飛鳥時代の歴史まとめ.飛鳥時代にあったこと、主な出来事、何があったかがわかる

飛鳥時代は、推古天皇(すいこてんのう、554年~628年、在位593年~628年)が即位した592年から平城京に都が遷る710年までの118年間に及びます。
飛鳥地方を中心に朝廷が置かれていたため、歴史区分で飛鳥時代と呼ばれています。

日本が飛鳥時代を迎える頃、中国では589年に隋が中国統一を果たします。
隋王朝との交流はあったものの、隋は短い期間(581-618年)で唐に滅ぼされてしまいます。
その結果618年以降は、隋を滅ぼした唐と外交を行うようになりました。

隋や唐という2つの王朝との関わりを深め、遣隋使や遣唐使が帰国時に持ち帰った最先端の国造りの方法を取り入れ、当時の中国と対等に渡り合える国として大きく発展させた時期でした。

朝鮮半島においては、660年に百済、668年に高句麗が滅び、三韓時代が終焉し668年に新羅により朝鮮半島が統一されました。
統一前の高句麗、新羅、百済は、三者間での関係や中国との関わりから、日本との外交をそのときの立場により変えてきました。

新羅に対抗するための支援が必要だった百済は、古墳時代末期ごろに仏教を公伝し、ヤマト王権との絆を深めようとしました。
しかし結果的に百済は新羅に滅ぼされました。
大和朝廷は、百済から復興の協力依頼を受け、朝鮮半島に軍を送るものの、白村江の戦いにおいては、新羅に唐からの援軍が合流した連合軍との戦いになり、派遣した日本の軍は敗北します。

新羅と唐の連合軍に敗北したことで、唐に対しての危機感を強く感じた天智天皇は、近江令などの法令を出し、国防を強化しました。

天武天皇(てんむてんのう、~686年、在位673年~686年)の時代になると、史上初の律令である飛鳥浄御原令の制定が進みました。
天武天皇は、国の名前も「倭」から「日本」と呼び方を改めます。
その後701年の大宝律令にて、正式に国号として日本が定められました。

豪族が集結し、大王を中心としたヤマト王権として国が一つになろうとしていた古墳時代に対し、飛鳥時代は、大陸の影響を受け律令が制定され、大陸の国と対等に外交ができる国へと成長していく時代でした。

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飛鳥時代の出来事、特徴。何があった?

飛鳥時代の主な出来事は、次の通りです。

・三頭政治による天皇を中心とした国造り
・乙巳の変による蘇我氏の排除
・大化の改新による律令制度の確立
・白村江の戦いによる敗戦
・壬申の乱における皇位継承トラブルと律令国家の成立
・藤原京への遷都や貨幣の導入

日本が中国の律令制度を模倣し日本独自の律令制度構築がわずか100年という短期間に急速に行えた背景には、弥生時代末期から古墳時代初期にかけて日本に伝来した漢字の理解があります。

日本人も中国と共通の文字を理解していたため、中国との外交をスムーズに行えるようになっており、朝鮮半島経由ではなく中国から直接持ち帰った書物をそのまま理解できたため、朝鮮人からの口頭での伝聞では理解が及ばないような情報を正確に理解でき、国造りに活用できたのでした。

古墳時代末期に百済をはじめとする朝鮮の国を通じて伝来した儒教や仏教のスムーズな理解も、漢字を理解していたからでした。

また、朝鮮半島情勢も大きく日本の発展に影響を与えました。
高句麗、百済、新羅の三国による時代が唐の領土拡大政策により、状況が一変してしまいます。

これにより、唐に対しての対外政策も朝廷の政治に大きく影響を与え、結果日本の発展につながっていきました。

三頭政治による天皇を中心とした国造り

飛鳥時代最初の推古天皇は、3代前の敏達天皇(びだつてんのう、538年~585年、在位572年~585年)の后でした。
敏達天皇とは異母兄弟であり、2代前の用明天皇とは同母兄弟でもあったため、敏達天皇崩御後も有力な皇族でした。
元は敏達天皇の皇后であった推古天皇が皇位に就く背景には、父の欽明天皇(きんめいてんのう、509年~571年、在位539年~571年)時代に百済から公伝された仏教が大きく影響していました。

