇が即位するにあたり、早良親王は光仁天皇の勧めによって還俗し、皇太子に立てられました。

しかし還俗後も、南都寺院はいろいろな相談を早良親王に行っていました。

そのため、早良親王は、東大寺や南都寺院との関係が強かったのです。

南都寺院の影響力を排除しようとする目的であった桓武天皇による長岡京遷都は、早良親王とは方向性の違う施策でした。

そのため、この桓武天皇による遷都を阻止するため造反したと考えられたのです。

早良親王は、淡路に流される際に無実を訴え続け、断食を行いました。

その断食が原因で、淡路にたどり着く前に絶命してしまったのです。

しかしその後、桓武天皇の妃や生母が病死してしまい、皇太子であった安殿皇子(あてのみこ)も病気にかかってしまいます。

そのうえ、飢餓や疫病が大流行したことで、長岡京に早良親王の怨霊がたたっていると恐れられるようになりました。

こうした経緯から、遷都して間もない長岡京を捨て、平安京への遷都を桓武天皇は決意したのです。

遷都に当たり、桓武天皇は、陰陽道を用いたといわれています。
陰陽道を用いた背景には、怨霊への恐怖心があったのです。

こうして794年、桓武天皇は都を平安京に移したのでした。

新たに作った平安京は唐の首都である長安を参考にした区画整備により、首都の正門である羅生門から大内裏(だいだいり)正門朱雀門まで北にまっすぐな朱雀大路(すざくおおじ(※1))がつくられました。

※1律令制時代の日本における都内の大路で、条坊制(中国・朝鮮半島・日本の宮城都市に見られる都市計画)の都市において宮城(皇居)・官衙の正面から南方に向かう道のこと。
(出典:Wikipedia

796年には、その大路を境とし、羅生門を挟む形で左右に東寺と西寺が建立されます。

この2つの寺院は、それぞれ国の東と西の王城鎮護を担う官寺(かんじ)でした。

官寺とは、国が費用などを支出して創建する天皇発願の寺院をいいます。

806年、桓武天皇は崩御し、平城天皇(へいぜいてんのう(774~824年))が即位、その3年後には嵯峨天皇(786~842年)が即位します。

嵯峨天皇は、父である桓武天皇の時代での二度に渡る遷都で、民たちが労働力として駆り出され疲弊して苦しんでることに心を痛めていました。

そこで、806年に唐での修行を終え、中国密教の奥義を持って帰国した空海は、嵯峨天皇に国民の不安を鎮め、国を安定させるためには新しい仏教が必要であると申し出ます。

空海の力を信じていた嵯峨天皇は、空海に民の不安を取り除き鎮静化を行うように命を下します。

そのような経緯より空海は、810年には東大寺別当を命じられ、奈良仏教との融合を果たしながら真言宗の布教活動を行っていきます。

そして823年に嵯峨天皇より、東寺を下賜(かし)されたのです。

空海は、東寺の下賜にあたり、
“真言密教の根本道場とするため、他宗を排する”
という条件をだしたといいます。
それが嵯峨天皇に認められ、空海が東寺を預かることになり、現在まで続く真言宗総本山となったのです。

平安時代後期になってくると、東寺は一時衰退します。

東寺が位置する京の西部地域は湿地が多い土地でした。

水はけが悪く、人が住むには不向きな土地だったので、貴族や民衆は水はけのよい東側の土地に移住してしまいました。

そのため、東寺周辺は荒廃してしまい、併せて東寺も衰退したのです。

しかし、鎌倉時代になると弘法大師信仰が高まります。

鎌倉時代初期の頃までは、空海への信仰は上流階級の間でとどまっていたのですが、時代の経過とともに空海の超人的な逸話が庶民に広がっていき、信仰を集めていくようになりました。

それとともに、『お大師様の寺』として皇族から庶民まで、東寺は広く信仰されるようになったのです。

特に後白河法皇の皇女であった宣陽門院(せんようもんいん)は、空海に深く帰依しました。
現在に続く『生身供(しょうじんく(※2))』や『御影供(みえいく(※3))』なども宣陽門院が創始したものなのです。

