古墳時代の暮らし・特徴 大和政権による国土の統一・統一国家への歩み 飛鳥時代までの外交

古墳時代の暮らし・特徴 国土の統一、飛鳥時代までの外交

古墳時代とは

古墳時代とは3世紀後半~7世紀頃、文字通り日本で古墳が作られていた時代のことです。古墳とは円形や四角形(方形(ほうけい)と言う)、またはそれらを組み合わせた巨大な墳丘(ふんきゅう)を持つ墓のことをいいます。墳丘とは土を丘の様に盛ったもので、古墳を形作るメインパーツとなるものです。古墳の種類は、墳丘の形状によって円墳(えんぷん)、方墳(ほうふん)、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)、前方後方墳に分類されます。

弥生時代までは各地で有力だった豪族が自分の地域を治めているだけでした。それが気象変動などが原因で国が大いに乱れ、その乱れを治めるために各地の豪族が手を結ぶようになりました。そうして大きくなった各地の豪族による連合体がさらに他の連合体と協力したり、武力によって支配したりすることで、次第に一つの大きな集団となり、最終的には大王(おおきみ)を中心とした一つの国になっていきます。

古墳は大王や各地の権力者を祀るための墓であり、日本という一つの国家が生まれ始めた時代の状況を今に伝える貴重な遺跡です。そのため、この時代は古墳時代と呼ばれます。

それでは古墳時代がどのようにして始まったのか、そのきっかけについて見ていきましょう。

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古墳時代が始まったきっかけ

古墳時代は古墳が日本各地で作られ、一つの国家が生まれ始めた時代ですが、この時代が始まったきっかけは「日本各地の豪族が手を結ぶようになったこと」です。日本各地の豪族が手を結ぶようになったことで、日本各地で古墳というものが作られるようになり、それが一つの国家としてまとまっていくのです。

ではなぜ、日本各地の豪族が手を結ぶようになったのでしょうか?そして豪族が手を結んだ結果、なぜ古墳という異様に巨大な墓を作ることになったのでしょうか?

各地の豪族が手を結ぶようになった理由

各地の豪族が手を結ぶようになったのは、国の乱れを収めるためだと考えられます。古墳時代に入る前の紀元後2世紀頃、日本列島内は大きく乱れていました。この乱れは卑弥呼という女王を共同で擁立することによって収まりました。その様子は中国の古書『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)にも以下の様に書かれています。

“2世紀末頃に起きた大乱(『後漢書』東夷伝にあった内乱のこと)が収まらなかった倭の国は、卑弥呼という女王を擁立した。すると内乱は収まり、邪馬台国を中心とした29程度の小国の連合国ができ上がった。”

(日本語訳 参照)
・書籍「日本史研究」
・書籍「ナビゲーター日本史B」
「古代史レポート 魏志倭人伝

このように古墳時代に入る前の弥生時代末期、大きく乱れた国を治めるために卑弥呼をトップに各地の豪族が手を結ぶようになったということがわかります。

尚、国の乱れた原因については、異常気象が関係していたのではないか、という興味深い説があります。遺跡の発掘調査や地質調査の結果、弥生時代後期にあたる紀元後1世紀頃、日本列島は多数の洪水や寒冷化といった異常気象に見舞われていたことがわかっています。この異常気象が作物の不作を招き、各地の農村は急速に廃れ、土地や水の奪い合いが頻繁に起こるようになったのではないかという説です。

手を結んだ豪族たちが古墳を造るようになった理由

手を結んだ豪族たちが巨大な古墳を造るようになった理由として考えられるのは、もともと似たような文化があり、それが発展した結果古墳になったというものです。実際に弥生時代後期には、首長の巨大な墓を作る祭祀(さいし)を行っていた地域があり、この文化が発展して古墳になったのではないかと考えられています。

古代において、祭祀というものは人々の生活の中でとても重要なものでした。邪馬台国連合の女王・卑弥呼がシャーマンであったことを考えても、当時の祭祀の重要性、人々に与える影響度の大きさがうかがえます。この祭祀というものには全国統一の決められたルールがあるわけではないので、地域ごとに様々な特色が現われます。
例えば弥生時代中期頃においては、関西では銅鐸を祭器とした祭り、中・四国では銅剣を祭器とした祭り、九州では銅矛を祭器とした祭りなどが行われていたことがわかっています。このことは青銅器祭器の分布に現れています。