欽明天皇の時代に百済から公伝された仏教は、敏達天皇や用明天皇(ようめいてんのう、540年~587年、在位585年~587年)の時代になっても、どのように取り扱うか天皇をはじめ、豪族間でも意見が二分していました。
当時の日本では神道が信仰されており、豪族は「神の末裔」という立場からそれぞれの一族ごとに祖先神を祀っていました。
そのため、仏教を認めたくない豪族は、異国の神を信仰するのは神罰が下ると否定的でした。

一方、古墳時代中期頃より、朝鮮半島から日本にきた渡来人と関係の深い豪族の一部では、仏教は大陸の最新文化であるため、大陸との外交を進める中で、仏教崇拝は必要だと仏教に理解を示していました。
渡来人は、日本の神道とは違う宗教を信仰しており、渡来人と関係の深かった豪族は、仏教も認識していたのです。

仏教がそもそも日本に公伝されたきっかけは、朝鮮半島の情勢からでした。
当時の朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済の3ヶ国が互いに連携したり抗争したりしていた時代でした。

4世紀から5世紀頃の百済や新羅は朝鮮半島の南半分に起こった小国でした。

当初百済は新羅と連携し、南下してくる高句麗に対抗していたものの、475年に高句麗に敗れ一時的に滅亡してしまいます。
その後、都を南下させ国の再興を行うものの、百済は弱体化していました。

このような背景から、高句麗、新羅に対抗する必要が高まり、ヤマト王権に援軍を要請するようになったのです。
その際に、大陸の先進文化である仏教を伝えることで交流を深めようとしたのが仏教公伝の背景でした。

公伝された仏教について取扱いに困った欽明天皇は、家臣に意見を求めたところ、大臣の蘇我稲目は仏教を取り入れるべきとし、大連の物部尾輿は仏教を排除すべきと意見しました。

これにより、蘇我氏と物部氏との間で大きな溝が生まれ、対立するようになったのです。

この争いは、欽明天皇崩御後も子である敏達天皇、用明天皇の世代でも決着はつきませんでした。

そのため、蘇我氏・物部氏も子である蘇我馬子、物部守屋がそれぞれ大臣・大連となり、親子2代での争いに発展したのでした。

蘇我馬子と物部守屋がそれぞれの氏族の筆頭となった頃には、皇位継承問題も起こり、丁未の乱(587年~)に発展します。
この内乱で物部氏は敗北し、仏教が正式に国の宗教として取り扱われるようになったのでした。

仏教公伝から丁未の乱 背景にあった蘇我氏物部氏の対立・排仏崇仏論争

丁未の乱が終息すると、蘇我馬子が推挙した柏瀬部皇子(はつせべのみこ)が第32代崇峻天皇(すしゅんてんのう、553年~592年、在位587年~592年)として即位しました。

しかし、崇峻天皇の記録には仏教に関する記載がないため、先代の用明天皇とは違い仏教に対して賛同していなかった可能性が考えられています。

また、崇峻天皇は妃の小手子(こてこ)との間に皇子をもうけたのですが、小手子は大伴氏の人間であったため、外戚関係を強化していた蘇我氏にとって立場を確保できなくなる可能性を秘めていました。

また、崇峻天皇が進めた地方の支配体制、朝鮮半島への対外戦争などいろいろな政策も含め、他の皇族や蘇我氏などに反対勢力も生まれたのでした。

その後、崇峻天皇は蘇我馬子の指示により暗殺されてしまいます。
この史上唯一の臣下による天皇暗殺事件に対し、蘇我馬子は処罰されておらず、皇族でも動揺が起こっていないため、蘇我馬子によるものではなく、皇族の同意を得たうえでのクーデターだった可能性のある事件でした。

こうして敏達天皇の后であった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が皇位につき、第33代推古天皇(すいこてんのう)として即位したのです。