※2空海に食事を届ける儀式
※3毎月21日に弘法大師空海に報恩感謝する法要

大師信仰は鎌倉時代末期でも続いており、後宇多天皇(ごうだてんのう(1267年~1324年))や後醍醐天皇(ごだいごてんのう(1288年~1339年))、足利尊氏などからの援助も受け、東寺の反映は続きます。

しかしながら、1486年に発生した土一揆による火災により、主要な伽藍のほとんどが焼失してしまいます。

その後、1596年の大地震により、講堂などの伽藍も損壊してしまいました。

2年後の1598年に、豊臣秀吉の正室である高台院(こうだいいん)により講堂は修繕され、1603年には、豊臣秀頼によって金堂が再建されます。

江戸幕府が興ったのちには、徳川家からの寄進などもあり五重塔が再建されました。

1934年3月13日には史跡(※4)に指定され、1994年12月には世界遺産に登録され今に至ります。

※4貝塚、集落跡、城跡、古墳などの遺跡のうち歴史・学術上価値の高いものを指し、国や自治体によって指定されるもの。
(出典:Wikipedia

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東寺と真言宗

東寺は、823年に空海に下賜されたことによって、真言密教のお寺となりました。

それ以降、真言宗の総本山としての地位を持つ寺として今日まできています。

空海は、それ以前の819年に、嵯峨天皇の許可を得て、高野山に金剛峯寺の伽藍建立を行っていました。

832年には、高野山にて隠棲(いんせい)するようになります。

そして835年に高野山金剛峰寺で入定(にゅうじょう)しました。

空海の死後、空海ゆかりの寺は、真言宗を布教し、真言宗全体を管理・継承していくため空海の弟子たちに託され、管理されていました。

平安時代、真言宗の聖地である東寺・金剛峯寺の間では、東寺が本寺であり、空海の私寺であった金剛峯寺が東寺の末寺である力関係になっていました。

空海の弟子たちが真言宗を布教していくなかで、金剛峯寺、神護寺、安祥寺、仁和寺、醍醐寺など多くの真言宗の寺に、国家公認の僧侶を養成することができる許可が下されました。

これにより、それぞれの寺で師資相承(ししそうしょう)を重視するため枝分かれし、分派独立していきました。

それぞれの寺院が独立した傾向を持つようになってくると、真言宗として全体を管理・継承していく役割が必要になってきました。

そのような背景から、東寺長者(東寺の管理者・長官である僧侶)を真言宗全体の最高権威者とする制度が確立されました。

東寺長者は、鎌倉時代も真言宗の最高権威者とされ、東寺の末寺であった金剛峯寺の座主も2代座主以降兼職していました。

しかし、11世紀中頃になると、平安時代以降の度重なる天災により、金剛峯寺は荒廃していました。

この荒廃した金剛峯寺を復興させようとしたのが平安時代後期の真言宗中興の祖かつ新義真言宗始祖である覚鑁(かくばん)です。

覚鑁は後に興教大師(こうぎょうだいし)と呼ばれるのですが、仁和寺で仏教の勉強をはじめ、20歳で正式な僧侶になります。

その後高野山に修行に向かいますが、その荒廃した姿を見て、高野山を昔の姿に復興しようとします。

ただ、荒廃している高野山(金剛峯寺)であっても、東寺長者の支配化にありました。

高野山(金剛峯寺)復興のためには、真言宗の団体を刷新し、真言宗の教えを伝える新たな組織が必要と考えます。

教育活動を行う拠点として伝法院を建立し、空海の遺志に沿う活動を行い、東寺長者からの高野山(金剛峯寺)独立を図ろうとしたのでした。

そして、白河法皇から覚鑁が伝法院の座主と金剛峯寺の座主を兼務する宣言が出されたことにより、覚鑁の御誓願は短期間で達成されたのです。

しかし、高野山側(金剛峯寺内部)では、覚鑁のこのような活動は意図しないものであり、覚鑁と金剛峯寺との間では、対立を招いてしまいました。

高野山の東寺からの独立に対しての反発や覚鑁に対しての嫉妬などもあり、覚鑁は混乱を納めるため金剛峯寺と伝法院の座主を2ヶ月で辞任し、高野を離れ根来山に隠棲したのです。

