日本仏法最初の官寺 和宗総本山四天王寺
大阪府大阪市天王寺区にある四天王寺は、聖徳太子建立七大寺の一つであり、法隆寺と同様に聖徳太子が開基である寺の一つになります。
日本仏法史上最初に官寺(かんじ)として創建され、本格的な仏教寺院としては最も古い歴史があり、法興寺や法隆寺などとともに最古の古刹に数えられています。
当時の朝廷が置かれていた飛鳥ではなく、難波津(なにわのつ)に創建され、約1400年に渡り幾度となく自然災害や戦災に見舞われ、そのたびに再建されてきた歴史を持ちます。
ここでは、四天王寺の創建から現在に至る歴史、地理的背景、現存する伽藍の詳細などについて紹介します。
四天王寺創建の歴史的背景
日本書記によると、四天王寺は、593年に灘波津にて造立が開始されました。蘇我氏と物部氏との間で起こった丁未の乱の終戦から6年後、第33代推古天皇が即位した年のことでした。
丁未の乱とは、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏との間で起こった崇仏論争の先で発生した、皇位継承を発端とした戦いです。仏教公伝後に原始神道の神事に携わっていた物部尾輿(もののべ のおこし)や中臣鎌子(なかとみのかまこ)と、仏教受容に寛容的だった蘇我稲目(そがのいなめ)との間で起こった崇仏論争が親子2代で続き、物部守屋(もののべのもりや)と蘇我馬子(そがのうまこ)が最終的には軍事衝突することになったのでした。
この丁未の乱では、用明天皇の皇子で蘇我氏ともつながりの深かった、後に聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子(うまやどのおうじ)が、蘇我馬子とともに戦に赴きました。崇仏派の軍は物部氏の本拠地であった河内国まで攻め込みましたが、蘇我軍は攻めきれず、3度退却しました。その劣勢下、聖徳太子は四天王像を作り、『勝利したら必ず四天王を安置する寺を作る』という誓願をしたといいます。
この後、物部守屋は味方の矢に当たり、戦いは崇仏派の勝利で終わりました。そして、勝利した蘇我馬子が崇物派の第32第崇峻天皇を推し即位させたことで、崇仏の動きが加速し、蘇我馬子が創建した法興寺をはじめ、橘寺や法隆寺、叡福寺、長栄寺、大聖勝軍寺といった寺が、現在の奈良や大阪のエリアでどんどん創建されていきました。
難波津に四天王寺が造営されたのは、物部氏を討伐したことによる慰霊の意味と、東アジア各国に対し日本の国力を知らしめるためだったのではと考えられています。
当時は死人の怨念が悪さをすると考えられていた時代であり、物部守屋の怨念を慰めるために物部氏が所有していた土地であった難波津に建立したのではと考えらえています。
また、当時の日本においての貿易の玄関口は難波津でした。そのため、難波津には貿易関係の外国船だけでなく、近隣国からの使節団も着岸していたことが理由として考えられています。
当時の東アジアは、朝鮮半島では3つの国がしのぎを削り朝鮮統一を画策し、中国においては統一を果たして隋の国が生まれようとしている時期でした。そのため、朝廷として諸外国の地域を統一しようとする動き、特に隋については、これまで漢の時代以降において三国時代や多くの国に分裂していた中国を一つの大国に統一を果たすだけの国力・武力を持っていたことから、その統一の矛先が日本にまで及ばないか警戒していました。
このようなことから、諸外国の脅威から国を守るという意味合いを込め、日本の国力の強さを日本に到着した瞬間に見せつけるために、日本に到着して最初に足を踏み入れる貿易の玄関口の難波津に、朝鮮半島の最先端の技術を導入した世界的にも最新式とされる設計様式の伽藍を整えたのでした。
なお、創建時の四天王寺が世界の仏教寺院としても異例とされるのが、本来南に向かって安置されるべき四天王が、東アジア諸国のある西に向かって安置されていることでした。西は極楽浄土があるとされていたことと、諸外国の脅威ににらみを利かせるという意味があったのでしょう。
開基
四天王寺公式見解では、四天王寺の開基は聖徳太子となっています。今日、聖徳太子は実在せず創作上の人物だったという説がある中、四天王寺としては『聖徳太子は実在していた』と公式な見解として公表しています。