推古天皇は、用明天皇の同母兄弟であり、蘇我稲目の孫にあたるため、蘇我馬子は叔父にあたりました。
叔父と姪の関係でしたが、朝廷を思うがまま操りたかった蘇我馬子の言いなりにはなりませんでした。
自身の後継者候補でもある甥の厩戸皇子(うまやどのおうじ)を摂政、蘇我馬子を引き続き大臣とし、推古天皇と三者で朝廷を動かす三頭政治を構築して運営したのでした。

聖徳太子は、「十七条の憲法」「冠位十二階の制定」「遣隋使の派遣」など、後の律令制につながる政策を行い、「法隆寺」「四天王寺」といった現代に残る古刹を創建するなど、仏教においても多くの歴史を残しました。

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乙巳の変による蘇我氏の排除

推古天皇の摂政であり、後継者と見られていた聖徳太子は622年に推古天皇より先に亡くなりました。
推古天皇は皇位継承者を立てないまま、政治を続けますが、628年に崩御。

蘇我馬子も626年に亡くなっており、大臣は息子の蘇我蝦夷(そがのえみし)に引継がれました。
聖徳太子が亡くなった後は、蘇我馬子の権力は天皇に匹敵するほどになり、それを引継いだ蘇我蝦夷の専横はとても目立つようになっていました。

このような状況下で蘇我氏系の皇子を推挙すると、蘇我氏の権力が非常に大きくなり、周囲からの反発を招くリスクがあったため、推古天皇の後継には、蘇我氏系ではない敏達天皇の孫である田村皇子を推挙、田村皇子が第34代舒明天皇(じょめいてんのう、593年~641年、在位629年~641年)として即位したのでした。

舒明天皇は皇后との間に、後の天智天皇(てんじてんのう、626年~672年、在位668年~672年)、天武天皇を設けました。

舒明天皇の後には、皇后の宝皇女(たからのひめみこ)が第35代皇極天皇(こうぎょくてんのう、594~661年、在位642年~645年)として即位。

皇極天皇の時代には、大臣は蘇我蝦夷の子の蘇我入鹿(そがのいるか)へと引き継がれていました。

蘇我入鹿は祖父の蘇我馬子、父の蘇我蝦夷以上に、傍若無人に権力を行使する人物でした。
天皇を差し置いて自分がまるで天皇になったかのように行事を取り仕切るような専横が目立ちました。

これに危機感を持った中臣鎌足は、南淵請安(みなぶちのしょうあん)の塾で一緒に学んでいた舒明天皇と皇極天皇との第二皇子である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)を仲間にし、蘇我氏打倒を計画しました。

645年7月10日、中大兄皇子、中臣鎌足らは、朝鮮からの使節接見である「三国の調の儀式」と偽り、天皇や大臣などの有力豪族が出仕する機会を作りました。

そこで皇極天皇を前にして、太極殿に出仕した蘇我入鹿を暗殺したのでした。

この蘇我氏討伐事件を乙巳の変といいます。

大化の改新のきっかけとなった乙巳の変とは?理由、真相、エピソード等わかりやすく解説

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大化の改新による律令制度の確立

乙巳の変以降、皇極天皇は中大兄皇子に皇位を継承しようとするも時期尚早と断ったため、皇極天皇は弟の軽皇子に皇位を譲り、軽皇子は第36代孝徳天皇(こうとくてんのう、596~654年、在位645年~654年)として即位しました。

孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子とし、蘇我氏中心の政治から、天皇中心の政治に戻そうとします。
孝徳天皇は、それまで力を持っていた蘇我氏の没落を契機とし、朝廷政治を刷新するために、都を飛鳥から、海に近い難波に移します。

646年の正月には、新政権の方針を4箇条にまとめた改新の詔が発布されました。
・これまで天皇や豪族の所有となっていた私有民の廃止、政府直轄地や豪族の私有地の廃止
・京師を定め、畿内・国司・郡司といった行政区画の制定
・戸籍を作成し、土地を測り、班田収授法を策定
・旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定

