平泉 仏国土(浄土)建築・庭園及び考古学的遺跡群
1.世界遺産登録基準の内容
平泉は世界遺産リストに「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」という名前で登録されています。
世界遺産リストに登録されるためには、「世界遺産条約履行のための作業指針」に示される登録基準の内、少なくとも1つ以上の基準に合致する必要があります。
平泉は登録基準ⅱ、ⅵを満たし、世界遺産リストに登録されました。
世界遺産基準 ⅱ. の適用について
日本では中国から6世紀に伝わった仏教が日本独自の自然崇拝思想と結びつき、12世紀ごろには浄土思想が栄えました。また仏教と同時に伝わった伽藍設営・作庭技術は日本古来の水景の理念・浄土思想と結びつき独自の浄土庭園を完成させるに至りました。
平泉の構成資産は日本で独自の進化を遂げた作庭技術が良く表現されており、東アジアの建築・作庭技術の価値観の交流を示しているとして評価されました。
世界遺産基準 ⅵ. の適用について
日本には浄土思想と浄土(仏が住む清浄な場所)を現実世界で表現しようとする建築・作庭文化が存在します。これは世界のほかの地域にはないもので、平泉の構成資産はこの思想・建築文化を良く表現しています。また、平泉に今なお続く「川西念仏剣舞」や「延年」といった民族芸能は浄土思想に深く関連しており、平泉は日本独自の浄土思想と直接的に関連しているとして評価されました。
2.遺産価値総論
平泉の遺産価値は「浄土思想を基にした平和政治を実現させた街であること」「日本独自の建築・庭園設計が表現されていること」です。
平泉は11世紀~12世紀にかけて、東北地方の領主・藤原清衡(ふじわらのもとひら)により、浄土思想を基にした理想世界の実現を目指して造られた街です。
浄土思想とは、人々が現世及び死後の心の平和を願った考え方です。それらを現実世界に実現するために、日本では寺院などの建築・庭園設計により浄土を現世に創り上げるという独自の方法が編み出されました。
平泉の構成資産は浄土思想に基づいて構成されており、周囲の自然地形をも含めて浄土を空間的に表現した建築・庭園の理念、技術が良く現れています。
3.歴史
世界遺産にかかわる平泉の歴史は、主に11世紀末~12世紀にかけて奥州藤原氏三代によって栄えた時代のことです。
始まりは11世紀末、東北地方の領主・藤原清衡が岩手県南部の江刺から平泉へと本拠を移したことに端を発します。平泉は当時から水陸交通の要衝地であり、位置的にも東北地方のちょうど中心でした。
藤原清衡は戦争により、親族に妻子を殺害されるなどの悲惨な目に遭い、戦争のない理想郷を造りたいという想いで平泉に中尊寺を建立しました。
1124年に金色堂が、1126年に主要な堂塔が完成し、1128年清衡は亡くなりました。
その後、二代目基衡(もとひら)は父の遺志を継ぎ、京都の鳥羽・白川を参考に更に規模の大きな毛越寺の造営を開始します。残念ながら基衡はその完成を見ずに1157年に亡くなってしまいますが、三代目秀衡(ひでひら)により、毛越寺は完成されました。
また、二代目基衡の妻は毛越寺の東に観自在王院を建立しています。
三代目秀衡は毛越寺完成ののち、宇治平等院の鳳凰堂にならい無量光院を建立、さらに加羅御所、平泉館といった政治的中枢も造り、12世紀後半に東北地方の拠点となる平和を目指した街・平泉が完成しました。
4.構成資産の概要
(1)中尊寺(ちゅうそんじ)
中尊寺は850年に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)により創建されたとされ、12世紀始めから初代清衡によって多数の堂塔が造営されました。境内には金色堂をはじめ、金色堂覆堂、経蔵等といった国宝や重要文化財があります。
・金色堂(こんじきどう)
金色堂は初代清衡によって建立され、1124年に完成しました。方三間の阿弥陀堂としては日本最古の事例です。その荘厳な意匠は平安時代後期の工芸技術を今に伝えています。奥州藤原氏三代の遺体、そして四代目泰衡(やすひら)の首級が安置されています。
(2)毛越寺(もうつうじ)
中尊寺と同じく、850年に慈覚大師により創建されたとされ、12世紀に二代基衡によって造営、三代目秀衡によって完成されました。その大きさは中尊寺よりも大きいものでしたが、建造物は度重なる災禍により消失してしまいました。しかし、現存する庭園は「日本有数の浄土庭園」として国から指定されており、平安時代の優美な作庭造園を今に伝えています。境内には特別名勝の「浄土庭園」と特別史跡の「常行堂」が含まれています。
