飛鳥寺の歴史、伽藍配置、大仏・仏像(釈迦如来像)、御朱印など

飛鳥寺の歴史的背景・建てた人、伽藍配置、大仏・仏像(釈迦如来像)、御朱印、

古代の朝廷が都と定め、政治を行う中心地としていた奈良・京都の地には、数多くの古刹(こさつ)が立ち並びます。その中でも、日本において歴史の最も古い古刹が飛鳥寺です。

現在は真言宗豊山派に属する寺院で、本元興寺(ほんがんごうじ)、安居院(あんごいん)とも呼ばれています。
日本で最初の本格的な仏教寺院として蘇我馬子により創建された蘇我氏の氏寺でもあります。

創建当時の伽藍は過去の火事などで焼失し今に残っておらず、現存する伽藍は近代に復旧されたものです。創建当時のもので現存するものとしては、本尊である飛鳥大仏と呼ばれる釈迦如来坐像があり、約1400年経った今でも重要文化財として飛鳥寺に安置されています。

ここでは、日本最古の仏教寺院である飛鳥寺にまつわる歴史と、現存する伽藍の詳細について紹介します。

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飛鳥寺創建の歴史的背景

開基(建てた人)

飛鳥寺は596年に蘇我馬子により創建された、日本最古で最初の本格的な伽藍配置を持つ大寺院です。また、日本最古の大仏となる釈迦如来像(※)を安置した寺院でもあります。日本書紀では、仏教伝来は552年ですので、仏教伝来から本格的な仏教寺院が創建されるまでに約40年かかったことになります。

※飛鳥時代を代表する仏師であり日本で最初の僧侶である徳斉法師(とくさいほうし)になったと伝えられている鞍作止利(くらつくりのとり(鞍作鳥))により造られ618年に完成、し中金堂に安置され、約1400年の歴史を持ちます。

しかし当時の日本では、神道が信仰されていたため、仏教は、渡来人や蘇我氏などの一部の限られた人々にだけ信仰されました。そのため仏教について、豪族の中には良く思わない人もあり、仏教を排除しようとする動きがありました。

仏教が伝来した552年は29代欽明天皇(きんめいてんのう、509年~571年、在位539年~571年)の時代です。朝廷は大連(おおむらじ)の物部氏と大伴氏、大臣(おおおみ)の蘇我氏により政権運営されていました。大伴氏は百済政策の失敗により失脚し、政権は大連の物部氏と大臣の蘇我氏によって運営されるようになります。そのような中、仏教が伝来し、仏教を擁護する蘇我氏と排斥しようとする物部氏で対立が起こったのでした。

30代敏達天皇(びだつてんのう、538年~585年、在位572年~585年)の時代に疫病が流行りますが、疫病が流行ったのは仏教の影響と物部氏は天皇に進言し、物部氏は天皇の許可を得て仏像を処分します。しかしその後、敏達天皇自身が疫病にかかり崩御してしまいました。

続く31代用明天皇(ようめいてんのう、~587年、在位585年~587年)は、皇位継承前より崇仏派であり、仏法を重んじていた天皇でした。その背景には、外祖父が蘇我稲目であり蘇我氏の流れを汲んでいたこと、また身体が弱く健康面で問題を抱えていたことなどがあります。そのようなことから、仏教に帰依することを宣言した最初の天皇であり、ここから国家による仏教保護を行う流れが起こり、広く国内に浸透するようになりました。

そのような中、587年に蘇我馬子が寺院建立を用明天皇に発願しますが、同年4月に用明天皇が崩御し、皇位継承をめぐり大臣の蘇我馬子と大連の物部守屋が対立しました。

この皇位継承に絡んだ争いの中、用明天皇の皇子であった厩戸皇子は勝利祈願として白膠木(ぬるで)の木で作られた四天王像に対し、勝利を得たなら四天王をお祀りする四天王寺を建て、生涯をかけて生きとし生けるものの救済に務めることの誓いをたてました。馬子も同様に勝利したら法興寺を建立し仏教を人々に広め仏教の教えである救済を行うと誓いました。

そうして物部守屋らに勝利を治め、馬子は発願のままに法興寺建立を進め、厠殿皇子は、四天王寺のほか、法隆寺(斑鳩寺)などを創建するなど、飛鳥文化と呼ばれる国内最初の仏教文化を広げるきっかけを作りました。

