相国寺の歴史・武家政治と禅寺
宗教と政治・・・その関係は、今では語られる永遠のテーマである。いつの時代においても、時の為政者は宗教を利用しました。人々の心を安らげるため、そして、自らの名声を挙げるために。今回は、とある為政者と密接なかかわりを持った「相国寺(しょうこくじ)」をテーマに宗教と政治の関係について考えてみましょう。
●第一話 足利義満と春屋妙葩~相国寺の建立
京都市営地下鉄「今出川」駅から徒歩三分のところにある、萬年山相国承天禅寺(まんねんざんしょうこくしょうてんぜんじ)、通称「相国寺」は1392年に竣工されました。実は、鎌倉時代後半から室町時代初期に建立された他の寺院に比べると、建立時期が遅く、臨済宗の最高ランク「五山」にノミネートされるには、伝統的にもむずかしいはずです。
ではなぜ、相国寺は五山の一つであり続けることができたのでしょうか。そこには、室町幕府三代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)が大きくかかわってきます。
足利家は初代将軍の尊氏(たかうじ)以来、臨済宗に帰依していました。義満は春屋妙葩(しゅんおくみょうは)という禅僧に10歳のとき知り合います。彼の師にあたる夢窓疎石(むそうそせき)は尊氏の師にもあたり、室町時代における臨済宗の興隆を築いた人物です。この10歳という年は義満が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、幕府の将軍として武家政権の舵取りを担った年でもあります。
とはいえ、当時は将軍の権力が確立されておらず、幕府内の主導権争いが絶えず行われ、幼き義満を悩ませていました。後に春屋妙葩に帰依する義満ではありますが、将軍という地位とその職務から来る圧倒的重圧を考えると、就任した当初から春屋妙葩がアドバイザーとして補佐したことは間違いありません。1379年には幕府傘下の禅宗直轄機関「僧禄(そうろく)」の長官に就任します。これは春屋妙葩の働きに報いた義満の人事です。
なお、相国寺が建立されてからは、僧禄の役所は相国寺の「鹿苑院(ろくおんいん)」という建物に設置されるようになります。
相国寺の建立は1382年に義満によって提案されました。重要なのはその立地です。その前年に建築された義満の一大邸宅「花の御所」、相国寺はその隣に位置していたのです。他の禅寺を凌駕する一大寺院を建立しようと義満は考えたのです。
そもそも、「相国」という名称自体が朝廷の官位である「左大臣(さだいじん)」の別称であり、当時その地位にあった義満自身のことを指していたので、政治的意図があったことはまるわかりでした。そして、開山(初代住職)には春屋妙葩を指名します。しかし、春屋妙葩はこれを固辞しました。彼は師の夢窓疎石を開祖とするよう提案し、自身は第二代の住職に収まりました。夢窓疎石はこの時点で他界していたので、実質的には春屋妙葩が初代住職なのですが、巨大寺院の住職を引き受けるにあたり、筋を通したかったのでしょう。ただ、春屋妙葩は1388年に建立を待つことなくこの世を去ってしまいました。
義満は建立にあたって、相国寺を「五山」に入れることを画策します。しかし、すでに決まっている以上、その実現は難しいと考えられていました。そこで義満は五山の一つである南禅寺を「五山の上」とし、その空いた一枠に相国寺を入れました。建立からわずか数年での「五山」入りは、義満の政治力によって実現されたのでした。
ちなみに、足利義満といえば、「金閣寺(きんかくじ)」を連想する人々も多いことでしょう。しかし、「金閣寺」という寺院は単体では存在しません。正式名称は「鹿苑寺金閣(ろくおんじきんかく)」といい、相国寺の塔頭寺院(たっちゅうじいん:大寺の敷地内に立てられた建造物)として存在しているのです。故に、「金閣寺」に住職はなく、相国寺の住職が金閣の管理も行う、ということになります。
こうして、相国寺は「五山」の一つとして、政治と文化の両面において重要な寺院となったのです。
●第二話 足利義政と応仁の乱
足利義満によって建立され、禅寺の権威として君臨した相国寺ではありますが、その規模の広さゆえに、たびたび陣地として扱われ、焼失してしまうこともありました。その代表例が、かの有名な応仁の乱における焼失です。
1467年に起こった応仁の乱とは、将軍の後継争いに加え、各武家の家督争いや貿易をめぐる経済対立など、複雑な対立が絡み合って勃発したものでした。
11年にわたり、京都を舞台に繰り広げられたこの内乱は、七代将軍の足利義政(あしかがよしまさ)が無能であったことから長期化したと言われております。そんな批判の多い義政ではありますが、実は相国寺とは深い関係にあったと言われています。義政は禅寺によく参詣をしており、なかでも御所にちかい相国寺が参詣の対象となったのは言うまでもありません。自身の心の弱さ、政治力のなさについては自覚していたようです。
なお、先述の「金閣寺」と同じく、足利義政が建てた、かの「銀閣寺(ぎんかくじ)」も単体の寺院ではありません。正式には「慈照寺銀閣(じしょうじぎんかく)」という名称であり、政治からの隠遁を考えた義政が風流に満ちた生活を送るために、建てられました。銀閣の住職も相国寺の住職が兼ねています。相国寺、金閣、銀閣と京都の代表的な観光地3つが一人の住職によって束ねられていることになります。
銀閣を中心に花開いた東山文化の代表的人物の雪舟(せっしゅう)も相国寺で修行をした禅僧です。水墨画の達人として、今に名を残す雪舟ですが、幼少期に相国寺で禅の修行の傍ら、水墨画を習っていたのです。後に中国で水墨画の真髄を学ぶ雪舟ではありますが、その基礎は、相国寺での修行によってかためられていったのでした。
●まとめ
室町幕府が崩壊してからも、相国寺は相次ぐ戦火にあいながらも、歴史の表舞台に立ち続けます。
戦国時代末期には禅僧の西笑承兌(さいしょうじょうたい)が戦乱で焼けただれた相国寺を見事に再建、彼は「相国寺中興の祖」の異名で語り継がれています。また、豊臣秀吉(とよとみひでよし)や徳川家康(とくがわいえやす)といった天下人に仕え、秀吉の朝鮮侵略の際には外交で力を発揮しました。
こうして、室町幕府滅亡後の混乱を乗り切ったかに見えた相国寺ですが、以心崇伝(いしんすうでん)という南禅寺の禅僧の台頭によって、危機が訪れます。家康の側近を振るった彼が中心となって制定された「寺院諸法度(じいんしょはっと)」によって、僧禄の役所を南禅寺に移されてしまったのです。相国寺が禅宗の頂点としての特権を失った瞬間でした。
禅宗、特に臨済宗は、武家の庇護をうけることで勢力を伸ばし続け、既存の仏教勢力に負けない力を獲得していきました。相国寺はまさにその象徴であり、「五山の上」である南禅寺とはまた違った形で禅寺の頂点に立った寺院でした。一方で、権力に左右されやすう脆さもあり、戦乱のたびに戦火に巻き込まれました。もちろん、相国寺に限った話ではありませんが。
「京都五山」の歴史とは、武士とともに歩んできた禅宗の歴史です。天台宗、真言宗その他の奈良仏教と角逐を繰り返し、最終的には武士政権と懇意になることで、力を伸ばしていきました。その中でも、足利義満の官位「相国」の名前を冠したこの寺院の建立は、臨済宗が拡大する中で、一つのターニングポイントだったのです。