■青銅器の分布

画像:実況日本史B

こうした地域特有の祭りは弥生時代後期にも続いていくのですが、その中で青銅器を使うのではなく、地域を治める首長の墓を大きくしていく祭祀が行われるようになった地域がありました。それが吉備地方(岡山県)や出雲地方(鳥取県)などです。

これらの地方の首長の墓はその権力を象徴するかのように巨大化していました。またその墓は神聖な空間として他の場所とは区切られており、ただの墓ではなく首長の権力を継承する祭祀の場として使われていた形跡があることがわかっています。特に吉備の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)は弥生時代最大の墳丘を持つ墓ですが、古墳に用いられた円筒埴輪によく似た特殊器台(とくしゅきだい)と呼ばれる土器を墳丘に並べており、古墳の原型になったのではないかとも言われています。

■特殊器台

画像:wikipedia 特殊器台

これらの事実からは、古墳というものが突然現れたわけではなく、古墳の原型となる祭祀を行っていた豪族が連合国に影響を与え、古墳を造るという文化に発展したのではないかということが想像できます。

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古墳時代になっての変化点

古墳時代が始まったきっかけは、弥生時代末期の気象変動、戦乱の末に各地の豪族が手を結んだ結果でした。古墳時代に起こった変化については古墳時代前期~後期にかけて異なります。

古墳時代前期(3世紀後半~4世紀)

古墳時代前期は日本列島内の広い範囲で豪族が連合していった時代です。

そのことによって起こった変化は古墳、町、土器に見て取れます。

古墳

まず古墳時代になって起こった最大の変化点は、古墳と呼ばれる巨大な墓が作られるようになったことです。これは各地の豪族が連合したこと、そして首長の巨大な墓を作る文化が発展した結果だと考えられます。古墳が何故できたのかという理由について答えを出すことは容易ではありませんが、構造の面で弥生時代までの墳丘と明らかに違うことはその大きさと分布範囲の広さです。

まず規模についてですが、弥生時代最大の楯築墳丘墓(全長約90m)と、古墳時代最古の古墳とされる箸墓古墳(全長約280m)を比較すると、箸墓古墳の全長は楯築墳丘墓のおよそ3倍もあり、大きさの桁が違うことがわかります。巨大な古墳を造るためには、それだけ多くの人の手が必要になります。つまり、弥生時代にはなかった巨大な古墳が現われたということは、それだけ大きな組織ができたということを示しています。

そして大きな組織の長になる者はそれだけ多くの人間を動かすことができるため、長の持つ権力も必然的に大きなものになりました。

また、古墳は畿内を始め、中国地方や九州などの広い範囲で共通の形状を持って現れますが、この範囲は弥生時代の青銅器の祭祀が行われていた近畿や九州といった枠を超える広さです。これは弥生時代までにはなかった巨大な組織が現われたこと、そしてその組織の長の権力が広大な範囲に影響を及ぼすほど大きくなったことを示しています。

特に古墳時代前期最大規模の奈良県の箸墓古墳と共通の古墳を造る組織は、後に北海道や沖縄を除いた日本列島全域を統一する大和政権になっていったと考えられています。

古墳時代前期には、それまでの農村とは違った性格を持った新しいタイプの集落が現われました。近畿地方の纏向(まきむく)、吉備地方の津寺(つでら)、九州地方の比恵(ひえ)・那珂(なか)などの集落です。これらの集落の規模は大きく、多くの人が集まっていたことがわかっています。弥生時代の集落との大きな違いは3つあります。

・違い①交流範囲
一番の違いは広い範囲から人が集まっていたことです。これは、その町があった地域以外の特徴をもった遺物が多く発見されることからわかっています。例えば、纏向遺跡からは東海地方で作られた物や吉備地方にルーツのある木製品などが発掘されています。このことは、それまでの地域の壁を越えた広い範囲で交流があったことを示しています。

・違い②環濠
弥生時代後期は国が乱れていた影響か、敵から攻撃されにくいように集落の周りに深い濠を掘る環濠集落が一般的でしたが、纏向や津寺といった集落には環濠がありません。このことから、これらの町が政治的に安定していたことが伺えます。

