京都五山物語~建仁寺・禅宗の京都進出~

建仁寺・禅宗の京都進出

栄枯盛衰、これはいつの時代にも通用する言葉です。伝統ある老舗か、勢いのある若手か。ありとあらゆる戦いが世界のどこかしこで行われています。日本の古都、京都でもそうです。かつては権力、文化、宗教など日本のあらゆる要素の頂点が戦いを繰り広げていました。今回はその戦いの中から、13世紀に行われた仏教勢力間の争いを、京都五山の一つ「建仁寺(けんにんじ)」の歴史から、紹介しましょう。

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●第一話 新興宗教「臨済宗」~栄西の登場~

京阪電鉄「祇園四条」駅から徒歩7分、阪急電鉄「河原町」駅から徒歩10分のところに、建仁寺は存在します。創建は1202年、宗派は禅を基本とする臨済宗(りんざいしゅう)です。禅は今でこそ、「一休さん」などのイメージから、日本の伝統文化の一つと思われがちですが、実は中国から伝来された文化であることをご存知でしょうか。そして、その禅を日本に広めた人物こそが、教科書でも一度は見たことがある栄西(えいさい)なのです。

1141年、栄西は岡山県にて吉備津(きびつ)神社で権禰宜(ごんねぎ:神社の職員)の子、千寿丸(せんじゅまる)として生まれました。日常的に宗教団体と接していた立場にあった千寿丸は、やがて仏道を志すようになり、14歳にして比叡山(ひえいざん)の延暦寺にに入り、「栄西」として出家をしました。

当時、延暦寺は天台宗の総本山にして日本で最も権威のある寺院でした。「戒壇(かいだん)」という僧侶を認定する権利を朝廷からいただいていたことが背景にあります。言うなれば東京大学に通うようなものです。出家してからは全国各地の天台宗系の寺院で住職を務めます。

しかし、そんな生活の中で、栄西は、延暦寺の腐敗した体制に疑問を抱くようになります。当時の延暦寺は政治に対しても大きな影響力を及ぼしていました。強訴(ごうそ)という実力行使によって、朝廷に度重なる要求を行っていました。そして、権威ある巨大寺院が政治ゲームに熱中しているのをよそに、栄西は中国大陸への留学を決意しました。時に1168年、平清盛による政権が誕生し、南宋との貿易が始まった時期と重なります。

そして、留学した中国で、栄西は中国臨済宗の禅に出会います。禅とは、悟りを開く行為を、座禅を通じて体感することを重視したものです。二度の留学を経て、栄西は中国臨済宗から印可(いんか)を得ることに成功しました。そして、帰国後は臨済宗の人間として、禅の普及に努めました。日本には臨済宗の寺院がなかったので、実質は新宗派の立ち上げになります。

栄西が事実上最初に開いた禅寺は博多の聖福寺(しょうふくじ)です。大事なポイントは建立されたのが1195年であるということです。つまり、最初の寺院設立から、京都で建仁寺を建立するまで、七年しかかかっていないのです。九州の小勢力に過ぎなかった臨済宗が、わずか七年で京都に進出、なぜ栄西はこの短期間でそれを成し遂げることができたのでしょうか。

それは栄西が、抜群の政治センスを持った人物であったからです。当時の仏教界で勢力を誇っていたのは、天台宗、真言宗、そして奈良仏教の諸派になります。栄西はそのすべての勢力と対立することを避け、また朝廷や鎌倉幕府の政治状況を利用することでうまく立ち回ったのです。

例えば、1198年に栄西は『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』を書きました。当時の栄西は、天台宗を敵に回してしまい、朝廷から弾圧される可能性がありました。そこで、「禅とは天台宗の教えに反するものではない」とアピールする必要がありました。『興禅護国論』はまさに天台宗ならびに朝廷に対する弁明の書だったのです。

また、京都よりも先に、鎌倉への進出を考えたことも功を奏しました。1200年に鎌倉に向かった栄西は、幕府の「尼将軍」北条政子(ほうじょうまさこ)の庇護を得て、寿福寺(じゅふくじ)の建立に成功しました。そして、その幕府の力でもって、建仁寺は建立されたのです。

ただし、この時点でも、まだ臨済宗は一大勢力を築いたとは言えません。なぜならば、建立当時の建仁寺は天台宗と真言宗、そして臨済宗の三宗の並立によって建立されたからです。寿福寺も同様です。今でいうなら、大型チェーン店と共同でオープンした新店舗、といったところでしょうか。栄西は既存の宗派に妥協する形で、敵を作ることを避けたのです。

その後も栄西は禅を広げるために精力的な活動を行い、1215年にこの世を去ります。この時点では臨済宗の宗教的地位は不安定ですが、武士階級からの支持をバックに、鎌倉と京都を中心に、徐々に浸透していきました。天台宗の一僧侶から新宗派を立ち上げた栄西の思いは、禅僧たちに引き継がれていくこととなります。

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●第二話 蘭渓道隆~臨済宗の発展~

その後、臨済宗は蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の登場によって、その宗教的地位を確固たるものとします。

蘭渓道隆は中国の四川省に生まれた、正真正銘の中国臨済宗の禅僧です。来日したのは1246年で当時は33歳でした。そして、全国各地の禅寺で住職を務めた後、鎌倉幕府の執権(しっけん:将軍補佐職、実質的な最高権力者)である北条時頼(ほうじょうときより)の招聘を受け、鎌倉へと向かいました。時頼は禅を厚く信仰しており、禅宗への帰依を強く願っていました。また、臨済宗単独の寺院を設立することも望んでいました。そして、1253年、鎌倉で初めての臨済宗単独の寺院である建長寺(けんちょうじ)が建立され、蘭渓道隆はその初代住職となりました。

時頼にとって、臨済宗ならびに蘭渓道隆は、自身の影響力を広げるために重要なカードでした。そもそも、執権の位を代々継いでいた北条氏は、初代将軍である源頼朝の外戚(がいせき)であることから勢力を伸ばし、その基盤はけっして強くありませんでした。そこで時頼は、幕府内の権力強化に着手し、政敵を次々と排除、北条家当主である得宗(とくそう)による専制政治を開始しました。つまり、得宗である時頼にとって、蘭渓道隆は、自身の影響力を鎌倉や京都に及ぼすのに利用できる存在でした。そしてその一環として、蘭渓道隆は建仁寺の住職に就任いたしました、

1259年に蘭渓道隆が住職に就任して以降は、建仁寺は純粋な禅の寺院として機能していくこととなります。既存の宗派を牽制しようという時頼の意向があったことは言うまでもありません。こうして、臨済宗はその宗教的地位を上げ、日本有数の仏教勢力として天台宗や真言宗と肩を並べることとなります。

●まとめ:京都五山の「第三位」

その後も、建仁寺は臨済宗の有力寺院として発展し、室町幕府三代将軍足利義満(あしかがよしみつ)によって「京都五山」が制定された際には、「第三位」の地位につきました。

世が戦国時代に近づくにつれて、建仁寺は荒廃していきましたが、毛利家や豊臣家の家臣となった安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の活躍によって復興が行われました。また、そのつながりによって、画家の海北友松(かいほうゆうしょう)によって、障壁画が多数描かれ、それらは今では重要文化財として保管されています。

京都における禅寺第一号として、建立された建仁寺。その歴史には栄西や北条時頼、蘭渓道隆といった人物の熱い思い、そして権力闘争の足跡が詰まっています。皆さんも建仁寺にお越しの際は、そのダイナミズムにふれてみてはいかがでしょうか。

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