仏教公伝から丁未の乱 背景にあった蘇我氏物部氏の対立・排仏崇仏論争
古墳時代、日本を統治していたヤマト朝廷は、後に天皇と呼ばれる「大王(おおきみ)」を頂点とし、近畿地方を中心に東北から九州にかけ各地にいた有力な豪族たちを配下につけ、「氏姓制度」により、中央から地方までの豪族の支配の仕組みや統制を執っていました。
氏姓制度とは苗字の意味ではなく、豪族の身分秩序のことで、氏(うじ)は血縁的結びつきをもとに住んでいる地域や携わっている仕事によって与えられた豪族の集団名、姓(かばね)は強さや能力に応じてランク付けされたヤマト政権内での豪族の身分や地位を表します。
姓には、「公・君(きみ)」「臣(おみ)」「連(むらじ)」「直(あたい)」「首(おびと)」「村主(すぐり)」などがあり、「臣」「連」の姓を与えられた豪族が、ヤマト朝廷の中枢を担い、その中でも特に有力な豪族を大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)といいました。
古墳時代末期、宣化天皇(467年~539年、在位536年~539年)は政権で軍事関連を担当していた大連の大伴氏、武器の製造や管理、刑罰や裁判などを担当していた同じく大連の・物部氏に加え、外交や氏族を管理する大臣として蘇我稲目を政権運営に加えました。
そのような折、仏教はこの宣化天皇の次の欽明天皇(509年~571年、在位539年~571年)に百済の聖明王(せいめいおう)より公伝されました。
しかし、百済から公伝された仏教が原因で、仏教を肯定する大臣の蘇我氏と仏教を否定する大連の物部氏を中心に、朝廷内は二分されてしまいます。この対立は蘇我氏と物部氏親子2代に渡る対立となり、物部氏は滅んでしまいます。
ここでは、仏教が公伝された経緯・背景、その後に物部氏と蘇我氏の間で起こった排仏崇仏論争、物部氏が滅ぶきっかけとなる丁未の乱(ていびのらん)について解説します。
古代日本の信仰と仏教が百済から公伝された背景
古代日本の信仰は、神道でした。神道は自然に生まれた日本特有の民族宗教で、開祖や教典、具体的な教えはなく、地上の森羅万象に神が宿るという考え方を基本に「八百万の神(やおよろずのかみ)」をお祀りする信仰です。
大王は日本神話の神で国生みの神であるイザナギとイザナミから生まれた天照大御神の子孫であるとされ、大王以外の豪族もそれぞれの祖先が祀ってきた神を信仰していました。
仏教が中国から朝鮮に伝来されたのは4世紀に入ってからでした。この頃の朝鮮半島には、高句麗・百済・新羅の三国と半島南部に任那(加羅)といった小さな国の連合体がありましたが、372年に中国から高句麗へ、中国から百済へは384年に仏教が伝えられ、新羅へは高句麗から528年に伝わったとされています。
4世紀から5世紀にかけての朝鮮半島では国ごとの争いが続いていたため、争いを逃れるために朝鮮半島から日本に渡ってくる渡来人が増え、それにともない仏教を信仰していた渡来人が非公式に仏教を日本に持ち込んだため、庶民の間で知られるようになっていました(仏教伝来)。
一方、公的に仏教が伝えられた(仏教公伝)のは、6世紀に入って百済の聖明王が欽明天皇に仏像や経論を伝えたことでした。
この頃、領土を拡大する高句麗、新羅、百済の三国間の対立が激化。百済の聖明王は同盟国として援軍を求めるためヤマト朝廷との交流をこれまで以上に深めようと、外交ツールの一つとして大陸の先進文化である仏教の教えが書かれた経典や仏像などをヤマト朝廷に贈りました。
聖明王が仏像や経典を贈った際の書簡には「仏教は如何なる願いも叶える最高の教えであり、インドで生まれ、百済に伝来されるまでにどの国においても信仰されている先進文化の信仰だ」と書かれていました。
欽明天皇は、他国の王から公伝された仏教の教えに共感し喜びました。
