世界遺産_明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業
1.登録基準
九州・山口を中心とした8地域、23資産から成る明治日本の産業革命遺産は世界遺産リストに「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」という名前で登録されています。
世界遺産リストに登録されるためには、「世界遺産条約履行のための作業指針」に示される登録基準の内、少なくとも1つ以上の基準に合致する必要があります。
明治日本の産業革命遺産は登録基準ⅱ、ⅳを満たし、世界遺産リストに登録されました。
基準 ⅱ.(人類の価値観の交流があったことを示すもの)の適用について
明治日本の産業革命遺産は、他国との関係がほとんどなかった江戸時代からわずか半世紀ほどで世界有数の工業国にまでなった日本の技術交流の歴史を表しています。
日本は江戸時代が終わった19世紀半ば以降、欧米からの技術移転を模索し、国内需要と伝統を満たしながら技術を進歩・適合させ、20世紀初頭までに世界有数の工業国になりました。明治日本の産業革命遺産の23の構成資産群は、産業アイデア、ノウハウ、設備といった部分において国内外での多くの技術交流を経て、短期間の内に東アジアに多大な影響を及ぼすほどの産業開発を成功させたことを証明するものです。
この点が登録基準ⅱ.に該当するとして、評価されました。
基準 ⅳ.(時代を表す建築物や景観の見本となるもの) の適用について
明治日本の産業革命遺産は、鉄鋼、造船、石炭採掘などの基幹産業において、日本という東アジアの一国が非西欧地域で初めて産業国家化に成功した世界史上特筆すべき業績を証明しています。これらの遺産群は、西欧技術を日本各地の文化・技術に適応させ、日本各地それぞれで技術革新を行い、急速な工業化を可能にしたことを証明する優れた事例の集合体です。
この点が登録基準ⅳ.に該当するとして、評価されました。
2.遺産価値総論
明治日本の産業革命遺産の遺産価値は「世界初の非西洋地域での急速な産業化の成功例であること」です。
(1)非西洋地域で初めて産業化に成功
明治日本の産業革命遺産は19世紀後半から20世紀初頭にかけて、製鉄・製鋼、造船、石炭などの重工業分野において産業化をするために試行錯誤した資産あるいは産業化に成功した資産群で構成されています。この重工業分野は後に日本の基幹産業として成長するに至りますが、非西洋地域で初めて産業化に成功した例として、世界史的にも特筆すべき事項です。
(2)短期間での産業化に成功
明治日本の産業革命遺産は幕末から明治時代までのわずか半世紀ほどで急成長を遂げ産業化に成功した遺産群です。江戸時代の国内政策により他国との情報交換が非常に少なかったことを考えると、そのスピードは驚異的であると言えるでしょう。
3.歴史
明治日本の産業革命遺産の歴史は大きく3つに分けられます。
(1)第一段階(1850年代~1860年代前半)
第一段階は幕末である1850~60年代までで、製鉄や造船の試行錯誤期でした。国防、特に海外からの脅威に対する海防を強化する必要から、各藩が西洋の事例の模倣をすることで知識を得て伝統的な匠の技と組み合わせ、産業化を進めました。
この時代に該当する構成資産は、萩・鹿児島・韮山・釜石・佐賀の5地域に属する以下の11資産です。(詳細は「4.構成資産の概要」で紹介)
①萩反射炉(萩)
②恵美須ヶ鼻造船所跡(萩)
③大板山たたら製鉄遺跡(萩)
④萩城下町(萩)
⑤松下村塾(萩)
⑥旧集成館(鹿児島)
⑦寺山炭窯跡(鹿児島)
⑧関吉の疎水溝(鹿児島)
⑨韮山反射炉(韮山)
⑩橋野鉄鉱山(釜石)
⑪三重津海軍所跡(佐賀)
(2)第二段階(1870年代前半)
第二段階は明治に入ってからの1870年代前半で、西洋技術及びそれを実践するための専門知識を導入した時代でした。
この時代に該当する構成資産は、長崎、三池の2地域に属する以下の4資産です。(詳細は「4.構成資産の概要」で紹介)
①小菅修船場跡(こすげしゅうせんばあと)(長崎)