物部氏に勝利した翌年の588年、百済より僧と寺工など寺の建立に必要な技師と共に、塔に納める仏舎利が届きました。そして588年の造営開始から5年後の593年、塔の心柱部分が完成し仏舎利が納められます。

この塔は、元々はお釈迦様のお墓の意味合いを持つ建物で、礼拝や信仰の対象となった建物だったため、塔にはお釈迦様の遺骨である仏舎利を安置するようになっていました(仏舎利ですが、仏陀の遺骨にも限りがあることから、各地に建てられた全ての塔に安置することは不可能なため、玉藻などを仏舎利として納めるようになりました。)。

そしてこの塔の外観部分含め3年後の596年に飛鳥寺の塔は完成し、さらに金堂など敷地内の建物は長い年月の中で順に作られていったとされています。

法興寺時代

当時、飛鳥寺は法興寺(ほうこうじ)という名前の寺院でした。法興寺には中門から回廊が設置され、その内部に塔を中心として北、西、東の三方に金堂が設置される珍しい配置となっていました。本尊の釈迦如来像は北側の中金堂に安置されていました。

中門はそれ以降の歴史においても回廊の南中央に設けられる門で、三門とも呼ばれます。宗派によっては本堂を生死を越えた悟りの境地に至った涅槃に擬して、その境地に至る入口という意味で重要な意味を持つ門にもなっています。

創建当時の寺の敷地は、東西約200m、南北には約300mというとても広い敷地だったと調査の結果わかっています。
この広大な寺院を作った背景には、物部氏を排除したばかりで仏教の拡大と蘇我氏の朝廷での権力拡大を進める時期であったことから、蘇我氏の氏寺としてその大きさから皇族、豪族、民衆に権力を誇示し畏服させる必要があったからでした。

この伽藍造営には、百済から多くの技術者が招聘され、瓦の製作、塔やお堂などの建設に係わりました。このときに法興寺の建設に係わった人たちは、その後の色々な寺院建築に関わっていき、さらにその弟子たちも技術を身につけていったことによって、全国に寺院造園の技術が広がっていくきっかけにもなりました。

法興寺が完成すると、仏教は当時の支配者層である豪族に急速に広がりを見せ浸透していきます。法興寺はその中心にあり、聖徳太子の師である高句麗の高僧恵慈(えじ)や、完成時に来日した百済の高僧恵聡(えそう)などが法興寺に住み込み、仏教の教学の場となったのでした。

蘇我氏本家滅亡

645年に起こった乙巳の変の際には、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で蘇我入鹿が暗殺されると、入鹿の父である蘇我蝦夷は、飛鳥川の西にある甘樫丘(あまかしのおか)の邸宅に引きこもります。この際、飛鳥川の東側に位置した法興寺には、中大兄皇子や改革派の豪族たちが立てこもり、ここから対岸の邸宅にこもる蘇我蝦夷を孤立させ自害に追い込み、蘇我氏本家を滅亡に至らせました。

現在は、飛鳥寺から西200mの位置に、「入鹿の首塚」と呼ばれる五輪塔が建てられ、蘇我入鹿は供養されています。乙巳の変の際、600m離れた飛鳥板蓋宮で斬首された蘇我入鹿の首がこの法興寺近くまで飛ばされてきたという話しや、蘇我蝦夷討伐の為に飛鳥寺に駐留していた中大兄皇子と中臣鎌足を追って飛鳥板葺宮から追いかけてきたなどの伝承が残されています。

入鹿の首塚

蘇我氏宗家が滅亡したことから、法興寺は蘇我氏の氏寺から国家の監督を受ける代わりに国家より経済的保障を与えられた官寺(かんじ)として管理されるようになりました。

乙巳の変の後に皇位についた孝徳天皇(こうとくてんのう、596年~654年、在位645年~654年)は、これまでは蘇我氏が主導してきた仏教を繁栄させる活動を今後は大王家が引き継ぎ、寺院造営に対しても援助していくことを宣言しました。その後斉明天皇(さいめいてんのう、594年~661年、在位655年~661年)の時代には、僧の道昭(どうしょう)が玄奘三蔵(げんじょうさんぞう。唐の時代に経典の翻訳に従事した僧)より学んだ唯識説(法相宗)を初めて伝えており、法興寺からそれらの教えが発信され、日本仏教のルーツとして重要な寺院となっていきました。