この詔による政治改革が大化の改新です。

飛鳥時代の流れ 蘇我氏の専横 大化の改新 乙巳の変 改新の詔

この詔では、天皇のいる都を京師(けいし)と定めました。

また日本に行政区域として国、郡、里を設け、国の中に郡、郡の中に里と細分化しました。
国には国司として中央から役人を派遣、郡では国司が地元豪族を役人として採用しました。

さらに、飛鳥地方周辺の大和・摂津・山城・河内・和泉の五つの国を五畿と呼び、政治の中心地として特別地区とし、畿内と呼びました。

652年に難波宮の宮殿が完成したものの、653年に中大兄皇子は飛鳥に都を戻すように孝徳天皇に進言しましたが、孝徳天皇は進言を受け入れず、難波の都に残り、その1年後に崩御してしまいました。

飛鳥への遷都理由は、日本書紀などの歴史書でもはっきりとした理由の記載がないため、真実は分かっていませんが、難波の地が海に近いため、不穏な動きを見せていた唐を警戒して内陸の飛鳥に戻そうとしたのではないかという説や孝徳天皇を排除するための中大兄皇子によるクーデター説などがあります。

中大兄皇子は孝徳天皇の崩御後も時期尚早として即位せず、皇極天皇が重祚し、斉明天皇(さいめいてんのう、594~661年、在位655年~661年)として即位しました。

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白村江の戦いがもたらした影響

重祚した斉明天皇の政権で大きな課題となったのは、新羅に滅ぼされた百済の復興でした。

援軍要請を受けた斉明天皇は、新羅・唐の勢力が強まることに危機感を持ち、国内外に対してのリーダーシップと権威を示すためか自らも九州に従軍し、朝鮮半島に軍を派遣します。

朝廷軍は朝鮮に渡るものの、百済の残党軍は統率が取れていない状態でした。

それに加え、新羅軍は唐からの援後を受けた連合軍となっており、朝廷軍は敗走します。
この百済復興支援を目的とした朝鮮半島での戦いが、白村江の戦い(663年)でした。

白村江の戦い以降、朝鮮半島ではさらに高句麗が唐と新羅の連合軍に敗れ、唐に吸収され滅亡しました。
唐は周辺の異民族に対する統治政策として、内地化する羈縻政策(きびせいさく)を行っており、旧高句麗の領土は半島内の一部領域を除き、唐の領域として組み込まれたのです。

朝鮮半島の2国の滅亡により、東アジアで唐に敵対する国は日本のみとなりました。

白村江の戦い前に斉明天皇は亡くなっていたものの、中大兄皇子は皇位に就かずに政務を仕切っていました。

結果的に白村江の戦いに敗れた中大兄皇子は、唐に対する危機感を覚え、九州に防人を配置するなど国防を強化していきます。
667年には朝廷を近江大津宮に移し、翌668年に第38代天智天皇として即位しました。

百済、高句麗が滅ぼされ、残った新羅にも統治機関が置かれたことで、実質朝鮮半島が唐の支配下となったことにより、中大兄皇子は唐と対等に渡り歩いていく国造りを進めるため天皇として正式に即位し、国力・国防の増強を進めました。

白村江の戦いによる中央集権体制強化、朝廷の威厳、天皇交代、対外政策

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壬申の乱と律令国家の成立

天智天皇は即位当初、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)に皇位を継承する予定で皇太弟に定めました。

しかし、皇位について数年で自身の子である大友皇子(おおとものおうじ)に継承したいと考えるようになり、大友皇子を670年に史上初の太政大臣に任じました。

大海人皇子は、天智天皇が大友皇子に皇位継承するのに、自身の存在が邪魔であり、命を奪われるかもしれないと危険を悟りました。

天智天皇の死期が近かったこともあり、いつ排除されるか分からない状態でした。

大海人皇子は出家のためと皇位継承を辞退し、朝廷から離れて吉野に身を隠しました。

671年12月に天智天皇が崩御すると、その翌年、大海人皇子は近江の朝廷が命を狙っているという情報を得ます。

大海人皇子が去った近江朝の立場からすれば、天智天皇の崩御により、いつ大海人皇子が再び政治の世界に舞い戻るかわからない恐怖があったため、大海人皇子の命を狙ったのです。