②旧グラバー住宅(長崎)
③高島炭坑(長崎)
④三角西港(三池)
(3)第三段階(1890~1910年)
最終段階である第三段階は明治後期の1890~1910年で、国内に専門知識が蓄積され、西洋技術を積極的に改良して日本のニーズや社会の伝統に適合させることにより本格的な産業化が達成されました。
この時代に該当する構成資産は、長崎、三池、八幡の3地域に属する以下の8資産です。(詳細は「4.構成資産の概要」で紹介)
①三菱長崎造船所 第三船渠(長崎)
②三菱長崎造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン(長崎)
③三菱長崎造船所 旧木型場(長崎)
④三菱長崎造船所 占勝閣(長崎)
⑤端島炭坑(長崎)
⑥三池炭鉱・三池港(三池)
⑦官営八幡製鉄所(八幡)
⑧遠賀川水源地ポンプ室(八幡)
4.構成資産の概要
明治日本産業革命遺産の構成資産は以下の8地域・23資産によるシリアル・ノミネーションです。シリアル・ノミネーションとは広域に及ぶ資産や複数地域に散在している資産をひとまとまりの資産として扱うものです。
(1)萩(山口県)
①萩反射炉(はぎはんしゃろ)
反射炉とは、金属の融解をするために使用する炉の一種です。炉内の天井などに熱を反射させて、熱を伝えるように作られています。
萩反射炉の煙突部分の構造は、西洋技術の情報をもとに萩藩が独力で作り上げたもので、反射炉建設に挑戦した価値ある試行錯誤を物語っています。
②恵美須ヶ鼻造船所跡(えびすがはなぞうせんじょあと)
萩藩は海防上の重要拠点であったため、幕府は海防力の強化を目的とした船の建造を萩藩に要請しました。萩藩は洋式の造船技術と運転技術習得の為に、萩城の北東約3kmの地・萩市小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を建設しました。
この恵美須ヶ鼻造船所では1856年に萩藩最初の洋式軍艦「丙辰丸(へいしんまる)」(全長25m)、1860年には二隻目の洋式軍艦「庚申丸(こうしんまる)」(全長43m)が進水しました。
伝統的な小型の木造帆船の和船を改良しようとするレベルではありましたが、価値ある試行錯誤が行われたことを物語っており、現在でも当時の規模の防波堤が残っています。
③大板山たたら製鉄遺跡(おおいたやまたたらせいてついせき)
大板山たたら製鉄遺跡は江戸時代から利用されていた製鉄所の跡です。
たたら製鉄とは日本の伝統的な製鉄方法で、鉄の原料である砂鉄と燃料の木炭を炉に入れ、燃焼を促進させるための送風装置・鞴(ふいご)を用いて行います。その際に使用する鞴、あるいはその炉を「たたら」と言います。
大板山たたら製鉄所は宝暦期(1751~1764年)、文化・文政期(1812~1822年)、幕末期(1855~1867年)の3回操業しており、ここで造られた鉄は恵美須ヶ鼻造船所で建造された丙辰丸にも使用されていました。
④萩城下町(はぎじょうかまち)
萩城下町は1604年に毛利輝元(もうり てるもと)によって築城された萩城を中心に形成された城下町です。
萩城下町は藩の役所である藩庁が山口城へ移転される1863年まで萩藩の中心地として栄え、人口4万人以上を抱える西日本有数の城下町にまで発展しました。また、幕末期に活躍した高杉晋作(たかすぎ しんさく)、木戸孝允(きど たかよし)といった人材を輩出したことでも知られています。
萩城下町は幕末期の産業革命を先導した土地であり、城跡、街路や水路、武家建築、町家建築、寺社建築、職人や商人が居住した町人地(ちょうにんち)の町割りなどの多くの建造物群が良く保存されています。
このように萩城下町は西洋技術の導入に挑戦し、産業文化形成の地となった萩藩及び萩の地域社会全体の特徴を示す遺産です。
萩城下町 全体図
画像:萩まちじゅう博物館
世界遺産としては以下の3つの資産から構成されています。
ⅰ)萩城跡(はぎじょうあと)
