飛鳥時代 壬申の乱、皇親政治、部曲・食封の廃止、国史編纂、八色の姓、飛鳥浄御原令、庚寅年籍、藤原京の造営・遷都
663年の白村江の敗戦を機に中大兄皇子による唐や新羅に対する国防の強化、近江への遷都、天智天皇の即位、日本最初の令(りょう) の近江令や戸籍(庚午年籍)を作り中央集権体制を進めていきますが、671年に天智天皇が崩御すると、翌年の672年に朝廷内で争いが起きます。
天智天皇の子である大友皇子(おおとものみこ)と天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)との皇位継承をめぐる戦いです(壬申の乱(じんしんのらん))。
この争いは、各地の兵力を結集した大海人皇子の勝利に終わり、大海人皇子は都を飛鳥に戻し、天武天皇として即位します。そして、天皇の権力を強め、天皇中心の中央集権国家へと推し進めます。
ここでは、壬申の乱、天武天皇及びその意志を引き継いだ持統天皇による中央集権化のための事業・政策について紹介していきます。
壬申の乱
日本最初の令(りょう)・近江令(おうみりょう)や日本最初の戸籍・庚午年籍(こうごねんじゃく)を制定した天智天皇(てんじてんのう)は671年に病のために崩御してしまいます。その翌年の672年7月に起きたのが次期天皇を決める跡目争い、壬申の乱です。
壬申の乱で争ったのは、天智天皇の子・大友皇子(おおとものおうじ、648年~672年)と天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ、~686年)です。
天智天皇は亡くなる前に実の息子である大友皇子に跡を継がせようと朝廷の有力豪族を大臣に就け大友皇子を中心とする政治体制を作ろうとしていましたが、天智天皇の政治に不満を持っていた地方豪族は大海人皇子に味方しました。
この争いは京のあった畿内だけでなく、美濃(みの)(現在の岐阜県辺り)・伊賀(いが)(現在の三重県西部辺り)・伊勢(いせ)(現在の三重県北中部辺り)・尾張(おわり)(現在の愛知県西部辺り)の地方官や豪族を巻き込む大きな内乱となりました。
戦いは大海人皇子の勝利に終わり、大海人皇子は翌673年に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位し天武天皇(てんむてんのう、在位673年~686年)となりました。
進む中央集権化
天武天皇、そしてその妻で天武天皇の崩御後に天皇として即位した持統天皇(じとうてんのう、645年~703年、在位690年~697年)、この二人により天皇を中心とする中央集権化はさらに進みます(天武天皇の死後は、皇后(後の持統天皇)と皇太子の草壁皇子(くさかべのおうじ)が引き継ぎましたが、草壁皇子が689年に病死し、翌年の690年に皇后が即位しました)。
天皇を中心とする中央集権化のために2人が行ったのが、皇親政治(こうしんせいじ)、部曲(かきべ)・食封(じきふ)の廃止、国史の編さん、「八色の姓(やくさのかばね)」という身分制度の制定、「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」という令の制定、「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」という戸籍の作成です。
①皇親政治
皇親政治とは天皇の一族(皇親(こうしん))を重く用いて天皇中心の政治を行う政治体制のことです。天武天皇は、それまでおかれていた大臣をおかずに、草壁皇子(くさかべのみこ)、大津皇子(おおつのみこ)、高市皇子(たけちのみこ)を登用して政治運営に当たらせたり、役人の統括者として皇親を任命しました。
草壁皇子(662~689)は、天武天皇と持統天皇の子で皇太子となった皇子、大津皇子(663~686)は、天武天皇と持統天皇の姉・大田皇女(おおたのひめみこ)の子で草壁皇子に次ぐ2番目の地位を持つ皇子、また、高市皇子(654~696)は、草壁皇子や大津皇子よりは年配でしたが、母が皇族ではなく九州地方の豪族の娘である尼子娘(あまこのいらつめ)という女性で、3番目の地位を持つ皇子でした。
このように皇親を政治にあたらせることで天皇およびその一族の権力を高めていったのです。
②部曲・食封の廃止
天武天皇は中央集権国家体制を強めるために部曲・食封の廃止も行いました。
部曲とは豪族の所有民のことで、改新の詔により廃止が命令されていましたが天智天皇時代に一部復活していました。
一方、食封とは当時豪族に与えられていた給与のようなもので、改新の詔で豪族の私有地、私有民を廃止する代わりに豪族に与えられたとされています。
この部曲と食封を廃止し、改新の詔にある公地公民制を忠実に守ることで、「土地・農民は国が支配する」という中央集権化が強化されると考えられました。
③国史の編さん
天武天皇は「祖先が神代から現在に至るまで他の氏族に優越する特殊な歴史を持ち、天皇が絶対的地位にある」ということを示すために国史の編さんに取り掛かりました。