しかし、神道を信仰している日本において、異国の神をどのように扱うのかに困りました。そこで、群臣に対し仏教の扱いについて意見を聞いたのでした。
大連の物部尾輿は、「物部氏は先祖として「饒速日命(にぎはやひのみこと)」という日本神話の神を祀る一族です。大王や日本の豪族は神の子孫であるという信仰から、日本が国内をはじめ異国を含む天下を治める王となれるのは、天地百八十神(あめつちももやそがみ)に、春夏秋冬を通じて祭拝しているからであり、異国の神を拝めば国神が怒る」として、仏教の崇拝に反対しました。
一方で大臣であった蘇我稲目は、政権での役割として氏族の管理や外交に係わっていたので渡来人との結びつきが強かったこともあり、国際的な視野を持っていました。
そのため、蘇我稲目の主張は、中国や朝鮮半島の国々が仏教を取り入れている中で日本だけが仏教を取り入れないことは良くないというものでした。
このように物部尾輿を中心とする連と蘇我稲目を中心とした臣との間で意見が対立したため、欽明天皇は試しに百済から送られてきた仏像を蘇我稲目に預け、礼拝をさせ様子を見ることにしました。
蘇我稲目は飛鳥向原の家を払い清め、そこに預かった仏像を安置しました。これが、日本で初めて誕生したお寺(現:向原寺)でした。
ところがタイミング悪く、仏教の崇拝を始めた頃に国内に疫病が流行りました。多くの犠牲者が出てしまい、排仏派から見れば、異国の神を祀ったことにより国神が怒り天罰を与えたように見えたのでした。
物部尾輿は仏教の排除を進言しました。
欽明天皇は許可を出すしかなく、物部尾輿は、向原のお寺を焼き払い、安置されていた仏像を難波の水路に廃棄しました。
しかしその後、天皇が住んでいた宮殿が突然火元不明の火事になったため、仏罰と考えた欽明天皇は、霊木を使って仏像を作らせ、改めて仏像を蘇我稲目に祀らせました。
蘇我氏と物部氏の崇仏排仏論争は子供世代へ!蘇我馬子と物部守屋と仏教論争
仏教が公伝されてから約30年後、欽明天皇は崩御し第30代敏達天皇が即位します。敏達天皇は、物部尾輿の子である物部守屋を大連に任命し、大臣には蘇我稲目の子である蘇我馬子を任命しました。物部氏、蘇我氏共に代替わりしたものの、仏教に対する捉え方は親の代と変わらず、物部守屋は排仏の立場、蘇我馬子は崇仏の立場でした。
また天皇が変わったため、百済から再び仏像が送られてきますが、仏像は欽明天皇のときと同様に蘇我氏(蘇我馬子)が預かり、仏像を祀る寺を作りました。このとき日本で初の僧が誕生し、3人の女性の僧が配置されました。
しかし、寺が完成してすぐ、蘇我馬子は病気にかかります。そのため、蘇我馬子は敏達天皇に仏教を説くための法会を行う許可を求めました。ところが、蘇我馬子が法会を行おうとすると、またしても疫病が流行ってしまいました。
物部守屋は、敏達天皇に「仏教を信仰しようとした為、また天罰が起こった」と、主張し、疫病を治めるために寺の破壊と仏像の廃棄の許可を取り、父の物部尾輿の時と同じ様に寺を焼き払い、仏像を大阪湾に捨て、さらに三人の尼僧には、むち打ちの処罰を与えました。
これにより、排仏派の中では疫病は収まるだろと考えられました。
しかし次に天然痘が広がりをみせ、物部守屋や敏達天皇までもが天然痘にかかってしまいます。
物部尾輿が寺を焼き仏像を廃棄した時に宮殿が燃えたこともあり、物部守屋や敏達天皇が天然痘にかかったのも仏罰ではないかと噂が広がるようになりました。
そこで蘇我馬子は、病回復を仏に祈願するための法会を行うことの許可をとり、三人の尼僧と法会を行いました。しかしその甲斐なく、敏達天皇は天然痘が原因で崩御してしまいました。
こうして天然痘が流行するなか、皇位は敏達天皇の異母弟である用明天皇に継承されました。