指月山(しづきやま)の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と山頂にある山城で構成された城跡です。1874年の廃城令により建物は解体されてしまいましたが、石垣や堀は現在でも残っており、江戸時代に強い勢力を持っていた雄藩(ゆうはん)の城として歴史上重要な価値を持っています。1951年に萩城跡が国の史跡として指定されました。
ⅱ)萩城城下町(はぎじょうじょうかまち)
萩城三の丸中総門(なかそうもん)の東外を、東西に通ずる中心路である呉服町の通り(通称・御成道(おなりみち))と、その南を東西に走る慶安橋(けいあんばし)筋の2本の東西路に直交する菊谷横丁・伊勢屋横丁・江戸屋横丁に囲まれた区域です。萩藩御用達の旧家、幕末に活躍した侍屋敷などの面影が残っています。1967年に国の史跡に指定されました。
萩城城下町マップ
画像:萩まちじゅう博物館
ⅲ)堀内地区(ほりうちちく)
萩城三の丸のほぼ全域に相当する地域で、藩の諸役所や上級藩士の侍屋敷が建ち並んでいました。今でも当時の地割りや武家屋敷が残っており、城下町としての特徴をよく表しています。1976年に重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。
⑤松下村塾(しょうかそんじゅく)
松下村塾は日本の近代化の思想的な原点となった遺産の一つです。同塾は江戸時代末期の1842年、萩藩の松本村で玉木文之進(たまき ぶんのしん)によって開かれました。
1857年からは吉田松陰(よしだしょういん)が指導にあたり、わずか1年余りの間に、久坂玄瑞(くさか げんずい)、高杉晋作(たかすぎ しんさく)、伊藤博文(いとう ひろぶみ)などの幕末~明治期に日本を先導する多くの人材を輩出したことで有名です。
産業化に対しては、海防の必要性と、西洋に学び産業・技術の獲得を重視する考え方が塾生に引き継がれ、後に明治政府の政策に活かされ、日本の急速な産業化に貢献しました。
(2)鹿児島(鹿児島県)
①旧集成館(きゅうしゅうせいかん)
画像:明治日本の産業革命遺産
旧集成館は薩摩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)及び島津久光(ひさみつ)・忠義(ただよし)親子が建造した工場群跡です。大きく二期に分けられます。
ⅰ)初期(1851~1858年)
1851年、藩主となった島津斉彬は海外の脅威から国を護るために集成館事業を始めます。事業は鉄を溶かすための反射炉建造に始まり、大砲製造や造船などの軍備強化の事業、また紡績、ガラス製造、写真、電信といった民需やインフラ整備など多岐にわたりました。
これらの事業は鎖国政策により西洋からの技術を直接取り入れることが出来なかったため、蘭学書のみを頼りに多数の試行錯誤を繰り返して行われました。これらの工場は最盛期には毎日約1200人が働くほどの規模でしたが、1858年に斉彬が亡くなると集成館事業は縮小されました。
現在も反射炉の遺構が残っており、当時の試行錯誤を物語っています。
ⅱ)第二期(1863~1867年)
1863年、薩英戦争により集成館は焼失してしまいます。欧米列強との力の差を感じた薩摩藩は改めて近代化の重要性を認識し、当時の薩摩藩主・島津忠義とその実父・久光は集成館事業の再興に取り掛かります。イギリスへの留学生の派遣やヨーロッパからの技術者招聘などを行い、1865年には集成館機械工場、1867年には日本初の洋式紡績工場・鹿児島紡績所が竣工し、薩摩藩は日本最先端の技術力を持つようになりました。
明治時代以降は、集成館事業で活躍した技師たちが日本国内の工場に招かれ、全国各地の近代化に大きく貢献しました。
現在、集成館機械工場は博物館・尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)として改築されたものが残っており、鹿児島紡績所は地下遺構とイギリス人技師の宿舎であった旧鹿児島紡績所技師館が残っています。
②寺山炭窯跡(てらやますみがまあと)
