日本の世界遺産 富士山 信仰の対象と芸術の源泉
1.世界遺産登録基準
富士山は世界遺産リストに「富士山―信仰の対象と芸術の源泉―」という名前で登録されています。
世界遺産リストに登録されるためには、「世界遺産条約履行のための作業指針」に示される登録基準の内、少なくとも1つ以上の基準に合致する必要があります。
富士山は登録基準ⅲ、ⅵを満たし、世界遺産リストに登録されました。
世界遺産基準 ⅲ. の適用について
富士山はその荘厳な姿、また活火山であったことから古くより人々に霊山として畏怖される存在でした。それは日本古来の山岳信仰と結びつき、「富士山信仰」という形で多くの信仰を集めました。その信仰は山麓から拝む遙拝(ようはい)、山頂への登拝(とはい)、山麓の霊地巡礼と形を変えながら、現代にまで引き継がれています。富士山および構成資産群は「富士山信仰」の類まれなる証拠となっています。
この点が基準ⅲ.(文化や文明の証拠となるもの)に該当するとして、評価されました。
世界遺産基準 ⅵ. の適用について
富士山は極めて整った円錐型の成層火山で、その秀麗な姿は古くから芸術作品に登場してきました。中でも19世紀に富士山を主題に描かれた葛飾北斎の「富嶽三十六景」、歌川広重の「東海道五十三次」という浮世絵は日本国内だけでなく、西洋美術にまで影響を与えます。またこれらの芸術作品により、富士山は日本の象徴として世界から認知されることにもなりました。
これらの点が基準ⅵ.(大きな出来事、伝統、宗教、芸術作品などと深い関わりのあるもの)に該当するとして、評価されました。
2.富士山 信仰の対象と芸術の源泉の遺産価値総論
富士山の遺産価値は「日本という国・文化の象徴となっていること」です。
富士山はその均整の取れた美しい形状と噴火を繰り返す恐ろしさから、人々に畏敬されてきました。その畏敬は日本古来の山岳信仰と結びつくことで、富士山=浅間大神(あさまのおおかみ)という形で人々の間に浸透し、様々な形で信仰を仰ぐことになりました。この富士山信仰は紀元前もの昔から現在まで続く日本独特の文化です。
人々に恐れられていた富士山ですが、同時にその美しさは芸術作品・文学作品の対象として人々を魅了してもいます。7世紀後半の万葉集にもその作品が載っていることから、いかに古くから富士山が芸術作品の対象となってきたかが伺えます。19世紀に描かれた浮世絵は日本だけでなく、海外の画家にも衝撃を与え、西洋美術にまで影響を及ぼしました。富士山は世界に誇る日本芸術の源泉であり、日本芸術の象徴となったのです。
このように富士山は日本独特の文化である山岳信仰の対象として、世界的に有名な芸術作品の源泉として、日本という国そのものを示す象徴であると言えるのです。
3.富士山 信仰の対象と芸術の源泉の歴史
富士山にまつわる歴史は数えればきりがありませんが、ここでは山としての富士山の歴史、信仰の対象としての富士山の歴史、芸術の源泉としての富士山の歴史について紹介します。
(1) 山としての富士山の歴史
富士山は現在も活動している活火山です。
富士山が現在の形になったのは今から約2800年~2500年前とされています。史実から読み取れる範囲では、781年に起こった噴火が最古のものとされています。それから約400年間は噴火活動が多く、延暦大噴火、貞観大噴火をはじめとして1083年までに10回ほどの噴火があったとされています。その後の400年ほどは大きな噴火は確認されていません。その後複数回の噴火を経て、1707年に宝永大噴火という大きな噴火が起こります。この噴火により、富士山の西側に宝永山が出来ました。それから現在まで大きな噴火は起きていませんが、今でも噴火の可能性は残っています。
(2) 信仰の対象としての富士山の歴史
富士山は浅間大神(別名・木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと))のご神体として知られています。浅間大神を祀る浅間神社の社記によると、最初に浅間大神が祀られたのは紀元前27年、第11代垂仁天皇によって噴火を鎮めるために祀られた、とされています。その頃は特定の場所ではなく、富士山麓の適所にて祭祀が行われていました。
特定の場所で祭祀が行われるようになったのは日本武尊(やまとたけるのみこと)の時代とされ、その地は山宮(現・静岡県富士宮市)とされています。山宮浅間神社には社殿や本殿がなく、山麓から山頂を仰ぎ見る遙拝という形で信仰されていたことが伺えます。