・違い③古墳
これらの集落の近くには大きな古墳が存在していたこともわかっています。例えば、纏向地方には古墳時代最古にして、前期最大規模の古墳である箸墓古墳、岡山の津寺遺跡には全長約50mの矢部大(やべおおぐろ)古墳、福岡の比恵・那珂遺跡群には全長約75mの那珂八幡(なかはちまん)古墳が存在しています。さらにこれらの古墳はいずれも前方後円墳という同じ形状をしています。このことは近畿・中国・九州にまたがる広域の連合組織があったことを示唆しています。

これらのことから、古墳時代前期には弥生時代を超えた広い範囲で安定した交流がもたれており、それらの背景に同じ古墳を造る連合組織があったことが推測できます。

土器

古墳時代の土器は土師器(はじき)というもので、弥生土器の技法の延長線上にある土器です。縄文土器、弥生土器は、地域色が強かったことに対して、古墳の土器とも言える土師器は模様や装飾などがほとんどなく、地域色が少なくなっていることが特徴です。これは列島の広い範囲で文化交流がなされていたことを示しています。

なお古墳に置かれる埴輪も、土師器の一種とされています。

■土師器

画像:Wikipedia 土師器

このように、古墳時代前期は弥生時代までとは異なる広い範囲を巻き込む豪族の連合ができたということがわかります。

古墳時代中期(4世紀末~5世紀)

古墳時代中期は大和政権がより力をつけていった時代といえます。それを示す2つの大きな流れがあります。

1つ目は日本列島内においてその勢力範囲を増していったこと、2つ目は日本列島内だけでなく朝鮮半島を始めとした海外とも多く関わるようになったことです(この時期の海外との関わりの詳細については4.海外との関わりの項で記載しま)。

この頃、中国では五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代という激動の時代に突入し、朝鮮半島では北方の高句麗が力をつけ、朝鮮半島の南側まで支配しようと攻め込んでくるなど、海外の戦乱が多くなった時代でした。大和政権は鉄と言う貴重な物資の供給減であった朝鮮半島南部地域を守るためこの戦乱に身を投じました。また、日本列島内には朝鮮半島の戦乱から逃れた人々がやってきて日本に多くの影響を及ぼしました。

そのことによって起こった変化は古墳、町、土器に見て取れます。

古墳

(ⅰ)巨大化
古墳時代中期の古墳は前期のものより巨大化します。日本最大の大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)、2番目に大きい誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)もこの時期に作られました。

この理由としてはまず日本国内の多くの地域と連合し組織の規模が大きくなったことで、その組織のトップの権力を表す古墳がより巨大になったことが挙げられます。そしてもう一つの理由として、海外の人達に向けて権力者の威光を見せるためだったということも考えられています。

大仙陵古墳や誉田御廟山古墳は、前期最大の古墳である箸墓古墳があった奈良県の纏向地方ではなく、海に近い大阪の河内地方に築かれています。また、同時期に築かれた巨大古墳の多くは海や港の近くに築かれることが多いです。

例えば、九州北部の沿岸では福岡県の鋤崎(すきさき)古墳、瀬戸内海沿岸では兵庫県の五色塚(ごしきづか)古墳、日本海沿岸では福井県の六呂瀬山(ろくろせやま)古墳などです。

これらの巨大な古墳群は、海外から船でやってくる人達にも大きなインパクトを与えたことでしょう。大和政権が自分たちの力をより大きく見せたかったという思惑も見え隠れします。

このように巨大な古墳が現われたことは、大和政権が力をつけて巨大化していくことで、国内だけでなく海外に対してもその権力の大きさを知らしめようとしていたことを示しています。

(ⅱ)軍事的副葬品の増加
銅鏡などの呪術的な副葬品が多かった前期に比べ、中期の副葬品は剣や鎧など軍事色の強いものが多くなります。これは当時の被葬者の軍事的性格が強かったことを示しています。弥生時代中期は朝鮮半島の戦争に深く介入しており、大和政権が軍事的な力をつけていったことは間違いありません。

古墳時代中期の集落は、農業だけでなく工業が栄えるようになります。この理由は朝鮮半島の戦乱から逃れて日本にやってきた人の中に、朝鮮半島の技術を持った人も多くいたためです。