本元興寺

710年に都が平城京に遷都した8年後に、法興寺も平城京に移しました。その際、法興寺の伽藍の一部は解体され、その材料を使い平城京に移築し元興寺(がんこうじ)が起こります。

一方で法興寺に残された伽藍の一部はそのまま解体されることなく、本元興寺に名前を変えて存続させました。614年に安置された本尊の丈六の釈迦如来像はこのときには移設されず、そのまま本元興寺に残されました。

その後、887年に落雷を受け本元興寺は火災に遭います。そこからさらに300年後の1196年にも再度落雷に遭い、この時には本堂、塔ともに焼失し、本尊の釈迦如来像も顔や手などの一部を残し破損しました。これにより、本元興寺は急速に衰え、江戸時代まで復元されることなく、寺のあった場所は荒廃します。破損してしまった釈迦如来像は雨ざらしの状態となり、長い年月の間、そのまま放置されたと言われています。

その後、江戸時代に入ると、1632年に釈迦如来像を安置するための仮のお堂が建てられます。そして約200年後の1826年、現在の伽藍として残る建物が建てられ、飛鳥寺は復興されたのでした。

釈迦如来像(飛鳥大仏)

釈迦如来像(飛鳥大仏)は、蘇我馬子や聖徳太子らも手を合わせた仏像ですので国宝に指定されてもおかしくない歴史的にも重要な仏像です。

しかし現在は、国宝に指定されていません。1940年に一度国宝に指定されたものの、戦後の新憲法下で色々と法律が改正され、1950年に文化財を保護・活用することを目的に制定された文化財保護法の基準により、飛鳥寺は現存しているもののそのほとんどが復旧されたものという見解から、国宝指定はならず重要文化財に位置付けられました。現在はそのまま国宝指定は受けていません。

ですが、最近の調査によると仏像の顔はほぼオリジナルであることが分かり、このことから、国宝に指定されても問題のない仏像であり、国宝指定が期待されています。

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飛鳥寺の伽藍配置、大仏・仏像(釈迦如来像)、建物と歴史

日本最古の寺といわれている飛鳥寺。法興寺として完成した当初の伽藍は、南門を入ると、回廊中に金堂と塔のエリアを正面に配置。中門から回廊の中に入ると、正面に塔があり、北側に中金堂、左右に西金堂、東金堂が配置されていました。そして、回廊の北側には講堂と鐘楼、経蔵が配置されていたと調査の結果わかってきました。このような一塔三金堂式の伽藍配置は、現存する他の古刹では見られない建物配置となっており、飛鳥寺式伽藍配置と呼ばれています。

しかし、これらの伽藍は、1196年の2度目の落雷により焼失し、1630年頃までの約430年間に渡り復興されることなく荒廃が続きました。1632年に放置されていた状態から地元の篤志家により仮のお堂が作られ、1681年には香久山にあったお寺の僧の秀意が草庵をつくり安居院として釈迦如来像の補修をし、そこより安居院という名が残ります。1826年には大阪の篤志家により伽藍が復興され、現在の本堂などの形に再建されました。

このことから現在に残る伽藍は、創建当初の複数の金堂や塔はなく、1826年の再建以降の本堂と思惟殿(しゆいでん)、鐘楼(しょうろう)といった建物が残るのみとなっています。

本堂

現存する飛鳥寺の本堂は、1829年(文政9年)の創建当初に中金堂があった位置に再建された建物です。

当初あった中金堂は、三間四面の二階建てで裳階(もこし:本来の屋根の下に設けた屋根)のある建物で、身舎の柱間が正面3間、側面2間、その周囲にひさしが廻り、重層の建物だったとされています。

この時に本尊として祀られたのは釈迦如来像でした。日本最古の仏像であり、鞍作止利により605年から609年にかけて制作されました。高さは約3m、材料として銅が15トン、黄金30kgが使用されています。

しかし1196年に中金堂は、落雷による火災に見舞われ焼失してしまいます。それにより、中金堂に安置されていた釈迦如来坐像は粉砕してしまい、バラバラの状態となって雨ざらしで長い年月放置されてしまいました。

そして1632年、今井(現在の奈良県橿原市中部に位置する地区)の篤志家により、中金堂跡に仮のお堂が建てられます。その50年後である1681年に僧の秀意が草ぶきで作られた草庵と呼ばれる小屋を作り、安居院と名付け、その場で釈迦如来坐像の修復作業を行ったとされています。このとき、大仏の安置されていた基礎の他は、創建当時のものとして残っていたのが頭部と右手指の一部のみだったとされています。

