山田寺 開基と歴史、興福寺との関係、伽藍配置および出土品(奈良県桜井市)

山田寺の開基、歴史、興福寺との関係、伽藍配置、出土品(奈良県桜井市)

山田寺は奈良県桜井市にある、飛鳥時代の寺院跡地です。創建時の山田寺は現存しておらず、当時の寺院の姿かたちを実際の目で見ることはできません。

しかし、山田寺の歴史的価値は高く、現在は国の史跡公園として整備されています。

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開基

山田寺の開基は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ、~649年)です。

乙巳の変(645年)に中大兄皇子と中臣鎌足によって倒された蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)と血縁関係にあります。

しかし、石川麻呂は蘇我氏本家であった2人をよく思っておらず中大兄皇子に加担しました。

【蘇我倉山田石川麻呂周辺の家系図】

641年から山田寺の創建を舒明天皇(じょめいてんのう、593年~641年、在位629年~641年)に発願していたことが『上宮聖徳法皇定説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ。現存する最古の聖徳太子伝記の1つ)』に記されています。

石川麻呂は仲の悪かった蝦夷・入鹿の蘇我氏本家とは違う、自身の一族の拠点として創建したのではないかと考えられています。

実際に僧が住み始めたのは648年ごろと考えられていますが、伽藍は未完成のままだったようです。

本尊である薬師如来像の開眼供養が行われたのは678年。

発願から約40年の歳月を経て完成した寺院です。

なお、岐阜県各務原市(かかみがはらし)にも同時期に創建されたとみられる山田寺が存在します。一説には石川麻呂がかかわっていたとされていますが、明確な証拠はなく真相は不明です。

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山田寺の歴史

山田寺の発願から開眼供養までの歴史は、発掘調査や出土した古瓦からほぼ事実とされています。
本尊開眼までの年表は以下のとおりです。

歴史年表

西暦 出来事
641(舒明天皇13)年 蘇我倉山田石川麻呂が舒明天皇に発願
648(大化4)年 僧が住み始める。このころには金堂完成か
649(大化5)年 石川麻呂とその一族が山田寺で自害
事件後に冤罪であったことが判明し、密告者である日向が島流しに処せられる
663(天智天皇2)年 塔の建立開始
674(天武天皇5)年 五重塔が完成
676(天武天皇7)年 本尊・薬師如来像(丈六仏像)の鋳造開始
683(天武天皇14)年 本尊開眼供養。伽藍全体が完成していたと思われる

開基である石川麻呂は、649年に一族とともに山田寺にて自害しています。

異母弟の蘇我日向(ひむか)の讒言(ざんげん)による冤罪ともいわれていますが、詳細は分かっていません。

しかしこの事件により、山田寺の創建は一時的にストップします。

創建が本格的に再開されたのは石川麻呂の自害から14年後。
それ以前から少しずつ手は加えられていったものの、白村江の戦い(663年)や壬申の乱(672年)で数度の中断を余儀なくされました。

最終的には発願から約40年が経過した683年に、天武天皇(~686年、在位673年~686年)の手によって開眼供養が執り行われたのです。

石川麻呂、その一族の死後、寺の造営が廃止されることなく天武天皇にまで引き継がれた理由の背景には天武天皇の妻である持統天皇の強い希望があったとされており、開眼供養後には国立寺院として保護されました。

ちなみに、この薬師如来像は現在頭部のみ残っており、「山田寺仏頭」として国宝に指定されています。

山田寺と興福寺

創建後の山田寺は、『扶桑略記(ふそうりゃくき。平安時代の歴史書)』や『続日本後記(しょくにほんこうき。平安時代の歴史書)』の記述を見る限り立派な寺院であったようです。

これは創建当初に国立寺院として指定されたこと、730年の封土停止後は石川麻呂の子孫である石川氏の氏寺として機能していたためではないかとされています。

藤原道長が訪れた際の感想として「堂中は以て奇偉荘厳にして、言語云うを黙し、心眼及ばず」(『扶桑略記』)と述べたとあります。

そして藤原道長が来訪(1023年ごろ)した記録が付けられてすぐ、発生した東側斜面の土砂崩れにより伽藍東側の回廊と宝蔵が埋まってしまいました。

さらに追い打ちをかけるような出来事も起きます。

当時の公卿・九条兼実の日記である『玉葉(ぎょくよう)』によれば、1187年に興福寺の僧兵が山田寺の講堂に安置されていた薬師三尊像(薬師如来像、日光菩薩、月光菩薩3体の総称)を強奪する事件が発生。
興福寺は平重衡(たいらのしげひら)の南都焼き討ちから復興している最中で、本尊の造立が難航していたため僧兵がしびれを切らして持ち去ったとする説が有力です。