工業が栄えた集落では、工業の跡が残るほかにクドと呼ばれる朝鮮半島由来のカマドや朝鮮半島伝統の建築様式が見られます。つまり、朝鮮からの人々が多く流入し、各地に専門技術を持った新しい集落が誕生していったことを示しています。

実際に中期になると、奈良県の南郷(なんごう)遺跡群や岡山県の高塚(たかつか)遺跡のような鉄器製作などの手工業を営む集落が現われます。

土器

古墳時代中期頃より朝鮮半島に起源をもつ須恵器(すえき)という硬質で灰色の土器が使われるようになりました。

土師器との違いはその製法で、土師器はひも状の粘土を積み上げてつくる古来の方法ですが、須恵器は轆轤(ろくろ)を用いて造られます。また焼成方法も異なり、土師器は弥生土器と同じ覆い焼きによって800~900℃で焼成されていましたが、須恵器は窯を用いて1100℃以上の高温で焼成されます。それにより、土師器より硬い土器になるのです。

このように、須恵器はそれまでの日本列島にはなかった高度な技術をもとに作られており、使われるようになった時期も古墳時代中期と朝鮮から多くの人が流入した時期と重なります。このため、朝鮮から多くの人が流入したことにより須恵器が広く使われるようになったこと考えられます。

なお、須恵器が伝わったからといって土師器が使われなくなったわけではありません。須恵器と土師器は同時にどちらも使われていました。

■須恵器

画像:wikiedia 須恵器

古墳時代後期(6世紀~7世紀)

古墳時代後期は、国内で起きた内乱をきっかけに大和王権の管理制度が発展していく時代です。これにより大和王権が日本列島内の大部分を支配するようになり、一つの国家として歩み始めていく時代ともいえるでしょう。そのことによって起こった変化は管理制度と古墳に現れています。

管理制度の導入

大和政権は古墳時代前期から中期にかけて、近畿地方を本拠地として次第にその勢力を広げていきました。その様子は日本最大級の古墳が近畿地方に集中していること、そしてそれを模した古墳が日本全域に広がっていることからもよくわかります。そして最初は連合関係であった大和政権が、次第に他の豪族を支配するようになっていきます。特にその支配が進んだのが、古墳時代後期に入る前、5世紀後半の雄略天皇(ゆうりゃくてんのう(418~479年))の時代です。

雄略天皇は「治天下大王(ちてんかだいおう)」と呼ばれ、各地を武力によって支配したとされています。

実際に埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳から出土した鉄剣には「オワケノオミという人物が天下を治めるワカタケル大王(=雄略天皇)に仕えていた」ということを示す文が彫られていました。オワケノオミはワカタケル大王の親衛隊長とされる人物で、鉄剣にはオワケノオミの一族が代々大王家の親衛隊長として仕えていたことも書かれています。

また熊本県の江田船山(えだふなやま)古墳から出土した大刀にも文字が彫られており、「ワカタケル大王に仕えたムリテと言う人物がこの刀を作った」という内容のことが書かれていました。これらの出土品は雄略天皇が関東から九州までを実際に支配していたということを示しています。

雄略天皇は急激に支配を進めましたが、この時の支配制度はまだ緩いものでした。そのため、継体天皇(けいたいてんのう(450~531年))天皇に変わった6世紀に一つの問題が起こります。それが「磐井(いわい)の乱」と呼ばれる戦で、朝鮮半島に出兵しようとした大和政権の軍に対して、九州の豪族で大きな勢力を持っていた磐井がその出兵を妨げたというものです。

この戦をきっかけに大和政権では管理制度が発展を遂げていきます。そうしてできた大和政権の代表的な管理制度が氏姓制度(しせいせいど)と部民制(べみんせい)です。

氏姓制度は各豪族の大きさと業務範囲を定めたもの、部民制は人々を大王や豪族の支配下に置いて労働させる制度です。つまり、豪族は大王の定める範囲の業務しかできなくなり、支配下に置く人々も限られるようになります。大和政権はこれらの支配制度によって豪族に極端に大きな勢力を持たせるのを防ぎ、磐井の乱のような戦を起こさせないようにしました。