学説上に推古天皇が開基という説もありますが、四天王寺としてはあくまでも聖徳太子は存在しており、太子が開基であるというスタンスをとっています。
四天王寺の創建から受難と復興の歴史
・創建~平安時代
四天王寺の創建は、学術的には不明ですが、寺の見解としては日本書紀と同じ593年となっています。中心伽藍は、これまでの発掘調査により607年ごろには完成していたのではないかと推測されています。
乙巳の変の後に孝徳天皇が難波に都を移した際、四天王寺は難波京の南限に位置していたことからも、四天王寺という大きな寺院を持つ都として諸外国へ国力を見せつけることから重要視されるようになりました。それ以降の飛鳥、奈良へと遷都をする中でも、朝廷からは、その他伽藍の建立が行われ、四天王寺の寺院としての規模が大きくなる時期でした。
このように順調に四天王寺の規模が大きくなっていった背景として、あくまで推測ではあるものの、四天王寺が官寺であったこと、主要伽藍以外のものを数多く建立させ諸外国への権威象徴としたことが背景にあったのではと考えられています。
平安時代(784年~1185年頃)に入ると、天台宗を日本に持ち帰った最澄、真言宗の開祖空海が活躍します。特に平安時代初期は、空海の伝えた密教が主流となっていきました。
仏教が伝来された当初、釈迦入滅から1500年後や2000年後には正しい教えは伝わらなくなり世界が乱れてしまうという思想がありました。日本では2000年後説で考えられており、1502年頃から10000年は末法の時代が続くと考えられていました。
釈迦入滅から2,000年後は、平安時代であり、天台宗を日本に持ち帰った最澄、真言宗の開祖空海が活躍しますが、天台宗や真言宗にも末法思想がありました。釈迦入滅(949年)から2000年後頃には、この思想を具現化するような事件(1051年(永承6年)の「前九年の役」が勃発、さらに飢饉や災害など)が多く起こり、末法入りしたと考えられていました。
末法入りという概念が公家の中で広がりを見せたことから、仏教を日本に浸透させた聖徳太子の導きで極楽浄土へ行きたいとする公家を中心に、聖徳太子信仰が広がっていきました。
また一方で、天台宗の開祖であった最澄は、中国の天台宗開祖であった慧思(えし)の生まれ変わりが聖徳太子であるという説から聖徳太子を深く崇敬し、天台宗の聖人としました。天台宗では、仏教経典の一つである「法華経」が研究され教えを学んでいたのですが、その教えにある「救世」を名前に持つ救世観音菩薩が創作されます。
結果、世も末と考えられた末法思想と、聖徳太子に浄土に導いてもらうという太子信仰が融合され、聖徳太子は聖人から観音菩薩の化身と見られるようになり、聖徳太子=救世観音菩薩のというイメージが定着し、広がりを見せていったのです。
現世での救いを求める仏教に対し、聖徳太子は観音様の化身であり、聖徳太子により極楽浄土に導いていただくことができるという聖徳太子信仰が広がることになったのでした。こうして末法の時代に入ったという不安感から、浄土に導いていただくことができる聖徳太子信仰が広がることとなり、聖徳太子が建立した四天王寺は生き残ることができたのでした。このように四天王寺は時の天皇や上皇、仏教の開祖たちに宗派を問わず保護され、広く信仰されました。
また、四天王寺が衰退しなかったもう一つの要因として、四天王寺が国家鎮護の目的だけでなく、個人の救済にも重きを置いていたことがあげられます。
四天王寺と同時代の他の寺院はあくまでも国家仏教として、国家鎮護を目的としていたのですが、四天王寺は宗派にとらわれないことから、国家鎮護だけでなく、個人救済もしました。そのため天皇や上皇、各宗派の僧たちだけでなく、中流の公家から庶民までといったように幅広く国民に支持され信仰されたのです。
平安時代末期に生まれた浄土宗の法然や浄土真宗の開祖である親鸞は、自身の宗派としての教えだけでなく「太子信仰」の重要性も説いて回っていました。浄土宗は大乗仏教の一つで、それまで貴族だけのものであった仏教を、広く一般庶民にまで広げるものでした。特に親鸞は「太子信仰」に深く傾倒していたと言われています。
