飛鳥時代の流れ 白村江の戦いによる中央集権体制強化、朝廷の威厳、天皇交代、対外政策
改新の詔の発令後、政府は中央集権体制を強化していきます。
その中でも、最も中央集権体制をつよめるきっかけとなったのが白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦いです。
ここでは改新の詔から後の日本の動きと白村江の戦い、そしてその後の変化について紹介します。
内政の強化
改新の詔の発令後、政府は政権の制度改革や防備体制を築くことで内政を強化していきました。
①新しい冠位の制定
改新の詔が出された後の647年、それまでの冠位十二階が改められ、十三階の新しい冠位が制定されました。
この理由は2つあると考えられています。
1つ目は、地方ごとに豪族が自由に支配していた古い土地・人民の支配体制から、天皇を中心とした一つの国家としての新しい支配体制への転換に伴い、役人の仕事・人数が増え、身分を細かく分ける必要が生じたためです。
2つ目は巨大な権力を持った大臣を冠位の中に入れ、天皇の配下に置くためです。
本来冠位は天皇から授けられるものですが、蘇我蝦夷(そがのえみし)が蘇我入鹿(そがのいるか)に独断で冠位を譲った出来事などから、大臣であった蘇我蝦夷や蘇我入鹿は冠位を超越するような権力を持っていたと考えられています。
そのため新しい十三階の冠位では巨大な権力を持っていた大臣も冠位の中に組み込み、全ての役人を天皇の支配下に置くことで冠位を超越するのは皇族だけで、天皇・皇太子が全ての役人の上に君臨することをはっきりさせることができたと考えられています。
2年後の649年には政治の体制がより整っていき、それに伴い役人の数や政務が増えたために冠位はさらに増え、十九階制になっています。
②対外への防備
新たな冠位が制定されたのと同時期の647年、648年には、越(こし)(現在の新潟県の辺り)に渟足柵(ぬたりのき)、磐舟柵(いわふねのき)という城柵(じょうさく)が作られました。
城柵とは外敵からの侵略に備えるための施設で、柵戸(きのへ)と呼ばれる兵士が詰める駐屯所のような軍事施設でありながら、政治・行政を行う役所のような性格も持つ複合的な施設であったと考えられています。
これらは当時まだヤマト政権の支配下になかった東北地方の蝦夷(※)からの侵略に対する防備であったとされています。
※7世紀ごろまで、北方の大和朝廷の支配が及ばない人たちを蝦夷と呼んでいました。
高まる朝廷の威厳
内政の強化が一段落すると、今度は天皇・朝廷の威光を高める段階に入ります。
①元号の改元
650年、孝徳天皇朝は新しい元号・白雉(はくち)に改元しました。白雉と言うのは白い雉(きじ)のことで、朝鮮や中国ではめでたいことが起こる前兆とされています。
650年にこの白い雉が長門国(ながとのくに)(現在の山口県)から献上されたことを機に、白雉(はくち、びゃくち、しらきぎす)という元号に改元されました。
改元の儀式は仰々しく、天皇の地位の高さを示すようなものであり、天皇絶対の方針を示すためだったとも考えられています。
②難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)への遷都
651年になると、孝徳天皇は難波長柄豊碕宮へ遷都しました。難波長柄豊碕宮は645年から遷都した翌年652年9月まで、約7年の年月をかけて造営された大工事でした。
日本書紀には、「その宮殿の様子は筆舌に尽くしがたい」と書かれており、これによって朝廷の威厳はさらに高まったと考えられます。
蘇我氏の没落により、日本を中央集権国家へ進めることが可能となりましたが、それにともない天皇の権力・権威を人々に知らしめようとしたのです。
天皇の交代
政治改革を行い、改元・遷都により威厳を高めてきた孝徳天皇朝ですが、その政権も常に順調というわけではありませんでした。
特に白雉への改元後は、改革の勢いが衰えていきます。
衰退の原因は、孝徳天皇が自身の子である有間皇子(ありまのみこ)を次の天皇にしようとしたことで、孝徳天皇と中大兄皇子が不仲になっていったことではないかと考えられます。
そして653年(白雉4年)、中大兄皇子が孝徳天皇に都を以前の飛鳥に戻すよう進言したことに孝徳天皇が拒否したことで対立が表面化します。
中大兄皇子とその母・宝皇女(たからのひめみこ、元 皇極天皇)、妹・間人皇女(はしひとのひめみこ、孝徳天皇の妻) はじめ皇族や群臣のほとんどが中大兄皇子について飛鳥に戻ってしまったのです。
飛鳥へ戻ることを進言した理由は、当時は難波が海に近かったことから不穏な動きを見せていた唐を警戒し、内陸の飛鳥に戻そうとしたのではないかという説があります。
しかし、日本書紀や古事記などでもはっきりとした理由は書かれていないため、分かっていません。中大兄皇子によるクーデター説などとも考えられています。
孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)に残りますが、失意のまま翌654年に崩御。
次の天皇は元 皇極天皇であった宝皇女が再び即位(重祚(ちょうそ))し、斉明天皇(さいめいてんのう)になりました。
斉明天皇の対外政策
斉明天皇は2つの大きな対外政策を行いました。1つ目が北方の蝦夷(えみし)平定、2つ目が白村江の戦いに繋がる朝鮮半島への軍事介入です。
①北方の蝦夷平定
658年から660年にかけて、斉明天皇は阿倍比羅夫(あべのひらふ)という人物を3度にわたり東北地方に派遣して、そこに住む蝦夷を平定させました。
日本書紀の記述によると、1度目の遠征では軍船180隻を率いて齶田(あぎた)(現在の秋田地方)、渟代(ぬしろ)(現在の能代地方)の蝦夷を降伏させたとあります。
2度目の遠征では後方羊蹄(しりべし)という地方に政庁を置きました。後方羊蹄の場所については明らかではありませんが、余市(よいち)説、札幌・江別(えべつ)説、恵庭(えにわ)・千歳(ちとせ)説などがあり、いずれも北海道であると考えられています。
3度目の遠征では粛慎(みしはせ)と呼ばれる民族を幣賄弁島(へろべのしま)まで追っていき、倒したとされています。幣賄弁島の場所は不明ですが、現在の樺太や奥尻島(おくしりとう)とする説があり、かなり北方まで遠征したと考えられます。
②朝鮮への軍事介入
斉明天皇の2つ目の対外政策は661年の朝鮮への軍事介入です。
朝鮮半島の百済(くだら)からの援軍要請に伴い、斉明天皇自らが中大兄皇子などを率いて遠征を行いました。
この遠征の背景には当時の海外情勢が関係しています。
・朝鮮への軍事介入の背景
7世紀の朝鮮半島は新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)、百済の三国が並び立っていた時代でした。
654年、新羅の金春秋(きんしゅんじゅう)が武烈王(ぶれつおう)として即位すると、唐との親交を深めるようになります。武烈王は唐の力を借りて、朝鮮半島の統一を目論んだのです。
対する高句麗と百済は655年に共に新羅を攻め、北方の30余りの城を奪いました。窮地に立たされた新羅は唐に救援を求め、それに応えた唐は高句麗に攻撃を仕掛けました。しかし、そこで高句麗を滅ぼすことはできませんでした。
659年にも高句麗と百済によって攻められた新羅は再び唐に救援を求め、今度は百済に反撃します。翌660年、唐は水陸13万の大軍を出し、新羅は武烈王自らが陣頭に立ち、百済に攻撃を仕掛けたのです。
これにより百済の義慈王(ぎじおう)は捕えられ滅びてしまいますが、百済の遺民たちは結集し最後の抵抗を続けました。そして、日本に対して救援と日本に滞在している百済の王子・豊璋(ほうしょう)の送還を要請します。豊璋を王位につけ、百済を復興させようとしたのです。
こうして百済からの要請を受けた斉明天皇は、百済の要請に従うことを決意し、九州の筑紫に本営を置くことを決め、翌661年の正月には天皇自ら皇太子の中大兄皇子やその弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)らを率いて難波を出発し、九州に向かいました。
かつて日本が勢力を及ぼしていた加耶諸国(日本書紀では任那)はすでに滅びており、百済までが滅びてしまうと日本の朝鮮半島との関係が無くなってしまうため斉明天皇は百済の救援を決めたのでした。
斉明天皇の崩御と白村江の戦い
661年の正月に自ら出征した斉明天皇ですが、半年後の661年7月に九州の地で急逝してしまいます。
皇太子であった中大兄皇子は次の天皇として即位はせずに、皇太子のままこの戦争の指揮を執ることになりました(このように天皇になる資格のある人が即位をのばして政治を行うことを称制(しょうせい)と言います。)
なお、中大兄皇子が称制をした理由は、乙巳の変を起こし豪族から土地を取り上げるなどの政策をとった中大兄皇子には政敵が多かったため、すぐに天皇になると豪族からの反発が多くなるためと考えたという説が有力です。
中大兄皇子は3回に渡って百済に救援軍を送りますが、663年8月に朝鮮半島の白村江という場所での戦いで、日本・百済遺民の連合軍は唐・新羅の連合軍に大敗してしまいます。これが白村江の戦いです。
白村江の戦いに勝利した唐・新羅の連合軍は668年には高句麗を滅ぼしました。
その後は、唐が朝鮮半島全てを支配しようとしたことで新羅が反発、670年から唐と新羅の戦争となり、最終的には676年に新羅が唐を朝鮮半島から撤退させたことで朝鮮半島を統一しました。
白村江の戦いに敗れ募る危機感
白村江の戦いでの大敗により日本は外国に対する危機感を強め、政治の実権を担っていた中大兄皇子は国の防衛強化、内政の立て直しと国政強化に乗り出します。海外からの侵略に備えて、防衛力を高めるとともに国として一つにまとまらなければならなかったのです。
①防衛強化