富士山の噴火が鎮まり始めると、信仰は富士山を登ることでご神徳を拝する登拝という形に変化していきます。1149年、富士山開山の祖とされる末代上人(すえだいしょうにん)が富士山頂に大日寺を建てたことなどから修験者を中心に登拝は広まっていきました。
江戸時代に入ると、長谷川角行(はせがわかくぎょう)という人物によって富士講(ふじこう)と呼ばれる新しい信仰が出来ます。富士講では登拝だけでなく、富士山麓の富士五湖や白糸の滝といった巡礼地を巡ることで信仰をしていました。江戸時代後期の1800年代には富士講は最盛期を迎え、富士登山をする人の数は大いに増えました。
(3) 芸術の源泉としての富士山の歴史
富士山の美しい姿は古くから芸術作品に登場してきました。最も古いと思われるものでは7世紀後半、日本最古の歌集「万葉集」に富士山を題材にした和歌が載っています。その後も「竹取物語」や「古今和歌集」、「伊勢物語」といった作品に登場しており、昔から日本の文化・芸術にとって深い関わりがあったことがわかります。
近代においては、1831年に葛飾北斎の「富嶽三十六景」、1833~34年に歌川広重の「東海道五十三次」にも描かれます。これらの作品は広く海外にも知れ渡り、西洋美術にも影響を与える程の傑作でした。このように富士山は古くから日本人にとって、また海外においても芸術の源泉となる存在なのです。
4.構成資産の概要
富士山の構成資産は静岡・山梨両県にまたがり、全部で25箇所あります。ただし、構成資産の一つ・富士山には9つの遺跡群や登山道などが含まれており、構成要素としては34箇所あります。分類すると富士山で1箇所、山頂の宗教施設群で1箇所、登山道で4箇所、浅間神社で8箇所、御師住宅という富士講信者の世話をする住宅で2箇所、富士五湖で5箇所、忍野八海と呼ばれる涌池で8箇所、溶岩樹形で2箇所、富士講遺跡で1箇所、白糸の滝で1箇所、三保松原で1箇所の計34箇所です。
(1)富士山(富士山域)
「信仰の対象」および「芸術の源泉」となっている富士山そのものです。
信仰の上で重要とされている標高1500m以上の部分が対象であり、以下の9箇所の構成要素を含んでいます。
①山頂の信仰遺跡群
山頂の火口壁に沿って点在する神社などの宗教施設群です。12世紀に末代上人によって建立されたと言われています。
②大宮・村山口登山道(おおみや・むらやまぐちとざんどう)(現・富士宮口登山道)
静岡県富士宮市から富士山の南側を登頂する登山道です。資産の範囲は六合目以上の部分です。12世紀の末代上人の活動をきっかけに開かれました。
③須山口登山道(すやまぐちとざんどう)(現・御殿場口登山道)
静岡県御殿場市から富士山の南東側を登頂する登山道です。資産の範囲は標高2080m以上の部分と信仰の対象であった須山御胎内(すやまおたいない)周辺部分です。起源は明確にはなっていませんが、1486年にはその存在が確認されています。1707年の宝永大噴火により壊滅的な被害を受けましたが、1780年に復興し、江戸時代後期には江戸からの登山客により栄えました。
④須走口登山道(すばしりぐちとざんどう)
静岡県小山町にある冨士浅間神社を起点に富士山の東側を登頂する登山道です。八合目で吉田口登山道と合流します。資産の範囲は五合目以上の部分とされています。1384年の記念銘が入った懸仏(かけぼとけ)などが見つかっていることから、そのころには開かれていたものと推測されます。1707年の宝永大噴火により壊滅的な被害を受けますが、翌年には復興され多くの登山客に利用されてきました。
⑤吉田口登山道(よしだぐちとざんどう)
山梨県富士吉田市の北口本宮冨士浅間神社を起点に富士山北側~東側を登頂する登山道です。八合目で須走口登山道と合流します。資産の範囲は登山道の全区間です。遅くとも13~14世記には修験の拠点が形成されていたとされています。富士講信者の間では登山本道とされており、18世紀以降は一般利用者数が最も多い登山道です。
⑥北口本宮冨士浅間神社(きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ)
山梨県富士吉田市にある浅間大神が祀られている神社です。約1900年前に日本武尊が祠を建てて祀ったことが始まりとされています。17世紀後半には富士講の寄進により境内が整備され、その壮観な様子は現在にまで残されています。
⑦西湖(さいこ)
西湖は富士五湖(ふじごこ)の一つで、山梨県の富士河口湖町に位置します。富士五湖とは富士山の北側に位置する5つの湖の総称で、5つとも国の名勝に指定されています。どの湖においても逆さ富士が有名です。