江戸時代中期の学者である本居宣長の菅笠日記においては、1772年に飛鳥に訪れた際、かりそめなる堂に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったとあり、当時はこの草庵が残るのみだったのです。

現在の本堂は、1826年に大阪の篤志家の援助により再建された寄棟造の本瓦葺の建物となっています。本堂の中には、像高2.75mの本尊釈迦如来像が現在も安置され、この台座の基礎は飛鳥時代のものであり、1400年以上の年月が経った今でも、釈迦如来像は飛鳥大佛と呼ばれ、創建時の場所に坐しています。

思惟殿(観音堂)

思惟殿は、本堂の西側に建つ小さなお堂です。宝形造(ほうぎょうづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)で作られています。こちらも創建時からの建物ではなく、1826年の復興以降に作られた建物になります。

思惟とは、仏教において心を集中させて考えを巡らせること、深く考えることを意味する言葉であり、そのように考えるための建物です。また、観音菩薩像を安置するために作られた観音堂の役割も持った建物になります(思惟殿の本尊は聖観音菩薩像となっています。)。

正門

現在の正門は、東向きに面して建てられています。入口手前には飛鳥大仏の石碑もあり、それが目印となります。

創建時の寺院設計では、正門として南門が作られていました。しかし、、江戸時代以降の復興の過程で寺院南側には田畑が広がっていたことから、現在は南門は無く、西側は駐輪場となり、通用口としての門が設置されています。

鐘楼

飛鳥寺の鐘楼は、境内の南西部で思惟殿の南側にあります。

建立は1745年(延享2年)。当初は本堂の横に作られていましたが、境内の荘厳を保つことを目的に、1941年(昭和16年)に現在の思惟殿の南側に移設されました。

しかし移設して2年後の昭和18年、第二次世界大戦により梵鐘は供出され、無くなりました。

その後、先代住職の沙門雨宝により再造が発願され、1958年(昭和33年)、梵鐘は新鋳されました。梵鐘のデザインには、比叡山延暦寺や成田山新勝寺、広島平和の鐘を手がけた香取正彦氏が対応し、撞座と竜頭が垂直方向となる古式デザインが採用されました。鐘の音色は一分二十秒に至る余韻を残し、昭和の名鐘と呼ばれています。

鐘楼は、新鋳された昭和16年以降、平成7年に袴壁と入口部分の改修を経て、現在に至っています。

万葉池

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飛鳥寺の御朱印

飛鳥寺で頂ける御朱印は3種類となっています。
・新西国三十三ヶ所第9番札所本尊「飛鳥大仏」
・新西国三十三ヶ所第9番札所「御詠歌」
・聖徳太子御遺跡霊場第11番札所「止利佛師作丈六釈迦」

通常頂けるのが、御本尊である飛鳥大仏と書かれた御朱印です。御詠歌の御朱印については、「うきことの 消ゆるもけふか飛鳥寺 末やすかれと祈る身なれば」という飛鳥寺の御詠歌が書かれます。

聖徳太子御遺跡霊場第11番札所としての御朱印は、奈良大仏を制作した仏師と言われている鞍作止利により作られた本尊の飛鳥大仏こと丈六釈迦(じょうろくしゃか)という本尊の名前が書かれます。鞍作止利は止利(鳥)仏師(とりぶっし)とも呼ばれ、その名称が御朱印に書かれているのです。

御詠歌や聖徳太子御遺跡霊場第11番札所の御朱印を希望の場合は、御朱印を受ける際に事前にお伝えするといいでしょう。

飛鳥寺の拝観料・拝観時間

飛鳥寺の拝観は、朝は午前9時からとなっており、夕方は4月~9月は午後5時30分、10月~3月は午後5時までとなっており、拝観受付は15分前で終了になります。

拝観料は、大学生以上の大人が350円、中学・高校生は250円、小学生は200円です。30名以上の団体には割引が適用され、それぞれ一人当たり30円引きになります。

障害を持たれている方には、ご本人に限り大人が170円、中学・高校生は120円、小学生は100円の障害者割引での料金設定です。ただし、車椅子の貸出しや車椅子用のスロープ対応などのバリアフリー対策は特にありません。

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