本来仏教においては出家すると妻帯することは戒律で禁止されていました。妻帯者であった親鸞は悩んでいたものの、聖徳太子が創建した六角堂の中で籠っていた際に、夢に観音様が現れ、「女性になり妻となって浄土に導こう」と告げられたという伝説があります。
これにより、浄土信仰を説いていた法然の下に向かい、弟子となったのです。聖徳太子は結婚し子どももいましたが、観音様の化身とされていたこともあり、このようなお告げから聖徳太子信仰に親鸞は傾倒したと考えられています。
(浄土宗の布教活動の中で、特に親鸞を中心として聖徳太子信仰を広く布教したことから、太子信仰を説いたグループが後に浄土真宗と別れたのでした。)
・鎌倉時代~江戸時代
鎌倉時代(1185年頃~1336年)に入ると、平安時代後半より広がりを見せていた浄土信仰より、浄土宗や浄土真宗などの宗派が大きく広がっていきます。
1200年代には、真言律宗を興した叡尊(えいそん)や弟子であった忍性(にんしょう)の活躍が目立ちます。四天王寺の別当に就任していた師の叡尊の没後、忍性も四天王寺の別当に就任しました。その際、聖徳太子の福祉政策の精神に深く共感していた忍性は、聖徳太子が創建時に設置していたとされる四箇院(しかいん)のうち、敬田院・悲田院を再興させました。
また、浄土への入り口とされる正門にあった木製鳥居を石製鳥居として改めました。この石鳥居は鎌倉時代より今日まで残っている建造物の一つとなっています。
四箇院の制…聖徳太子が四天王寺を建てるにあたり取った制度。四箇院とは、敬田院(きょうでんいん)、施薬院(せやくいん)、療病院(りょうびょういん)、悲田院(ひでんいん)のこと。敬田院は寺院そのもの、施薬院と療病院は薬局・病院、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための社会福祉施設。
出典:和宗総本山 四天王寺
鎌倉幕府が崩壊後は、皇室が南北朝に分かれる時代がありました。その際の争乱で、四天王寺は京都と吉野の中間にあったため寺周辺地域は戦場になり、度重なる騒乱の末、伽藍の一部を焼失してしまいました。
その後、復旧するものの、室町時代(1336年~1568年)だけでも大きな地震で2度五重塔が崩壊するなど、災害にも見舞われました。しかし、その都度再建されました。
室町時代末期を迎えると、織田信長の石山本願寺攻めの際に四天王寺のほぼ全域は焼失してしまいます。石山本願寺が四天王寺に拠点を置いていたためでした。寺領も没収されてしまい、一時は寺院として存続不可能な窮地に追い込まれてしまいました。
その後、106代正親町天皇(おおぎまちてんのう。1517年~1593年)は天正4年(1576年)に四天王寺復興の命を出し、のちの天正年間には豊臣秀吉より出された復興に関する朱印状や造営目録などが現在も四天王寺に保存されており、豊臣秀吉寄進で再建されたとされています。この朱印状は、戦国時代頃から出回りだした行政指示書のようなもので、文末の署名部分に朱印が押される書状でした。
秀吉は関白として天皇と関わりがあったことや、大阪の街づくりを見越し自身の権威を地域住民にも知らしめるために積極的に復興に携わってのではないかと考えられます。
しかしながら、大坂冬の陣(1614年(慶長19年)11~12月)の際に、豊臣方の放火により炎上し、その伽藍は20年持たず焼失してしまいました。
しかし、徳川家が戦火に巻き込み寺院を焼失させたことから、徳川家が責任を取る形で再建させます。こうして1623年には復興を果たし、廃寺にならずに済みました。
しかし、大阪冬の陣による復興から約200年後の徳川家斉(とくがわいえなり)の時代である享和元年(1801)12月5日には、落雷が原因でまたしても伽藍のほぼ全てを焼失してしまいました。
しかしこの時も地域住民の手により復興されました。1813年のことで、大坂白銀町の町人であり町年寄であった淡路屋太郎兵衛が中心となり町人から財を集め、焼失した伽藍を再建させたのでした。
・明治時代~現在