その後覚鑁は根来山の豊福寺(ぶふくじ)にて、これまでの教えであった念仏を唱える修行であった教えだけでなく、印を組み念を唱え、心を仏に向ける三密加持(※5)を行うことにより、大日如来が教えを説いてくれるという教えを説く伝法会を続けました。

※5自らの身体、言葉、心という三つのはたらきを、仏様の三密に合致させ、大日如来と一体になることであり、具体的には、手に仏の象徴である印を結び(身密)、口に仏の言葉である真言を唱え(口密)、心を仏の境地に置くこと(意密)によって、仏様と一体になる努力をしていくこと。
(参照:高野山真言宗 那須波切不動尊 金乗院 弘法大師の教え■身体・言葉・心を仏と一体化する—-三密加持

この覚鑁の新しい教義を伝える活動がきっかけとなり、覚鑁の教義を伝える新義派と、古くからの教義を重んじる古義派に分かれていったのです。

明治5年には古義真言宗を統括するため、管長職が設置されます。
このときの管長は古義真言宗派を統括し、宗務に当たる役割でした。

翌明治6年、神仏分離などの政策を進めていた政府は、東寺と金剛峯寺の両方の寺に対し古義真言宗の総本寺と定めます。

明治政府はさらに、一宗一管長制を進めており、真言宗にも求めました。

この政府指示により、これまで古義派内で設置されていた管長は、古義派・新義派を併せた全真言宗を統括するようになります。

そのため管長は、古義派の東寺・金剛峯寺、新義派の智積院・長谷寺が交代で就任するようになりました。

しかし、明治11年には仁和寺・大覚寺・広隆寺・神護寺・西大寺・法隆寺・唐招提寺が古義真言宗から離脱し、仁和寺にて西部真言宗として独自の管長をおくようになります。

また、新義真言宗の智積院・長谷寺も離脱し、真言宗新義派として独自の管長を置いたのです。

残った古義派の東寺と金剛峯寺は合併し、真言宗として独自の管長を置いたのでした。

こうして、政府方針で一つになっていた真言宗は「西部真言宗」「真言宗新義派」「真言宗」の3つの宗に分かれ、それぞれに管長が置かれる状態になったのです。

これを知った明治政府は、内務省より真言宗として一つの宗になり、管長を一人にするように指示を出します。

その結果、1879年に東寺を総本山とし、改めて真言宗の管長として東寺長者を置いたのでした。

しかし、その後も独立派と統一派とで対立は続き、分離派の寺は何度か分離独立の誓願を国に行います。

明治33年には政府の許可がおり各寺は独立していき、仁和寺は真言宗御室派、大覚寺は真言宗大覚寺派、金剛峯寺は真言宗高野派、醍醐寺は真言宗醍醐派、智積院は新義真言宗智山派、長谷寺は新義真言宗豊山派として独立しました。

東寺など残された寺も明治40年には独立し、観修寺は真言宗山階派、泉涌寺は真言宗泉涌寺派、隋心院は真言宗小野派、そして東寺は真言宗東寺派として独立し、実質一つにまとまった真言宗は解体状態になりました。
これにより、東寺を真言宗の総本山とする制度は終焉してしまいます。

その後、昭和16年に施行された宗教団体法により、真言宗は再度合同することになり、一つの組織である大真言宗が成立します。

太平洋戦争終結後、新しい宗教法人制度が制定されます。

日本国憲法にのっとり、信教の自由を尊重する目的で、宗教法人法が成立しました。

これにより、大真言宗も戦前の宗教団体法成立前の別々の独立した派として、分離独立していくのでした。

東寺についても真言宗東寺派として、再度活動を開始します。

その中で、昭和38年に東寺と真言宗東寺派との間で、より東寺中心とした宗派の形態に復帰することで紛争が起こり、真言宗東寺派に籍を置いていた多くの寺が、東寺を総本山とし、東寺真言宗として分派し独立しました。

