飛鳥時代の服装、食事、住居、文化(建築物、絵画・壁画、歌など)
飛鳥時代は日本で初めて女性の天皇である推古天皇が登場し、日本で最初の冠位制度が制定され、乙巳の変、大化の改新を経て、天武・持統天皇の時代に中央集権国家の形成が完成に近づきました。
またその過程で、初唐文化の影響を受けた白鳳文化が広がりました。
飛鳥時代の暮らし
飛鳥時代の暮らしは身分の違いによって大きく異なりました。その様子を服装、食事、住居に分けて紹介します。
服装
【身分の高い人】
役人や豪族など身分の高い人の服装は、時期や男女によって違いがありました。推古天皇の時代と天武・持統天皇の時代それぞれについて紹介します。
①推古天皇の時代
■身分の高い男性の服装
画像出典:風俗博物館 日本服飾史 資料
推古天皇の時代の身分の高い男性は、身分を表す色のついた冠を被っていました。
コートのように見える服は「袍(ほう)」というもので、服装の色は冠の色に準じたとされています。
冠と服の色については、濃白や薄白をどのように分けていたのかなど、曖昧な部分も多く、諸説ありますが、身分の高い方から順に、濃紫、薄紫、濃青、薄青、濃赤、薄赤、濃赤、薄赤、濃黄、薄黄、濃白、薄白、濃黒、薄黒であったというのが一般的です。
袍の内側には「内衣(ないい)」という服を着ており、腰のあたりを「長紐(ながひも)」という帯のようなもので結んでいます。
袍の下には「褶(ひらみ)」というスカート状のものと「表袴(うえのはかま)」というズボン状のものを重ねて身に着けています。足には「履(くつ)」を履いており、手には「笏(しゃく)」と呼ばれるものを持っていました。
■宮廷に仕える女性の服装
画像出典:風俗博物館 日本服飾史 資料
推古天皇時代の宮廷に仕える女性は、男性とは異なり冠は被らずに垂れた髪を束ねていました。
男性同様、コートのように見える「袍」と袍の内側には「内衣」を着て、腰のあたりを「長紐」で結んでいます。
袍の下の「褶」は男性と同じですが、その下は「裳(も)」というスカート状のものを重ねて身に着けています。
②天武・持統天皇の時代
■身分の高い男性の服装
画像出典:風俗博物館 日本服飾史 資料
天武・持統天皇時代の身分の高い男性も推古天皇時代の男性と同様に冠を被っていましたが、冠の形状は変わり、色は黒で統一されるようになりました。
袍、内衣、長紐なども推古天皇時代と変わりませんが、褶はなくなっています(袍の下部に見える白いひだは内衣の一部です。) 。
袍の色は身分によって異なりますが、天武天皇の時代と、持統天皇の時代では少し異なります。
天武天皇の時代は身分の高い順に、朱華(はねず(オレンジのような色))、深紫、浅紫、深緑、浅緑、深葡萄、浅葡萄、持統天皇の時代は身分の高い方から朱華、黒紫、赤紫、緋、深緑、浅緑、深縹(ふかきはなだ)、浅縹でした。縹は、明るく薄い青色です。
下に履いているズボン状のものは「白袴(しろきはかま)」と呼ばれるものです。
■宮廷に仕える女性の服装
画像出典:風俗博物館 日本服飾史 資料
天武・持統天皇時代の宮廷に仕える女性は、推古天皇時代とは異なり、垂れた髪の先端を上で結い上げています。
男性と同様、袍、内衣、長紐などは推古天皇時代と変わりませんが、褶はなくなっています。
下に履いているカラフルなストライプ柄のものは推古天皇時代と同様に裳と呼ばれるものです。
【一般庶民】
画像出典:小・中学生のための学習教材の部屋 知識の泉 飛鳥(あすか)時代のくらし
一般庶民の服装は、弥生時代からあまり変わらず、フジ・クズ・コウゾといった天然素材のもので織られた貫頭衣(かんとうい)というものを着ていました。
貫頭衣というのは頭を通す部分に穴を開けたワンピース状の服で、腰の部分を紐で結んだものです。男女の区別はほとんどなく、白いシンプルなものとされています。
食事
食事に関しては、身分の高い貴族、下級役人、一般庶民で異なっていました。
■貴族の食事
画像出典:かしはら探訪ナビ 貴族・役人と庶民の食事
貴族の食事はハスの実入りのご飯、焼アワビ、焼エビ、野菜のゆでもの、鴨とセリの汁など、山海の珍味が並ぶごちそうです。食器も金属器や漆器(しっき)といった高級なものが用いられていました。品数が多いため栄養の摂りすぎで成人病になっている人も多くいたそうです。
また、牛乳を飲んだり、牛乳を煮詰めて作るチーズのようなものを食べたりもしていたとされています。
■下級役人の食事
