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中宮寺(聖徳宗)の歴史、伽藍、半跏思惟像、天寿国繍帳など見どころ紹介

中宮寺(ちゅうぐうじ)は奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳太子建立七寺の1つで、16世紀末頃、法隆寺東院伽藍に隣接する場所に移設され現在に至ります。聖徳太子の住んでいた斑鳩宮と東側にあった岡本宮との中間辺りにあったことから中宮と呼ばれ、そのゆえんから中宮寺(中宮尼寺)と呼ばれるようになりました。創建期から法相宗、鎌倉時代から太平洋戦争終結後までは真言宗、その後は法隆寺が総本山である聖徳宗に属しています。中宮寺跡の発掘調査で、尼寺である向原寺(桜井尼寺)と同じ系統の瓦が出土していることから、創建時から中宮寺が尼寺であったことを出土物が立証しており、創建時代から法隆寺に対なす尼寺だったことが確認されています。また、皇族の女性が住職として入寺する門跡寺院であり、圓照寺・法華寺とともに大和三尼門跡に数えられている寺院でもあります。ここでは、聖徳太子ゆかりの寺であり、国宝が複数点残る中宮寺について紹介します。

法起寺(ほうきじ)の歴史、伽藍配置、三重塔、コスモスなど見どころご紹介

法起寺は奈良県生駒郡斑鳩町岡本にある聖徳宗の寺院です。法隆寺の近くにありますが、堂宇もいくつかのものが残るのみとなっており、法隆寺と比べても規模の小さな古刹として現在に残っています。山号は岡本山であり、名前も岡本寺や池後寺とも古くから呼ばれてきました。聖徳太子による建立という伝承がある七つの寺を指す『聖徳太子建立七大寺(しょうとくたいしこんりゅうしちだいじ)』の一つとして数えられていますが、寺が完成したのは聖徳太子が亡くなってから数十年も経った後のことで、太子の遺言により子どもの山背大兄王が発願したとされています。ユネスコの世界遺産に法隆寺を申請するにあたり、「法隆寺地域の仏教建造物」として法起寺も該当の建造物として申請。この世界遺産への登録にあたり、読み方を法隆寺と一貫性を持たせたいという理由から、それまでの『ほっきじ』から『ほうきじ』へと正式な呼び名を変更しました。ただ地域住民をはじめ、法起寺関係の人々は20世紀末頃までは「ほっきじ」と呼んでいたことから、これまでの呼び方の親しみからも、「ほうきじ」ではなく「ほっきじ」と呼ぶ方が多くいます。この法起寺の最大の見どころは、日本最古の三重塔として現存する国宝指定の三重塔です。また秋になると、法起寺周辺にはコスモスが咲き誇り、三重塔と合わせた風景は格別のものです。ここでは、日本最古の三重塔がシンボルとなる法起寺にまつわる歴史と、現存する伽藍の詳細について紹介します。

百舌鳥・古市(もず・ふるいち)古墳群 日本の世界遺産

百舌鳥・古市古墳群は、大阪府堺市・羽曳野市・藤井寺市にまたがる49基の古墳群の総称です。百舌鳥・古市古墳群が造営されたのは古墳時代の最盛期である4世紀後半から5世紀後半と考えられ、長さ500メートルに及ぶ巨大な墳墓もあり、巨大な墳墓の大半が世界的に特異な形状である前方後円墳です。2019年7月6日、アゼルバイジャンの首都バクーで開かれていたユネスコ世界遺産委員会において、世界遺産に登録されました。49基の古墳のうち、仁徳天皇陵は周辺の陪塚(ばいちょう・ばいづか)冢で茶山古墳と大安寺山古墳とひとくくりで1件と勘定され、応神天皇陵は周辺の誉田丸山古墳及び二ツ塚古墳と一体のものと考えられるので、こちらも件数としては1件となります。したがって、世界遺産としての登録件数は45件となります。百舌鳥古墳群は堺市周辺にある23基の古墳群のことを指し、古市古墳群は羽曳野市から藤井寺市にかけて26基の古墳群を指します。