西湖は青木ヶ原樹海(あおきがはらじゅかい)に囲まれ神秘的な雰囲気があり、水行の場としても有名です。
⑧精進湖(しょうじこ)
精進湖は富士五湖の一つで山梨県の富士河口湖町に位置します。
大きさは最も小さいですが、景色が綺麗で明治期には海外で「東洋のスイス」として紹介されていた程です。
⑨本栖湖(もとすこ)
本栖湖は富士五湖の一つで山梨県の富士河口湖町に位置します。
本栖湖の景観は富士五湖の中でも特に優れており、本栖湖からの逆さ富士は紙幣にも使われています。
(2)富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)
静岡県富士宮市にある浅間大神を祀った「浅間神社」の総本宮です。
806年に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によって山宮浅間神社の地から現在地に遷座(せんざ)したとされています。1223年には社殿が造営、1606年には徳川家康により現在の本殿などが造営されたとされています。境内には富士山の湧水を水源とする湧玉池(わくたまいけ)があり、道者が富士登山を行う前にはここで水垢離(みずごり)を行っていました。
(3)山宮浅間神社(やまみやせんげんじんじゃ)
静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間大社の前身とされている神社です。正確な起源は不明ですが、日本武尊により創建されたと伝えられています。遙拝所のみで本殿などの建築物はなく、古来の遙拝による祭祀(さいし)の在り方を示しているとされています。
(4)村山浅間神社(むらやませんげんじんじゃ)
静岡県富士宮市にある富士山修験道の中心地となっていた場所です。明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こるまで興法寺(こうぼうじ)という寺院もありました。創建は不明ですが、14世紀初頭には興法寺の僧により富士山における修験者が組織化されていました。
(5)須山浅間神社(すやませんげんじんじゃ)
静岡県裾野市にある須山口登山道の起点となっている神社です。
日本武尊が創建されたと伝えられており、少なくとも1524年には存在していたことが確認されています。1707年の宝永大噴火により被害を受け、1823年に現在の本殿が再建されました。
(6)冨士浅間神社(ふじせんげんじんじゃ)(須走浅間神社(すばしりせんげんじんじゃ))
静岡県小山町にある須走口登山道の起点となっている神社です。
788年に甲斐国主の紀豊庭(きのとよひろ)朝臣により建立されました。1707年の宝永大噴火により本殿が崩壊してしまいましたが、1718年に再建されています。現在の社殿は1733~1738年にかけて造営されたものです。江戸時代後半には富士講の信者が多く立ち寄りました。
画像:冨士浅間神社
(7)河口浅間神社(かわぐちあさまじんじゃ)
山梨県の富士河口湖町にある富士山北麓側に初めて建立されたとされる浅間神社です。
9世紀後半の噴火を契機に建立され、今でも富士山と密接に結びついた行事が行われています。
画像:一般社団法人富士五湖観光連盟 富士五湖ぐるっとつながるガイド
(8)冨士御室浅間神社(ふじおむろせんげんじんじゃ)
山梨県の富士河口湖町にある神社で、富士山中にある神社の中で最も早く祀られたとされています。699年に富士山の二合目に本宮(もとみや)が奉斎(ほうさい)されましたが、自然環境の厳しさから保存が難しく、1974年に里宮(さとみや)とされる現在地に遷祀(せんし)されました。
画像:一般社団法人富士五湖観光連盟 富士五湖ぐるっとつながるガイド
(9)御師住宅(おしじゅうたく)(旧外川家住宅(きゅうとがわけじゅうたく))
御師は富士講信者の登拝時に宿や食事の世話をしたり、富士山信仰の布教や祈祷を行ったりしていた人を指します。旧外川家住宅は山梨県富士吉田市にあり、御師住宅の中では最も古い屋敷で、1768年に建造されました。国の重要文化財にも指定されています。
画像:一般社団法人富士五湖観光連盟 富士五湖ぐるっとつながるガイド
(10)御師住宅(小佐野家住宅(おさのけじゅうたく))
小佐野家住宅は山梨県富士吉田市にある御師住宅です。1861年に建設され、御師住宅の宿坊としての形態を伝える貴重な資産となっています。国の重要文化財にも指定されています。
画像:富士吉田市観光ガイド
(11)山中湖(やまなかこ)
富士五湖のうちの一つで山梨県の山中湖村に位置しています。
