琉球王国のグスク及び関連遺産群 日本の世界遺産

世界遺産_沖縄 琉球王国のグスク及び関連遺産群

1.登録基準

沖縄の首里城を始めとした城塞建築群は世界遺産リストに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」という名前で登録されています。

世界遺産リストに登録されるためには、「世界遺産条約履行のための作業指針」に示される登録基準の内、少なくとも1つ以上の基準に合致する必要があります。

琉球王国のグスクは登録基準ⅱ、ⅲ、ⅵを満たし、世界遺産リストに登録されました。

基準 ⅱ.(人類の価値観の交流があったことを示すもの)の適用について

琉球王国は数世紀にわたり、東南アジア・中国・朝鮮・日本の経済的・文化的交流の中心地として存在した独立王国でした。個々の構成資産は、琉球王国がこれらの国々の影響を受けながら独自に発展してきた様子を示しています。

この点が登録基準ⅱ.に該当するとして、評価されました。

基準 ⅲ.(文化や文明を証明する珍しい証拠となるもの) の適用について

琉球王国の文化は農村集落からのし上がった豪族(按司(あじ))を中心としたものでした。

構成資産の中のグスク(琉球列島全域に分布する石垣囲いの施設)群は、この按司を中心とした社会環境の中で独特の進化をしたかつての琉球社会の様子を表す遺産です。

また、グスクは今も続く琉球文化の特徴である自然や先祖への崇拝と祈願をするための中心的施設として、今なお各地域住民の心の拠り所になっています。

この点が登録基準ⅲ.に該当するとして評価されました。

基準 ⅵ.(大きな出来事、伝統、宗教、芸術作品などと深い関わりのあるもの) の適用について

構成資産は、琉球地方の信仰思想の特徴をよく表しています。構成資産の一つである斎場御嶽(せいふぁうたき)は琉球国家を代表する聖域で、琉球独特の自然崇拝的な信仰思想に深く関係しています。

その他の構成資産についても各グスクなどには聖域としての役割を持つものが多く、今なお様々な宗教儀礼が行われており、住民の生活や精神の中に琉球地方特有の信仰思想が生き続けています。

また、これらの資産群は第二次世界大戦で被った被害から沖縄県民が復興するうえでも、地域住民の重要な精神的拠り所となってきました。

この点が登録基準ⅵ.に該当するとして、評価されました。

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2.遺産価値総論

琉球王国の遺産群の遺産価値は「琉球地方の独特な歴史・文化の象徴」です。

(1)独特な歴史

琉球地方には10~12世紀頃から集落や国家のようなものがあったとされています。その後、農耕生産の発展や外国との貿易を経て経済的な発展を遂げ、14世紀頃、「北山(ほくざん)」、「中山(ちゅうざん)」、「南山(なんざん)」と呼ばれる3つの小国家へとまとめられました。

1429年には、尚巴志(しょうはし)という人物によって琉球統一が成し遂げられ、東アジア・中国・朝鮮・日本との交易の中心地として栄えることになります。

琉球王国として平和な時代が続きましたが、皮肉にもその平和な時代が仇となり、琉球王国は戦う力を失っていきました。その結果、1609年の薩摩藩の侵攻に耐えることが出来ず、日本の支配下に置かれることになります。

その後、表向きには琉球王国の名を冠していましたが、1879年の廃藩置県により沖縄県となり、琉球王国としての歴史は幕を閉じました。

このように、日本や中国、東南アジア諸国の影響を受けながら、独立国家を築いた歴史を持つ地域は他にはありません。構成資産群にもその歴史の一端を垣間見ることができます。

(2)独特な文化

上述の通り、独自の歴史を築いてきた琉球地方では日本とも中国とも異なる独特の文化があります。例えば城塞建築においては、グスク跡に見られる技術的にも芸術的にも高度な石の加工技術や石積み技術があったことがわかります。

また信仰思想についても、自然崇拝、先祖崇拝を基盤として、「海の彼方には『ニライカナイ』と呼ばれる神の国がある」とする独自の信仰が今なお根付いています。構成資産群もこれらの文化的特徴をよく表しています。