寺山炭窯跡は集成館事業に用いる燃料の木炭を製造した炭窯の跡の遺跡です。西欧では石炭が利用されていましたが、薩摩藩内には良質な石炭鉱脈がなかったため、代わりに木炭を使用していました。
③関吉の疎水溝(せきよしのそすいこう)
関吉の疎水溝は集成館事業の動力源となる水を供給していた疎水溝の遺構です。集成館事業において必要な水車動力を得るために、約8kmにも及ぶ長さをわずか8mの高低差で結んでいる水路です。
(3)韮山(静岡県)
韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)
韮山反射炉は実際に稼働した反射炉として国内で唯一現存する反射炉です。韮山反射炉は1854年から韮山代官で江戸湾海防の実務責任者・江川英龍(えがわひでたつ)により建造が開始され、1857年にその息子・英敏(ひでとし)によって完成され、(英龍は1855年に病死。)1864年まで実際に稼働していました。
その構造は蘭書「ライク王立鉄大砲鋳造所における鋳造法(huguenin著)」に基づき、溶解炉を2つ備える連双式のものが2基、直角に配置されていました。それぞれが石製の基礎に耐火煉瓦で囲われています。
(4)釜石(岩手県)
橋野鉄鉱山(はしのてっこうざん)
橋野鉄鉱山は国内最古の洋式高炉跡です。1858年、盛岡藩士・大島高任(おおしま たかとう)の技術指導により高炉の建設が開始、試行錯誤の末、西洋技術の情報を基に日本の伝統的な施工技術を用いて高炉は建設されました。
釜石は、当時日本国内で鉄鉱石が採掘された限られた場所でした。たたら製鉄では1回ごとに炉を壊す必要がありましたが、高炉による製鉄は連続操業を可能にしました。これにより、鉄の大量生産を可能にする技術の礎が築かれたのです。
現在は高炉跡のほか鉄鉱石の採掘場所、運搬経路などが当時の立地環境とともに現存しており、一連の生産システムを示しています。
(5)佐賀(佐賀県)
三重津海軍所跡(みえつかいぐんしょあと)
画像:ロケットニュース24
三重津海軍所跡は現存する国内最古のドライドック((乾ドック))を持つ遺跡です。ドライドックとは船の建造、修理などに用いられる設備で、船をドックに入れた後にドック内の水を排水することで船の修理などが可能になります。1858年、海防のために佐賀藩はオランダから蒸気軍艦「電流丸(でんりゅうまる)」を購入しました。
しかし、電流丸は全長45mの大きさがあり、それまでの設備では管理や修理が出来なかったため独自で三重津にドライドックを建設しました。西洋のドックは主に石やレンガを材料に造られますが、三重津海軍所では木や土、和船に使う船釘などを用いた日本の伝統技術を駆使して造られました。
また、三重津海軍所では長崎海軍伝習所で学んだ伝習生たちが藩士たちに航海術や測量術、造船術の教育を行ったり、1865年には日本初の蒸気船「凌風丸(りょうふうまる)」を完成させたりと、船舶に関する洋式技術の獲得と実践の拠点であったことが伺えます。
現在、三重津海軍所跡は木造のドック風化を防ぐため、遺構が地中に埋め戻されています。そのため、残念ながら実物を見ることは出来ませんが、遺跡に隣接する佐野常民記念館(さのつねたみきねんかん)では、当時の海軍所跡をイメージできるようなVirtual Reality(仮想現実)体験が可能になっています。
(6)長崎(長崎県)
①小菅修船場跡(こすげしゅうせんばあと)
小菅修船場跡は現存する日本最初の蒸気管を動力とする曳揚げ装置を装備した洋式船架(せんか)を持つ船舶修理施設です。船架とは船舶を修理する際に陸上に曳き揚げて載せる台のことです。
1869年、長崎港で薩摩藩士・小松帯刀(こまつ たてわき)、五代友厚(ごだい ともあつ)とスコットランド出身の商人トーマス・グラバーの協力の下、建設されました。
翌年明治政府が買収し、1887年に三菱の所有となりました。曳揚げ小屋は現存する日本最古の煉瓦造建築です。当時の船架の形状がそろばんの形に見えたため、ソロバンドックと呼ばれ親しまれてきました。
②~⑤三菱長崎造船所(みつびしながさきぞうせんじょ)
三菱長崎造船所内には4つの構成資産があります。旧木型場(きゅうきがたば)以外は一般非公開となっています。