明治時代になると、新政府による神仏分離の政策から各地で廃仏毀釈運動がおこり、奈良県では大化改新から幕末まで摂政・関白を独占し続けてきた藤原氏のゆかりの寺である興福寺ですら壊滅状態になりました。
明治維新を先導した薩摩藩でもその動きは活発で、鹿児島県内のすべての寺がその影響をうけ、鹿児島県には国宝となる仏像や寺院は全く残されていない状態となりました。
このような廃仏毀釈の動きですが、大阪ではあまり見られませんでした。大阪は江戸時代、天下の台所と呼ばれていたように、経済や全国への物資供給の中心地でした。商人・町人にも勢いがあったことから、明治新政府の権力にる廃仏毀釈運動そのものを馬鹿にしていたのです。
また、廃仏毀釈運動は「日本古来の神道や精神を明らかにしようとする考えの広がり」「寺請制度等による庶民・神官の仏教側への不満」が理由でしたが、四天王寺は日本仏教最初の官寺であり、太子信仰の寺、個人救済を重点におく寺であったことから地域住民からの支持が厚く、他の寺社に比べても厳しい監視下に置かれなかったこと、歴史と伝統なども大阪の人々の心の柱となっていたことから、廃仏毀釈の影響をほとんど受けませんでした。
昭和になると、昭和9年には室戸台風で被害を受け、また第二次世界大戦末期には、大阪大空襲により六時堂・五智光院・本坊方丈など一部を残し境内全域が焼失し、さらに終戦翌年には南海大地震も発生し、ほぼ壊滅状態となりました。
その後、中心伽藍をはじめ様々なお堂が各方面の人々の協力により復旧されていきます。五重塔については、株式会社金剛組により鉄筋コンクリート造りといった近代建築技術による建立に変更されました。外部から見ると飛鳥時代の建築様式はしっかりと再現されているため、鉄筋コンクリートとはわからない仕上がりになっています。
こうして1979年には多くの建物が再建され、旧観を取り戻し現在に至ります。
1946年には宗派としての動きもありました。
四天王寺の創建時には宗派という概念がなく、奈良仏教全盛期でも特定宗派に所属しない八宗兼学の寺でした。
その後、聖徳太子を崇拝していた最澄との縁から天王寺も長らく天台宗に所属していましたが、もともと太子信仰の寺院であり、宗派にとらわれない寺院であったことから、独自の宗派である「和宗」の総本山としての立ち位置を公言し、1946年に天台宗から独立しました。
「和宗」の名前の由来は聖徳太子が定めたとされる『十七条憲法』にある「和を以て貴しとなす」から採用されました。和宗は現在でもすべての宗派を受け入れており、令和の時代でも聖徳太子を信仰する人から大きく支持を得ています。
四天王寺の伽藍
四天王寺は日本史上最古の官寺ですが、現存する多くの伽藍は第二次世界大戦後に再建されたものです。
また境内は広く、金堂や講堂、五重塔や中門といった中心伽藍以外のお堂や建造物も数多くあります。
ここではそれぞれの建物について、歴史や安置物などを紹介します。
伽藍配置
四天王寺の敷地は、五角形でホームベース型のような形状をしています。中心伽藍より北側から北西にかけ四天王寺霊苑、中心伽藍西側から北西側にかけて四天王寺中学校・高等学校が敷地内にあり、それ以外は境内となっています。
中心伽藍の配置は、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に配置され、回廊がこれらを囲んでいます。創建当時からこの配置で、戦後の再建時も同じ配置とされました。
金堂
内部中央に聖徳太子を菩薩として作られた本地仏であり、四天王寺の本尊である救世観世音菩薩が安置されており、その左側に舎利塔、右側に六重塔、仏壇の周囲に四天王像が配置されています。内部壁面には明治から昭和30年台まで活躍した日本画家である中村岳陵が描いた「仏伝図」の壁画があることでも有名です。
建築様式は創建当初を再現したもので、入母屋造の上下二重の屋根で、上段は錣屋根で、法隆寺の金堂に似た外観ですが、裳階(もこし)が付いていない点で法隆寺金堂と違いがあります。
創建時期は明確な資料がないことから不明ですが、発掘調査から607年頃と推測されています。現在の金堂は1961年(昭和36年)3月に再建されたものです。