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3.歴史

琉球王国の歴史は大きく5つに分けられます。

(1)グスク時代(12~14世紀頃)

琉球地方では10~12世紀頃には農村集落があったとされています。そんな琉球王国の歴史上、最初に現れた王は1187年に即位した舜天(しゅんてん)王という人物でした。舜天王は琉球に逃れた源為朝(みなもとのためとも)の子孫であるという伝説もありますが、その真偽は定かではありません。

続いて、1260年には英祖(えいぞ)王という人物が、1350年には察度(さっと)王と言う人物が即位しました。察度王は初めて中国貿易を行った人物とされています。これらの人物は王とされていますが、あくまで一地方の勢力に過ぎず、琉球王国全体を統治する王ではありませんでした。

これと同時期の12~14世紀頃、「按司(あじ)」と呼ばれる豪族たちが各地で勢力を拡大し、琉球地方は群雄割拠の時代に突入します。この時代は按司が居住と防衛の為に多くのグスクを築いた時代であり、特に力を持った有力按司は巨大グスクを築きました。

その後、各地で勢力がまとまり、大きく三つの小王国に分かれることになります。琉球三山(さんざん)対立の始まりです。

(2)琉球三山時代(14~15世紀頃)

三山というのはこの時代に琉球に存在した北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)という三つの小王国のことです。

各国の拠点となったグスクは北山が今帰仁城(なきじんじょう)、中山が首里城(しゅりじょう)、南山が島添大里城(しましいおおざとじょう)でした。

この三山対立時代は100年以上も続きましたが、1406年に現れた中山の尚巴志(しょうはし)という人物によって、終わりを迎えることとなります。

尚巴志は1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼして琉球統一を果たしました。

(3)琉球王国時代(1429~1609年)

琉球王国は約200年もの間続きますが、大きく2期に別れます。最初が琉球統一を果たした尚巴志の一族が王を務めた第一尚氏王統の時代、次がクーデターにより第一尚氏王統に取って代わった第二尚氏王統の時代です。第二尚氏王統は同じ尚氏ですが、第一尚氏王統とは全く異なる一族です。

①第一尚氏王統時代(1429~1469年)
第一尚氏王統の時代は王が激しく入れ替わった時代でした。なんと40年の間に7代もの王が即位したのです。

その間に起きた大きな事件の一つが護佐丸(ごさまる)・阿麻和利(あまわり)の乱です。護佐丸は座喜味城(ざきみじょう)、中城城(なかぐすくじょう)の城主、阿麻和利は勝連城(かつれんじょう)の城主で、共に大きな力を持った有力按司でした。

1458年、当時の琉球王・尚泰久(しょう たいきゅう)を倒し、琉球王国の王位に就こうと目論んだ阿麻和利は、琉球王を護るために座喜味城から中城城城主に任命された護佐丸を滅ぼします。

次いで琉球王の居城である首里城にも侵攻しますが、王府軍に返り討ちに遭い滅ぼされてしまいます。これにより琉球王府を脅かす勢力は無くなりました。

ところが1469年、別の大きな事件が起こります。この年、第7代王・尚徳(しょうとく)が亡くなったためにその後継者を選んでいたところ、クーデターが起こったのです。

「尚徳の子は後継者に相応しくない」という者が現れ、それを機に暴動が起こり、王の一族が殺されてしまいました。この事件により第一尚氏王統は終わりを迎えました。

②第二尚氏王統(1469~1609年)
クーデターにより、新しい王となったのは第一尚氏王統・第六代王の尚泰久の側近であった金丸(かなまる)と言う人物でした。

金丸は尚円(しょうえん)と名を変え、第二尚氏王統の初代王になります。これが第二尚氏王統の始まりです。

第二尚氏王統が始まってから大きな変化が訪れたのは1477年、第三代王・尚真(しょうしん)が即位してからです。

尚真は施政者としての手腕を発揮し、構成資産にもなっている玉陵(たまどぅん)や園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)などを築いて城下を整備、東南アジア・中国・朝鮮・日本などの貿易を盛んにするなどし、独立国家として平和で豊かな時代を築き上げました。

