飛鳥時代 大宝律令下における土地制度(班田収授法)、租税制度とは?

大宝律令による土地制度(班田収授法)、租税制度

律令体制下における人民の支配を末端にまで広げるために、全国の人民を戸籍・計帳に登録し、登録された人民には一定の農地を与えることで、人民の生活を最低限保障しました。
そしてその一方で、与えた土地に対し一定割合の収穫物を国家に収めさせたり、労役を提供させることで国家財政や国家運営を維持しました。

ここでは、国家によ人民へ土地を分け与える班田、また税として一定の産物を収受する土地制度(班田収授法)、租税制度について説明します。

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土地制度 班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)

律令制が成立するまでは豪族が土地や人民を保有していましたが、律令国家の体制が整うと、土地や人民の売買が禁止され、土地や人民は天皇に帰属する公地公民制がとられました。

班田収授法とは、唐の均田制をもとにしたもので、公地公民制のもと国家によって土地が農民に分け与えられる土地制度のことで、班田収授法により国は税収を確保しました。

班田収授法を徹底させる準備として、戸籍の作成がありました。戸籍とは、戸(家の統率者としての身分を持つ人とその下の戸口と呼ばれる人からなる基本単位)を単位として人民一人一人の情報を記録したもので、6年に一度作成され、戸を単位とした税、身分、氏姓、班田収授などの基本台帳で、これにより律令制度による支配が末端にまで広がるようにしました。

そして、戸籍に登録された6歳以上の良民、賤民(せんみん)にそれぞれ一定の広さの農地(口分田(くぶんでん))が支給されました。

良民とは一般庶民のことで、律令制下の身分制度では大半の人民が良民と賤民に分けられ、賤民とは誰かに所有されるなどして自由を持たない人のことでした。

そして、良民(りょうみん)男性には2段(=720歩(約24アール))、良民女性にはその3分の2(=480歩(約16アール))、賤民男女にはそれぞれ良民の3分の1(賤民男性は240歩(約8アール)、賤民女性は160歩(約5アール))が与えられました。

ただし、賤民には、皇室の陵墓を守護する陵戸(りょうこ)、国が所有し公的雑務に使役され一家を持つことができた官戸(かんこ)、国が所有し公的雑務に使役され一家を持つことができなかった公奴婢(くぬひ)、家を持つことができた家人(けにん)、私人に所有され一家を持つことができなかった私奴婢(しぬひ)という5種類(「五色の賤(ごしきのせん)」)があり、良民の3分の1しか口分田が与えられなかったのは家人と私奴婢であり、陵戸、官戸、公奴婢については、公的な奴隷として良民と同じように口分田が与えられました。

なお、亡くなった人の口分田は、6年ごとの次の班田の際に国に返却されました。

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租税制度

班田収授法により人々は最低限の生活は保障されることになりましたが、その一方で租(そ)・調(ちょう)・庸(よう)・雑徭(ぞうよう)・出挙(すいこ)・義倉(ぎそう)、仕丁(しちょう)、雇役(こえき)などの税制度や兵役(へいえき)により重い負担を背負うことにもなりました。


与えられた口分田1段に対し2束(そく)2把(わ)、これは収穫の約3%程度になりますが、この量を稲で納める税です。不作の年になると量が減ってしまうため、主に凶作時の非常米として各地の倉庫に貯蔵されました。

公出挙(くすいこ)
公出挙は稲の種による税です。政府は田植えの時期に稲の種を農民に貸しつけ、収穫の時期になると貸した1.5倍を限度にの稲の種を返させました(令により公出挙の利息は5割までとされていました。)。

もともとは農民の生活を維持するために地方の村落で豪族などの有力者によって行われた私出挙(しすいこ)だったのですが、律令制ではそれを国が行っていました(公出挙) 。

公出挙は租と違い、収穫量によって増減しない安定した税で、重要な財源でしたが、利率が非常に高いため農民たちにはとても重い負担となりました。

義倉
義倉は凶作時に備えて粟(あわ)を集めるもので、広く一般の人々から一定量が徴収されました。

調
調は一人一人の人民に同額負担させる人頭税で、絹・布・糸など繊維製品をはじめ、染料や塩・紙・食料品などの各地の特産品が1年に1度国によって作成された計帳(けいちょう)という台帳に従って徴収されました。