現在、空海から始まった東寺長者の系譜をつなぐのは、この東寺真言宗となっており、真言宗東寺派は、京都市左京区にある正法寺を活動拠点としています。

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東寺の建物と歴史

東寺の伽藍は、平安時代に創建されました。

境内の中央部分では、縦一列に「金堂」、「講堂」、「食堂」が配置されています。

中心の建物から左側には、「小子房(しょうしぼう(※5))」「御影堂(みえいどう(※6))」「大日堂(だいにちどう(※7))」が並び、食堂の右側の瓢箪池を挟み南側には「五重塔」北側に「宝蔵」が立ち並びます。

それぞれの建物の歴史、また収蔵されている仏像についてご説明します。

※5天皇をお迎えする所。
※6宗祖などの像を安置する堂。
※7大日如来をまつる堂。

金堂(こんどう)

東寺 金堂

金堂は、平安遷都とともに建立された東寺の本堂です。

796年の東寺創建時に最初に建てられたのが、金堂でした。

最初の金堂は、創建から約700年近く、その姿を残していました。

しかし、1486年に発生した土一揆にて焼失してしまい、100年以上再建されることがありませんでした。

現在の金堂は、豊臣秀頼からの寄進によって再建されたものです。

豊臣家は、金堂再建までにも講堂の再建などを手掛けています。

その背景には、織田信長が上京した際に宿所として東寺を利用し、当時の復興を約束したことから、豊臣秀吉、徳川家康などが再興に関わったことに端を発します。

金堂については、秀吉時代からの豊臣家の家臣であり「賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍(※8)」の一人としても数えられる片桐且元(かたぎりかつもと)を奉行として再建を行いました。

※81583 年の豊臣秀吉が柴田勝家、佐久間盛政らと戦った賤ヶ岳の戦いで、秀吉のそばに仕えた片桐且元、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則の7人。

落慶は、関ヶ原の合戦後の1603年になりました。

現在の建物は、東寺の中国の国である宋の様式を取り入れた天竺様(てんじくよう(※9))と和様が合わさった安土・桃山時代の建物として、代表的なものに挙げられています。

※9鎌倉初期に東大寺再建のため,宋から重源(ちようげん(平安時代後期の僧))が取り入れた建築様式。

金堂は、外見が2階建てに見えますが、床と屋根との間にある下屋根は、裳階(もこし)と呼ばれるひさし的な役割をする装飾であり、実際は一階建ての建物となっています。

本尊は、薬師如来で、右側に日光菩薩、左側に月光(がっこう)菩薩を配した薬師三尊像となっています。

薬師如来は、あらゆる病気から人々を救ってくださる仏様です。

桓武天皇は、人々が安寧かつ幸せにあってほしいと願い本堂の本尊としたのかもしれません。

この薬師如来像は、光背に七体の化仏(けぶつ)を配しており、七仏薬師如来といわれています。

その台座部分には、如来を守り如来の願いを成就する働きをもつ十二神将が並んでいます。

像高は2.88mあり、台座と光背を含めると10mもの高さです。

薬師如来像としては、日本で最大の大きさとなっています。

本尊の三体についても1486年に焼失しました。

現存するものは、桃山時代の仏師である康正(こうしょう)により1603年に作られたものです。

いずれも国の重要文化財に指定されています。

金堂は、1897年12月に重要文化財に指定を受け、1953年3月に国宝に指定されています。

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講堂

東寺 講堂

空海は東寺を下賜されたのち密教寺院として教えを伝えるための中心的な建物と位置づけし、講堂を創建します。

創建時の講堂は、823年に工事が始まり、それから16年後の839年に講堂は完成しました。

創建時の講堂も金堂と一緒に焼失しましたが、講堂は最優先とされ、1491年に再建され、金堂は1603年に再建されました。

講堂は、空海が最も重要な位置づけとして創建した建物であったためでした。

この時に再建された講堂が、現存する講堂となっています。

講堂は1940年10月に重要文化財として指定されています。

講堂には、羯磨(かつま)曼荼羅と呼ばれる、曼陀羅をよりリアルに伝えるよう立体化したものが作られました。

羯磨曼荼羅は、大日如来を真ん中に配置した如来部を中心に菩薩部、明王部があり、それぞれ5体ずつ15体の仏像が並び、その仏像を取り囲むように梵天、帝釈天と四天王の6体、合計で21体の仏像が配置されています。