強奪された3体の仏像は今も興福寺に残されており、重要文化財の指定を受けています。

この事件を境に山田寺は徐々に衰退していきました。

中世以降も細々と史料上で「山田寺」の名が見受けられるほか、何度か再興の動きもあったらしく、鎌倉~室町時代の軒瓦や鐘の鋳造跡が見つかっています。

しかし結局、以前のような立派さを取り戻すことはありませんでした。

廃仏毀釈と現在

明治時代に入ると、1870年に出された『大教宣布(たいきょうせんぷ)』によって廃仏毀釈の動きが活発化します。

山田寺もこのあおりを受けて一時は廃寺となりますが、1892年に規模を縮小した小寺院の形で再興されました。

現在の山田寺の宗派は法相宗にあたり、建物は観音堂と庫裏(くり。寺院の僧侶の居住する場所や台所)のみで、住職は住んでいない無住の状態です。

本尊も木造十一面観音となり、創建当時とは似ても似つかない寺院になりました。

境内には石川麻呂の末裔とされる山田重貞が立てた「雪冤(せつえん。無実の罪を明らかにする)の碑」があります。

祖先である石川麻呂の無罪を主張した漢詩が謳われています。

大まかな内容ですが、石川麻呂の功績と最期、そして祖先である石川麻呂は潔白であることを滔々と記してあるのです。

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伽藍配置

山田寺の伽藍配置は次のような形であったと、発掘調査及び出土史料から判明しています。

【山田寺の伽藍配置】

位置関係は北から講堂、金堂、塔、中門の順です。

回廊の規模は東西約85m、南北約89mの長方形をしていたことがわかっています。

発掘調査以前までは、飛鳥時代の代表的な伽藍配置である「四天王寺式伽藍配置」と思われていました。

しかし、以下の点が異なることから、奈良県文化財研究所はこれを「山田寺式伽藍配置」と命名。

「四天王寺式伽藍配置」とは別物として考えています。

【四天王寺式と山田寺式の伽藍配置の違いとして考えられている点】

四天王寺伽藍配置
出典:四天王寺

●中門から伸びる回廊が金堂と講堂のあいだを通っている
「四天王寺式」であれば講堂の両端に回廊が取り付く

●講堂が回廊の外側に存在している
回廊と接続していないのは「四天王寺式」にはない特徴

これらの点を踏まえて、伽藍の詳細を紹介します。

伽藍 詳細
金堂 ・身舎(もや・しんしゃ)の柱間が正面3間(柱4本)かつ側面2間(柱3本)
 → 通常は身舎の柱間が5間(柱6本)かつ側面4間(柱3本)
・金堂壁面には壁画が描かれていた可能性がある(内容は不明)
・国内で唯一「獅子の前足」と思われる彫刻が見つかっており、真言宗以前から獅子像が国内にあった可能性が浮上
・礎石には仏教の象徴である花である単弁12弁の蓮華文が刻まれている(現存する礎石は12個中2個だけ)
・「山田式」と呼ばれる単弁八葉蓮華文と重弧文(じゅうこもん)を組み合わせた軒丸瓦を使用
・弁柄や白土で彩られた垂木先瓦も多数出土しており金堂屋根に使用されていたと思われる
塔(五重塔) ・塼仏(せんぶつ)により内部壁面が装飾されていた
・基壇から2m下にある心礎(しんそ。塔の心柱の礎石)の舎利孔内側が赤色顔料で塗装されている(舎利はなし)
中門と回廊 ・中門の梁行は3間(後世の改修・再興により原型は不明)
・回廊の東中央および北東に門扉跡がある
 → 現存しない西側回廊も同様の造りと推測されている
 → 構造上北川中央にも門があった可能性あり
・門扉の軸摺穴は地覆石が使われている
・門扉には軸受けとして軸を固定する金具である藁坐が採用されており同時代では2例目
・金堂と同じく単弁12弁の蓮華文が刻まれた礎石を使用
・回廊屋根の角に使用されたと思われる単胴の双頭鴟尾(頭の部分が2つに分かれた鴟尾)が出土
・1982年に土砂崩れによって埋没した東回廊の一部がそのまま出土
 → 現在は奈良文化財研究所に展示されている
講堂 ・柱間が偶数(6間四面)の珍しい造り
 → 一般的には柱間は奇数になるように造られるため
 → 安置されていた丈六十一面観音像と丈六薬師如来像の「丈六」と関係ありか
・南側の庇全面が開く特殊な間取り
・礎石の蓮華文はなし
宝蔵 ・建築様式は校倉造もしくは高床式土倉
・屋根は寄棟造もしくは入母屋造
 → 建物が現存しないためはっきりしない
南門 ・創建当初は掘立柱の棟門
・天武期に間口3間梁行2間の四脚門に建て替えられたか
・間口3間すべてが開口部である3間3戸の国内唯一の事例
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発掘調査と文化財

山田寺跡で発掘された東回廊の一部以外にも、多くの遺物が発見されています。

現在は別の寺院や研究所で保管されているもの、文化財指定を受けたものを含めて以下のようになっています。

【山田寺跡とその周辺から発掘・発見された主な出土品と文化財指定区分】

出土遺物名 指定 補足
銅造仏頭
(旧山田寺講堂本尊)
国宝
(1967年6月15日)
興福寺が所有
石燈籠(創建時) 国指定重要文化財
(2007年6月8日)
ひとつの石から彫り出された貴重な石燈籠
石燈籠
(永和元年)
国指定重要文化財
(2007年6月8日)
1375年に薩摩権守行長によって造られた石燈籠
奈良県山田寺跡出土品 一括
※表下に一覧あり
国指定重要文化財
(2007年6月8日)
上記石燈籠2点を含む計15の出土品の総称
山田寺跡 国の特別史跡
(1952年3月29日)
1982年12月4日に史跡範囲を追加

※「その他出土物一式」の一覧(石燈籠を除く)

●回廊部材(復元東面回廊3間分) 92点
●建築部材 88点
●銅板五尊像 1点
●銅押出仏 3点
●塼仏 39点
●金属製品 137点
●ガラス小玉 3点
●瓦塼類 556点
●土器・土製品 106点
●木製品 51点
●石製品 14点
●銭貨 15点
●木簡 27点

アクセス

〒633-0045 奈良県桜井市山田1258

JR・近鉄「桜井駅」からバスで10分(岡寺・飛鳥大仏前行)
飛鳥資料館から東へ徒歩10分

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