ⅰ)氏姓制度

氏姓制度は豪族の大きさと業務範囲を定めたものです。氏(うじ)によって各豪族の大きさを決め、姓(かばね)によって豪族の業務範囲を決めていました。

大和政権は最も権力のある大王を中心として近畿地方を基盤とする豪族たちによって構成されていました。ここで豪族とは「ある地域において多くの土地や財産や民などを持っている一族」のことです。この豪族が持つ土地(私有地)のことを「田荘(たどころ)」、豪族が持つ民(私有民)のことを「部曲(かきべ)」と言います。部曲は主に農夫などの働き手のことで、この部曲とは別に奴隷階級である「奴(やっこ)・奴婢(ぬひ)」と呼ばれる人たちもいました。

それぞれの豪族には一つの組織として名前がついており、それを「氏(うじ)」といいます。ちなみにこの氏には部曲や奴婢も含みます。これにより各豪族は「氏」を持つ一つのグループに区切られます。そして、このグループのリーダーを「氏上(うじのかみ)」と言いました。

この「氏」には2種類あって、葛城(かつらぎ) 氏であれば現在の奈良県葛城市の辺り、平群(へぐり) 氏であれば奈良県生駒郡平群町の辺り、蘇我(そが) 氏であれば現在の奈良県橿原市曽我町の辺り、吉備(きび) 氏であれば現在の岡山県辺りのように「地名」に由来するものと、大伴(おおとも)、物部(もののべ)、土師(はじ)のように「職業」に由来するものです。

豪族にはそれぞれ決まった業務が与えられましたが、同じ豪族でも全てが同じ身分ではなく差があり、豪族の身分によって業務が決められていました。
各豪族の身分の差と業務範囲を表していたのが「姓(かばね)」です。

姓には、身分の序列の高いものから臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・直(あたえ)・造(みやつこ)・首(おびと)といったものがあり、序列の高い姓ほど影響力の大きな業務を与えられていました。

例えば、「臣」は蘇我氏や葛城氏や吉備氏のような地域に基盤を持つ有力豪族に与えられ、中央政権での政治業務や大きな地域の政治業務などを任されていました。

また、「連」は特定の職掌を持つ豪族に与えられ、中央政権での政治業務や軍事、財政、祭祀といった実務を、「君」は筑紫(ちくし(福岡県))や上毛野(かみつけの(群馬県))などの地方の有力豪族に与えられ、地方政治業務を任されていました。

これらの中で特に、臣のリーダーを大臣(おおおみ)、連のリーダーを大連(おおむらじ)といい、これらの豪族は非常に大きな権力を持っていました。大臣の代表的な豪族は蘇我氏、大連の代表的な豪族は大伴氏や物部氏です。

また、それぞれの豪族の役割に対しても呼び名があります。例えば、中央で政治以外の実務(軍事、財政、祭祀など)を行うのは伴(とも)、伴のリーダーは伴造(とものみやつこ)と呼ばれていました。伴になるのは、首などの姓を与えられるような豪族、伴造になるのは連などの姓を与えられるような豪族たちです。また、地方で政治を行う豪族は県主(あがたぬし)、県主のリーダーは国造(くにのみやつこ)と呼ばれており、県主、国造になるのは臣、君、直などの姓を与えられる豪族でした。

ⅱ)部民制(べみんせい)

部民制は大王や豪族が民衆を支配下に置いて、労働させる制度です。

支配下に置かれた民衆のことを部民と言います。大王の支配下に置かれた部民は田部(たべ)・名代(なしろ)・子代(こしろ)と言います。田部は大王直轄の土地である屯倉(みやけ)を耕す人々のことで、名代・子代は大王の身の回りの世話などの雑務を行う人々でした。

これに対して豪族の支配下に置かれた人々は部曲と奴・奴婢です。

また、これ以外にも特定の技術を持った部民もいました。

それが品部(しなべ、又は、ともべ)と呼ばれる人々で、この人々は伴の下について働いていました。

こうした複雑でキッチリとした管理制度を作ることで、大和政権は日本列島内の多くを支配・管理するようになっていきます。

古墳

①小型化
列島内の管理制度が整備されることで、国内の巨大古墳は衰退していきます。

なぜ、「管理制度が発展したことが巨大古墳の衰退に繋がるか」ですが、管理制度が発展すると各地の豪族の自由度が少なくなるからです。巨大な古墳を造るためには、多くの人手が必要です。しかし、氏姓制度や部民制といった管理制度により、自分の自治範囲と人員を決められるようになると、古墳造営を自由にはできなくなります。