一方、大海人皇子も、天智天皇の生前に後継者争いを避ける戦略での吉野への退避でした。

そのため、天智天皇崩御後、大友皇子側の動きを確認し、吉野で出兵すると、近江朝の大友皇子と大海人皇子との間で皇位継承紛争が起こりました。

これが壬申の乱とよばれる古代日本最大の内乱でした。

壬申の乱では大海人皇子が勝利し、第40代天武天皇として即位します。

天武天皇は、天皇専制や皇族を中心とした皇親政治を推し進めました。
自身が兄弟間での皇位継承で大きな問題が起こったため、自分の子孫に同じような皇位継承問題が起こらないよう、皇位継承のルールも作りました。

また、都の造成、律令の制定、軍事や外交、文化政策、宗教政策に至るまで多くの政策も行い、日本を一つの国家とする政策を進めました。

天武天皇の政策は、後の持統天皇(じとうてんのう、645~703年、在位690年~697年)、文武天皇(もんむてんのう、683~707年、在位697年~707年)へと受け継がれ、後の国家運営へと大きな影響を与えたのでした。

大友皇子と大海人皇子の皇位継承の内乱 壬申の乱の原因は?わかりやすく簡単に

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都は藤原京へそして平城京へ

天武天皇の皇位継承者には、皇后鸕野讚良(うののさらら)との皇子であった草壁皇子(くさかべおうじ)が指名されていました。

天武天皇崩御後、草壁皇子は皇位継承者として天武天皇の葬儀を取り仕切っていました。

当時は数年にわたる儀式を執り行っていたため、葬儀が落ち着いたのちに皇位に就く予定でした。
しかし、その中で病気にかかり、草壁皇子は亡くなってしまいます。

皇后はその際、草壁皇子の子である軽皇子(かるのおうじ)に皇位継承を願うもののまだ7歳と幼かったため、天皇に即位できるまでの中継ぎとして皇后が第41代持統天皇として即位しました。

持統天皇は、天武天皇と行動を共にしてきたため、政策も基本的には天武天皇の政策を引き継ぐものでした。
その政策の一つに藤原京の造営がありました。

藤原京は、日本初の唐風に造営された都であり、持統天皇、文武天皇、元明天皇(げんめいてんのう、660~721年、在位707年~715年)の三代に渡り利用された都でした。

藤原京遷都後には、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)と大宝律令の制定が行われました。

飛鳥浄御原令とは、飛鳥時代に制定された法典であり、律令のうち令(国家の基礎となる行政法・民法のようなもの)に関する内容だけが定められ、施行された日本史における最初の律令法です。
ただし現存していないため、詳細は解明されていません。

一方、大宝律令とは、701年に制定された律令法で、律(刑法)が6巻、令が11巻の全17巻で構成されています。

唐で運用されていた律令法を参考にされています。

朝鮮経由の中国文明ではなく、遣唐使による唐との直接交流から、同時代の唐に倣ったことが歴史的に評価されています。

710年に元明天皇は、藤原京から平城京へ遷都を行います。

飛鳥地方の豪族の影響力低下、外交や交通の利便性の重視という狙いから、藤原京より約27km離れた場所へ都を移したのです。

こうして飛鳥時代は幕を閉じました。

壬申の乱、皇親政治、部曲・食封の廃止、国史編纂、八色の姓、飛鳥浄御原令、庚寅年籍、藤原京の造営・遷都

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飛鳥時代の文化

飛鳥時代の文化は、日本独自で生まれ発展した文化ではありませんでした。
古墳時代に朝鮮から多くの渡来人が日本にきていたため、インドや中国など大陸で栄えた文化が日本に伝わり、それらを元に発達したものでした。

大陸と陸続きの朝鮮の国々には、大陸の国々のいろいろな知識や文化が持ち込まれており、渡来人はそれらの文化や知識を持っており、日本に渡ってきたことで、日本にそれらの文化や知識が持ち込まれていったのです。

