富岡製糸場と絹産業遺跡群 日本の世界遺産

日本の世界遺産 富岡製糸場と絹産業遺跡群

1.世界遺産登録基準

富岡製糸場は周辺の養蚕関連の史跡と共に世界遺産リストに「富岡製糸場と絹産業遺跡群」という名前で登録されています。
世界遺産リストに登録されるためには、「世界遺産条約履行のための作業指針」に示される登録基準の内、少なくとも1つ以上の基準に合致する必要があります。
富岡製糸場は登録基準ⅱ、ⅳを満たし、世界遺産リストに登録されました。

世界遺産登録基準 ⅱ. の適用について

富岡製糸場は西洋の製糸技術を導入した世界最大規模の製糸工場でした。日本の養蚕・製糸技術と西洋の製糸の大量生産技術が組み合わさり、日本の生糸の生産は技術革新を果たします。このことで高品質の生糸の大量生産が可能となり、日本は世界一の生糸の輸出国となりました。富岡製糸場と絹産業遺産は日本の環境に合わせた西洋の製糸技術の導入、国内の養蚕・製糸技術の改革をもたらし、世界の絹産業の発展に大きく寄与しました。この点が基準ⅱ.(人類の価値観の交流があったことを示すもの。)に該当するとして、評価されました。

世界遺産登録基準 ⅳ. の適用について

富岡製糸場と絹産業遺跡群は良質な生糸を大量生産できるようになった集合システムとして優れた見本となっています。中でも富岡製糸場は手繰りや坐繰りというそれまでの製糸方法から、西洋式の繰糸器での大量生産に切り替わる段階を示す建造物であり、製糸技術の発展の様子が見て取れます。また、瓦屋根を葺いた木骨煉瓦造(もっこつれんがぞう)など日本特有の和洋折衷の建築様式が見られる優れた事例でもあります。この点が基準ⅳ.(建築様式や建築技術、科学技術の発展段階を示す遺産)に該当するとして、評価されました。

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2.富岡製糸場と絹産業遺跡群の遺産価値総論

富岡製糸場と絹産業遺跡群の遺産価値は「生糸産業の技術革新の歴史を今に伝えていること」です。

19世紀末から20世紀にかけての日本の生糸産業の発展は近代社会の中での大きな成功例と言えるでしょう。それまで生産量の限られていた生糸の大量生産を可能にし、日本の生糸の生産量・輸出量は世界一となりました。その後も生産量を伸ばしつつ、粗悪品が多かった日本の生糸の品質を世界最高級の品質にまで高めました。こうして生糸産業の技術革新は日本近代化の礎となりました。

富岡製糸場と絹産業遺跡群はこうした生糸の良質化・大量生産化を可能にした技術革新の中心となった建造物群です。構成資産は富岡製糸場、田島弥平旧宅(たじまやへいきゅうたく)、高山社跡(たかやましゃあと)、荒船風穴(あらふねふうけつ)の4つです。

遺産の功績は大きく分けて以下の3つです。

(1)生糸の大量生産設備の導入・発展(富岡製糸場)
(2)生糸の材料となる蚕の良質化(田島弥平旧宅、高山社跡)
(3)生糸の材料となる蚕の大量生産化(荒船風穴)

4つの構成資産はこの功績を象徴する優れた事例となっています。

また、富岡製糸場は西洋建築様式の木骨煉瓦造の上に日本の瓦屋根を葺くという明治初期に見られるようになった日本独特の建築様式を用いています。この建築様式の建物がここまで良好な状態で残っているのは他に類がなく、建築物としての価値も非常に高いと言えます。

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3.富岡製糸場と絹産業遺跡群の歴史

富岡製糸場と絹産業遺跡群では大きく分けて三つの技術革新が起こりました。

一つ目は西洋の製糸技術導入による生糸の大量生産が可能になったこと、二つ目は養蚕(ようさん)手法の改良により、生糸の原料となる蚕を良質に育てられるようになったこと、三つ目は風穴を利用した蚕種(さんしゅ)の貯蔵方法により、大量の養蚕が可能になったことです。
これらの技術革新により、日本の生糸産業は大きく発展しました。

その歴史について紹介します。

(1)製糸技術の発展

19世紀末、当時の日本では生糸が国内最大の輸出品でした。そのため生糸の生産量は増加していくのですが、それに伴い粗悪品も氾濫するようになっていました。富国強兵を掲げる明治政府は良質な生糸の大量生産を国策として掲げ、その第一歩として官営模範工場(かんえいもはんこうじょう)として富岡製糸場を建設しました。官営模範工場は政府が作る民間の手本となる工場で、そこで技術を覚えた人が他の場所で指導者となり、その技術を国内に広めるために作られたものです。