そのため、古墳時代後期に入ると造営に人手が必要な巨大古墳は衰退し、次第に作られなくなっていきました。

②民衆化
そして巨大古墳が少なくなると同時に増加したのが、群集墳と呼ばれる古墳です。

群種墳は小規模な古墳が狭い区域に密集して造られたもので、様々な人々が被葬されている古墳群です。この群集噴を作ったのは主に農民です。古墳時代中期までは農民は各地の豪族によって支配されていたため、自分たちの古墳などを作ることはできませんでした。

しかし、中央政権の管理制度の発展によって各地の豪族の力が衰えてくると、それに伴って農民たちの自由度は上がります。巨大古墳を造らなくても良いようになれば、その分の時間もできるようになるのです。これが、群集墳が増えた一つの要因です。

これに加えて、横穴式石室という後から何度でも出入りできる石室が一般的になりました。このことにより、古墳は個人の墓ではなく家族の墓として使えるようになりました。こうしたことから、群集墳はより広く、一般の人々に広まり、古墳時代後期には爆発的に増加しました。

外交・海外との関わり

古墳時代の海外との関わりは、日本に多くの影響を与えました。

弥生時代の間は、日本は中国に対して貢物を送り、中国からは「倭王」の称号をもらうというような関係でした。また、朝鮮半島では鉄が産出されていたため、日本の人々は鉄を求めて朝鮮半島に渡っていました。

この時代は中国、朝鮮とも友好的な関係を築いていました。

古墳時代前期は日本と海外との関わりが希薄になる時代です。この時期、中国国内・朝鮮半島内は大きく荒れており、一時的に中国の文献からも日本との関係が見られなくなってしまいます。

まず、中国との関係についてですが、266年に倭の女王・壱与(いよ)が当時の中国を統一した西晋(せいしん)の帝に使者を出したのを最後に、413年まで日本と中国との関係は文献上には見られなくなります。日本が中国の文献から姿を消すこの約150年間は「空白の4世紀」とも呼ばれています。これは中国国内が荒れていたからだと考えられています。

壱与が使者を送る前年の265年、西晋は中華を統一しました。しかし、帝である司馬炎(しばえん)の悪政のために300年頃から皇族同士の争いが続き、国内は荒れていきます。その様子を見たモンゴル系騎馬民族は、北方で勝手に国を興すなど好き勝手をするようになります。このモンゴル系の民族というのは匈奴(きょうど)、羯(けつ)、鮮卑(せんび)、羌(きょう)、氐(てい)の5つで五胡(ごこ)と呼ばれます。そうした荒れた国内状況の中、西晋は316年に滅び、わずか50年ほどで天下を終えました。

その後は五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代と呼ばれる時代に突入します。

これは中国の漢族とモンゴル系民族の五胡が次々と十六の国を興し、領土をめぐって争いを続ける大混乱の時代です。
この十六国を、立ち上げた民族と共に建国順に記載すると、

前涼(ぜんりょう)【漢族】、
前趙(ぜんちょう)【匈奴】、
成漢(せいかん)【氐】、
後趙(こうちょう)【羯】、
前燕(ぜんえん)【鮮卑】、
前秦(ぜんしん)【氐】、
後燕(こうえん)【鮮卑】、
後秦(こうしん)【羌】、
西秦(せいしん)【鮮卑】、
後涼(こうりょう)【氐】、
南涼(なんりょう) 【鮮卑】、
北涼(ほくりょう)【匈奴】、
南燕(なんえん)【鮮卑】、
西涼(せいりょう)【漢族】、
夏(か)【匈奴】、
北燕(ほくえん)【漢族】

となります。(【】内は建国した民族)

この五胡十六国時代は439年まで続くので、中国はあまり外国諸国と外交をする余裕がなかったのだと考えられます。

日本と朝鮮半島との関わりについても、3世紀後半~4世紀前半の文献にはほとんど見られません。

この頃、朝鮮半島内も中国の戦乱に呼応するように大きな動きが起こります。匈奴の大反乱により中華帝国が崩壊すると狩猟民族の扶余族が高句麗(こうくり)という国を建国し、大きく力をつけていきます。