富士五湖の中で最大の大きさを誇り、マリンスポーツや釣りなどのメッカとなっています。
(12)河口湖(かわぐちこ)
富士五湖のうちの一つで山梨県の富士河口湖町に位置しています。
富士五湖の中で最も長い湖岸線を持ち、春の桜や初夏のラベンダー、秋の紅葉など景勝地が多い湖となっています。
(13)忍野八海(おしのはっかい)(出口池(でぐちいけ))
忍野八海は山梨県の忍野村にある富士山の伏流水による八つの湧水地(ゆうすいち)です。昔から「神の泉」として崇められ、いくつもの伝説が語り継がれてきました。富士山信仰の巡礼地でもあり、富士講信者や道者は忍野八海の湧水で身の穢れを祓ってから富士登拝をしていました。現在は保全状況や景観の良さなどから国の天然記念物に指定されています。
出口池は忍野八海最大の池で富士登山を目指す行者たちからは「清浄な霊水」と呼ばれていました。
(14)忍野八海(お釜池(おかまいけ))
お釜池は忍野八海の中で最小の池です。釜の中で熱湯が沸騰するように涌出することから名づけられました。また、ガマガエルが娘を引きずり込んだという伝説があり、「大蟇池(おおがまいけ)」とも呼ばれています。
(15)忍野八海(底抜池(そこなしいけ))
底抜池は楕円形の浅い池で、池底には泥が厚く堆積しており深さは不明です。この池に物を落とすとそこを通り抜けお釜池に浮かび上がると言われており、そこから底抜池になったと言われています。
(16)忍野八海(銚子池(ちょうしいけ))
長柄の銚子に似ていることから銚子池と名づけられました。若い花嫁が身を投げたという伝説が残っています。
(17)忍野八海(涌池(わくいけ))
涌池は湧水量が豊富で、景観が美しい忍野八海を代表する池です。木花開耶姫(このはなさくやひめ)により涌出したという伝説が残っています。
(18)忍野八海(濁池(にごりいけ))
濁池は本当に濁った池というわけではなく、「行者が一杯の水を断ったとたんに池が濁った」という由来があるため濁池と呼ばれています。実際に濁っている箇所もありますが、全体的に清く澄んでいます。
(19)忍野八海(鏡池(かがみいけ))
鏡池は風のない時には富士山が綺麗に映るため、この名がつけられました。この池には事の善悪を見分ける霊力があるという伝説が残っています。
(20)忍野八海(菖蒲池(しょうぶいけ))
菖蒲池は細長い形の池で周囲には大きな菖蒲が生息しています。この菖蒲を巻くと病気が治るという伝説が残っています。
(21)船津胎内樹型(ふなつたいないじゅけい)
樹木をまるごと取り込んだ溶岩が固化することで出来る洞穴は溶岩樹型と呼ばれます。その溶岩樹形のうち、内部の形態が人間の内臓をくり抜いたように見えるものは「御胎内(ごたいない)」と呼ばれ、信仰の対象となりました。
船津胎内樹型は山梨県の富士河口湖町にあり、長谷川角行が17世紀初頭にその一部を発見し、内部に浅間大神を祀ったとされています。
画像:一般社団法人富士五湖観光連盟 富士五湖ぐるっとつながるガイド
(22)吉田胎内樹型(よしだたいないじゅけい)
吉田胎内樹型は937年の富士山噴火の際に出来た山梨県富士吉田市にある溶岩樹形です。いくつもの樹木が重なり複雑な樹型となっており、女性の胎内に例えられています。国の天然記念物にも指定されています。
画像:富士吉田市観光ガイド
(23)人穴富士講遺跡(ひとあなふじこういせき)
人穴富士講遺跡は静岡県富士宮市にあり、富士講の開祖とされる長谷川角行が入定したとされる聖地です。長さ83mの溶岩洞穴「人穴」があり、「吾妻鏡」によれば「浅間大菩薩の御在所」とも記されています。富士講信者の信仰が篤く、供養碑や記念碑などの碑塔が200基以上存在します。
(24)白糸の滝(しらいとのたき)
白糸の滝は静岡県富士宮市にある富士山の湧水による滝です。数百条の白糸が垂れているように見えることからその名がつきました。長谷川角行が水行を行った地とも言われています。景勝地としても有名で源頼朝が作った和歌の題材にもなっています。
(25)三保松原(みほのまつばら)
静岡県静岡市に位置する駿河湾に面した砂浜で、約35000本の松林に覆われた景勝地です。多くの和歌の題材となったほか、「羽衣伝説」の舞台としても有名です。15世紀以降は三保松原を含んだ富士山の構図が富士山画の典型となり、日本人のイメージする富士山として定着しました。
【参照HP】
世界遺産 富士山とことんガイド 遙拝と登拝
世界遺産 富士山とことんガイド 絵画に見る富士山
世界遺産 富士山とことんガイド 構成資産について