広島の平和記念碑(原爆ドーム) 日本の世界遺産

世界遺産_広島の平和記念碑(原爆ドーム)

1.登録基準

原爆ドームは世界遺産リストに「広島の平和記念碑(原爆ドーム)」という名前で登録されています。

世界遺産リストに登録されるためには、「世界遺産条約履行のための作業指針」に示される登録基準の内、少なくとも1つ以上の基準に合致する必要があります。

原爆ドームは登録基準ⅵを満たし、世界遺産リストに登録されました。

基準 ⅵ.(大きな出来事、伝統、宗教、芸術作品などと深い関わりのあるもの) の適用について

広島の平和記念碑(原爆ドーム)は、人類によって生み出された最も破壊的な力である核兵器が使用されてから、半世紀以上にわたって世界平和の達成のために存在してきた冷厳で力強い象徴です。この点が登録基準ⅵ.に該当するとして、評価されました。

この基準ⅵ.には「他の登録基準と合わせて用いられることが望ましい」という但し書きが書かれていますが、これは原爆ドームが推薦された世界遺産委員会で出された意見です。実際にこの基準のみで登録されることは少ないですが、「負の遺産」と呼ばれる人類の犯した悲劇を繰り返さないようにするような遺産においてはこの基準のみで登録されることもあります。(「負の遺産」については正式な分類ではなく、明確な定義も存在していません。)

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2.遺産価値総論

原爆ドームの価値は「核兵器による惨劇を現代に伝えていること」です。

1945年8月6日、広島市の市街地に人類史上初めて原子爆弾が投下されました。原爆ドームは爆心地の西北約150mという近さに位置していた広島県産業奨励館という建物で、原子爆弾の爆発による惨劇の様子をありありと現代に伝えています。崩れ落ちた外壁、熱線で曲がった鉄骨、骨組のみが残ったドーム形状の屋根部、焼けて無くなってしまった窓などの様子は、その威力の凄まじさを物語っています。

爆心地に近く、核兵器の被害跡をここまではっきりと現在まで残した建物は珍しく、核兵器の根絶と恒久的な世界平和を訴えるモニュメントとして高い価値を持っています。

3.歴史

原爆ドームは1915年に広島県物産陳列館として開館した建物です。その歴史について、大きく被爆前、被爆時、被爆後と分けて説明いたします。

(1)被爆前

広島市は日清戦争で大本営が置かれたことを機に軍都として急速に発展していきました。経済規模が拡大することで、発展に伴って増えた広島県産の製品の販路開拓が急務となったため、その拠点として計画されたのが「広島県物産陳列館」です。1910年に広島県会で建設が決定され、1915年4月5日に竣工、同年8月5日に開館しました。

設計はチェコ人建築家のJan・Letzel(ヤン・レツルあるいはヤン・レッツェル)氏、当時としては珍しい大胆なヨーロッパ風の建物で、隣を流れる元安川の川面に映える美しさとも相まって広島名所の一つとなっていました。

その後、1921年に広島県立商品陳列所、1933年に広島県産業奨励館と改称しました。

(2)被爆時

1939年に始まった第二次世界大戦でしたが、1945年8月6日、アメリカ軍の爆撃機により原子爆弾が広島市に投下されました。その威力は凄まじく、爆風と猛火により当時の広島市のほとんど全域の建物が半壊以上の損害を受けるほどのものでした。

広島県産業奨励館は爆心地の西北約150mの至近距離で被爆し、爆風と熱線により建物の中心部分を残して全壊・全焼しました。

(3)被爆後

被爆後、広島県産業奨励館の残骸は頂上の円蓋鉄骨の形からいつしか原爆ドームと呼ばれるようになりました。

広島市の復興が進む中で、原爆ドームは「平和の象徴」として保存するか、「不幸の記憶」として解体するかを巡り議論がなされますが、1966年の広島市議会で永久保存することが決定しました。

翌1967年には第1回保存工事が実施、1989年には第2回保存工事が実施されます。その後、1995年に国の史跡に指定され、翌1996年にユネスコの世界遺産への登録が決まりました。

世界遺産登録後は2002年に第3回保存工事が、2015年には第4回保存工事が行われています。

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4.構成資産の概要

原爆ドームの構成資産は下記1点です。

(1)原爆ドーム(広島県産業奨励館)