仏教の教えや法要、仏像や寺院の建設といった、それまでの日本になかった知識や情報を通じて、それまでの日本になかった国際色豊かな文化が芽生えるきっかけとなったのです。

飛鳥時代の文化は、時期により2つの文化に分けられます。
仏教公伝による仏教の影響から始まった飛鳥文化、大化の改新以降に見られた白鳳文化です。

飛鳥文化

飛鳥文化は推古天皇が即位し、聖徳太子、蘇我馬子が中心となり国造りを行った頃に栄えた仏教文化です。
仏教が公伝され、仏教を擁護した用明天皇の皇后であった推古天皇が即位したため、飛鳥地方を中心に寺院が建設されていきました。

聖徳太子が丁未の乱で祈願し創建した四天王寺、蘇我馬子が蘇我氏の氏寺として創建された飛鳥寺、用明天皇発願で遺志を継いだ聖徳太子と推古天皇により創建された法隆寺など、多くの寺院に伽藍が作られていったのです。

寺院と合わせて持ち込まれたのが仏像でした。
お祀りする対象を形にする文化として、日本でも仏像が作られるようになりました。

・法隆寺金堂の釈迦三尊像
・法隆寺夢殿の救世観音像
・飛鳥寺の釈迦如来像

他にも多くの仏像が作られました。

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白鳳文化

白鳳文化は、飛鳥文化を基本とし、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて展開された文化です。
遣隋使や遣唐使により伝わった中国の文化により、飛鳥時代の仏教文化がさらに華やかに発展し、仏教が隆盛しました。
白鳳文化が展開された時期は、天武天皇や持統天皇による中央集権的な国家体制の整備が進められていたこともあり、天皇や貴族が中心となり栄えた文化でもありました。

天皇や貴族は仏教の熱心な信者となっていたため、仏教寺院の建立や仏像の奉納が多く行われるようになっていました。

建造物としては、天智天皇が建立に関与し完成した大官大寺(大安寺)、天武天皇が皇后の病安寧を願い建立した薬師寺、藤原氏が奈良の中心に位置する場所に建立した興福寺などが建立されていきました。

仏像の顔には、写実的でありながらも優雅で穏やかな表情が表され、薬師寺金堂の薬師三尊像は、均整の取れた姿と神秘的な微笑が特徴的で、白鳳文化の優雅さが現れています。

絵画や装飾芸術も発展しました。
キトラ古墳の壁画、飛鳥寺や法隆寺金堂に見られる壁画、法隆寺五重塔の基壇には仏教の教えや神話が描かれており、これらの装飾芸術における彩色画は芸術として発展しました。

また文学や学問も発展しており、天武天皇や持統天皇をはじめ、柿本人麻呂や額田王などが詠んだ和歌も見られるようになりました。

飛鳥時代の服装、食事、住居、文化(建築物、絵画・壁画、歌など)

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飛鳥時代の経済

飛鳥時代の経済は、お金ではなく米でした。

古墳時代には既に、米などの収穫物の一部を税として納める仕組みができていましたが、飛鳥時代にも、その制度は続いていました。

大化の改新において出された改新の詔により、米を治める税を法令化する班田収授法の作成が謳われ、大宝律令の施行により開始されました。

税として集められた米は国家予算として取り扱われました。

口分田と税

古墳時代の税制では、その年の収穫量により、徴収できる米の量は変動していましたが、飛鳥時代は安定した米の納付を得るために、唐で用いられていた均田制(きんでんせい)を模範とし、庶民に田を分配しその面積に応じて収穫の約3%を税として徴収しました。

口分田は戸籍に基づいて6年に1回、6歳以上の男性には2段、女性にはその3分の2が貸与されました。

通貨の導入

古代日本では、物々交換を行っていましたが、次第に、交換対象に米や布、塩を使うようになっていきました。
貨幣の代わりに使われていたため、これらを物品貨幣と呼びました。