②三菱長崎造船所 第三船渠(だいさんせんきょ)
画像:あっと!ながさき
第三船渠は1901~1905年にわたり崖を削り、海を埋め立て建設された船渠です。船渠とは先述のドライドックと同様の船舶修理施設です。
開渠時に設置された英国シーメンス社製の排水ポンプは100年以上経った現在でも現役で稼働しています。拡張工事はされているものの、建設当時の姿をとどめる貴重な遺産です。
③三菱長崎造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン
ジャイアント・カンチレバークレーンは1909年、造船所の工場設備電化に伴って日本に初めて建設された電動クレーンです。
英国アップルビー社製でタービンやボイラといった大型の船舶装備品が搭載可能な電動モーター駆動のクレーンです。現在も蒸気タービンや大型舶用プロペラの積込に使用されています。
④三菱長崎造船所 旧木型場(きゅうきがたば)
画像:あっと!ながさき
旧木型場は1898年に鋳物(いもの)製品の需要増大に対応して、鋳物製造時に溶けた金属を流し込む鋳型製造に必要な木型を作る作業場として建設されました。工場建物は木骨煉瓦造2階建てで、同年代に建造された木型場としては国内最大規模のものです。
現在は資料館として改装され、長崎造船所の歴史を紹介する施設として一般公開されています。
⑤三菱長崎造船所 占勝閣(せんしょうかく)
画像:ながさき旅ネット
占勝閣は1904年、当時の長崎造船所長・荘田平五郎(しょうだ へいごろう)の邸宅として建築されましたが、所長宅としては使用されず迎賓館となりました。翌1905年、ご宿泊された軍艦「千代田(ちよだ)」艦長・東伏見宮 依仁親王(ひがしふしみのみや よりひとしんのう)が「風光景勝を占める」という意味で占勝閣と命名されました。
占勝閣は現在もほぼ創建当時の姿で迎賓館として進水式・引渡式の祝賀会や貴賓の接待時などに使用されています。
⑥高島炭坑(たかしまたんこう)
画像:高島炭坑
高島炭坑は長崎市の南西海上約15kmに位置する高島を中心とする海底炭坑です。幕末〜明治にかけて長崎に入港する海外の蒸気船が増え、その燃料となる石炭需要も増加しました。
これを受けて1868年に佐賀藩とトーマス・グラバーが共同で海洋炭坑開発に着手し、日本で初めて蒸気機関を用いた竪坑(たてこう)を建設しました。竪坑とは垂直方向に掘られた坑道のことで、北渓井坑(ほっけいせいこう)と命名されたこの竪坑は深さ約43m、1日の出炭量は300トンに及んだとされています。
日本の炭鉱近代化の先駆けとなった高島炭坑(北渓井坑)の遺構は良好な状態で現存しています。
⑦端島炭坑(はしまたんこう)
端島炭坑は長崎市の南西約18km、高島の南西約2.5kmに位置する端島を中心とした海底炭鉱です。端島炭坑は高島炭坑の技術を引き継ぎ、発展させ、炭坑の島として開発されました。
本格的な石炭の開発は明治中期の1875年頃から始まり、1890年には三菱の経営に移り、1897年には高島炭坑を抜くほどに成長しました。端島炭坑の石炭は良質で、八幡製鉄所の製鉄用原料としても供給されました。
現在は昭和の最盛期に立ち並んだ鉄筋コンクリートのマンションが残り、まるで軍艦のように見えることから軍艦島の通称で親しまれています。
⑧旧グラバー住宅(きゅうぐらばーじゅうたく)
旧グラバー住宅は、小菅修船場跡や高島炭坑の建設に協力し、日本の近代産業化に大きく貢献したスコットランド出身の商人トーマス・グラバーの住居です。
1863年建造のこの住宅は現存する日本最古の木造洋風建築です。棟梁は大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)などを手掛けた天草出身の小山秀(こやま ひいで)とされており、長崎港や三菱長崎造船所が一望できる南山手の一等地に立地しています。
(7)三池(福岡県)
①三池炭鉱・三池港(みいけたんこう・みいけこう)
