飛鳥時代とは?いつからいつまで?
飛鳥時代とは、飛鳥に宮都が置かれていた592~710年までの期間のことです。
飛鳥というのは現在の奈良県高市郡(たかいちぐん)明日香村(あすかむら)周辺の地域です。
厳密には飛鳥時代の中で、大阪の河内地方や滋賀の大津地方などに宮都が移動したこともありましたが、この592~710年を飛鳥時代とするのが一般的です。
■飛鳥時代の宮都の位置
(画像出典:系図・地図年表で学習する日本史重要事件)
飛鳥時代は日本国内で初めて、天皇を中心とした中央集権国家としての形が完成した時代でもあります。大きく分けると、以下の4つの段階に分けられます。
①聖徳太子によって先進政治の導入が行われた時期
②大化の改新によって国政の改革が行われた時期
③白村江(はくそんこう、はくすきえ)の戦いをきっかけにして国政が強化された時期
④大宝律令(たいほうりつりょう)の制定によって中央集権国家としての体制が確立
このような段階を経て、日本は国家としての体制を整えていきました。
飛鳥時代のきっかけ・始まりは?
飛鳥時代の始まるきっかけとなったのは、大陸から仏教が伝わったこと(仏教伝来)です。
この仏教伝来をきっかけに仏教推進派の蘇我(そが)氏と仏教反対派の物部(もののべ)氏らが対立、最終的に蘇我馬子(そがのうまこ)・聖徳太子らの仏教推進派が勝利し政権を握るようになったことで、飛鳥時代が始まります。
(1)仏教伝来と蘇我氏・物部氏の対立
仏教は538年または552年、朝鮮半島の百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)がヤマト政権(当時の日本の大部分を治めていた政権)に仏像や経典を贈ったことで日本に伝わったとされています。
この仏教を巡り、当時の天皇であった欽明(きんめい)天皇は仏教を受け入れるべきかどうか、政治を行っていた豪族たちに尋ねました。
すると、渡来人との関わりがあり国際的な視野を持っていたとされる蘇我氏の蘇我稲目(そがのいなめ)は「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか。」と受け入れを勧めました。
一方、古来からの日本の神事に携わっていた物部氏の物部尾輿(もののべのおこし)は「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神(あだしくにのかみ=「異国の神」という意味)を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります。」と受け入れに反対しました。
これを聞いた欽明天皇は国としての仏教の受け入れは断念しましたが、蘇我稲目に仏像を預け、私的な礼拝や建立は認めました。
これをきっかけに、仏教受け入れを推進(崇仏)する蘇我氏と仏教受け入れを反対(廃仏)する物部氏の対立が始まりました。
(2)蘇我氏と物部氏の戦い(丁未(ていび)の乱)
蘇我氏と物部氏の崇仏派・廃仏派の対立はそのまま子供たちの蘇我馬子(そがのうまこ)・物部守屋(もののべのもりや)に引き継がれることになりました。
この対立は587年に起こった「丁未の乱」により決着を迎えます。
丁未の乱は、蘇我馬子が厩戸皇子(うまやどのみこ=聖徳太子の別名)、泊瀬部皇子(はつせべのみこ=後の崇峻天皇(すしゅんてんのう))らの皇族や豪族たちと手を結び、物部守屋を倒したという戦いです。
これにより物部氏は衰退し、蘇我氏は政権内で大きな力を持つことになりました。
(3)推古天皇、聖徳太子による政権体制の確立
丁未の乱で勝利した蘇我馬子は587年に泊瀬部皇子を崇峻天皇として天皇に立てますが、次第に不仲が目立つようになり、わずか5年後の592年に崇峻天皇を暗殺してしまいます。
その年に蘇我馬子は日本初の女帝となる推古天皇を擁立、聖徳太子を摂政(幼帝・女帝に代わってすべての政務をとる職)とすることで、飛鳥時代が始まることになりました。
飛鳥時代 聖徳太子の功績 仏教文化、遣隋使派遣、冠位十二階、十七条の憲法
[参考書籍]
日本の歴史 飛鳥・奈良時代 律令国家と万葉びと(小学館 鐘江宏之)
[参考サイト]
Wikipedia 飛鳥時代