飛鳥時代 聖徳太子の功績 仏教文化、遣隋使派遣、冠位十二階、十七条の憲法

仏教文化、遣隋使派遣、冠位十二階、十七条の憲法~飛鳥時代における聖徳太子の功績

聖徳太子による先進政治の導入

摂政(幼帝・女帝に代わってすべての政務をとる職)となった聖徳太子は推古天皇と蘇我馬子とともに、先進的な政治制度を導入し、天皇を中心とした中央集権体制国家の礎を築きました。

ではどのようにして、その礎を築いたのでしょうか?

これを知るために、聖徳太子が行ってきた実績を見ていくことにします。

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仏教文化の拡大

聖徳太子は丁未の乱(ていびのらん)の際に、勝利を祈願して仏教世界を守る神様とされる四天王の像を作り「勝利した暁には仏法を広めることに努める」と誓いましたが、その祈願の効果があってか、丁未の乱では蘇我馬子、聖徳太子らが勝利をおさめ、聖徳太子はその時の誓いを守るように摂政に就任した593年に四天王寺を建立しました。

594年には、聖徳太子の進言により推古天皇から仏教を広めるように詔(みことのり)(天皇の命令のこと)が出され、寺の建立が盛んになったとされています。

595年になると、聖徳太子は高句麗から来た僧・慧慈(えじ)に仏法を習い始めます。

このように聖徳太子が摂政になってからの数年は、仏教を広めること、学ぶことに力を入れていたことがわかります。

隋との接触

慧慈に仏教を習っていた聖徳太子は、慧慈から「隋(ずい)は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」ということも聞きました。

慧慈の言葉がきっかけとなったかどうかは定かではありませんが、中国の優れた文化を取り入れることで朝廷の権威を高める狙いもあり、日本は600年に隋に対して、最初の遣隋使(けんずいし)を送っています。

しかし、この遣隋使については日本側の記録には残っておらず、中国の「随書」に記載されています。

随書によると、日本の使者は隋の皇帝から「政治のあり方が道理に外れている。改めるように。」と言われ、隋と関係を結ぶことはでませんでした。

日本側にこの遣隋使の記録が残っていないのは、この出来事が国辱的だったためではないか、とも考えられています。

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国政の改革

その後、日本では国政の改革が行われます。

当時は豪族による権力争いが多く起こり、国がまとまっていない状態でした。そこで聖徳太子は中国や朝鮮を参考に、国をまとめるために天皇に権力を集め、天皇を中心にまとまるべきだと考えます。

そのために行った主な政策が①冠位十二階(かんいじゅうにかい)と②十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)です。

冠位十二階(603年制定)

冠位十二階は日本で初めて役人の階級を明確にした制度です。朝廷に仕えている役人を12の位(くらい)に分け、その位を表す冠を授けるというものでした。冠によって表された位を冠位と言い、日本書紀によると冠位は上から順に、大徳(だいとく)、小徳(しょうとく)、大仁(だいにん)、小仁(しょうにん)、大礼(だいらい)、小礼(しょうらい)、大信(だいしん)、小信(しょうしん)、大義(だいぎ)、小義(しょうぎ)、大智(だいち)、小智(しょうち)となっており、それぞれに異なる色がついていました。
ただし色に関しては記述がないため、様々な説が考えられていますが、江戸時代の国学者・谷川士清(たにかわ ことすが)の説(※)が通説となっています。これによると、それぞれの冠位に当てはまる色は以下の様になります。
大徳:濃紫
小徳:薄紫
大仁:濃青
小仁:薄青
大礼:濃赤
小礼:薄赤
大信:濃黄
小信:薄黄
大義:濃白
小義:薄白
大智:濃黒
小智:薄黒

※冠位十二階の色について
冠位十二階の色についての説というのは以下のようなものです。
まず、古代中国には「万物は木・火・土・金・水の5種類の元素から成る」という五行(ごぎょう)思想というものがあり、方角や色など様々なものに当てはめられています。
冠位の名称にもある仁・礼・信・義・智は儒教(じゅきょう)で大切だと考えられている5つの項目で五常(ごじょう)と呼ばれ、それぞれに対応する五行があります。また、五行にはそれぞれ対応する色があり、それを五色(ごしき、又は、ごしょく)と言います。
つまり五行を介して、五常(仁・礼・信・義・智)と五色を結びつけて考えることが出来るのです。

五常(五行)【五色】
仁 (木) 【青】
礼 (火) 【赤】
信 (土) 【黄】
義 (金) 【白】
智 (水) 【黒】

冠位でこれに当てはまらない「徳」については、儒教では五常の5つ全てを合わせたものとされているため、最上の位だったと考えられています。徳の色については、日本書紀の記述に「蘇我入鹿(そがのいるか)が紫冠を授けられた」とあったことより、紫であると考えられています。(蘇我入鹿は聖徳太子の死後、大きな権力で専横的な政治を行った人物として知られており、その地位は最高位の大徳であったと考えるのが妥当だと考えられるため。) また、冠位の大・小は色の濃淡で分けるという考えを取っています。