画像出典:かしはら探訪ナビ 貴族・役人と庶民の食事
下級役人の食事は玄米ご飯、魚の煮付け、カブの酢の物、漬物、野菜の味噌汁、酒粕をお湯に溶いたもの、塩(調味料として)などでした。
食器は土師器(はじき)や須恵器(すえき)といった土器が使われていたとされています。
■一般庶民の食事
画像出典:かしはら探訪ナビ 貴族・役人と庶民の食事
一般庶民の食事は弥生時代からあまり変化しておらず、基本的には一汁一菜でした。
玄米ご飯、ゆでたノビル、海藻の汁、塩(調味料として)などの質素なものでカロリーは約400キロカロリーしかなく、栄養失調で倒れる人も多かったそうです。時には川魚や鹿なども獲って食べていたとされています。
食器については土器が使われていたと考えられます。
住居
住居に関しても、特に身分の高い貴族、下級役人、一般庶民で異なっていました。
貴族や下級役人は身分や家族の数、納税額によって土地の広さの基準も決められていました。
【貴族】
貴族の住居は、身分や家族の数、納税額によって土地の広さが4町、2町、1町の3種類あり、正殿(せいでん)、脇殿(わきでん)、後殿(こうでん)といった建物や倉庫が整然と立ち並んでいました。
正殿というのは住居の中心をなす建物、脇殿は正殿の両脇にある建物、後殿は正殿の後ろにある建物です。
正殿には主人が住んでおり、その他の建物は台所や馬屋などそれぞれの役割ごとに建てられていたと考えられています。
【下級役人】
下級役人の住居は、身分や家族の数、納税額によって土地が2分の1町、4分の1町、8分の1町の3種類あり、建物の配置には規則性がなく、小さいものでは数棟の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)と塀(へい)、井戸などがある程度でした。
【一般庶民】
一般庶民は田畑に近いところに集まって村に住んでいました。
住居は弥生時代の頃からあまり大きくは変わらず竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)で、村には米をたくわえる高床式倉庫なども建てられていました。
このように、飛鳥時代の暮らしは身分によって大きく異なりましたが、庶民の生活は弥生時代から大きく変わっていない部分も多く、身分の差が大きくなったとも考えられます。
中央集権国家として完成していくことで天皇を始めとした皇族やそれに近しい貴族の地位がより高まった時代とも言えます。
白鳳文化(はくほうぶんか)
飛鳥時代の中で、7世紀後半から8世紀初頭、特に天武(てんむ)・持統(じとう)両天皇の時代に最盛期を迎えた文化を白鳳文化と言います。
白鳳文化は初唐(しょとう(唐の初期のことで唐が始まった618年からの約100年間を指す))の文化を始めとした海外の影響を受けた清新な文化です。
この時代は、天武天皇によって伊勢神宮を始めとした神社の祭りが重んじられた一方で、仏教も篤く保護された時代でした。大官大寺(だいかんだいじ)や薬師寺(やくしじ)といった大きな寺が国によって建立され、地方でも多くの寺院が建てられるようになりました。692年の調査では、全国の諸寺は545ヵ所にも達したとされています。
こうした時代の影響の中で、建築物や彫刻を始めとした様々な文化的なものが生まれました。
建築物
大官大寺
大官大寺は飛鳥・藤原地域で建立された古代寺院の中で最大とされる寺院です。平城京遷都の際には寺も移転して大安寺(だいあんじ)となりました。
現在は金堂(本尊を安置する堂)と塔の跡が残るのみで、建物は現存していません。
薬師寺(本薬師寺)
薬師寺は天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒のために建立させたとされる寺院です。
最初は藤原京の地に建立されましたが、平城京遷都の際に移転されました。藤原京にあった薬師寺を本薬師寺とも言います。本薬師寺には現在は金堂と塔の跡が残るのみで建物は現存していません。
平城京の薬師寺には調和のとれた美しい三重の塔が残っていますが、これは本薬師寺のものと同じ規模で奈良時代に新しく建てられたものと考えられています。
法隆寺の金堂・五重塔・中門(ちゅうもん)・歩廊(回廊)
法隆寺は聖徳太子が建立したとされる寺院で、世界遺産にも登録されている寺院です。
金堂・五重塔・中門・歩廊は7世紀後半に再建されたものと考えられており、現存する世界最古の木造建築物群として有名です。