また、12世紀の浄土思想を伝える常行三昧の修法と「延年」の舞も、無形の要素として残っています。
(3)観自在王院跡(かんじざいおういんあと)
毛越寺の東に隣接し、二代目基衡の妻が建立した寺院跡です。舞鶴が池という池を中心にして大小の阿弥陀堂などが設けられており、極楽浄土を表現しようとしていたことがわかっています。現在は史跡公園として憩いの広場になっています。
(4)無量光院跡(むりょうこういんあと)
三代秀衡が宇治平等院の鳳凰堂にならって、12世紀後半に建立した寺院跡です。現在は遺跡のほとんどが水田となっています。
寺院全体が金鶏山も含めて設計されており、春と秋には金鶏山に沈む落日により、建物全体が後光に光り輝くように見えたとされています。その空間構成は「浄土庭園」の最も発展した形態と考えられています。
(5)金鶏山(きんけいざん)
中尊寺と毛越寺のほぼ中間に位置する標高98.6mの山です。浄土思想に基づく平泉のまちづくりの基準となった山で、山頂には歴代の奥州藤原氏により経塚が設けられていました。
5.その他
(1)平泉ショック
平泉は2011年6月にフランスで開催された第35回世界遺産委員会で世界遺産リストへの登録が決まりました。
しかし、実はその3年前の2008年、平泉は日本政府からUNESCOに世界遺産登録の推薦をされたのですが、ICOMOSの調査の結果「登録延期」の勧告を受けたということがあったのです。その理由は登録資産の普遍的価値の証明が不十分とされたためです。
当時、平泉は9つの構成資産が4つの世界遺産登録基準に適用できるとして申請をしていましたが、そのすべてにおいて証明が不十分とされ、登録延期となってしまいました。その勧告を受け、平泉は構成資産と登録基準を浄土思想に深く関連するものに絞り、2011年に改めて推薦され、めでたく世界遺産へと登録されたのでした。
しかし、日本政府がUNESCOに推薦した物件が世界遺産リストへ登録されなかったのは2008年の平泉が初めてであり、世界遺産登録を目指す物件を持つ各自治体に衝撃を与えました。そのため、この出来事は「平泉ショック」と呼ばれることもあります。
(2)拡大登録を目指す遺産
前述にもあるように、平泉には「世界遺産に推薦したが登録されなかった遺産」が複数存在します。その遺産に関して、平泉は現在拡大登録と言う形で世界遺産リストへの登録を目指しています(2018年1月時点)。以下にその遺産を紹介します。
①柳之御所遺跡(やなぎのごしょいせき)
柳之御所遺跡は2011年の推薦物件でしたが、「浄土思想そのものとの関連が薄い」として登録を除外された物件です。この遺跡は奥州藤原氏の住居及び政庁であった「平泉館」と呼ばれる居館の跡とされており、多くの建物跡や遺物群が発見されています。
②達谷窟(たっこくのいわや)
達谷窟は2008年の申請時には構成資産でしたが、2011年には構成資産に入らなかった物件です。ここは毘沙門天を祀った堂で、801年に坂上田村麻呂が蝦夷討伐の戦勝記念と仏の加護への感謝を込めて造営したとされています。また、七堂伽藍は奥州藤原氏により建立されたと言われています。
③白鳥舘遺跡(しらとりたていせき)
白鳥舘遺跡は2008年の申請時には構成資産でしたが、2011年には構成資産に入らなかった物件です。白鳥舘遺跡は奥州市に残る城館跡で、10世紀から16世紀まで北上川交通の要衝地として利用されてきました。180度を北上川に囲まれる地形から天然の要害となっており、奥州藤原氏の時代にも重要な拠点として機能していたとされています。
④長者ケ原廃寺跡(ちょうじゃがはらはいじあと)
長者ケ原廃寺跡は2008年の申請時には構成資産でしたが、2011年には構成資産に入らなかった物件です。長者ケ原廃寺跡は奥州市に残る寺院跡ですが、寺号も建造者も伝わっていません。しかし約1000年前の寺院の跡とされ、発掘調査の結果からはかなりの権力者が建造させたのではないかと推測されています。
⑤骨寺村荘園遺跡(ほねでらむらしょうえんいせき)
骨寺村荘園遺跡は2008年の申請時には構成資産でしたが、2011年には構成資産に入らなかった物件です。骨寺村松園遺跡はかつて骨寺村と呼ばれた荘園だった場所で、骨寺村は中尊寺の僧である自在房蓮光が藤原清衡から与えられたものです。中尊寺に伝存する「陸奥国骨寺村絵図」にほぼ近い形でその面影をとどめていることから、かねてから注目されてきた場所でした。
【参考資料】
すべてがわかる世界遺産大辞典(上)(世界遺産検定事務局)
【参考HP】