飛鳥時代になると、遣隋使や遣唐使により中国文化が入ってくるなかで、貨幣も日本に入ってきました。
中国では、「開元通宝」と呼ばれる貨幣が使われていました。

これをモデルにし、683年に日本初の通貨である「富本銭」が作られました。

しかし富本銭は、出土数が少なく、出土している場所が限られているため、流通貨幣ではなく「まじない用」に使われていたのではと考えられています。

そのため、本格的に貨幣が使われはじめたのは、708年の元明天皇時代に発行された「和同開珎」からではないかと考えられています。

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飛鳥時代の外交

飛鳥時代の外交は、主に中国大陸を統一していた国、朝鮮半島の国々との間で行われました。

中国については、飛鳥時代が始まる少し前の581年、北周の楊堅(ようけん)により中国の国々が統一され、隋が建国されました。

それ以前の中国との外交は、ヤマト王権時代にさかのぼります。
当時の中国は魏・呉・蜀の三国時代を終え、晋が約100年ぶりに中国を統一します。

しかし晋王朝はわずか3代で滅亡し、中国は再度多くの国に分裂します。

その際、晋王朝の皇族であった司馬睿は、晋の領土を南に移し再興します。

これにより、滅亡前の統一王朝の晋を西晋とよび、再興後の晋は東晋と呼ばれています。
晋が手放した華北エリアには、匈奴(きょうど) ・羯(けつ)・鮮卑(せんぴ)・氐(てい) ・羌(きょう)の5つの異民族と漢民族により16の分立国家が生まれたため、晋が南遷した後の時代は五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代と呼ばれています。

420年に東晋は滅亡し、宋が華南を統一すると、439年には北魏が華北を統一します。
それ以降、隋が中国統一を果たすまで、何度か分裂を繰り返します。

ヤマト王権は、華南の宋の国へ使者を送り外交を行った記録が、宋の歴史書に残っています。
しかし、何度かの使節団の派遣以降、502年を最後にして飛鳥時代を迎えるまでの外交は断絶していました。

日本が高句麗と戦いになった場合に力を貸してほしいといった願いを宋に伝えたものの、宋から拒否されてしまったからでした。
宋は、華北の魏の隣にある高句麗を重要視していたため、高句麗との関係を日本より優先していました。

遣隋使と遣唐使による中国との外交

飛鳥時代になると、推古天皇と摂政の聖徳太子は、中国文化の取りこみや、朝鮮半島において新羅との関係を有利にするために、隋との外交を再開しました。

600年、隋に使いを送るも、隋の初代皇帝文帝からは相手にされずに帰還しました。
大和政権からの使いに対し、隋の文帝は日本の風俗について尋ねたと云われており、遣隋使は、「倭王(天皇)は天を兄とし、日(太陽)を弟としている。天がまだ明るくならないとき、倭王は出座して政治をとり、太陽が上れば弟に政治をゆだねる」と告げたとされています。

これを受け文帝は、「これ大いに義理無し」と言い放ち、使節団はたしなめられ恥をかいたといわれています。

これにより、600年の隋への使節団は正式な遣隋使の派遣として記録されず、607年の遣隋使が第1回目として日本書紀にも記載されています。

使節団の帰国後、聖徳太子を中心に冠位十位階や十七条憲法の制定など、政治制度の改革を行い、607年に再度遣隋使を送りました。

この遣隋使は、小野妹子が国書を持って派遣されました。
いわゆる「日出る国の天子が、日沈む国の天子に書をお送りする」といった書き出しの親書です。

これを見た隋の2代皇帝の煬帝は激怒しました。
なぜなら、その内容が自分宛でなく、先代文帝宛だったからでした。

さらに、中華思想では天子は1人であるのにも関わらず、辺境の地である日本の首長が天子を名乗っていたため、怒りを通り越してしまったのでした。

小野妹子は使節団とともに返書を預かり帰国します。

しかし、小野妹子は親書を持ち帰る際に百済に盗まれたと言って、朝廷に持ち帰れませんでした。

その返書には属国扱いでの返答が書かれていたため、持ち帰った親書の内容が怒りに触れないか恐れたからではないかと云われています。
これにより小野妹子の処罰が議論されるも、推古天皇は小野妹子をかばい、処罰せずに再度の訪隋を指示しました。
2度目の訪隋からの帰国後、小野妹子は失脚せず大和政権における最高位まで上り詰めました。
このことから、隋からの返書は持ち帰ったものの、内容が大和朝廷を愚弄するものであったため、推古天皇も内容を公表できず、小野妹子が盗まれたことにして誤魔化したのではないかという説もあります。