講堂
講堂は、経典に講義を行ったり、法を説いたりする七堂伽藍の一つです。入母屋造の単層の建物で、東西に長く作られています。中央を境として東側を「冬堂」、西側を「夏堂」と呼び、東側の冬堂には佐川定慶作の十一面観音立像、西側の夏堂には松久朋琳・宗琳作の阿弥陀如来坐像が安置されています。
冬堂の十一面観世音菩薩は現世の人々の悩みや苦しみを救う菩薩、夏堂の阿弥陀如来は来世を極楽に導く仏様とされ、現世と来世の両面において、人々を導いていただきたいという願いが込められています。
周囲の内側壁面には、日本画家で大正から昭和中期頃を中心に活躍した郷倉千靭氏の描いた「仏教東漸」の壁画があります。仏教東漸とはインドで生まれた仏教が中国、朝鮮、そして日本へと伝来されたことをいい、全18枚の壁画を3年間で描いたものとなっています。
五重塔
「六道利救の塔」とも呼ばれ聖徳太子が創建時に六道救済の願いを込め、塔の基礎石心柱の中に仏舎利六粒と自身の髪の束を六毛収めたとされています。この六道とは、現世を終えた人が人生の中での行いの結果に応じて生まれ変わる六つの世界のことをいい、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の世界のことをいいます。
内部には、四天王像と釈迦三尊像の壁画が安置されています。
この五重塔は593年に創建されました。その後、雷や火災で焼けてしまい、そのたびに再興されてきました。
現在の塔は8代目で、第2次世界大戦時に大阪大空襲で焼失した後の1959年(昭和34年)に再建したものです。高さ39mの非木造の建造物で、塔片側の入り口から内部に入ることができ、舎利塔が安置されている5重目まで階段で登れるようになっています。
中門
創建時の伽藍にもあったとされる中門は、1963年(昭和38年)に再建されたものが現存の門となっています。中心伽藍の南端にあり、南大門の北にある門です。入口両脇には金剛力士像が安置されていることから、仁王門とも呼ばれています。
この金剛力士像は、講堂の夏堂に安置されている阿弥陀如来像の製作者である松久朋琳・宗琳作となっています。
西重門(さいじゅうもん)
西重門は、中門から講堂を西側でつなぐ回廊の中央部分に設けられた門です。中心伽藍の入り口としての機能を持つ門で、創建は不明です。聖徳太子1400年御聖忌に向け2022年に耐震補強工事が行なわれました。
南大門(なんだいもん)
境内の一番南にある建物で、593年(推古天皇元年)に創建されました。現在の南大門は1985年(昭和60年)に再建されたものです。
南大門を入ってすぐの内側には、四天王寺四石の一つである熊野権現礼拝石と呼ばれる石が鎮座しています。昔から熊野詣に出かける前に道中の安全祈願をこの熊野権現礼拝石で行っていたとされます。旅立つ前に四天王寺に立ち寄り熊野を遥拝してから、熊野街道を南に向かったのだそうです。
極楽門(ごくらくもん)
極楽門は、正式名称を西大門といいます。西側通路から伽藍の敷地内に入る為の門として立っています。593年(推古元年)に創建されました。
現在の西大門は昭和37年に松下幸之助氏からの寄贈により再建。極楽に通ずる門ということで、極楽門と呼ばれるようになりました。
石舞台(いしぶたい)
講堂の北側にある亀の池の上に架かっている石橋の上に組まれた舞台です。毎年4月22日に聖徳太子を偲んで行われる聖霊会舞楽大法要の際には、舞台上で舞楽が古来からの作法にのっとり行われます。
石鳥居(いしのとりい)
石鳥居は西大門(極楽門)よりさらに西の境内入口にある国の重要文化財に指定されている鳥居です。創建時は木造の鳥居だったとのことですが、1294年に再建される際、当時の別当であった忍性により、木造から石造に改められました。
お寺に鳥居は違和感がありますが、元来は聖地結果の四門として建てられたものであったことから、神社に限ったものではありません。
五智光院(ごちこういん)
五智光院は、大日如来を本尊とする道場で、授戒灌頂会(じゅかいかんじょうえ)を執り行う施設で、別名灌頂堂(かんじょうどう)とも呼ばれています。1177年に後白河法皇の命により創建されました。