原爆ドームは原子爆弾によって破壊された広島県産業奨励館の残骸を今日に伝える資産です。

人類が初めて被った核兵器の惨劇の跡を残す資産であり、人類が忘れることのできない歴史的記念的意義を有する資産として、世界遺産条約第1条の記念工作物に該当します。

原爆により広島県産業奨励館が受けた被害の大きさを①広島県産業奨励館の構造、②原子爆弾の威力、③広島県産業奨励館への被害という3点に分けて説明します。

①広島県産業奨励館の構造

広島県産業奨励館は歴史の項でも説明した通り、開館当初は広島県物産陳列館という建物でした。この建物は広島市内の元安川東岸に建つ、一部鉄骨を用いたレンガ造りの3階建ての建造物で、建築面積1023平方メートル、高さ25m、外装には石材とモルタルが使用されています。正面中央には階段部分があり、その部分は5階建で天井部にはドーム状の銅板楕円形の円蓋が載せられていました。

設計はチェコ人建築家のJan・Letzel(ヤン・レツルあるいはヤン・レッツェル)氏によるもので、ネオ・バロック的な骨格にゼツェシオン風の細部装飾を持つ混載様式の建物でした。

ネオ・バロック、ゼツェシオンは共にヨーロッパで発展した建築様式のことです。ネオ・バロックはベルサイユ宮殿などに代表される17~18世紀に発達したバロック様式が19世紀後半に復興したもので、豪華壮麗な造りが特徴です。

ゼツェシオンは19世紀末にドイツ・オーストリアで興った芸術運動のことで、建築や絵画などの芸術分野において過去の芸術様式から分離して新しい創造を目指したものの総称で、建築では機能的・合理的な近代建築に近い様式が特徴となっています。つまり広島県物産陳列館は、当時の新旧ヨーロッパの建築様式が盛り込まれた建築物だったと言えるでしょう。

②原子爆弾の威力

1945年8月6日、テニアン島を発進した米軍B29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、広島県産業奨励館の西隣に位置する相生橋を投下目標として、午前8時15分17秒に原子爆弾「リトルボーイ」を投下しました。投下43秒後、爆弾は建物の東方約150m、上空約580mの地点で炸裂しました。

その威力はというと、爆風と猛火により、木造・鉄筋コンクリートのものも含めて爆心地から半径2km以内の建物は全壊・全焼、半径2.8km以内の建物は全壊、半径4km以内の建物は半壊してしまう程でした。

これは当時の広島市のほとんど全域が半壊以上の損害を受けたことを意味します。被害者の数も甚大なもので、爆風・熱線・放射線により約14万人もの人が亡くなりました。負傷者も含めるとさらに多く、戦後50年以上経ってからも多くの人々が放射線の後遺症に苦しんでいます。

③広島県産業奨励館への被害

建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達しました。0.8秒後には、音速を超える秒速440メートル以上の爆風と衝撃波が襲い、1平方メートル当たり約35トンもの爆風圧にさらされました。このため建物は、原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊しましたが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存しました。ドーム部分が全壊しなかった主な理由として、以下3点の理由が考えられています。

i) 衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと
ii) 窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜ける(ドーム内部の空気圧が外気より高くならない)条件が整ったこと
iii)ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったこと(銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、爆風が通過しやすくなった)

このため、ドーム部分は爆心地付近では数少ない被曝建造物(被爆建物)として残りました。

その後しばらくは窓枠などが炎上せずに残っていましたが、やがて可燃物に火がつき建物は全焼して、レンガや鉄骨などを残すだけとなりました。建物の南側には洋式庭園も設けられていましたが、その庭園内にあった噴水も遺構として残っています。

原爆投下時に建物内で勤務していた内務省(建設省)職員ら約30名は、爆発に伴う大量放射線被曝や熱線・爆風により全員即死したと推定されており、核爆弾による被害の大きさが伺えます。

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5.その他

(1)保護についての是非

現在は世界遺産リストに登録されている原爆ドームですが、復興時にはその保護の是非が問われていました。

「この惨劇を二度と繰り返さないように平和の象徴として残そう」という意見と、「戦争の傷、不幸の記憶を思い出してしまため壊そう」という意見があったのです。1960年代には崩落の危険や保存への経済的負担から取り壊される可能性が高まっていましたが、これを保存の方向に向けさせたのが「楮山(かじやま)ヒロ子の日記」です。

・楮山ヒロ子の日記
楮山ヒロ子さんは広島市内の大下学園祇園高等学校に通っていた原爆の被爆者です。原爆投下当時、1歳だった楮山さんは爆心地から約1.5kmの地点で被爆しました。彼女は1960年に放射線障害が原因と見られる白血病により、16歳の若さで亡くなりました。その彼女が残した日記の以下の一文が保存に向けて大きな影響を与えることとなります。