608年以降、第5回もしくは第4回までの記録があるものの、618年に隋が滅び遣隋使は終了しました。
隋に代わり唐が建国すると、630年に第1回の遣唐使が派遣されました。
以降710年までの間に8回の遣唐使派遣が行われました。

702年の第8回遣唐使では、完成した大宝律令を持参し唐の官僚からアドバイスを受けました。
大宝律令の修正や和同開珎の導入、平城京遷都などへの影響を受けたのでした。

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飛鳥時代の朝鮮半島と日本の関係

飛鳥時代の朝鮮半島は、北部に高句麗、半島東側に新羅、半島西側に百済が独立し、三ヵ国が争う三国時代になっていました。

古墳時代に半島の南側にあった任那などの小国は、新羅によって併呑(へいどん)されます。

併呑とは、他国を平定し自分の勢力下に入れることをいい、合意のもと領土を譲りうける併合とは違い、戦で破り新羅に統一していったのです。

日本と百済

朝鮮半島の領土を無くした日本は、それまで手を結んでいた百済に対し、軍事的な支援を条件として、大陸から伝っていた文化や技術を提供してもらうようになります。
この頃から渡来人も受け入れるようになり、仏教も百済経由で公伝されました。

雄略天皇の時代、蘇我氏は朝廷の蔵を管理する豪族に過ぎませんでした。

この任務に当たるのに、秦氏をはじめとする渡来系氏族が配下についたと云われており、蘇我氏と渡来人との関係は深くなりました。
蘇我氏の傘下に入ったことで、国政にも関与するようになっていきました。

660年、斉明天皇の時代になると、唐と新羅の連合軍により、百済は滅亡します。

最後の王であった義慈王(ぎじおう)は、舒明天皇時代に人質として、子である豊璋(ほうしょう)と善光(ぜんこう)を日本に預けていました。

百済滅亡後、兄の豊璋は百済復興軍として大和朝廷軍として帰国を果たすものの、663年に唐と新羅の連合軍に大敗してしまいます。

これにより朝鮮に帰国が不可能となった弟の善光は帰国をあきらめ、日本に帰化します。

日本と高句麗

高句麗は、中国が隋により統一された後、隋による軍事的圧力を受けるようになっていました。

古墳時代には敵対関係にあった高句麗でしたが、隋との関係悪化により大和朝廷と有効関係を結ぶようになります。

595年には、聖徳太子の師としても知られる慧慈(えじ)が高句麗より来日します。

日本からも僧の行善(ぎょうぜん)が高句麗へ留学した記録が残っています。

新羅により百済が滅ぼされた後、新羅と唐により圧力を受けていた高句麗は、668年に唐によって滅ぼされ、唐に吸収されてしまいました。

日本と新羅

663年に白村江の戦いで敗れた日本でしたが、668年以天智天皇は遣新羅使(けんしらぎし)を新羅に派遣し、新羅を懐柔しようとします。

その後670年、唐は旧百済、旧高句麗の地に統治機構を設置、新羅にも同様の機構を設置して挑戦半島全体を支配下に置こうとしたため、新羅は唐と対立、その後「唐・新羅戦争」へと発展します。

朝鮮半島統一や、唐との関係悪化も影響し、新羅は日本との友好関係を築こうとしたのです。

新羅との懐柔政策では、新羅との関係性は対等ではなく、新羅は日本に従う形となり、貢物を送る遣日使も送られてきました。

天智天皇以降の天武朝、持統朝においても新羅に対しては、友好政策は継続し、日本優位の友好関係が続いたのでした。

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