この平和な時代はおよそ100年続きますが、1609年薩摩藩に侵攻を受け、琉球王国としての時代は終わりを告げました。

(4)日本支配下時代(1609~1879年)

琉球王国は尚真王のもと平和な時代を迎えることが出来ましたが、皮肉なことに平和な時代だったために戦う力を失い、1609年の薩摩藩の侵攻の際はほぼ無抵抗に近い状態で首里城は陥落してしまいました。

薩摩藩は琉球と海外の貿易による利益に着目し、実質的には完全に琉球を支配していたものの、琉球王国の名は残し、貿易を続けさせました。

江戸時代の間はその状態が続きますが、明治政府に変わった後は1872年に琉球藩に、1879年に沖縄県となり、完全に日本国の一部となりました。

(1872~1879年にかけて琉球王国→琉球藩→沖縄県になった一連の流れを琉球処分と言います。)

(5)沖縄県時代(1879年~)

日本の一部となってからも沖縄県には様々な出来事が起こります。第二次世界大戦中には、那覇市は空爆を受け、沖縄島は地上戦の戦場となり、著しい人的・物的被害を受けました。

終戦後の沖縄の施政権は米国に渡り、多くのアメリカ軍基地が置かれるなどの様々な苦労を抱えることになります。その後、1972年になってようやく沖縄の施政権は日本に返還されました。

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4.遺産の概要

琉球王国のグスク及び関連資産群の構成資産は以下の9資産です。

(1)玉陵(たまどぅん)

玉陵

玉陵は那覇市にある琉球王国の王の陵墓(りょうぼ)(皇族の墓)です。第二代尚氏王統・第三代王の尚真によって、父であり第二尚氏王統・初代王である尚円を祀るために1501年に築かれました。

玉陵は琉球地方の伝統的な「破風墓(はふばか)」という形態を採っており、人家をかたどった石造の墓堂になっています。

墓堂は東室、中室、西室の3墓室が連なる形で建てられており、16世紀の琉球独自の石造記念構造物デザインが残る貴重な事例となっています。

(2)園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)

園比屋武御嶽石門

園比屋武御嶽石門は那覇市にある園比屋武御嶽という聖域への入り口の門です。園比屋武御嶽は、首里城守礼門(しゅれいもん)をくぐった左手にある森で、琉球国家の精神的な拠り所とされ、国家の安寧祈願などが行われた場所です。

玉陵と同じく尚真によって、1519年に創建されました。この石門は日本と中国、双方の様式を取り入れた琉球独特の石造建造物で、木造建築様式にある飾り板などが意匠として石造に彫り込まれています。

※御嶽…琉球信仰における祭祀などを行う施設

(3)今帰仁城跡(なきじんじょうあと)

今帰仁城跡

今帰仁城跡は国頭郡今帰仁村(くにがみぐん なきじんそん)にある三山時代の北山を治めていた国王の居城跡です。13世紀末頃から築城が始まり、現状に近い形になったのは14~15世紀初期頃とされています。

自然の地形に沿って美しい曲線を描く城壁は自然の石をそのまま積み上げる「野面(のづら)積み」で積み上げられ、造形的にも非常に優れています。

城壁は高さ3~8m、厚さ平均3m、総延長約1500mに及び、グスク跡の大きさは首里城跡に次ぐ大きさです。

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(4)座喜味城跡(ざきみじょうあと)

座喜味城跡

座喜味城跡は中頭郡読谷村(なかがみぐん よみたんそん)にある城跡です。1422年に有力按司であった護佐丸によって築かれたもので、北山の勢力を見張るために建てられたとされています。

国王の居城である首里城と迅速な連絡を取れるよう、首里城が良く見える高台の頂上に築城されており、琉球王国成立初期の国家勢力の安定に重要な役割を果たしました。沖縄に現存する最古のアーチ式の門が特徴であり、最も美しい城とされています。