用明天皇は、母親が蘇我稲目の娘、つまり蘇我馬子の妹 堅塩姫(きたしひめ)であったことから、蘇我馬子の甥にあたりました。また、欽明天皇と堅塩姫の妹である小姉君(おあねのきみ)の娘である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を皇后としていました。穴穂部間人皇女も蘇我馬子の姪にあたりました。
このように、用明天皇は蘇我氏と非常に繋がりが深い天皇であったことから、崇仏思想を持っていました。
崇仏思想を持ち、蘇我氏と深いつながりを持つ用明天皇が皇位を継承したことについて、物部守屋は納得していませんでした。これまでの天皇とは違い、天皇自身が崇仏の思想を持っていたため排仏派としては、仏教が公認させる恐れがあったためでした。
そこで、皇族とのつながりを強化し朝廷内で権力を持ち始めた蘇我馬子に対抗するために、物部守屋は用明天皇の即位に不満を持っていた用明天皇の異母弟に当たる穴穂部皇子(あなほべのみこ)と手を組んだのでした。
しかし用明天皇は、585年に即位してすぐの2年目に病にかかったため、自身の病気平癒の為に仏教を公認したいと思うようになり、仏教公認に対し、臣下に議論をさせました。
物部守屋をはじめとする排仏派は当然ながら反対の立場をとりましたが、蘇我馬子を中心とした崇仏派が多数を占めていたため、仏教を公認する流れになっていきました。
一方で、危機感を感じた物部守屋は、水面下で排仏派の味方を集める動きをとるようになっていったのでした。
蘇我氏・物部氏の最終決戦!用明天皇からの皇位継承時に起こった丁未の乱
用明天皇は病気平癒の祈願として仏教の公認を進め、仏教に帰依しました。しかし、祈願の甲斐なく、即位後わずか2年の587年に崩御してしまいました。
そのような中、物部守屋はその後の皇位継承において、穴穂部皇子擁立で動きます。
一方で蘇我馬子は、穴穂部皇子の同母弟である泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を推薦しました。
しかし587年7月、物部守屋は、自身の軍を動かし、穴穂部皇子を即位させるための行動を起こそうとします。
その動きを察知した蘇我馬子は、欽明天皇の娘であり、敏達天皇の妃であり用明天皇の妹でもあった炊屋姫(かしきやひめ)に天皇の代理としての正当性から、皇族の代表として穴穂部皇子誅殺指示の詔を出してもらい、物部守屋が行動を起こす前に、穴穂部皇子を殺害し、河内国にあった物部守屋の舘に進軍しました。
この時蘇我馬子には、皇族として用明天皇の第二皇子であった厩戸皇子、次期天皇として推薦していた泊瀬部皇子、敏達天皇と炊屋姫の子である竹田皇子、諸豪族などが従軍しました。
物部氏はもともと軍事を担当する大連であったことから、戦闘に長けた精鋭の戦闘集団で蘇我氏率いる軍を迎え打ちました。強固に守りを固めた稲城より物部氏の軍勢は雨のように矢を打ち放つことで、蘇我馬子率いる軍は近寄ることができず、形勢不利な状態でした。
この際、厩戸皇子は仏法の加護を得るために白膠木(ぬるで)を切って四天王像を作り、勝利すれば、この四天王像を安置するための四天王寺を建立し、仏法を世に知らしめると誓いました。また、蘇我馬子も勝利すれば飛鳥の地に法興寺を構築すると祈願し、軍を立て直し進軍させました。
仏の加護があったためか、蘇我軍の迹見赤檮(とみのいちい)は大木に登っていた物部守屋を見つけ、射落としました。物部氏の軍は総大将を失ったことから総崩れとなり、蘇我馬子は親子二代で対立してきた政敵であった物部氏を完全に排除することに成功しました。
こうして物部氏が排除されたことで排仏派の発言力は衰え、蘇我馬子は泊瀬部皇子を崇峻天皇として即位させることで権力の中心に立ち、その後の推古天皇代には、皇太子となった厩戸皇子と連携しながら仏教の国内浸透を本格化させていきました。
この587年7月に発生した用明天皇崩御後の後継争いをもとに、大臣の蘇我馬子と大連の物部守屋が戦い、物部氏が滅ぼされた戦いが丁未の乱です。