飛鳥時代 蘇我蝦夷・入鹿の専横 大化の改新 乙巳の変 改新の詔

飛鳥時代の流れ 蘇我氏の専横 大化の改新 乙巳の変 改新の詔

618年に隋が滅び、唐が中国を統一すると、律令を制定し法治主義による強力な中央集権国家を完成させました。

その結果、朝鮮半島でもそれぞれの国で政変が起こり、中央集権化により政治的主導権を握ろうとしました。

こうした中、642年に高句麗で、対唐強硬派がクーデターを起こし、唐は懲罰を名目に644年に高句麗へ攻撃を開始します。

朝鮮半島一帯で緊張が高まり、唐から帰国した留学生や僧から唐の律令制、法治主義による強力な中央集権国家などの動きが日本へ伝えられると、反蘇我氏の人たちが結集し、日本でも一挙に政変へ向かいます。

この政変が大化の改新です。

天皇を中心とする政治制度改革ですが、隋を滅ぼし中国を統一した当時の唐が行っていた政治制度を参考としました。

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大化の改新による国政改革

聖徳太子(574年~622年)が中央集権国家の礎を築いた後、後の天智天皇(てんじてんのう、在位668年~672年)である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、626年~672年)と中臣鎌足(なかとみのかまたり、614年~669年)によって行われた大化の改新によって、日本はさらに中央集権体制を強めます。

ここでは大化の改新に至るまでの流れを紹介します。

蘇我氏(蘇我蝦夷・入鹿)の専横時代

聖徳太子は天皇を中心とした中央集権国家体制の礎を築きましたが、残念ながら乙巳の変(645年)までの日本国内は、豪族が世襲によって官職につき、その豪族が人民や土地を私有していました。

そして有力豪族については天皇を凌ぐほどの力を持っており、そのため次の世代に国の中心となったのは天皇ではなく、大臣の蘇我蝦夷(そがのえみし、586年~645年)・蘇我入鹿(そがのいるか、611年~645年)親子でした。

この二人が大きな権力を持ち、国を私物のように扱う横暴な政治をしたことで、日本は天皇中心の中央集権国家とは程遠い国となっていきます。

第33代推古天皇(すいこてんのう、554年~628年、在位593年~628年)の時代、甥の聖徳太子、叔父の蘇我馬子の3者で政治を行いました。その中で、聖徳太子は中央集権国家を目指し、「十七条の憲法」や「冠位十二階」などの制度を制定していきました。

しかし、聖徳太子が亡くなり、推古天皇も亡くなると、推古天皇時代に礎を築いた中央集権国家の体制は、天皇中心ではなく蘇我馬子(そがのうまこ、551年~626年)の子の蘇我蝦夷(そがのえみし、586年~645年)や孫の蘇我入鹿(611年~645年)により、蘇我家中心で進んでしまいます。

朝廷では「推古天皇の次の天皇を誰にするか?」という後継者争いが起きました。

後継者には敏達天皇(びだつてんのう、538年~585年、在位572年~585年)の孫 田村皇子(たむらおうじ)と聖徳太子の子 山背大兄王(やましろのおおえのおう、~643年)という2人の候補者がいましたが、田村皇子を推していたのが蘇我蝦夷、山背大兄王を推していたのが蘇我蝦夷の叔父である境部摩理勢(さかいべのまりせ、~628年)でした。

そこで、蘇我蝦夷は境部摩理勢を殺害。その結果、蘇我蝦夷の推していた田村皇子が舒明天皇(じょめいてんのう、593年~641年、在位629年~641年)として即位することになりました。

蘇我蝦夷は舒明天皇の大臣として政治の実権を握るようになりますが、次第にその専横ぶりが目立つようになります。

例えば、中国の皇帝しか行うことのできなかったとされる行事「八佾(やつら)の舞」を蘇我蝦夷が行ったとされています。

「八佾の舞」とは中国の皇帝のための儀式で演じられたもので、八人ずつ八列の六十四人で行われた舞です。他にも勝手に大量の国民を動員して、蝦夷と蝦夷の子である入鹿の墓を建てさせたりするなど、国を私物化するような行いをしていました。
また643年には、本来天皇が授けるはずの大臣の冠である紫冠を蝦夷の独断で入鹿に授け、大臣の座を勝手に譲ったとされています。