大日如来を万物の根源とし、真言密教の宇宙観を表現したものとなっています。

如来部の如来は五智(ごち)如来と呼ばれ、像高285cmの大日如来を中心に、北西に不空成就如来、南西に阿弥陀如来、南東に宝生如来、北東に阿閦如来という配置になっています。

五智如来は1486年の講堂の焼失とともに焼滅しましたが、大日如来は1497年に、他の4如来は130cm~140cmで江戸時代中期に再興されました。

五智如来は全て重要文化財に指定されています。

菩薩部は如来部の右側(東側)になっています。

菩薩部の中心には金剛波羅蜜多(こんごうはらみった)菩薩が配置されており、北西に金剛業(こんごうぎょう)菩薩、南西に金剛法(こんごうほう)菩薩、南東に金剛宝(こんごうほう)菩薩、北東に金剛薩埵(こんごうさった)菩薩が配置されています。

中尊の金剛波羅蜜菩薩は197cmあり、残りの4菩薩は93cm~95cmとなっています。

金剛波羅蜜多像は江戸時代再興ですが、それ以外の4体は当初像となっています。

明王部は如来部の左側(西側)です。

明王部は、不動明王像が中尊となっており北西に、大威徳(だいいとく)明王、南西に軍荼利(ぐんだり)明王、南東に降三世(ごうざんぜ)明王、北東に金剛夜叉〈こんごうやしゃ〉明王が配置されています。

これらの明王像は、五体全てが講堂創建時の像となっており、全て国宝指定されています。

如来部、菩薩部、明王部の四隅と東西が天部になります。

北西には広目天、南西には増長天、南東には持国天、北東には多聞天の四天王が配置され、四方を守護しています。

四体とも当初像で、高さは164cm~187cmとなっています。

さらに、東端には梵天(ぼんてん)、西端には帝釈天(たいしゃくてん)が配置されています。

この二体の像は約100cmの大きさで、当初像となっています。

これらの六体は、全て国宝に指定されています。

食堂(じきどう)

東寺 食堂

空海が没したのちの平安時代に建立されたと伝わっている食堂。

843年の記録には登場していることから、843年までには完成していたのではないかと云われています。

この創建時の建物は、1596年に地震で倒壊しました。

その200年後の1800年に再建工事が始まり再建されるものの、その建物は昭和5年に発生した火災で焼失、それから3年後の昭和8年に現在の食堂が完成しました。

創建当時は、千手観音菩薩が本尊として安置され、その周囲を持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王が護っていました。

