飛鳥時代の暮らし、白鳳文化
飛鳥時代は日本で初めて女性の天皇である推古天皇が登場し、日本で最初の冠位制度が制定され、乙巳の変、大化の改新を経て、天武・持統天皇の時代に中央集権国家の形成が完成に近づきました。またその過程で、初唐文化の影響を受けた白鳳文化が広がりました。
飛鳥時代は日本で初めて女性の天皇である推古天皇が登場し、日本で最初の冠位制度が制定され、乙巳の変、大化の改新を経て、天武・持統天皇の時代に中央集権国家の形成が完成に近づきました。またその過程で、初唐文化の影響を受けた白鳳文化が広がりました。
律令体制下における人民の支配を末端にまで広げるために、全国の人民を戸籍・計帳に登録し、登録された人民には一定の農地を与えることで、人民の生活を最低限保障しました。そしてその一方で、与えた土地に対し一定割合の収穫物を国家に収めさせたり、労役を提供させることで国家財政や国家運営を維持しました。ここでは、国家によ人民へ土地を分け与える班田、また税として一定の産物を収受する土地制度(班田収授法)、租税制度について説明します。
天武天皇と持統天皇の孫にあたる文部天皇(もんむてんのう、683年~707年、在位697年~707年)の時代、701年に日本最初の律令となる大宝律令(たいほうりつりょう)が制定され、中央集権国家体制の完成を見ることになります。これによりヤマト政権が目指してきた本格的な律令政治の段階に入っていきました。ここでは大宝律令制定による統治体制や司法制度(刑法)について紹介していきます。
663年の白村江の敗戦を機に中大兄皇子による唐や新羅に対する国防の強化、近江への遷都、天智天皇の即位、日本最初の令(りょう) の近江令や戸籍(庚午年籍)を作り中央集権体制を進めていきますが、671年に天智天皇が崩御すると、翌年の672年に朝廷内で争いが起きます。天智天皇の子である大友皇子(おおとものみこ)と天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)との皇位継承をめぐる戦いです(壬申の乱(じんしんのらん))。この争いは、各地の兵力を結集した大海人皇子の勝利に終わり、大海人皇子は都を飛鳥に戻し、天武天皇として即位します。そして、天皇の権力を強め、天皇中心の中央集権国家へと推し進めます。ここでは、壬申の乱、天武天皇及びその意志を引き継いだ持統天皇による中央集権化のための事業・政策について紹介していきます。
改新の詔の発令後、政府は中央集権体制を強化していきます。その中でも、最も中央集権体制をつよめるきっかけとなったのが白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦いです。ここでは改新の詔から後の日本の動きと白村江の戦い、そしてその後の変化について紹介します。
聖徳太子が中央集権国家の礎を築いた後、中大兄皇子と中臣鎌足によって行われた大化の改新によって、日本はさらに中央集権体制を強めます。ここでは大化の改新に至るまでの蘇我氏(蘇我蝦夷・入鹿)の専横、乙巳の変、孝徳天皇、中大兄皇子、中臣鎌足による新政権の樹立、改新の詔を紹介します。
乙巳の変とは、645年に中大兄皇子、中臣鎌足ら複数の宮中関係者により、大臣として当時の政権で権力をふるっていた蘇我入鹿を宮中で暗殺し、入鹿の父親の蘇我蝦夷を自害に追いこんだ政変のことをいいます。この乙巳の変により一部の蘇我一族は残ったものの蘇我宗家は滅亡し、一族は衰退の一途をたどり結果的には蘇我一族は滅んでしまいます。そして、乙巳の変が起こるまで権力をふるっていた蘇我氏に代わり朝廷の実権を握った中大兄皇子は皇太子となり、内臣(うちつおみ/ないしん)となった中臣鎌足とともに孝徳天皇のもとで豪族の田荘(たどころ)、部曲(かきべ)を廃止して公地公民制への移行を目指す改新の詔を発布(646年)します。この646年に発布された改新の詔がもとになる『公地公民』や『班田収受の法』、『租・庸・調などの税制』など一連の政治制度改革のことを大化の改新といいます。1985年以前に生まれた方は、645年の乙巳の変を大化の改新と歴史の授業で習いましたが、歴史は考古学調査などで新たな発見があれば、内容も変わっていきます。1985年以前に生まれた方は大化の改新をそのまま乙巳の変に置換えてください。なお乙巳の変の読み方は『いっしのへん』の他、『いつしのへん』『おっしのへん』とも読まれたりします。これらはどれも間違いではなく、学者や書物によって言い方が違うだけであり統一されていないだけです。
邪馬台国(やまたいこく)は、弥生時代である紀元3~4世紀ごろに、日本列島の「どこか」にあったとされている国です。様々な資料や遺跡の発掘成果から、その概要は少しずつ判明しつつありますが、まだ多くの謎が残されています。ここでは、邪馬台国の位置について、どのような意見が出ているのかを説明します。
飛鳥時代 摂政(幼帝・女帝に代わってすべての政務をとる職)となった聖徳太子は推古天皇と蘇我馬子とともに、先進的な政治制度を導入し、天皇を中心とした中央集権体制国家の礎を築きました。ではどのようにして、その礎を築いたのでしょうか?これを知るために、聖徳太子が行ってきた実績を見ていくことにします。
飛鳥時代とは、飛鳥に宮都が置かれていた592~710年までの期間のことです。飛鳥というのは現在の奈良県高市郡(たかいちぐん)明日香村(あすかむら)周辺の地域です。厳密には飛鳥時代の中で、大阪の河内地方や滋賀の大津地方などに宮都が移動したこともありましたが、この592~710年を飛鳥時代とするのが一般的です。飛鳥時代は日本国内で初めて、天皇を中心とした中央集権国家としての形が完成した時代でもあります。大きく分けると、以下の4つの段階に分けられます。①聖徳太子によって先進政治の導入が行われた時期②大化の改新によって国政の改革が行われた時期③白村江(はくそんこう、はくすきえ)の戦いをきっかけにして国政が強化された時期④大宝律令(たいほうりつりょう)の制定によって中央集権国家としての体制が確立。このような段階を経て、日本は国家としての体制を整えていきました。