飛鳥時代 蘇我蝦夷・入鹿の専横 大化の改新 乙巳の変 改新の詔

聖徳太子が中央集権国家の礎を築いた後、中大兄皇子と中臣鎌足によって行われた大化の改新によって、日本はさらに中央集権体制を強めます。ここでは大化の改新に至るまでの蘇我氏(蘇我蝦夷・入鹿)の専横、乙巳の変、孝徳天皇、中大兄皇子、中臣鎌足による新政権の樹立、改新の詔を紹介します。

飛鳥時代 聖徳太子の功績 仏教文化、遣隋使派遣、冠位十二階、十七条の憲法

飛鳥時代 摂政(幼帝・女帝に代わってすべての政務をとる職)となった聖徳太子は推古天皇と蘇我馬子とともに、先進的な政治制度を導入し、天皇を中心とした中央集権体制国家の礎を築きました。ではどのようにして、その礎を築いたのでしょうか?これを知るために、聖徳太子が行ってきた実績を見ていくことにします。

乙巳の変とは?その理由、大化の改新との関係、真相、エピソード等わかりやすく解説

乙巳の変とは、645年に中大兄皇子、中臣鎌足ら複数の宮中関係者により、大臣として当時の政権で権力をふるっていた蘇我入鹿を宮中で暗殺し、入鹿の父親の蘇我蝦夷を自害に追いこんだ政変のことをいいます。この乙巳の変により一部の蘇我一族は残ったものの蘇我宗家は滅亡し、一族は衰退の一途をたどり結果的には蘇我一族は滅んでしまいます。そして、乙巳の変が起こるまで権力をふるっていた蘇我氏に代わり朝廷の実権を握った中大兄皇子は皇太子となり、内臣(うちつおみ/ないしん)となった中臣鎌足とともに孝徳天皇のもとで豪族の田荘(たどころ)、部曲(かきべ)を廃止して公地公民制への移行を目指す改新の詔を発布(646年)します。この646年に発布された改新の詔がもとになる『公地公民』や『班田収受の法』、『租・庸・調などの税制』など一連の政治制度改革のことを大化の改新といいます。1985年以前に生まれた方は、645年の乙巳の変を大化の改新と歴史の授業で習いましたが、歴史は考古学調査などで新たな発見があれば、内容も変わっていきます。1985年以前に生まれた方は大化の改新をそのまま乙巳の変に置換えてください。なお乙巳の変の読み方は『いっしのへん』の他、『いつしのへん』『おっしのへん』とも読まれたりします。これらはどれも間違いではなく、学者や書物によって言い方が違うだけであり統一されていないだけです。

邪馬台国の場所は?どこにあった?九州説、畿内(奈良)説のそれぞれ

邪馬台国(やまたいこく)は、弥生時代である紀元3~4世紀ごろに、日本列島の「どこか」にあったとされている国です。様々な資料や遺跡の発掘成果から、その概要は少しずつ判明しつつありますが、まだ多くの謎が残されています。ここでは、邪馬台国の位置について、どのような意見が出ているのかを説明します。

飛鳥時代とはどんな時代?いつからいつまで?始まりは?都の場所は?

飛鳥時代とは、飛鳥に宮都が置かれていた592~710年までの期間のことです。飛鳥というのは現在の奈良県高市郡(たかいちぐん)明日香村(あすかむら)周辺の地域です。厳密には飛鳥時代の中で、大阪の河内地方や滋賀の大津地方などに宮都が移動したこともありましたが、この592~710年を飛鳥時代とするのが一般的です。飛鳥時代は日本国内で初めて、天皇を中心とした中央集権国家としての形が完成した時代でもあります。大きく分けると、以下の4つの段階に分けられます。①聖徳太子によって先進政治の導入が行われた時期②大化の改新によって国政の改革が行われた時期③白村江(はくそんこう、はくすきえ)の戦いをきっかけにして国政が強化された時期④大宝律令(たいほうりつりょう)の制定によって中央集権国家としての体制が確立。このような段階を経て、日本は国家としての体制を整えていきました。