また、城内には政治の安定を願う守護神を祀る拝所(はいしょ)が残っており、今でも地域住民の信仰を集めています。

(5)勝連城跡(かつれんじょうあと)

勝連城跡

勝連城跡は中頭郡勝連町(かつれんちょう)にある城跡で、琉球王国の有力按司・阿麻和利が住んだ城です。

築城は13世紀頃とされ、沖縄の世界遺産に登録されているグスクの中では最も古い城跡です。このグスクは四方に展望がきき外敵をいち早く発見できる場所にあり、南側には良港も近いなど、非常に良好な立地条件を備えています。

(6)中城城跡(なかぐすくじょうあと)

中城城跡

中城城跡は中頭郡中城村(なかぐすくそん)・北中城村(きたなかぐすくそん)にある城跡で、座喜味城主であった護佐丸が住んでいた城です。

護佐丸は座喜味城主でしたが、琉球王府の打倒を狙っていた勝連城主の阿麻和利を牽制するために国王の命令により中城城に移り住みました。

築城は14世紀後半頃とされていますが、15世紀中頃には護佐丸によって拡張されています。沖縄の城の中では最も原型をとどめています。

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(7)首里城跡(しゅりじょうあと)

首里城跡

首里城跡は那覇市にある城跡で、三山時代は中山王が、琉球王国時代(1429~1879年)は歴代国王が住んでいた城です。14世紀中期~後期に建設され、琉球王国の政治・外交・文化の中心的役割を果たしました。

首里城城内は西向きの正殿に対して、北殿、南殿、奉神門(ほうしんもん)がロの字を描くように建っており、その中心には御庭(うなー)と呼ばれる儀式の場があります。城壁は高さ6~11m、厚さ平均4m、総延長は1080mに及び、地形に合わせた曲線を描いています。石積みには各段の高さを水平にそろえた「布(ぬの)積み」と、石材を加工し、自然にかみ合う様にした「相方(あいかた)積み」が混在しています。

戦前、正殿は国宝に指定されていましたが、第二次世界大戦によって焼失してしまいました。現在ある首里城は1989~1992年に再建されたもので、世界遺産に登録されているのは城壁と建物の地下遺構のみとなっています。

(8)識名園(しきなえん)

識名園

識名園は那覇市にある王家の別邸です。1799年に造営され、王族の保養の場として使われただけでなく、中国皇帝の使者を接待する場としても利用されていました。

庭園は廻遊式になっており、17~18世紀の日本庭園や中国の影響も見られますが、全体的な庭園の意匠や構成は琉球独自のものとなっています。

第二次世界大戦で大きな被害を受けたため、1975~1996年まで大掛かりな修復工事が行われていました。

(9)斎場御嶽(せいふぁうたき)

斎場御嶽

斎場御嶽は島尻郡知念村(しまじりぐん ちねんそん)にある琉球王国時代の聖地で、国の大切な神事などが行われていました。創設年代は不明ですが、15世紀前半には国王が斎場御嶽へ巡幸していたことがわかっています。

琉球王国は祭祀(さいし)(神事)と政治を一体化する祭政一致(さいせいいっち)を基本としており、政治は男性が、祭祀は女性が担当していました。斎場御嶽は王族の女性が務める神職の最高位「聞得大君(きこえのおおきみ)」との関係が深い格式の高い御嶽で、国家的祭祀の場として重要な役割を果たしました。

斎場御嶽内には「三庫理(さんぐーい)」、「大庫理(うふぐーい)」、「寄満(ゆいんち)」といった拝所があります。

【参考書籍】

すべてがわかる世界遺産大辞典(上)(世界遺産検定事務局)

【参考HP】

UNESCO World Heritage centre

世界遺産一覧表 推薦概要(文化庁)

日本の世界遺産 琉球王国のグスク及び関連遺産群

世界文化遺産オンライン 琉球王国のグスク及び関連遺産群

沖縄の世界遺産

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