山田寺
飛鳥時代の豪族・蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の発願によって、7世紀中頃から建てられ始めたとされる寺院です。
1982年の発掘調査で東回廊の建物が出土し、日本建築史研究上、貴重な資料となっています。
発掘された東回廊は科学的な保存処理が施され復元が完成し、奈良文化財研究所飛鳥資料館で展示・公開されています。
彫刻
薬師寺金堂の薬師三尊像
世界で見られる金剛像の中で最大級のものの1つです。
柔らかい表現のなかに堂々とした威厳を持っている仏像で、薬師寺創建当時より金堂に祀られている薬師寺の本尊です。
薬師寺東院堂の聖観音像
美しさでは比類がないとされる仏像です。薄い衣のヒダから足が透けて見える彫刻法はインドのクプタ王朝の影響を受けたものと言われています。
興福寺仏頭
伸びやかで若々しい表情をした仏頭です。
もともとは山田寺の薬師三尊像本尊でしたが、のちに山田寺より奪われて興福寺東金堂の本尊とされていました。
1411年に落雷により金堂が焼け、頭だけの姿になったとされています。
法隆寺の阿弥陀三尊像
飛鳥~奈良時代の公卿・藤原不比等の妻で光明天皇(こうみょうてんのう、1322年~1380年、在位1336年~1348年)の母でもある橘美千代(たちばなのみちよ)の念持仏(ねんじぶつ(個人が身辺に置き私的に礼拝するための仏像))とされる仏像で、厨子(ずし(仏像などを中に安置するための仏具))に入っています。
法隆寺の夢違観音像(ゆめたがいかんのんぞう)
この像に祈ると悪夢が吉夢に変わるとの伝説から、夢違観音と呼ばれています。はつらつとした少年のような仏像です。
絵画
法隆寺金堂壁画
インドのアジャンター石窟(せっくつ)群の壁画や中国の敦煌(とんこう)石窟壁画の様式を取り入れた傑作とされる壁画です。
高松塚古墳壁画
7世紀末から8世紀初頭にかけて造られたとされる高松塚古墳の石室に描かれた壁画です。
天井には星座、壁面には四神(しじん(天の四方を司る神。東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武の4種))や男女群像が極彩色で描かれ、高句麗の影響を受けたとされています。
キトラ古墳壁画
高松塚古墳と同様、天面に星座、壁面には四神が描かれており、7世紀末~8世紀初頭にかけて作られたとされています。
漢詩文
白村江の戦いののち、百済から大量の貴族・文人が亡命してきたこともあり、天智朝以降の宮廷では漢詩文を作ることが盛んになりました。
大友皇子(おおとものおうじ)や大津皇子(おおつのおうじ)の優れた漢詩は、奈良時代後期に編纂された「懐風藻(かいふうそう)」に収められています。
和歌
日本には古来より口誦(こうしょう)で伝えられてきた歌謡がありましたが、これに漢詩の影響が加わり五音や七音を基本とする長歌・短歌の型式が定まりました。さらに漢字を用いて日本語表記することが始まり、本格的な和歌が成立しました。
初期の代表的な作者は、斉明天皇(さいめいてんのう、594年~661年、在位642年~645年)や額田王(ぬかたのおおきみ)といった王族などで、宮廷儀礼などの集団的な行事の場で口誦されたりしたものが多く、芸術性や個性に乏しいといった特徴があります。
次の時期には柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)という宮廷につかえる文人が出現し、和歌の表記法を確立しました。枕詞や対句を駆使した長歌で、全盛期を迎えていた天武朝や持統朝の空気を高らかにうたっています。また、この時期の和歌は、初期に比べて華麗な技巧が増しながらも、力強い明るさを保っているという特徴があります。
これらの時代の和歌は、奈良時代後期に成立した「万葉集」に収められています。
[参考書籍]
これならわかる!ナビゲーター日本史B 1 原始・古代~南北朝(山川出版社 會田 康範)
詳説日本史研究(山川出版社 佐藤 信, 五味 文彦, 高埜 利彦, 鳥海 靖)
[参考サイト]
ひすとりびあ 飛鳥時代の人々が着ていた服装の特徴
学生服と体操着のトンボ 日本の学ぶスタイルの変遷(飛鳥・奈良~鎌倉時代)
ひすとりびあ 飛鳥時代の食事 貴族や庶民たちの主食の食べ物は何だった?
小・中学生のための学習教材の部屋 知識の泉 飛鳥(あすか)時代のくらし