地方ごとに集められた調は、生産した農民の手によって都へ納められ(この労働を運脚(うんきゃく)と言います。)、官人の給与など中央政府の主要財源となっていました。


庸は、もともとは都に出て国に言われた労働をするというものでした。しかし、地方から都に出るのは大変なため、かわりに布や米、塩、綿などを納めるようになりました。

庸も計帳に従って徴収され、運脚によって都に運ばれ、土木事業を行う際の人々への食糧や報酬として使われました。

雑徭
雑徭はに、国司のもとで国内の土木事業や国・郡の役所の雑用などをさせるというものです。

雑徭は国司の権限で行われ、中には私用で雑徭を課す国司もいたとされています。原則として食糧は支給されず、過酷な税だったと考えられています。
    
仕丁
50戸に2人の割合で強制的に雇用され、中央官庁での雑用や造営事業に従事させられたものです。

調、庸、雑徭は免除され食事は支給されましたが、京までの往復の食事が無かったため餓死したり、逃亡する人が多くいました。

雇役
京周辺の国から強制的に雇用され、造都・造営などの事業に従事させられるもの です。

一定の食事・賃金は支給されましたが、仕丁と同じく往復の食事が無かったため餓死したり、逃亡する人が多くいました。

兵役
兵役は国が成年男子3~4人に1人の割合で人民を兵士として徴発するものです。
兵士は各地の軍団に配属されて訓練を受け、一部は1年間京にのぼって京内の警備をする衛士(えじ)となったり、3年間大宰府におもむいて九州北部沿岸の防衛にあたる防人(さきもり)となったりしました。

防人は663年の白村江の敗戦以降に配備されるようになったもので、中国や朝鮮などの外国に対する防衛を行う兵士のことです。
この防人には主に東国の農民があてられました。

これは、防人は九州北部沿岸に配置されたため西国の農民の方が地理的に近く、効率的でしたが、白村江の戦いで多くの西国の農民が朝鮮半島にわたり、敗戦により著しく疲弊していたためでした。

東国とは遠江国(とおとうみのくに(現在の静岡県西部の辺り) )、信濃国(現在の長野県辺り)以東(陸奥国(むつのくに(現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部辺り))・出羽国(でわのくに(現在の山形県、北東部を除く秋田県辺り))を除く)の13ヶ国のことをいいます。

なお、一般の兵士は庸と雑徭が、衛士や防人は調・庸・雑徭などが免除されましたが、それぞれの家族の労働力の中心となる人が取られることになったためにその家の負担は大きかったとされています。

このように大宝律令の制定により、日本は本格的な中央集権統治体制を成立するに至りました。
聖徳太子の時代から数えてわずか百年、日本は海外との関わりやクーデター、大きな内乱といった激動の時代を経て、大きく変化を遂げることになりました。

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[参考書籍]
日本の歴史 飛鳥・奈良時代 律令国家と万葉びと(小学館 鐘江宏之)
新 もういちど読む山川日本史(山川出版社 五味文彦・鳥海靖 編)
日本史(山川出版社 宮地正人 編)
日本の歴史2 古代国家の成立(中央公論社 直木考次郎)
日本の歴史3 奈良の都(中央公論社 青木和夫)
日本の歴史03 大王から天皇へ(講談社 熊谷公男)
日本の歴史04 平城京と木簡の世紀(講談社 渡辺晃宏)
これならわかる!ナビゲーター日本史B 1 原始・古代~南北朝(山川出版社 會田 康範)
詳説日本史研究(山川出版社 佐藤 信, 五味 文彦, 高埜 利彦, 鳥海 靖)

[参考サイト]

Wikipedia 大宝律令

Wikipedia 国郡里制

世界の歴史まっぷ 大宝律令

コトバンク 律令制

Wikipedia 班田収授法

Wikipedia 口分田

まなれきドットコム 租・調・庸・雑傜・出挙、すべて簡単にわかりやすく徹底解説!

Wikipedia 租庸調

Wikipedia 雑徭

コトバンク 食封とは

義倉とは コトバンク

Wikipedia 東国

Wikipedia 遠江国

Wikipedia 陸奥国

Wikipedia 出羽国

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