さらに大臣になった入鹿は蝦夷を超えるほどの横暴ぶりで、遂には皇族である山背大兄王を自分の仲間に襲わせ、自害に追い込むということまでしてしまいました。

山背大兄王は人望もあり次期天皇候補として有力な存在でしたが入鹿が次期天皇に推していたのは、仲がよく皇位継承後も自分の意のままにできる入鹿のいとこであった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)であり、入鹿は古人大兄皇子を天皇にするためにライバルであった山背大兄王を自殺に追い込んだとされています。

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乙巳の変(いっしのへん)

こうした蘇我入鹿の行き過ぎた振舞いに、立ち上がったのが舒明天皇の子・中大兄皇子と、祭祀を行い朝廷に仕えていた一族・中臣氏の中臣鎌足です。

2人は「三韓進調(さんかんしんちょう)の日」という朝鮮三国(高句麗・新羅・百済)が日本に対して貢物を献上する儀式と偽って蘇我入鹿が朝廷に現れる機会を作り、クーデターを計画します。

このクーデターにより中大兄皇子は蘇我入鹿を殺害。その事実が蘇我蝦夷にも届き、政界からは引退していたものの状況を悟り、自宅で自害しました。

これにより、蘇我宗家は滅亡し、蘇我氏による専横時代が終結したのでした。

このクーデターが行われたのは645年でしたが、この年の干支が乙巳であったために、この事件を「乙巳の変」と呼んでいます。

乙巳の変とは?その理由、大化の改新との関係、真相、エピソード等わかりやすく解説

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孝徳天皇、中大兄皇子、中臣鎌足による新政権の樹立

乙巳の変の後、皇極天皇は史上初となる退位を行い、政権は新しい形となります。

皇極天皇は当初息子の中大兄皇子に譲位しようとしますが、中大兄皇子はこれを辞退し、叔父である軽皇(かるのみこ)を推薦します。

このとき中大兄皇子が皇極天皇から皇位継承をしなかった理由として、年齢的な問題であったり、軽皇子自身が乙巳の変の黒幕であったのではという説がありますが、中大兄皇子は、乙巳の変を起こしたばかりで蘇我氏に加勢する豪族に対しての処置などを落ち着かせる必要があり、そのためすぐに天皇にならない方が賢明と考え、孝徳天皇として即位する前の軽皇子は、蘇我氏との姻戚関係がないことから、蘇我氏宗家の大臣時代には天皇となる主流から外れ、本来なら天皇として即位できない立場にいる皇子でしたが、言うことを聞いてくれる叔父であったため軽皇子を天皇にしようとしたのではないかという説が有力です。

しかし軽皇子も辞退し、舒明天皇崩御時に皇位継承候補(舒明天皇の第一皇子)であった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を推薦します。

しかし、古人大兄皇子も辞退します。後ろ盾であった蘇我氏宗家が滅亡してしまったことにより、この推薦が軽皇子たちの罠かもしれないと察知し、出家して吉野へ逃れ隠居する道を選びました。

このような背景により、年齢的にも適齢であった軽皇子が、第36代孝徳天皇(こうとくてんのう、596年~654年、在位645年~654年)として即位し、さらに、これまで豪族によって次期天皇を決定していた慣習を廃止し、事前に次の皇位継承者にあたる皇太子に中大兄皇子を選出し、新たな政権を発足させました。

これは、聖徳太子が過去に行った皇太子による政治運営に倣った形での対応でした。天皇になってしまうと自由に動くことができなくなってしまい、改革を思ったように進められなくなるからという理由によるものでした。

次に、有力豪族により独裁を許してしまっていた大臣職を廃止。大臣を左大臣と右大臣の二つに分け、左大臣を最高位の官職とし、右大臣と差をつけました。

これは権力が一極集中しないようにするとともに、序列に差をつけることで左大臣と右大臣との争いを避けるためでした。

この左大臣には蘇我氏以外の豪族で長老格となっていた阿倍内麻呂(あべのうちまろ、~649年)が、右大臣には蘇我氏一門の中で宗家に反発し乙巳の変で中大兄皇子側についていた蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ、~649年)が任命されました。

左大臣を上位としたのは、「左上右下(さじょううげ)」という考え方に基づきます。
これは、唐では、『天子は太陽の方角である南を向いて座る』という思想があり、天皇が南に向かうように都が作られ、天皇が座った左手の東側から太陽が昇ることから、左手側を「高位」とし、太陽が沈む方角である西側にあたる右手側を「下位」としました。このことから左大臣が上位となったのです。ただ、仕事内容で左大臣・右大臣に差はなく、あくまで序列上での差でした。