授戒とは、仏弟子になるための約束事を授かりそれを心がけて生活することを誓う儀式のことで、灌頂とは元来持って生まれている仏になる種を芽生えさせるための儀式をいい、合わせて授戒灌頂会と呼びます。
五智光院は徳川秀忠が再建したことが縁となり、徳川家代々の位牌が収められており、御霊舎(みたまや)とも呼ばれてきました。
湯屋方丈(ゆやほうじょう)
方丈とは、お寺の中で従事している住職の居室です。それにお風呂を表す湯屋が名前についている通り、住職の居室にお風呂が付いた建物です。
徳川家康の側近として、また秀忠、子の3代将軍家光に仕え108歳で天命を全うしたとされる天海大僧正が、四天王寺で執務をしたときに在住していたのがこの湯屋方丈とされています。
現存の建物は1623年に江戸幕府2代将軍の徳川秀忠によって再建されたものです。
六時礼讃堂(ろくじらいさんどう)
六時礼讃堂は講堂の北側で境内中央に位置する雄大なお堂です。昼夜6回の諸礼讃を行うお堂ということでこの六時礼讃堂という名になっています。薬師如来や四天王等がお祀りされており、回向(供養)や納骨などを行う四天王寺の中心道場です。
創建は816年、天台宗の最澄が比叡山の根本中堂にならって創建したと伝わります。現在のお堂は1623年に再建されたものであり、建物は重要文化財に指定されています。
亀井堂
亀井堂は戦火で焼失後、昭和30 年に再建されました。亀井堂の霊水は金堂の地下より湧きだしている水で、「白石玉出の水」と呼ばれています。亀井堂内にある亀形の水盤に回向(供養)を済ませた経木(きょうぎ)を流せば極楽往生(死後に極楽浄土に生まれ変わる)が叶うといわれています。
東西桁行は四間あり、西側を亀井の間と読んでいます。東側は影向の間と呼ばれ、影向の間の左右に馬頭観音と地蔵菩薩があります。中央には、その昔聖徳太子が井戸に姿を映し、楊枝で自画像を描いたという楊枝の御影が安置されています。
元三大師堂(がんざんだいしどう)
元三大師をお祀りすることからこの名が付けられたお堂で、創建は平安時代初期、に最澄によって建てられました。現存するお堂は、元和4年(1618年)の建立です。再建当時は元三大師ではなく最澄が祀られていたそうですが、江戸時代に元三大師が祀られるようになり、現在に至ります。
元三大師こと元三慈恵大師(がんざんじえだいし)良源は第18代天台座主であり、叡山中興の祖といわれています。また、おみくじの創始者でもあります。
元三大師は、正月三日に入滅したことから名づけられました。自らを角の生えた夜叉の姿に変え、災厄を払ったという伝承から、鬼大師・角大師と呼ばれるようになり、江戸時代には全国的に元三大師信仰が広がったこともあり、大阪ではこの元三大師堂が信仰の中心地になったのでした。
おみくじについては、元三大師が観音菩薩様に祈念し授かった五言四句の偈文(げもん)百枚が原型だと言われています。偈文とは、観音菩薩様の言葉で、元三大師は百枚の偈文の中から引いた一枚に進むべき道を読み取り、数多くの人を迷いから救ってきたとされています。
しかし、元三大師様がおみくじの元祖と言われるようになるのは、江戸時代のはじめであり、徳川家三代にわたり仕えた天海が、元三大師の夢のお告げにより、信州にある戸隠(とがくし)神社で偈文百枚を発見したことに始まります。
現在は、元三大師、弘法大師、文殊菩薩、普賢菩薩、如意輪観世音菩薩、不動明王が安置され、毎月3日の例月祭の他、1月3日には新春合格祈願護摩供が厳修されます。
地蔵山
地蔵山は、明治時代に四天王寺境内や近郷から集めた有緑無縁の地蔵尊を、仲之門を入った南側の小丘に合祀したのがはじまりとなったお堂です。
本尊は立江地蔵尊(たつえじぞうそん)で、古来より眼病に霊験があるとされており信仰を集めています。
見真堂(けんしんどう)
浄土真宗の開祖である親鸞聖人を称え、その功績を後世に残すために建立されたお堂です。本尊に阿弥陀如来像、向かって右側には聖徳太子像が安置されており、左側には「南無阿弥陀仏」の六字名号(ろくじみょうごう)の掛け軸が祀られています。
六字名号の掛け軸は浄土宗や浄土真宗では本尊のかわりにお祀りするものです。