当時の生糸産業の先進国であった西洋の技術を取り入れるため、明治政府は富岡製糸場建設の指導者としてフランス人の生糸技術者ポール・ブリュナを雇います。ポール・ブリュナ指導のもと、1872年に西洋の繰糸器が大量に導入された世界最大規模の製糸工場・富岡製糸場が完成し、生糸の大量生産が可能になりました。この技術は、各地方から集められた工女(こうじょ)と呼ばれる女性たちが地元に持ち帰ることで日本国内に伝播され、日本の製糸技術は大きく発展しました。

(2)養蚕手法の改良

富岡製糸場が出来る少し前の1863年、養蚕業者である田島弥平は試行錯誤のうえ、換気を大切にした「清涼育」(せいりょういく)という新しい養蚕技術を確立しました。彼は自宅を改築し、その効果を立証、さらに『養蚕新論』(1872年)、『続養蚕新論』(1879年)などの出版により、その養蚕手法を民間に広めました。

その少し後の1884年、養蚕業者である高山組の社長・高山長五郎(たかやまちょうごろう)は田島弥平の確立した「清涼育」と、寒冷地法で昔から利用されていた「温暖育」(おんだんいく)を組み合わせた「清温育」(せいおんいく)という手法を確立します。この手法は多くの養蚕農家で取り入れられ、明治時代には全国に広がりました。同年、高山組は「高山社」と名を改め、1901年にはその技術を教える「高山社蚕業学校」を設立、その技術の伝播・発展に大きく貢献しました。

(3)風穴を利用した蚕の大量生産化

江戸時代まで、養蚕回数は年に一度きりでした。それは蚕が春にしか孵化しないためです。しかし明治時代に入り、蚕の卵である蚕種を気温の低い風穴に貯蔵することで、夏、秋にも蚕を孵化させることができるとわかりました。これにより、年に複数回の養蚕が可能になります。この風穴を利用した蚕種貯蔵において国内最大の貯蔵量を誇っていたのが荒船風穴です。荒船風穴は1905~1914年にかけて作られるのですが、当時の国内での最大蚕種貯蔵枚数が42万枚だったのに対し、荒船風穴は110万枚と規模の点で突出していました。この荒船風穴の完成によって、日本では大量の養蚕が可能になったのです。

これらの技術革新は良質な生糸の大量生産を実現し、日本の生糸産業は飛躍的に発展します。また富岡製糸場で技術を学んだ工女たちが日本国内にその技術を伝えることにより日本全体の生糸の生産量が増加し、1909年には日本の生糸輸出量は世界一となります。その後も繰糸機の進化などより、日本の生糸は良質化・大量生産化を進めていきます。
良質な生糸の大量生産は、それまで高級品であった絹を一般の人々へ広めることに繋がり、世界中の生活や文化をより豊かにすることになりました。

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4.富岡製糸場と絹産業遺跡群の構成資産の概要

富岡製糸場と絹産業遺跡群の構成資産は富岡製糸場、田島弥平旧宅、高山社跡、荒船風穴です。それぞれの概要について以下に記載します。

(1)富岡製糸場

富岡製糸場は1872年に生糸の品質と生産力の向上を目的として明治政府によって建設された官営模範工場です。西洋の製糸技術を導入するために、建設にはフランス人の生糸技術者ポール・ブリュナが指導にあたりました。工場の大きさは長さ140.4m、幅12.3mと大きく、設備はフランス式の繰糸器300釜が設置されていました。建設当時、本場フランスやイタリアでさえ繰糸器数150釜程度の製糸工場が一般的であったことからも、富岡製糸場が世界でも最大規模の製糸工場だったことがわかります。

ポール・ブリュナは建設前の調査を踏まえ、フランスの繰糸機をそのまま大量に導入するのではなく、日本の作業者の座高に合わせて繰糸器の高さを調節したり、湿度の高い日本の気候に合わせた「揚返し」(あげかえし)という工程用の揚返器156窓を設置したりと、西洋の技術を日本の環境に上手く適応させて導入しました。

工場内の建造物は木の骨組みに煉瓦壁の「木骨煉瓦造」という西洋の建築方法が採用されています。これに日本古来の瓦屋根が用いられており、日本と西洋の技術を融合させた建造物群となっています。

この建築方法は明治時代の建造物によく見られるものですが、富岡製糸場の煉瓦壁はフランス積み(フランドル積み)と呼ばれる積まれ方をしています。これは明治初期にはよく採用されていたのですが、中期以降はより耐久性の高いとされるイギリス積みが主流になったため、現在ではあまり見られなくなった積み方です。富岡製糸場はフランス積みが使われた木骨煉瓦造の建造物の中では非常に保存状態が良く、建築物としても非常に貴重なものとなっています。

主な建物は国宝及び重要文化財として保存されている以下の9つです。
①繰糸所(そうしじょ)(国宝)
②東置繭所(ひがしおきまゆじょ)(国宝)
③西置繭所(にしおきまゆじょ)(国宝)
④首長館(しゅちょうかん)(重要文化財)
⑤蒸気釜所(じょうきかましょ)(重要文化財)
⑥検査人館(けんさにんかん)(重要文化財)
⑦女工館(じょこうかん)(重要文化財)
⑧鉄水溜(てっすいりゅう)(重要文化財)
⑨下水竇(げすいとう)及び外竇(がいとう)(重要文化財)