日本書紀によると、681年に川島皇子(かわしまのおうじ)ら12人に対し、日本の歴史を編さんするように命じています。
天武天皇の代では、この歴史の編さん作業は終わりませんでしたが、これが後の「古事記」や「日本書紀」のもととなったとされています。
④八色の姓(やくさのかばね)
八色の姓は684年に天武天皇によって制定された新しい身分制度です。
これは壬申の乱を経て各豪族の勢力に大きな浮き沈みが生じ、従来の姓が示す身分と実態が合わなくなっていたためにそれを実態に合わせるもので、同時に、皇族と関係の深い氏族を選び、高い身分を与えることで皇族の地位を高める意図もあったと考えられています。
八色の姓は身分の高い方から順に「真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」という姓で、従来からある臣や連といった姓を持つ豪族の中から、天皇一族と関係の深い豪族に真人、朝臣といったより上位の身分を与えました。
⑤飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)
飛鳥浄御原令は、681年に天武天皇が編さんに着手し、689年に持統天皇によって施行された令です。
令というのは、現在の民法・会社法・行政法などにあたるもので、国家の行政を行う機関や統治体制、その運用方法を示したものです。
犯罪と罰則について定めた律(りつ(今でいう刑法))と合わせて律令(りつりょう)と言いますが、律令は中央集権国家における統治法として古代中国で生まれ整備されてきたもので、唐でも採用されていました。
飛鳥浄御原令については令のみで律は入っていませんでしたが、令を制定することによって、中央集権の統治体制ができ、国の中央集権化を進める目的があったと考えられます。
内容に関しては不明な点も多いですが、日本古代における令の枠組みの基本はこの飛鳥浄御原令によってできたと考えられています。
⑥庚寅年籍(こういんねんじゃく)
庚寅年籍は690年に持統天皇の命によって飛鳥浄御原令に基づいて作成されたと考えられる戸籍です。690年が庚寅の年にあたるため、庚寅年籍と呼ばれています。
これ以降6年ごとに戸籍を作成し、それに基づいて班田を行う制度が確立したと考えられています。
一説では天智天皇時代の庚午年籍(こうごねんじゃく)は家族の数までを把握したもので家族構成まではわからない戸籍であったものが、庚寅年籍では家族内の個人までをも把握した戸籍となったとされています。
家族単位ではなく家族内の個人までをも把握できるようになったことで国が直接個人に対して徴兵や徴税をかけることができるようになり、「民を国が支配する」という中央集権国家にとっては重要な指標となる出来事だったと考えられています。
このように、天武天皇・持統天皇により天皇を中心とするような考え方や身分制度が形になり、中央集権国家体制に必要な令やそれに基づいた戸籍が作られました。
これによって、日本の中央集権化はさらに進んだのです。
藤原京(ふじわらきょう)の造営・遷都
飛鳥浄御原令などの他に、持統天皇が天武天皇の意志を引き継いだ大きな事業がありました。それが新たな京・藤原京の造営です。
藤原京は、新しい朝廷の政治機構の拡大のため、また新たな国家の成立を国内外へ宣言するために、それに相応しい壮大な都城を作ろうと天武天皇が最初に考えたものとされています。
しかし、天武天皇は候補地の視察などは行いましたが実行するまでには至らず、持統天皇が飛鳥浄御原令の施行を行った後、天武天皇のやり残した事業である藤原京の造営に取り掛かります。
藤原京は飛鳥の北方の奈良県橿原市と明日香村に広がる畝傍山、耳成山、天野香久山の三山に囲まれ、碁盤の目状に街路が配置された東西5.3km、南北4.8kmにおよぶ巨大都市で、中国の都城制を取り入れた日本で初めての本格的な唐風都城でした(ただし唐の都である長安では、皇居が都の北側に位置していたのとは異なり、政治の中枢機関であり、天皇が住んでいた藤原宮は京の中心に置かれました。)。
天皇主権国家の樹立により、人々の心をつかむために、天皇の権力・権威を象徴する壮大な都を建設したのです。そして694年、藤原京に遷都し、天武天皇・持統天皇による一連の政治改革は一つの区切りを迎えたのです。
なお藤原京は、持統天皇、文部天皇、元明天皇の3代(694年~710年)にわたり存続しました。
[参考書籍]
日本の歴史 飛鳥・奈良時代 律令国家と万葉びと(小学館 鐘江宏之)
新 もういちど読む山川日本史(山川出版社 五味文彦・鳥海靖 編)
日本史(山川出版社 宮地正人 編)
日本の歴史2 古代国家の成立(中央公論社 直木考次郎)
日本の歴史3 奈良の都(中央公論社 青木和夫)
日本の歴史03 大王から天皇へ(講談社 熊谷公男)
日本の歴史04 平城京と木簡の世紀(講談社 渡辺晃宏)
[参考サイト]
Weblio 辞書 大友皇子