千手観音菩薩は明治時代に国宝として指定を受けましたが、昭和5年の食堂の火災で焼損してしまいます。

現在は、修復されて宝物館に安置されています。

四天王も焼損しましたが修復され、現在は新たに安置された本尊である十一面観音菩薩を守護しています。

食堂は、かつては主要伽藍の一つでした。

東寺の境内は、南から北に向かい金堂、講堂、食堂とまっすぐに連続で並んいますが、この並びは、仏法僧を表していると言われます。

仏法僧とは仏教で重視する仏と法(仏の教え)、僧(仏の教えに従って修行する修行僧)のことです。

金堂には本尊を配置、講堂は密教を教える場、食堂は僧が生活の中に修行を見出す場として、「仏」は金堂、「法」は講堂、「僧」は食堂という関係性です。

食堂は、現在は東寺の納経所となっていますが、東寺が真言宗総本山の一つでもあるため、四国八十八ヶ所巡礼や洛陽三十三観音霊場などの納経所にもなっています。

そのため、多くの巡礼者の祈りの場となっています。

毎月21日には、四国八十八ヶ所巡礼を再現しているお砂踏みが行われています。

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五重塔

東寺五重塔

東寺の五重塔は、高さ54.8mで、木造建築物としては、日本一の高さを誇る建物です。

空海が講堂完成後の826年に着手した建造物で、空海が自ら奔走した大工事だったと伝わっています。

完成は、空海存命中にはかなわず、没してから約50年後に創建されました。

五重塔は、1055年の雷による最初の火災から1635年の焼失まで4度焼失しています。

現在の五重塔は1643年に徳川家光が復興に着手し再建された5代目の塔になります。

初層内部は、極彩色で彩られた密教空間となっています。

五重塔の中心の柱である心柱は大日如来を表し、東面には阿閦如来・弥勒菩薩・金剛蔵菩薩、西面には阿弥陀如来・文殊菩薩・観音菩薩、北面には、不空成就如来・普賢菩薩・地蔵菩薩、南面には宝生如来・除蓋障菩薩・虚空蔵菩薩が安置され、周囲を如来・菩薩が囲んでいます。

四方の柱には、金剛界曼荼羅が描かれています。

また四面の側柱には、八大龍王、壁には真言八祖像が描かれています。

1897年には重要文化財に指定され、1952年11月には国宝に指定されています。

二層目より上部の内部は、部屋が作られているわけではなく、高さを支えるために木組みが行われています。
なお塔の内部は非公開になっており、通常拝観はできません。

御影堂(みえいどう(大師堂))

東寺 御影堂(大師堂)

画像:東寺

御影堂は、境内の北西側にある西院とも呼ばれる別院の建物です。

別院とは、七堂伽藍と呼ばれる金堂・講堂・食堂・僧房・経蔵・鐘楼・塔の伽藍の基本となる施設以外の建物をいいます。

この御影堂は、空海が造営の指揮をとったり、講堂の羯磨曼荼羅を構想したり、住居とした場所でした。
そのため、大師堂とも呼ばれています。

御影堂の建物は、前堂、中門、後堂の3つの建物で構成されており、1380年に現在の後堂部が再建され、前堂と中門は10年後の1390年に増築された建物になっています。