大師堂
大師堂は、真言宗の開祖である弘法太師空海をお祀りするお堂です。若き日の空海は四天王寺の西門で日想観を修行したとされており、お堂の北側にはその修行像が祀られています。
太師修行像の周りには四国八十八ヶ所から集められた砂が敷き詰められており、太師堂で申し込めば、この砂を踏みしめるお砂踏みができます。
布袋堂(ほていどう)
極楽門の少し石鳥居側にある布袋堂は、七福神の布袋さまをお祀りするお堂です。乳布袋尊(ちちほていそん)と呼ばれ、お乳を授けてくれるご利益があります。
四天王寺創建時に聖徳太子の乳母を祀ったのが始まりで、布袋尊の乳の豊かさが乳の出がよくなるという信仰に結びついたものとされています。
大黒堂
大黒天・毘沙門天・弁財天の三つの顔を持つ三面大黒天が本尊として祀られているお堂です。大黒天・毘沙門天・弁財天の三神の顔を持つことから、福の神トリオともいえる仏様ですが、子孫繁栄や福徳智彗、商売繁盛といったご利益があるとされており、昔から庶民の信仰が盛んになっています。
旧正月には特に多くの人を集める建物となっています。
英霊堂
明治39年に建立された建物です。元は大釣鐘堂(おおつりがねどう)と呼ばれていた建物で、明治期では世界一であった大梵鐘がつられていました。
この鐘は、第二次世界大戦の戦渦による鉄不足に際し、鉄の材料として供出されたことが縁となり、戦没英霊を奉祀することを目的とし、英霊堂と改名しました。現在では毎月21日と8月15日に世界平和を祈り、戦争や災害犠牲者供養の為の法要が行われています。
阿弥陀堂
昭和28年に四天王寺末寺である三重県の国束寺の本堂を移設したものです。本堂西側には納骨前に仮安置するための納骨堂があります。
浄土宗の開祖である法然上人二十五霊場の札所になっているお堂です。
万燈院(まんとういん)
本尊に十一面観音坐像を安置し、脇には不動明王、普賢菩薩などが祀られているお堂です。
紙衣堂(かみこどう)とも言い、紙の衣を着て修業した阿羅漢さんを形どった紙衣仏(かみこぶつ)をお祀りしています。
この仏さんは病気回復に功徳があるといわれ、毎年10月10日の衣替え法要は多くの信者さんで賑わいます。
紙衣法要では1年間紙衣仏が着ていた紙衣を背中に当て、お加持します。これを3年続けると病気になっても、また、臨終の時でも不浄の世話を人にかけないといわれています。願い事の書かれた護摩木を焚き、太鼓を鳴らしての祈祷が行われます。入口に木槌と木臼があり、痛い所をさすると治るといわれています。
亀遊嶋辯天堂(きゆじまべんてんどう)
池の中央に浮かぶ島に辯才天を祀るお堂があり、この姿が池に浮かぶ亀の甲に似ていることから名付けられたようです。辯才天は、インドにおいて河の神とされたことから、水辺に祀られます。
毎年21日の例月祭では、辯才天法要が行われ、「智恵弁才、福徳円満、子孫繁栄」に霊験があるとされます。
このお堂に祀られる辯才天には八本の腕があり、弓・宝珠・鑰(カギ)などを持っしておられ、これらは私たち一切衆生を救い導かれるための智恵を表されたものです。
毎年10月には秋の大祭として、辨天堂が開帳され、午前中のみ秘仏本尊「亀遊嶋辯才天」を拝むことができます。
北鐘堂(きたがねどう)
中心伽藍の北側にある鐘堂です。堂内の鐘楼は正式には黄鐘楼(おうしょうろう)と言いますが、綱を引いて鐘を突くため、引導鐘や鐘つき堂とも呼ばれます。天井裏に鐘があり、外からは見えません。
鐘の音は極楽までも鳴り響くと言われ、春や秋の彼岸のシーズンには先祖供養のために鐘を突きに来る人が絶えません。
南鐘堂(みなみがねどう)
中心伽藍の南にある鐘堂で、正式には鯨鐘楼(げいしょうろう)といいます。鐘は雅楽の盤渉調(ばんしきちょう。雅楽の唐楽の六調子の一つである盤渉調の音色)の名鐘です。
聖徳太子が創建時に浄土へ導きたいという願いが込められていると伝えれており、鐘楼から撞き送る響きは、遥か極楽浄土に通じるといわれます。
太鼓楼(たいほうろう)
元は時刻を知らせる太鼓を鳴らすお堂でしたが、再建の際に北鐘堂と同じ黄鐘調の鐘が吊るされました。大晦日には除夜の鐘を響かせます。