古墳時代の暮らし・特徴 大和政権による国土の統一・統一国家への歩み 飛鳥時代までの外交

弥生時代までは各地で有力だった豪族が自分の地域を治めているだけでした。それが気象変動などが原因で国が大いに乱れ、その乱れを治めるために各地の豪族が手を結ぶようになりました。そうして大きくなった各地の豪族による連合体がさらに他の連合体と協力したり、武力によって支配したりすることで、次第に一つの大きな集団となり、最終的には大王(おおきみ)を中心とした一つの国になっていきます。古墳は大王や各地の権力者を祀るための墓であり、日本という一つの国家が生まれ始めた時代の状況を今に伝える貴重な遺跡です。そのため、この時代は古墳時代と呼ばれます。

古墳時代の時代区分 古墳、埴輪の種類・特徴

古墳時代は3世紀後半~7世紀頃の時代とされ、古墳の形状などから前期、中期、後期に分けられるのが一般的です。前期は3世紀後半~4世紀頃とされています。前期の古墳の代表的なものとしては、最古の前方後円墳であり、古墳時代では最大規模の奈良県の箸墓古墳、中国地方最大である岡山県の浦間茶臼山古墳、九州北部・福岡県の石塚山古墳などが挙げられます。古墳時代の中期は4世紀末~5世紀頃とされています。中期の古墳の特徴は前方後円墳が巨大化したことです。代表的な古墳は大阪府にある大仙陵古墳(仁徳天皇陵)です。古墳時代の後期は6世紀~7世紀頃とされ、後期の特徴は前方後円墳の規模や数が縮小化し、古墳時代後期の最後の方には前方後円墳が見られなくなります。

京都五山物語~相国寺の歴史・武家政治と禅寺

萬年山相国承天禅寺、通称「相国寺」は1392年に竣工されました。実は、鎌倉時代後半から室町時代初期に建立された他の寺院に比べると、建立時期が遅く、臨済宗の最高ランク「五山」にノミネートされるには、伝統的にもむずかしいはずです。ではなぜ、相国寺は京都五山の一つであり続けることができたのでしょうか。そこには、室町幕府三代将軍の足利義満が大きくかかわってきます。義満は建立にあたって、相国寺を「五山」に入れることを画策します。しかし、すでに決まっている以上、その実現は難しいと考えられていました。そこで義満は五山の一つである南禅寺を「五山の上」とし、その空いた一枠に相国寺を入れました。建立からわずか数年での「五山」入りは、義満の政治力によって実現されたのでした。

京都五山物語~天龍寺・元祖禅寺の歴史~

世界遺産にも認定され、京都五山の中でも一番長い伝統を持つ天龍寺は、どんな歴史をたどってきたのでしょうか。9世紀前半、仏教に深く帰依していた、当時の皇后橘嘉智子によって、招かれた義空という中国の僧侶がいました。彼は嘉智子の使者からの誘いを何度も断ってきましたが、最終的には来日を決意しました。来日した背景には、「会昌の廃仏」がありました。これは、当時中国を支配していた唐王朝によって行われた、仏教の排斥運動です。これによって中国で発展していた多くの寺院が廃止されました。義空はそれから逃れる形で日本に入ったと言われています。そして、義空が来日したことによって、嘉智子は檀林寺という寺院を今の天龍寺付近に建立いたしました。日本史上初の禅寺です。

京都五山物語~東福寺の歴史~

京都五山は、13世紀から14世紀にかけて禅宗が発展した歴史を色濃く残す五つの寺院です。ここではその一つ「東福寺」について紹介します。京阪電鉄ならびにJR「東福寺」駅より徒歩10分のところに慧日山東福寺はその門を構えています。多くの国宝と文化財を所有する、まさに「古都」京都の文化が詰まっている一方で、1881年に起こった大火が原因で、建造物のほとんどは近代以降に建てられたものになります。しかし、それでも禅を基調とする風情が伝わってきます。東福寺の名前は東大寺と興福寺に由来します。それぞれ一文字ずつ拝借した結果、その名が誕生したのです。東福寺の歴史を、名前の由来や円爾、九条道家などの禅僧、当時の政治情勢を踏まえながら学んでいきましょう。