前堂には国宝の弘法大師坐像や愛染明王が安置されており、後堂には秘仏不動明王が安置されています。

御影堂は1898年12月に重要文化財に指定されており、1958年に国宝指定されています。

御影堂では、弘法大師空海の生身供が毎朝6時から行われます。

この時間から閉門まで、お参りすることができるようになっています。

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大日堂

東寺 大日堂

画像:東寺

大日堂は、江戸時代に御影堂の礼堂として、御影堂の北側に作られた建物です。

1698年に地元の民衆の寄贈により創建されました。

当時、御影堂の中に民衆が立ち入ることができず、礼拝するための場所がなかったことから、御影堂の外部に作られたのが始まりとなっています。

その建物も明治26年には礼堂の役目を終え、桓武天皇をはじめ、嵯峨天皇、足利尊氏などの位牌を納める尊牌堂として使われるようになります。

そして、本尊に大日如来を安置したことから、大日堂と呼ばれるようになりました。

本尊である如来像は、胎蔵界大日如来坐像と呼ばれ、平安時代に作られたものとなっています。

現在の大日堂は、先祖供養の法要を行う回向所(法事・法要を行う場所)となっています。

最近では、2000年に大改修が行われました。

鎮守八幡宮

東寺 鎮守八幡宮

画像:東寺

鎮守八幡宮は、796年の東寺創建に際し、王城鎮護を願って祀られました。

空海が一本の霊木より彫ったとされる国内最古の神像(僧形八幡神像が一尊、女神像二尊の計三尊)が安置されています。

810年に発生した薬子の変(くすこのへん(※10))では、空海により嵯峨天皇の必勝祈願が行われました。

※10兄の平城上皇と弟・嵯峨天皇との抗争事件。嵯峨天皇へ譲位した平城上皇が復権を画策したことに起因。嵯峨天皇側の勝利に終わる。

また、この際の戦勝祈願が後世に伝わり、南北朝時代には足利尊氏も祈願に訪れました。

1868年に南大門などとともに焼失してしまいます。

それから100年以上再建されることがなかったものの、現在の八幡宮は1992年に再建されました。

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宝蔵

東寺 宝蔵

画像:東寺

宝蔵は国宝となっている密教法具や両界曼荼羅(りょうかいまんだら)、犍陀穀糸袈裟(けんだこくしのけさ)、仏舎利、五大尊など数多くの寺宝を納めていた建物です。

東寺創建時には南北に2棟あったとされますが、現在は1棟のみが残されています。

火事による延焼を防ぐ防災対策として周囲は掘りで囲まれています。

現存の宝蔵は、東寺に残る最古の建造物で、平安後期に建立された校倉(あぜくら)造りでの建造物となっています。

1000年と1126年に2度焼失し、現存する建物は1184年から1198年に再建されたものと伝わっています。

しかし解体修理の結果、その構造状態から東寺創建時に近い建造物ではないかと考えられており、実際には焼失していないのではないかとも考えられるようになっています。

なお宝蔵に収められていた数多くの寺宝は、現在は、温度管理の観点から新設された宝物館に移されています。

建物の宝蔵は、1925年4月に国の重要文化財に指定されています。

小子房(しょうしぼう)

東寺 小子房

画像:東寺

小子房は、1274年~1287年に在位した第91代後宇多天皇が、自身の真言密教の修行道場として創建した建物です。

1486年におこった火災により焼失してしまった後、しばらくは再建されていませんでしたが、弘法大師空海の千百年御遠忌にあたる1934年に再建されました。

現在は天皇陛下が東寺を訪れた際にお迎えする建物となっており、小子房の建屋内には、天皇・皇后両陛下の為の玉座も用意されています。

建物の内部は6つの部屋で構成されており、それぞれに水墨画などが描かれています。

「牡丹の間」「瓜の間」「枇杷の間」「鷲の間」「雛鶏の間」には水墨画が描かれており、「勅使の間」には、金色の地に極彩色で「渓流に鶴」と「日輪三嶽図」が描かれています。

小子房の西側には、蓮華門と呼ばれる門があります。

空海が晩年、東寺から高野山へと向かう際、この西門から出ました。

この門から旅立つ際、多くの人々が送り出したのですが、御影堂の後堂に祀られていた不動明王がこの門に現れ、空海を見送ったといわれています。

見送りをしていた不動明王の足元や、見送りに現れる際に御影堂から蓮華門まで歩いてきた足跡に蓮華が咲いたといわれ、それにちなみ、この門を蓮華門と呼ぶようになったと伝わっています。

蓮華門は1902年4月に重要文化財指定を受けており、1952年11月に国宝に指定されています。

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宝物館

宝物館は、千手観音菩薩像など東寺に伝わる仏像や書物などの宝物を納めるために造られた建物です。
1965年に開館されました。

2階には常設の彫刻展示の部屋があり、食堂に安置されていて火災に巻き込まれた千手観音像は復元修復され、常設展示されています。

また、もともと平安京入口の羅生門の楼上に祀られていた兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)も保存されています。

年中拝観可能な施設ではなく、開館は春と秋の一定期間のみとなっています。

観智院(かんちいん)

観智院

画像:東寺

観智院は、1359年に杲宝(ごうほう)によって創建された塔頭の1つで、東寺敷地の北門を出てすぐに隣接する子院です。

杲宝は南北朝時代の真言宗の学僧で、東寺の三宝と呼ばれる頼宝(らいほう)、杲宝、賢宝(げんぽう)の三人のうちの一人です。

杲宝が創建し、弟子の賢宝が本尊である五大虚空蔵菩薩を本尊として安置しました。

真言密教の経典が数多く所蔵されており、「真言宗の勧学院(※11)」ともいわれる塔頭です。

※11藤原冬嗣が一門の子弟のために821年に創設した教育施設

安土桃山時代の1596年に発生した地震によって、観智院は一度全壊してしまいますが、1605年には客殿が再建され、それ以降観智院の建物は復興していきました。

この再建後の客殿は、宮本武蔵が一条寺下り松の決闘の後に身を隠した場所です。

その際にふすまに書いた鷲の図や竹林の図が、今も残されています。

本堂は客殿の東側に位置します。

現存する本堂建物は、客殿の復興後に再建されました。

本堂の中は、部屋の横幅いっぱいに五大構造菩薩像が並ならんでいます。

また、愛染明王(あいぜんみょうおう)像も別の部屋に鎮座されております。

宝菩提院(ほうぼだいいん)