四天王寺(和宗総本山)の歴史 開基、創建、伽藍配置、金堂、講堂、五重塔、中門など伽藍紹介

大阪府大阪市天王寺区にある四天王寺は、聖徳太子建立七大寺の一つであり、法隆寺と同様に聖徳太子が開基である寺の一つになります。日本仏法史上最初に官寺(かんじ)として創建され、本格的な仏教寺院としては最も古い歴史があり、法興寺や法隆寺などとともに最古の古刹に数えられています。当時の朝廷が置かれていた飛鳥ではなく、難波津(なにわのつ)に創建され、約1400年に渡り幾度となく自然災害や戦災に見舞われ、そのたびに再建されてきた歴史を持ちます。ここでは、四天王寺の創建から現在に至る歴史、地理的背景、現存する伽藍の詳細などについて紹介します。

日本の建築の歴史 、仏教・神社・住宅・城郭・庭園の建築様式

日本の建築に大きな影響を与えたのが古代に伝来した仏教です。仏教建築の影響を受けつつ、在来の技術を発展させたのが神社建築でした。また、時の有力者である貴族や武士も、寝殿造りや書院造り、数寄屋造りといった独特の住居に住みました。さらに、邸宅とともに発展したのが庭園です。日本庭園は寝殿造りの庭園に始まり、浄土式庭園や池泉回遊式庭園へと発展し、禅宗の影響により借景庭園や枯山水の庭も盛んに作られました。

聖徳太子生誕の地 橘寺の歴史 開基、創建、伽藍配置、本堂(太子堂)、観音堂、聖倉殿、往生院、五重塔跡塔礎石、二面石、蓮華塚、三光石、阿字池、黒駒の銅像、御朱印など

橘寺は奈良県高市郡明日香村橘にある飛鳥時代から歴史を紡ぐ古刹の一つです。現在は天台宗の比叡山延暦寺の直末で、正式には仏頭山上宮皇院菩提寺といい、別名で橘樹寺・橘尼寺とも呼ばれています。尼寺とあるように、当初は尼が住んだ寺でした。明日香村は、飛鳥時代に都がおかれ、日本初の律令国家体制が築かれたところです。渡来人がもたらした高い文化が栄え、日本の仏教が興隆したところでもあり、当時の史跡が数多く発掘されています。なお、橘という名の由来は、『日本書紀』にあります。第11代垂仁天皇が田道間守に命じて、常世の国と呼ばれる海のはるか彼方の理想郷にある不老不死の薬・非時香菓を探させました。田道間守は、10年もの間探し求めた末、ようやく非時香菓の実を得て帰国します。しかし、天皇はすでに1年前に亡くなっており、田道間守は嘆き悲しんで、天皇のお墓のそばで自害してしまいます。第12代景行天皇が田道間守の遺徳を忍んでこの実を植えるとミカンの原種である橘が芽を出したので、植えた土地一帯を橘と呼ぶようになりました。橘の木は今も橘寺の境内のいたるところに植えられ、毎年5月3日には「橘祭」が行われています。なお橘寺は、時間によって花の色が変わる酔芙蓉の名所としても知られています。