三池炭鉱は高島炭坑の次に日本で近代化された炭坑です。1889年に明治政府から三井に払い下げられました。三池炭鉱・三池港の資産価値は主に三池炭鉱内の以下3ヵ所と三池港にあります。
ⅰ)宮原抗(みやのはらこう)
宮原抗は三井買収後に初めて開削され、明治期の主力となった坑口です。炭鉱は閉山し、現在産業活動は営まれていませんが、第二竪坑櫓(やぐら)と巻揚機室などが今も残っています。
ⅱ)万田坑(まんだこう)
万田坑は宮原抗に続いて開削された坑口で宮原抗とともに三池炭鉱の主力坑口として機能していました。こちらも現在産業活動はされていませんが、第二竪坑跡と鋼鉄製の櫓、レンガ造りの巻揚機室、倉庫、ポンプ室などの施設が良好な形で残っています。
ⅲ)専用鉄道敷跡(せんようてつどうじきあと)
専用鉄道敷跡は三池炭鉱の各坑口と積出港を結んでいた輸送用の専用鉄道の跡地です。鉄道建設時に土地を造成した盛土の跡などが残っており、当時の鉄道の運行していた様子を想起させる空間が残っています。
ⅳ)三池港(みいけこう)
画像:大牟田の近代化産業遺産
三池港は1908年に築港された三池炭積出用の港です。築港したのはマサチューセッツ工科大学に留学していた団琢磨(だんたくま)で、港は羽ばたくハチドリの形状をしています。この形状により遠浅の有明海からもたらされる砂泥の影響と潮位差の影響を少なくています。現在も重要港湾として機能しています。
②三角西港(みすみにしこう)
三角西港はオランダ人のムルドルが設計し、1887年に開港した明治三大築港とされる港の一つです。それまで三池炭の積出は長崎県の口之津港(くちのつこう)から行っていました。
口之津港は海底が浅く大型船の出入りが難しいというのが難点でしたが、三池港が開港するまでの間は、三池炭は三角西港を経由して海外に輸出されていました。現在も関連施設の遺構が残っており、当時の土地利用の様子を彷彿とさせます。
(8)八幡(福岡県)
①官営八幡製鐵所(かんえい やはたせいてつしょ)
官営八幡製鐵所は1901年に操業された官営の製鐵所です。八幡村は燃料である石炭の産出地である筑豊(ちくほう)に近く、海に面して輸送に便利で、地価も安かったことから官営の製鐵所の建設地として選ばれました。
技術統括とも言える技監(ぎかん)に選ばれたのは、釜石の橋野鉄鉱山建設で活躍した大島高任の息子・大島道太郎(おおしま みちたろう)、設計・施工はドイツのグーテホフヌングスヒュッテ社(以下GHH.社)が担当することになりました。
操業後すぐは何度もトラブルに見舞われますが、わずか10年で鋼材生産を軌道に乗せることに成功しました。八幡製鉄所の内、以下の3つの建物が資産として選ばれました。
ⅰ)旧本事務所(きゅうほんじむしょ)
画像:九州の世界遺産
旧本事務所は八幡製鐵所創業2年前の1899年に竣工した初代本事務所です。中央にドーム形状を持つ左右対称形の赤煉瓦建造物で、長官室や技監室、外国人顧問技師室などが置かれました。
ⅱ)修繕工場(しゅうぜんこうじょう)
修前工場は1900年に製鐵所で使用する機械の修繕、部材の制作加工等を行う目的で建てられました。ドイツのGHH.社の設計と鋼材を用いて建設された鉄骨建造物です。その後、鋼材生産量の増大に伴い、3回増築されましたが、創業から110年以上経つ現在も尚、修繕工場として稼働し続けています。
ⅲ)旧鍛冶工場(きゅう かじこうじょう)
旧鍛冶工場は1900年に製鐵所建設に必要な鍛造品の製造を行う目的で、建てられました。修繕工場と同様、ドイツのGHH.社の設計と鉄骨を用いて建設された鉄骨建造物です。
製鐵所の拡張工事により増築されましたが、その後、1917年に現在地へ移築されると共に製品試験所として利用されることになりました。
②遠賀川水源地ポンプ室(おんががわすいげんちぽんぷしつ)
遠賀川水源地ポンプ室は八幡製鐵所に必要な工業用水を供給する送水施設です。製鐵所から約12kmの位置にある遠賀川の河口から製鐵所に水を送っています。
明治時代の建築に良く見られる煉瓦建造物で、1910年に操業を開始し、動力は蒸気から電気に変わりましたが、現在も稼働中です。
【参考HP】