宝菩提院は、1279年に創建された塔頭の1つで、子院の中でも格の高い別格の子院です。

当初は櫛笥小路(くしげこうじ)を挟んで観智院と向かい合わせに建っていたのでしたが、1881年に洛南高校の開学に伴い、観智院の北側の東寺敷地外に移転しました。

第三長者(※12)だった亮禅が開創しました。

※12東寺長者とは東寺の管理者・長官である僧侶の呼称で、真言宗の最高位としての権威を持っていた人。

第三長者とは、当時の東寺長者の一人であり、当時4名にまで定員を増やしていました。

その上位から一長者、二長者というように呼ばれており、三位目の位置づけになります。

表門を入ると正面に本堂、左手に僧侶が居住とする庫裏(くり)、右手前に地蔵菩薩像が祀られています。

本堂には、中央に弘法大師像、左側に大日如来、右に阿弥陀如来の3体が安置されています。

現在は、本堂の内部は非公開となっています。

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東寺の御朱印

東寺で頂ける御朱印は通常時で9種類となっています。

夜間特別参拝時では、9種類以外で限定御朱印をいただけます。

御朱印をいただける場所は、食堂にある納経所となります。

料金は、一律で300円。

希望すればいくつでも授与していただけますが、時間によっては1つしかいただけない場合もあります。

対応していただける時間は、午前8時から午後5時までとなっています。

受付は午後4時30分までですので、それまでには頂くようにしましょう。

東寺の拝観料・拝観時間

東寺の開門時間は朝5時、通常は午後5時で閉門されます。

夜間の特別参拝が行われる場合は閉門時間が変更される場合があります。

門の開閉時間とは別に、金堂・講堂については、午前5時から午後5時まで、宝物館・観智院は午前9時から午後5時までと参拝時間が決められています。

境内への入場、御影堂・食堂などの拝観は無料となっています。

金堂・講堂・五重塔初層内部、宝物館、観智院は有料で、季節によって料金が異なります。

特に五重塔初層内部は通年での一般公開ではなく、特別公開制ですので、公開時期は確認して参拝するようにしましょう。

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東寺へのアクセス方法

東寺は京都駅南西約500mに位置しており、京都駅を拠点として参拝することが可能です。

道路距離で約1kmですので、徒歩のほか、バスやタクシーも利用できます。

徒歩の場合、JR、近鉄京都駅から約15分、近鉄東寺駅から7分程度。

バスを利用する場合、市バス16、19、42、78、205、206の6つの系統のバスを利用できます。

最寄りのバス停は、東寺東門前、東寺西門前、九条大宮のいずれかになります。

京都駅から約20分。

タクシーの場合、交通事情に左右されますが、約4分。

料金は1,000円程度になります。

マイカーの場合、東寺の専用駐車場を利用できます。

普通車50台程度が駐車可能です。

利用時間は、9月20日~翌3月19日は午前9時から午後4時まで、それ以外の期間は午前9時から午後5時までとなっています。

料金は2時間で600円です。

京都駅に近いこともあり、2~3台程度しか駐車できないコインパーキングがほとんどです。

特に、毎月21日に開催される弘法市の際は、駐車場の確保は大変難しいですので、公共の交通機関を利用するようにしましょう。

まとめ

京都駅すぐ近く、平安時代から今に伝わる真言宗の総本山。

我が国最初の密教寺院として、今の時代に弘法大師空海の意思が伝えられています。

御影堂で今も毎日続く生身供ですが、弘法大師に接することができる法要となっています。

真言密教の総本山で、平安時代から続く歴史ある伽藍や、空海の教えに接してみてはいかがでしょうか。

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