この冠位十二階の目的は、国の政治を行う中央政権を有能な人材によって組織し直し、天皇の権威を豪族より高くするためだったと考えられています。

この当時、国の政治は「臣(おみ)」や「連(むらじ)」といった姓を持つ豪族たちによって行われており、臣や連をまとめる「大臣(おおおみ)」や「大連(おおむらじ)」といった姓を持った豪族はとても大きな権力を持っていました。また姓は子供にも引き継がれたため、豪族の持つ権力は世代が変わっても大きいままでした。つまり、大きな権力を持った豪族が代々国の政治を取り仕切っていたのです。

これに対し、冠位十二階は「一族」に対してではなく、能力のある「個人」に対して与えられました。そして世襲もされませんでした。能力があれば、家柄に関係なく中央政権の役人になることが可能になったのです。この制度により、権力のある豪族で構成されていた中央政権を有能な人材によって作り直そうとしていたのだと考えられます。また、冠位を授けるのは天皇であったため、中央政権で権威を持っているのは豪族でなく天皇であるということを示そうとしたとも考えられています。

このように、聖徳太子は冠位十二階によって、豪族より天皇の権威を高くすることで、国をまとめようとしました。

十七条の憲法(604年制定)

これは現代の憲法とは異なり、役人の道徳的な心得を記したものです。

十七条の憲法の目的は、「天皇を中心とした国づくりを行い、一つの国としてまとまる」ためだと考えられます。「天皇の命令には従うこと」や「私心を持たずに国の為に働くこと」、「人と考えや能力が違っても怒りや嫉妬をせずに協力すること」など、憲法の内容を見ると、天皇を中心として一つの国としてまとまろうとしているのがよく表れています。

こうして、冠位十二階、十七条の憲法などの新しい制度を採り入れ、日本は天皇を中心とした国づくりの基盤を整えていきました。

十七条の憲法については⇒こちら

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隋との交流開始

日本国内の国政を整えた聖徳太子は607年に2度目の遣隋使を送ります。この遣隋使として任命されたのが、小野妹子(おののいもこ)です。

小野妹子は数十人の僧と共に日本から国書を持って隋を訪れ、隋の皇帝に仏教を学ばせてほしいという意図を伝えます。

その結果、中国の使者・裴世清(はいせいせい)らを連れて日本へ帰国することになり、ここから隋との交流が始まりました。

この時の日本側の目的は仏教を学ぶことの他に、隋との対等な外交をするためだったとも考えられています。

それまでの日本は中国に貢物をして「日本の国の王である」と認めてもらう朝貢(ちょうこう)という形式を取っていましたが、この時の遣隋使では貢物を持って行っていません。また、小野妹子の持った国書には「日出ずる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無しや、云々」と書き出されていたとあります。

天子とは君主の称号のことで、「王は天上の最高神である天帝(てんてい)の子であり、天命を受けて天下を治める」という古代中国思想が起源となっている言葉です。

国書の中の「日出ずる処の天子」とは日本の天皇を指し、「日没する処の天子」とは隋の皇帝を指しているのですが、ともに「天子」という言葉を用いていることからも、日本が隋と対等な関係を持とうとしたことが伺えます。

しかし、中国では天子は天下の中心であり、この世に一人しかいない神聖なものという思想であったため、「辺境の地の長が天子を名乗るとは何事だ」と隋の皇帝を怒らせてしまったそうです。

ただ、結果としてここから日本と隋の朝貢関係ではない外交が始まり、その後、3回もの遣隋使が派遣され、小野妹子が高向玄理(たかむこのげんり)や南淵請安(みなみぶちのしょうあん)、僧の旻(みん)と行った際にも交流を深めました。

このように、聖徳太子は日本の仏教の拡大や、中国からより多くの仏教の知識を得ようとしたことをきっかけに、国内の政治体制を整備し、天皇を中心とした中央集権体制国家の礎を築くことになりました。これが後の大化の改新や大宝律令に繋がっていきます。

飛鳥時代とはどんな時代?いつからいつまで?始まりは?都の場所は?

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[参考書籍]
日本の歴史 飛鳥・奈良時代 律令国家と万葉びと(小学館 鐘江宏之)

[参考サイト]
Wikipedia 飛鳥時代

飛鳥時代中心の年表

Wikipedia 飛鳥時代

Wikipedia 推古天皇

Wikipedia 聖徳太子

Wikipedia 蘇我馬子

仏像ワールド 四天王

Wikipedia 詔

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