本尊には虚空蔵菩薩が祀られており、毎月21日に開堂されて祈願を受け付けています。
太子殿(たいしでん)
聖徳太子をお祀りしている太子信仰の中心的な建物で、正式には聖霊院といいます。中心伽藍の東側に南から北に向かって前殿と奥殿があり、前殿には太子十六歳像と太子二歳像、四天王が、奥殿には太子四十九歳像が祀られています。四十九歳像は毎年1月22日のみ公開されます。
毎年2月22日に開催される「太子二歳まいり」は、2歳前後のお子様連れの家族でにぎわいます。
経堂(きょうどう)
『勝鬘経』『維摩経』『法華経』の三経、その注釈である 「三経義疏」といった高麗大蔵経・昭和荘厳経等が納められています。
絵堂(えどう)
杉本健吉画伯により、聖徳太子の一生についてが描かれた壁画が奉納された建物です。昭和58年に完成をしました。
番匠堂(ばんしょうどう)
番匠とは仏教伝来当時に、百済から寺院建立のために日本に招請された建築技師のことをいいます。
聖徳太子は、推古天皇の摂政となり仏教を日本国内に広める際、寺院の建立技術を日本に導入するために多くの技術者を日本に招聘しましたが、異国に赴いた技術者達を慕い、建築技術の向上や工事の安全を祈願する人たちによってお祀りされるようになったのがこの番匠堂です。
堂内には曲尺を持った曲尺太子が安置されています。
牛王尊(ごおうそん)
四天王寺を建立するときに建築資材の石や材木を運んだ牛が伽藍完成後に石となったという伝説があり、その巨石が堂内に安置されています。
庚申堂(こうしんどう)
庚申堂が建立されている場所は、日本最初に庚申尊が出現した地と言われています。四天王寺の寺伝によると、701年の正月七日庚申の日、豪範僧都(ごうはんそうず)が疫病に苦しむ多くの人々を救わんと一心に天に祈ったところ、帝釈天のお使いとして童子が出現し、病気を無くして災害を取り除く霊験を示しました。庚申とは十干の「庚」と十二支の「申」の組み合わせのことです。
この豪範僧都の出来事と、元々は中国の道教の教えであった三尸説に、密教や神道、医学など色々な考え方が盛り込まれ、複合信仰として、庚申信仰が広がりました。
庚申堂は江戸時代初期に豊臣秀頼により再建されたもので、江戸時代には京都の八坂庚申堂、東京の入谷庚申堂とで日本三大庚申に数えられていました。しかし、第二次世界大戦の大阪大空襲で焼失。
戦後1970年(昭和45年)の大阪万博の際に、全日本仏教会が休憩所として建造した「法輪閣」が大阪万博閉会後に四天王寺に寄贈され、現在の庚申堂として使われています。
食堂跡(じきどうあと)
第二次世界大戦時に焼失してしまった建物に、僧が食事をするための堂舎(食堂)がありました。
食堂については再興されることなく現在は食堂跡の石碑のみが境内六時堂北側に建てられています。
亀井不動堂(かめいふどうどう)
593年(推古元年)に創建された聖徳太子ゆかりの不動尊を祀るお堂です。伝説では、聖徳太子が尊い声に呼び止められ亀井の井戸を覗き込むと、そこに仏法の守護神である不動明王の姿が映っているのが見えたため、この場所に不動尊を祀ったとされています。
現在の建物は昭和30年に再建されたもので、近畿36不動尊の第一番霊場であり、本尊は水掛け不動尊。本尊の左右には子育地蔵尊と延命地蔵尊が祀られています。
極楽浄土の庭(ごくらくじょうどのにわ)
極楽浄土の庭は、自然のわき水を利用した2つの小川「水の河」・「火の河」と、2つの池「瑠璃光の池」・「極楽の池」を配し、白砂の「白道」という広さ1万m²の廻遊路を設けた池泉廻遊式庭園です。
造園の着工は江戸時代初頭とされており、現在の庭は明治時代初期に火災による焼失から復興されたものとなっています。このときに「二河白道(にがびゃくどう)」の喩話に基づいた作庭がなされました。
二河白道とは、水の川と火の川を貪りと怒りに例え、その二河にはさまれた、ひとすじの白い道を彼岸に至る往生の信心にたとえたものです。煩悩にまみれた凡夫も、釈迦の勧めと阿彌陀の招きを信じて、念仏一筋につとめるとき、悟りの彼岸に至るとする教えです。
幾度の戦災を免れて現在に至る湯屋方丈、その前庭である座視式庭園「補陀落の庭」と合わせたものとなっています。