「あの、いたいたしい、産業商れい管だけがいつまでもおそるげん爆を世にうったえてくれるだろうか(1959年8月6日付、原文ママ)(出典:Wikipedia)」

この日記を読み感銘を受けた平和運動家の河本一郎や「広島折鶴の会」が中心となり保存への機運が高まり、1966年に広島市議会が永久保存をすることを決定しました。

(2)資産の保護状態

原爆ドームは歴史の項でも説明した通り、1966年に永久保存することが決まって以降、その状態を保存するために広島市により4回の保存工事が為されています。その内容は以下の通りです。

①第1回保存工事(1967年)

第1回の保存工事は1966年から保存のための募金活動が行われ、1967年に実施されました。この工事は「小規模な崩落・落下が進んでいた当時の現状を可能な限り保存」を基本方針として行われました。

工事に先立ち、広島大学により強度調査がなされ、その結果を基に、破損が激しく危険な部分のみ補助鉄骨による補強や落下レンガの積み直しを行いました。この工事はエポキシ樹脂接着剤を使用する工法を主として行われました。

②第2回保存工事(1989年)

第2回の保存活動も第1回と同様に募金活動が行われ、実施されました。2回目の保存工事は「コンクリート、レンガなどの構成部材や第1回保存工事における補修材の劣化の抑制」を基本方針として行われました。専門家による事前調査と指導の下、劣化した合成樹脂・モルタルの再充填と補強鋼材の取替などが行われました。

第2回の工事以降は3年ごとに合成樹脂・モルタルや補強鋼材の状態、沈下度、鉛直度などといった健全度調査が行われ、保存状態がチェックされています。

③第3回保存工事(2002年)

第3回目の保存工事は「主に雨水による劣化要因の軽減」を基本方針として行われました。その内容は壁体頂部や窓台、内壁や地下室に対する雨水対策として、屋根や庇、堰を設けたり、補強鉄骨とオリジナルの鉄骨を区別するための塗装などが行われました。

④第4回保存工事(2015年)

第4回目の保存工事は「地震による損傷の低減」を基本方針として行われました。現状分析調査の結果、構造的に弱いと解析された3箇所の壁に補強鉄骨を追加する工事が行われました。

原爆ドームは「核兵器の恐ろしさを現在に伝える」という性格を持つため、「破壊された当時の状態を保つ」という特殊な状態が望まれる建造物です。2004年以降、原爆ドームの保存方針を検討する「平和記念施設の在り方懇談会」が開催されていましたが、2006年に「必要な劣化対策を行い現状のまま保存する」という方針が確認されました。

(3)世界遺産登録までの経緯

①国の史跡になるまで

1992年、日本が世界遺産条約を受諾したことを機に、広島市議会が日本国政府に対して原爆ドームを世界遺産候補リストに登録するよう意見書を提出しましたが、「国内法により保護されていないため推薦できない」と見送られました。これは当時のアメリカ、中国、韓国を刺激しないように、という政治的配慮でしたが、これを受けて署名運動が盛り上がることになります。

1994年には165万人超の署名を集めるに至り、その結果、1995年3月に原爆ドームは国の史跡に指定され、その年の9月に原爆ドームを世界遺産に推薦するに至りました。

②世界遺産になるまで

1995年9月に世界遺産に推薦された原爆ドームは、1996年のメキシコ・メリダ市で行われた世界遺産委員会会合で登録審議をされることとなります。

この時に登録を不支持としたのがアメリカでした。アメリカが不支持とした理由は「歴史的な視点が不十分で、核兵器を使用するに至るまでの経緯、歴史的な流れの精査が必要である」というものでした。最終的には調査報告書から「世界で初めて使用された核兵器」との文言を削除させることとなりました。

また中国は賛否保留としました。その理由は「この世界遺産登録により、日本の戦争加害を否定する人々に利用される恐れがある」というものでした。

しかし、上記2ヵ国以外の19ヵ国が賛成に回った結果、原爆ドームの世界遺産登録が実現することとなりました。

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【参考書籍】
すべてがわかる世界遺産大辞典(上)(世界遺産検定事務局)

【参考HP】

UNESCO World Heritage centre

世界遺産一覧表記載推薦提案書(文化庁)

Wikipedia 原爆ドーム

広島市 原爆ドーム

広島県公式観光サイト ひろしま観光ナビ

HUFFPOST 戦後70年の原爆ドーム「保存運動盛り上げた女子高生の存在を知ってほしい」

コトバンク ネオ・バロック様式

houzz 5分でわかるデザイン様式:バロック様式の成り立ち

建築知識の入門ブログ ウィーン分離派

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