また、新たな官職として大王(おおきみ。天皇のこと)の側近である内臣(うちつおみ)という役職がつくられ、中臣鎌足が任命されました。

内臣という役職は、歴史上では4名だけが任命された役職であり、主に天皇の最高顧問として天皇を擁護して政務を掌握する官職でしたが、蘇我氏や阿倍氏、大伴氏などの古くから政治の中枢にいた名門の豪族と比べると政治的実績では一段劣っている中臣氏出身の鎌足を左大臣や右大臣に就けることが他の豪族からの反感を買う恐れがあったためで、特別に設けたのが始まりでした。

最初の内臣である中臣鎌足は、中大兄皇子を助け、朝廷の役人である文官・武官(※)の上に立って政治の中枢を担いながら大化の改新の遂行に当たりました。

※文官…国家機関に勤務する官吏のうち武官(軍人)以外の者
武官…国家若しくは君主から軍人に任命された者

さらに、中国の律令制度を参考にするために国博士(くにのはかせ)と言う新たな役職が設けられ、国博士には遣隋使として随にも行っていた旻(みん)法師と高向玄理(たかむこのげんり)が任命され、天皇を中心とした中央集権国家がスタートしたのでした。

新政権が立ち上がると、日本で初めての元号「大化(たいか)」が使われるようになりました。

なお乙巳の変から3ヶ月後の9月には、6月に出家して吉野に逃れていた古人大兄皇子を謀反の罪で処刑する出来事がおこりました。これは、中大兄皇子が吉備笠垂(きびのかさのしだる)から「古人大兄皇子が謀反を企てている」という内容の密告を受け、討伐を命じたのでした。

12月には、都をこれまでの飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)へ遷都しました。これは、蘇我氏旧勢力の本拠地である飛鳥から離れた地で新しい新政府を作るため、さらには、孝徳天皇の父である茅淳王(ちぬのおおきみ)の名を持つ茅淳海(ちぬのうみ)は現在の大阪湾であることから、元々孝徳天皇が難波に地盤を持っていたためではないか、とみられています。

孝徳天皇(軽皇子)
軽皇子こと孝徳天皇(在位645年~654年)は第36代の天皇です。乙巳の変の後、姉の第35代皇極天皇(在位642年~645年)の譲位を経て、天皇に即位しました。

孝徳天皇は敏達天皇の子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の子である茅渟王(ちぬのおおきみ)の長男で、皇極天皇の同母弟になります。

姪であり、中大兄皇子の妹の間人皇女(はしひとのひめみこ)を皇后とし、左大臣阿倍内麻呂の娘である小足媛(おたらしひめ)、右大臣蘇我倉山田石川麻呂の娘である乳娘(ちのいらつめ)をそれぞれ妃とし、小足媛との間に有間皇子(ありまのみこ)をもうけました。

乙巳の変の後、皇極天皇は息子の中大兄皇子に皇位継承しようとしましたが、中大兄皇子はそれを拒み、軽皇子を推薦します。

軽皇子も年長者である古人大兄皇子を推薦しましたが、古人大兄皇子も辞退し、出家して吉野に去りました。

そのため、最終的に皇極天皇から譲位を受け、孝徳天皇として即位したのでした。

天皇の譲位は史上初めてであり、先の大王であった皇極天皇には皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、中大兄皇子を皇太子としました。

孝徳天皇は即位後、史上初めて元号である大化をたてました。都も飛鳥から難波宮(なにわのみや)に遷都し、飛鳥との縁を切り離し、各分野での制度改革が中大兄皇子を中心に進められていきました。

その5年後の650年には大化から白雉(はくち、650年~654年)に改元しました。この改元は、穴戸国(現在の山口県西部)の国司が白雉を献上した祥瑞により行われたものでした。