仏教公伝~丁未の乱 蘇我氏物部氏の対立 排仏崇仏論争

古墳時代、日本を統治していたヤマト朝廷は、後に天皇と呼ばれる「大王」を頂点とし、近畿地方を中心に東北から九州にかけ各地にいた有力な豪族たちを配下につけ、「氏姓制度」により、中央から地方までの豪族の支配の仕組みや統制を執っていました。氏姓制度とは苗字の意味ではなく、豪族の身分秩序のことで、氏は血縁的結びつきをもとに住んでいる地域や携わっている仕事によって与えられた豪族の集団名、姓は強さや能力に応じてランク付けされたヤマト政権内での豪族の身分や地位を表します。姓には、「公・君」「臣」「連」「直」「首」「村主」などがあり、「臣」「連」の姓を与えられた豪族が、ヤマト朝廷の中枢を担い、その中でも特に有力な豪族を大臣、大連といいました。古墳時代末期、宣化天皇は政権で軍事関連を担当していた大連の大伴氏、武器の製造や管理、刑罰や裁判などを担当していた同じく大連の・物部氏に加え、外交や氏族を管理する大臣として蘇我稲目を政権運営に加えました。そのような折、仏教はこの宣化天皇の次の欽明天皇に百済の聖明王より公伝されました。しかし、百済から公伝された仏教が原因で、仏教を肯定する大臣の蘇我氏と仏教を否定する大連の物部氏を中心に、朝廷内は二分されてしまいます。この対立は蘇我氏と物部氏親子2代に渡る対立となり、物部氏は滅んでしまいます。ここでは、仏教が公伝された経緯・背景、その後に物部氏と蘇我氏の間で起こった排仏崇仏論争、物部氏が滅ぶきっかけとなる丁未の乱(ていびのらん)について解説します。

壬申の乱とは?原因は?天皇や場所、時代背景をわかりやすく解説

第35代皇極天皇の時代、蘇我氏宗家を滅ぼす乙巳の変を起こした中大兄皇子は、乙巳の変以降、第36代の孝徳天皇、・第37代斉明天皇の皇太子として大化の改新を進めました。そして、斉明天皇が崩御してから7年後に第38代天智天皇として即位しますが、その4年後に病に倒れてしまい、崩御してしまいました。天智天皇が即位した当時の皇位承継は、親子より兄弟が優先されていたため、天皇の弟の大海人皇子が皇太弟として次期天皇になるよう定められていましたが、弟の大海人皇子は辞退し、その数年後に出家しました。そのため、天智天皇の死後には天智天皇の子であった大友皇子が政権を担うようになります。しかし、その後、叔父の大海人皇子と甥の大友皇子との間で皇位継承の争いが起こります。この叔父と甥との間で起こった皇位継承の内乱は、日本古代の内乱の中でも最大規模を誇るもので、この内乱を壬申の乱と呼びます。

山田寺 開基と歴史、興福寺との関係、伽藍配置および出土品(奈良県桜井市)

山田寺は奈良県桜井市にある、飛鳥時代の寺院跡地です。創建時の山田寺は現存しておらず、当時の寺院の姿かたちを実際の目で見ることはできません。しかし、山田寺の歴史的価値は高く、現在は国の史跡公園として整備されています。山田寺の開基は蘇我倉山田石川麻呂です。乙巳の変に中大兄皇子と中臣鎌足によって倒された蘇我蝦夷・入鹿と血縁関係にあります。しかし、石川麻呂は蘇我氏本家であった2人をよく思っておらず中大兄皇子に加担しました。

飛鳥寺の歴史、伽藍配置、大仏・仏像(釈迦如来像)、御朱印など

古代の朝廷が都と定め、政治を行う中心地としていた奈良・京都の地には、数多くの古刹が立ち並びます。その中でも、日本において歴史の最も古い古刹が飛鳥寺です。現在は真言宗豊山派に属する寺院で、本元興寺、安居院とも呼ばれています。日本で最初の本格的な仏教寺院として蘇我馬子により創建された蘇我氏の氏寺でもあります。創建当時の伽藍は過去の火事などで焼失し今に残っておらず、現存する伽藍は近代に復旧されたものです。創建当時のもので現存するものとしては、本尊である飛鳥大仏と呼ばれる釈迦如来坐像があり、約1400年経った今でも重要文化財として飛鳥寺に安置されています。ここでは、日本最古の仏教寺院である飛鳥寺にまつわる歴史と、現存する伽藍の詳細について紹介します。