(2)田島弥平旧宅

画像:ググっとぐんま

養蚕業者であった田島弥平の住居兼蚕室(さんしつ)です。群馬県伊勢崎市にあります。彼の養蚕理論である清涼育を実践するために自宅を改築し、その効果を確かめた建物です。

特徴としては、清涼育に必要な換気用の総ヤグラが屋上棟頂部の端から端まで載っています。この蚕室が完成した1863年は「清涼育」が確立した年とされています。

田島弥平旧宅は代々田島弥平の子孫が保存のために尽力してきました。今でもその子孫が暮らしており、見学は外観のみ可能です。

(3)高山社跡

高山社跡

画像:世界遺産 富岡製糸場と絹産業遺産群

高山社跡は群馬県の高山村(現群馬県藤岡市高山)にあった養蚕業者「高山社」を設立した高山長五郎の旧宅です。ここは高山長五郎の養蚕理論「清温育」を実践するための住居兼蚕室でした。2階建ての母屋に換気用の天窓が3つ突き出た構造となっており、各部屋には火鉢が置かれています。これにより、温度と換気の管理・調節ができるようになっていました。

この敷地内には他にも以下の建物があります。
①長屋門(ながやもん)(門番が住んでいた部屋)
②焚屋(風呂)
③桑貯蔵庫
④外便所

(4)荒船風穴

群馬県下仁田町にある蚕種の保存をするための風穴です。夏でも2~3℃の冷たい風が吹き出しています。1905~1913年にかけて庭屋静太郎(にわや せいたろう)・千壽(せんじゅ)親子によって作られました。蚕種貯蔵風穴としては日本最大規模で、1909年時点で貯蔵可能蚕種枚数は110万枚とされていました(当時全国一とされていたのは湖南村の風穴:蚕種貯蔵数42万枚)。最盛期は全国2府32県及び朝鮮半島からも蚕種貯蔵委託を請け負っていたとされています。

その構造は春蚕、夏秋蚕の貯蔵を分け、出荷時には順次自然の温度に慣らしていくために、地下2階、地上1階の3層に分けられていました。

人工孵化法の発見や氷冷蔵の普及などによって風穴の利用は減っていき、荒船風穴も1939年には蚕種貯蔵がないものとして扱われていました。現在は石積みの残る風穴のみが残っています。風穴の保護のために屋根をつけるという案もあるそうですが、これに関してはICOMOSから「屋根の利点と欠点に関してさらに深い観点からの検討を加えること」という勧告がなされています。

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5.片倉工業の功績

富岡製糸場の遺産価値の1つにその保存状態の良さが挙げられています。この保存状態に関して、大きな功績を残したのが片倉工業という会社です。

片倉工業は富岡製糸場の出来た明治初期、1873年に創業した製糸会社です。1939年に富岡製糸場を買い取り、その後2005年に富岡市に引き渡すまで工場を所有していた民間最後のオーナーです。

富岡製糸場は1987年に操業を停止しましたが、片倉工業は「売らない、貸さない、壊さない」の方針を守り、操業停止後も維持と管理を続けてきました。

その理由は、片倉工業が明治以降の日本の近代化の原動力となった製糸業の役割を認識し、その原型である富岡製糸場を残すことが重要と考えたためです。

そのため、片倉工業は修理費用を安くするよりも当時の修理工法をすることにこだわりました。
また、管理事務所を設置し、落雷や火災といった自然災害にも最新の注意を払ってきました。
その費用は驚くことに年間1億円ほどもかかっていたそうです。

しかし、その結果として富岡製糸場の保存状態は非常に良く、明治政府が作った官営工場の中では唯一ほぼ完全な形でその姿を残す工場となっています。

片倉工業のこうした働きは非常に評価が高く、富岡製糸場の世界遺産登録にとって大きな役割を果たしたのは間違いないでしょう。

【参照HP】

富岡製糸場と絹産業遺跡群|しるくるとみおか 富岡市観光ホームページ

Wikipedia 富岡製糸場と絹産業遺跡群

ググっとぐんま公式サイト 富岡製糸場と絹産業遺跡群

日本の世界遺産 富岡製糸場と絹産業遺跡群

Wikipedia 富岡製糸場

世界遺産 富岡製糸場 建物の紹介

Wikipedia 田島弥平旧宅

Wikipedia 高山社

群馬県藤岡市 養蚕法「清温育」

Wikipedia 荒船・東谷風穴蚕種貯蔵跡

下仁田町ホームページ 世界遺産「荒船風穴」史跡概要

産業遺産からみる,近代日本の製糸業

シルクの歴史 シルク物語

片倉工業と富岡製糸場が歩んだ歴史

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