しかし、この辺りから改革の勢いがなくなります。原因は孝徳天皇と中大兄皇子の不仲ではないかと推測されます。

そして、653年に中大兄皇子より飛鳥への遷都を求められるもそれを誇示すると、中大兄皇子は高祖母尊と皇后を連れ飛鳥に移ってしまいます。

その際、臣下のほとんども中大兄皇子に付いていってしまい、孝徳天皇は気を落とし、翌年の654年に病気で崩御しました。

※孝徳天皇と中大兄皇子の不仲の原因、中大兄皇子より飛鳥への遷都を求めた理由は、飛鳥時代 白村江の戦いをきっかけとした中央集権体制強化 天皇の交代

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改新の詔(かいしんのみことのり)

翌646年、新政権によって新たな政治の方針が示されます。これが「改新の詔」です。

改新の詔は、これまでの豪族連合で形成されていた国家の仕組みを改め、地方ごとの豪族による土地・人民の私有化をなくし、天皇を中心とした中央集権国家を目指す内容で、一つの国家としての新しい支配体制への転換が図られました。

全部で4カ条からなっており、大化の改新はこの改新の詔に沿って行われました。

それぞれの内容は以下の通りです。

第1条 私有地・私有民を廃止し、「全ての土地と人は公(天皇)のものである」という公地公民制(こうちこうみんせい)へ移行することが示されています。

具体的には、朝廷の私有地である屯倉(みやけ)と朝廷の私有民である名代(なしろ)・子代(こしろ)、豪族の私有地である田荘(たどころ)と豪族の私有民である部曲(かきべ)を廃止するというものです。

天皇による統一的な支配体制への転換となりました。

第2条 政治の中枢となる首都を設置し、国・郡といった地方行政組織を整備し、令制国(りょうせいこく)とそれに付随する郡に整備するというものです。

令制国とは、律令制度を整える中で、令と呼ばれる行政法にあたる法律で定められた国のことで、全国が約60の国に分けられました。

この国をさらに細分化したのが郡で、郡はそれまで国造として地方を治めていた地方豪族が治めるようになりました。

国や郡といった各地方の行政組織にはそれを管理する国司(こくし、くにのつかさ)・郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)といった管理官や斥候(せっこう)・防人(さきもり)といった警備官、駅馬(えきば、はゆま、はいま)・伝馬(てんま)などの連絡手段を設置しました。

これはそれまで比較的自由に支配されていた地方を、天皇によって一元的に管理するというもので、各地方での勝手な税金の搾取などの不正を防ぐためのものだったと考えられています。

このような法体型の整備や色々な組織整備などもあり、実際に令制国としての枠組みに移行するには数年かかったとされています。

第3条 戸籍や計帳と呼ばれる公文書によりどこにどのような人民がいるかを管理する方法と、班田収授法という土地制度について定めたものでした。

班田収授法は、天皇のものである土地(田んぼ)を国に住んでいる人々に貸し与える、というもので、戸籍・計帳によって国に住んでいる人々を把握し、班田収授法により田んぼを貸し与え、対象者が死亡すると収公されるというものでした。

なお、実際に戸籍(庚午年籍(こうごねんじゃく))が作成されたのは20年以上経過した670年が最初となります。そのため班田収授法が発足したのも670年以降ではないかとされています。

第4条 豪族や大王が個々にとっていた税を廃止し、統一に課される新たな税制度について定めたものです。

この税制もすぐに適用されたわけではなく、当初は目標でした。

このように、聖徳太子の死後、蘇我氏による専横時代などの紆余曲折を経て、新しい改革が行われていきました。

一般的には、乙巳の変から新政権の誕生、そして新政権によって行われた「改新の詔」による一連の改革のことが「大化の改新」とされ、この大化の改新により、日本という国が天皇を中心とした中央集権国家になるために、更に一歩進んだのでした。

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[参考書籍]
日本の歴史 飛鳥・奈良時代 律令国家と万葉びと(小学館 鐘江宏之)

[参考サイト]
Wikipedia 大化の改新

Wikipedia 乙巳の変

Wikiedia 蘇我蝦夷

コトバンク 境部之摩理勢とは

Wikipedia 舒明天皇

Wikipedia 蘇我入鹿

Wikipedia 改新の詔

日本史辞典.com 【改新の詔とは】簡単にわかりやすく解説!!4か条の内容・大宝律令との違いなど

兵庫教育大学大学院 連合学校教育学研究科 關造和研究室 飛鳥時代へようこそ 改新の詔

まなれきドットコム 面白いほどわかる改新の詔!簡単にわかりやすく徹底解説

大学受験の日本史を極めるブログ 大化の改新を簡単にわかりやすく。

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