313年には、高句麗は楽浪郡(らくろうぐん)を滅ぼし、その勢いのまま、さらに朝鮮半島の南側へも攻め込んでいきました。楽浪郡というのは朝鮮半島北部に位置し、紀元前108年に前漢の帝である武帝(ぶてい)が朝鮮半島を支配するために設置していた場所で、中国の古書『漢書(かんじょ)』地理史(ちりし)にも出てきた場所です。その時の朝鮮半島南部には百済(くだら)、新羅(しらぎ)という国と、加耶(かや)(加羅(から)ともいう)という小国家群がありましたが、高句麗はそれらの国々をも支配しようと南下してくるのです。

このように朝鮮半島内も中国国内と同様、軍事的な緊張状態になっていきました。

この様な状況の中、朝鮮半島と日本との関係が見られるようになるのは、4世紀後半のことです。

『日本書紀』神功紀(じんぐうき)によると、360年代に百済と倭国が手を結ぶようになり、朝鮮半島内の戦乱に介入していったことが書かれています。

倭国と百済の友好の証として、372年に百済の肖古(しょうこ)王から七支刀(しちしとう)という刀が倭王に贈られたとされています(この七支刀だと考えられている刀が、奈良県の石上神宮(いそのかみじんぐう)に社宝として納められています)。

この刀の表面には「秦和四年(秦和は中国・東晋の年号で西暦にすると369年)に、戦いを避ける聖剣として造られた」、裏面には「百済王が倭王の為に特別に造った」という意味の60文字の銘文が彫られています。

■七支刀

画像:Wikipedia 七支刀

また、倭国は朝鮮半島の最も南にある加耶とも密接な関係にありました。これは当時の日本にはまだ製鉄技術がなかったため、鉄の産出地である加耶から鉄資源を得る目的があったためです。こうして倭国は百済や加耶と言った朝鮮半島南部の地域を守るため、半島内で軍事的な活動を拡大するようになっていくのです。

古墳時代前期は大陸が大いに荒れたために、日本もその戦乱に巻き込まれるようになった時代とも言えるでしょう。

続いて、古墳時代中期の時代についてです。古墳時代中期は高句麗との争いが本格化したり、中国との関係を復活させたりするなど、海外との関わりが特に強くなる時代です。

日本(倭国)と高句麗との争いが本格化した状況については、当時の高句麗の首都であった丸都(がんと)にある碑に刻まれています。この碑は当時の高句麗の王である好太王(こうたいおう)(別名:広開土王(こうかいどおう))の碑で、「好太王の碑」あるいは「広開土王碑」と呼ばれ、以下の内容が記されています。

391年 倭が百済と新羅を破り、服属させる。
399年 百済が倭と協力関係になったため広開土王が百済を攻めようとしたところ、
    倭が新羅に攻め込んできたため、高句麗に救援を求めてきた。
    広開土王は救援することにした。
400年 5万の大軍で新羅を救援し、新羅の王都を占領していた倭軍を追い払った。
    さらに倭軍を追撃し加耶に迫った。
404年 倭が帯方地方に侵入したため、これを迎撃して大敗させた。

この碑に書かれたことからもわかるように、高句麗と倭国は激しく争っていました。こうした状況から、戦乱にさらされた半島の人々が多く日本列島内にも流れることになりました。そのため、この時期に日本国内ではクドや須恵器といった朝鮮半島由来のものが増えていきます。

また、高句麗に勝てなかった倭国は再び中国と関係を持つようになります。425年、当時の倭国の王・讃(さん)は中国(宋)に使者を出します。讃というのは中国の文献に書かれた名前で、この讃を始めとして、ここから502年までの約80年間、倭国からは5人の王がかわるがわる中国に使者を出し、朝貢しています。この目的は、朝鮮との外交を有利に進めようとしたためでした。

5人の王は「倭の五王」と呼ばれています。

倭の五王については以下の通りで、讃、珍(ちん)に対しては諸説ありますが、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)に対してはそれぞれ日本書紀に出てくる天皇が比定されています。

讃(さん):応神(おうじん)天皇、仁徳(にんとく)天皇、履中(りちゅう)天皇の説あり
珍(ちん):仁徳天皇、反正(はんぜい)天皇の説あり
済(せい):允恭(いんぎょう)天皇
興(こう):安康(あんこう)天皇
武(ぶ):雄略(ゆうりゃく)天皇=獲加多支鹵大王(ワカタケルだいおう)