まず中大兄皇子は唐・新羅連合軍の日本への侵攻に備えるため、白村江の戦いの翌年である664年には北九州地方の対馬(つしま)・壱岐(いき)・筑紫(つくし)に防人(さきもり)と呼ばれる兵士、烽(ほう、とぶひ)と呼ばれるのろし台を配置しました。
また、筑紫には九州地方の軍事的・政治的中心であった大宰府(だざいふ)があったため、その防衛のために水城(みずき)という城も建てられました。
中大兄皇子の防衛強化の施策はその後も続き、長門国(ながとのくに・現在の山口県)、讃岐国(さぬきのくに・現在の香川県)、大和国(やまとのくに・現在の奈良県)といった西日本各地に城を築き、667年には都を防衛上有利な近江大津宮(おうみおおつのみや・現在の滋賀県大津市)に移しました。
遷都の理由は、唐・新羅連合軍に対抗できる新たな政治体制を構築するため、飛鳥から遠い場所に移ることで抵抗勢力やしがらみを断ち切れるからとする説が有力です。
また、大津を選んだ理由は、
・大津は琵琶湖に面し、陸上・湖上に便利な交通路が通じ、交通の便が良いいこと、また海から距離があるため外敵からの防衛上も有利なこと
・大津は有力氏族や土木・製鉄・製陶等に高度な技術と、学識を有する百済系渡来人が多く住み、豊かな自然と資源に恵まれたことから国家の建設には理想的な土地であった
などと考えられています。
しかし唐・新羅連合軍は、高句麗を次の標的と定め攻撃し、668年唐・新羅連合軍が高句麗を滅亡させました。
朝鮮半島は新羅だけが残りましたが、実質は唐による植民地状態でした。そこで、唐と新羅の戦いになり、676年に唐を撃退し、実質的に朝鮮半島を統一しました。
結果として、唐・新羅軍が日本へ侵攻してくることはありませんでした。
②内政の立て直し
白村江の戦いでの敗戦により、敗戦責任の追及など内政が荒れることも考えられたため、中大兄皇子は敗戦翌年の664年に内政を立て直すための政策を打ち出します。それが以下3つの政策で、この政策は発令された年の干支をとって、「甲子の宣(かっしのせん)」と呼ばれています。
ⅰ)冠位十九階を二十六階に改訂すること
これまでの冠位をさらに増やすという政策です。内政を立て直すために、役人をさらに増加した(あるいは増加予定である)ことを示しています。
ⅱ)大氏(おおうじ)、小氏(こうじ)、伴造(とものみやつこ)などの氏上(うじのかみ)を定めること
氏族を大氏、小氏、伴造などのランクに分け、その代表者を氏上として定める、という政策です。
政権がそれまで把握しきれていなかった氏族の構成を把握・序列化することで、氏族を国の統率下に置くことが目的だったと考えられています。
ⅲ)民部(かきべ)、家部(やかべ)を定めること
民部、家部と呼ばれる私有民を大氏、小氏、伴造などのランクに応じて各氏族に支給する、という政策です。
改新の詔で「私有民を廃止すること」としていましたが、現実には廃止されずにこの頃まで続いていたと考えられています。
この政策では、政権が氏族に私有民の所有を認めるという形を取ったことで、豪族に一定の権力を与え反発を防ぐとともに、私有民の実態を国が把握するという目的があったとされています。
③国政強化
中大兄皇子は国として一つにまとまるために天皇を中心とした中央集権国家づくりにも取り掛かります。
ここで参考にしたのが唐の律令制度です。
律令と言うのは犯罪と罰則について定めた刑罰法の律(りつ)と、国家の行政を行う機関やその運用方法を示した行政法の令(りょう)を合わせたもので、古代中国で生まれ整備されてきた中央集権国家の統治法です。
668年、中大兄皇子は天智天皇(てんじてんのう)として即位すると、その年に日本最初の令となる近江令(おうみりょう)を制定したとされています。
また、670年には日本最初の全国的な戸籍となる庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成しました。
庚午年籍は畿内だけでなく、西は九州から東は常陸国(ひたちのくに・現在の茨城県)・上野国(こうずけのくに・現在の群馬県)まで、非常に広い範囲で実施されたことがわかっています。これは国民の大部分が政府によって直接把握されたことを意味しており、天皇が全ての国民を管理する中央集権国家体制において大きな進歩となりました。
このように白村江の戦いに負けた日本は対外的な危機感を強め、外国から侵略されないよう国力を強化するためにより中央集権体制を強めるようになりました。この時の体制が基で、後の日本最初の律令である大宝律令の制定に繋がり、日本は律令国家として完成されていきました。
飛鳥時代 壬申の乱、天武天皇・持統天皇による中央集権化、藤原京の造営・遷都
[参考書籍]
日本の歴史 飛鳥・奈良時代 律令国家と万葉びと(小学館 鐘江宏之)
新 もういちど読む山川日本史(山川出版社 五味文彦・鳥海靖 編)
日本史(山川出版社 宮地正人 編)
日本の歴史2 古代国家の成立(中央公論社 直木考次郎)
[参考サイト]
Wikipedia 白村江の戦い