古墳時代中期は海外での戦争が多く、軍事的な性格が強かった時代とも言えます。

この後、古墳時代後期に入ると大陸からは仏教や文字が伝来し、古墳時代は終焉に向かっていきます。

6世紀はじめには、百済から渡来した段楊爾(だんように)などの五経博士(ごきょうはかせ)によって儒教(じゅきょう)が伝えられます。儒教というのは紀元前の中国の思想家・孔子(こうし)によってつくられた思想です。儒教の中で特に重要な5つの経典(詩・書・礼・易・春秋)を五経と言い、それを学ぶ学者を五経博士と言いました。

その後、6世紀中頃には仏教が伝わります。仏教は百済の聖明王(せいめいおう)によって日本の欽明天皇(509~571年)に伝えられたとされています。その年代については、日本書紀の記述を根拠とする552年説と、上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)や元興寺縁起(がんこうじえんぎ)に基づく538年説がありますが、まだはっきりしたことはわかっていません。仏教には大きく分けると、「修行を積んだ人のみ悟りに至ることが出来る」という上座部仏教(じょうざぶぶっきょう(別名:小乗仏教))と「誰でも悟りに至れるチャンスがある」という大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の2種類がありますが、日本に伝わったのは広く大衆に受け入れられやすい大乗仏教でした。この仏教を巡り、日本では仏教を受け入れるか排除するかの争いが起き、仏教受け入れ派が勝ったことで仏教は日本列島内に広まることとなりました。

文字に関しては、中国と交流があったため弥生時代の頃から日本の一部の人には知られていましたが、人々の間で文字を読める人が増えたのは6~7世紀ごろからです。これは儒教や仏教を学ぶために漢字で書かれた書物を読む必要があったためとされています。

こうして大陸からの宗教や思想は文字という道具を使って広く人々に知れ渡るようになりました。そのことによって、仏教を始めとした大陸の高度な文化を受け入れた日本は飛鳥時代という新しい時代へと突入することになるのです。

古墳時代の祭祀・信仰・神社

古墳時代の精神生活で大切だったのは、弥生時代と同じく農耕に関する祭祀でした。特に豊作を祈る春の祈年(としこい)の祭り、収穫を感謝する秋の新嘗(にいなめ)の祭りが重要なものでした。

また、円錐形の整ったかたちの山や高い樹木、巨大な岩、絶海の孤島、川の淵などには神が宿ると考えられており、祭祀の対象とされていました。

代表的な古い神社では三輪山を御神体とした奈良県の大神神社(おおみわ)、また、玄界灘(げんかいなだ)の孤島・沖ノ島(おきのしま)を神としてまつる福岡県の宗像大社(むなかたたいしゃ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)をまつる三重県の伊勢神宮(いせじんぐう)、大国主神(おおくにぬしのかみ)をまつる島根県の出雲大社(いずもたいしゃ)、海神(かいじん)をまつる大阪府の住吉大社(すみよしたいしゃ)などが挙げられます。

この他の信仰としては、氏の祖先神(氏神(うじがみ))をまつる信仰がありました。呪術的な風習としては、穢れを祓い、災いを免れるための禊(みそぎ)や祓(はらえ)、鹿の骨を焼いて吉凶を占う太占(ふとまに)の法、裁判の際に熱湯に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽を判断する盟神探湯(くかたち)といったものが行われていました。

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[参考書籍]
ナビゲーター日本史B 1 原子・古代~南北朝(山川出版 曾田康範)
古墳とはなにか 認知考古学から見る古代 (角川選書 松木武彦)
日本の歴史 旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記(小学館 松木武彦)
日本の歴史02 王権誕生(講談社 寺沢 馨)
日本の歴史03 大王から天皇へ(講談社 熊谷公男)
古代国家はいつ成立したか(岩波新書 都出比呂志)

[参考サイト]
古墳時代の京都

大阪大学考古学研究室 古墳時代とは

東京大学大気海洋研究所 繰り返す温暖化と寒冷化‐日本の歴史に影響した東京の気候変動‐

百舌鳥・古市古墳群 こどもQ&A 古墳の中はどうなっているの?

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