壬申の乱とは?原因は?天皇や場所、時代背景をわかりやすく解説

大友皇子と大海人皇子の皇位継承の内乱 壬申の乱の原因は?わかりやすく簡単に

第35代皇極天皇(こうぎょくてんのう、594年~661年、在位642年~645年)の時代、蘇我氏宗家を滅ぼす乙巳の変を起こした中大兄皇子は、乙巳の変以降、第36代の孝徳天皇(こうとくてんのう、596年~654年、在位645年~654年)、第37代斉明天皇(さいめいてんのう、594年~661年、在位655年~661年)の皇太子として大化の改新を進めました。

そして、斉明天皇が崩御してから7年後に第38代天智天皇(てんじてんのう、626年~672年、在位668年~672年)として即位しますが、その4年後に病に倒れてしまい、崩御してしまいました。

天智天皇が即位した当時の皇位承継は、親子より兄弟が優先されていたため、天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)が皇太弟(こうたいてい。皇位を継承する天皇の弟)として次期天皇になるよう定められていましたが、弟の大海人皇子は辞退し、その数年後に出家しました。そのため、天智天皇の死後には天智天皇の子であった大友皇子(おおとものおうじ)が政権を担うようになります。

しかし、その後、叔父の大海人皇子と甥の大友皇子との間で皇位継承の争いが起こります。

この叔父と甥との間で起こった皇位継承の内乱は、日本古代の内乱の中でも最大規模を誇るもので、この内乱を壬申の乱と呼びます。

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壬申の乱が起こった原因は?孝徳天皇即位から天武天皇即位までの歴史

壬申の乱が起こった原因を理解するために、乙巳の変(645年、いっしのへん)白村江の戦い(663年、はくすきのえのたたかい/はくそんこうのたたかい)あたりから簡単に説明します。

中大兄皇子が天智天皇として即位するきっかけとなった国際戦争

乙巳の変により、蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子が殺害され蘇我氏宗家は滅びました。この事件をきっかけに、皇極天皇は息子の中大兄皇子に皇位を継承しようとしましたが、中大兄皇子は時期尚早と継承を拒み、結果的には皇極天皇の弟である軽皇子(かるのみこ)が皇位継承し、孝徳天皇として即位しました。

中大兄皇子は孝徳天皇即位時に皇太子となり、内臣(うちつおみ/ないしん)となった中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともに政治改革を進めていきますが、孝徳天皇即位時から都を置いた難波より元の飛鳥に遷都するよう求めました。しかし、孝徳天皇はこれに否定的だったことから、遷都方針の違いにより孝徳天皇と袂を分けてしまいます。

中大兄皇子は母である皇極天皇や孝徳天皇の后になっていた実の妹である間人皇女(はしひとのひめみこ)、大海人皇子などの皇族や臣下の豪族などを引き連れて都の難波宮を後にし、飛鳥へと戻ってしまいました。その後、難波宮に一人取り残された孝徳天皇は失意の中崩御しました。

次期天皇ですが、皇太子の中大兄皇子はここでも即位せず、皇極天皇が655年に重祚(ちょうそ)し、第37代斉明天皇として即位しました。しかし、重祚した斉明天皇も661年に68歳にて崩御し、再度中大兄皇子が天皇に即位する順が回ってきたのでした。

ですが、斉明天皇崩御後も、中大兄皇子は天皇に即位せず政務を行いました。この背景には、白村江の戦いでの敗戦に伴う国防の強化対策が最優先になっていたからでした。

白村江の戦とは、朝鮮半島における百済再興の支援の中で起こった大きな戦いで、日本の有史以来、初めての外征における戦いでした。乙巳の変以降、中央集権化を推し進める中、朝鮮半島では友好国であった百済が、660年に新羅と唐の連合軍に敗れ滅亡してしまいました。

その後百済の遺臣より百済再興のために復興への支援をして欲しいとの要請があり、これまで百済から朝鮮半島経由で入ってきた物や書物が入ってこなくなることへの懸念、新羅と唐の連合軍を下すことができれば百済を配下にでき、新羅や高句麗といった属国を手に入れ朝鮮半島への影響力を拡大させることができ、西の大国である唐に力を示すことができるという思惑から、斉明天皇は百済復興を前面的に支援するように動きました。

斉明天皇は過去最大規模となる軍勢を朝鮮半島へ派兵しましたが、661年に朝鮮に向かって渡航する前に九州で息を引き取ってしまいます。それに伴い、中大兄皇子が軍の大将に就任し、朝鮮へ出征しました。

しかし、朝鮮半島西側に当たる白村江で唐本国から送られた増援軍に大敗し、百済から撤退しました。この国際戦争に敗れ、百済の王族は高句麗に逃れますが、高句麗も唐に敗れたことから百済は完全に滅亡してしまいました。

白村江の戦いで大敗した中大兄皇子は、戦勝国による侵略の脅威から、大宰府や対馬など、九州沿岸を中心に唐や新羅が攻めてきても対向できるように守りを固め、さらに都を飛鳥から近江大津宮に遷都しました(667年)。
そして、このような国防対策が一区切りついた後、中大兄皇子は第38代天智天皇として即位しました。

なお、中大兄皇子が乙巳の変により蘇我氏を排除し、いつでも天皇へ即位できる立場であったにも関わらず乙巳の変以降23年間即位しなかった理由には、国防対策の他、蘇我系や蘇我氏寄りの豪族から反感を受けないようにしていたという説や、妹の間人皇女(はしひとのひめみこ)との不倫関係が原因であったという説も歴史学的には考察されています。

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争いを避け隠居した大海人皇子

飛鳥時代の皇位継承権の慣例では、直系の長男よりも兄弟が優先されていたため、皇太子には天智天皇の皇子であった大友皇子ではなく、弟の大海人皇子が皇太子となっていました。

乙巳の変以降、大海人皇子は、中臣鎌足とともに天智天皇を支え、人当たりもよく温厚な性格であったこと、中央集権国家への急激な改革を反対する豪族に対しての調整役として豪族の信頼を得ており、周囲からも時期天皇として認められた存在になっていました。

しかし一方で、天智天皇は子どもの大友皇子への愛情から、大友皇子へ皇位を継承したいと考えるようになっていました。それは671年に大友皇子を太政大臣に付けるなど、政策の中でもわかるようになってきていました。

大宝律令以前の太政大臣の権限や地位は、最有力の皇位継承者であり、天皇の政務を代行するとともに天皇との共同統治権を持っていました。

このような行動から、大海人皇子は天智天皇の気持ちを察します。

乙巳の変や大化の改新を進める中でも、自分の意にそぐわないものを次々と処分してきた天智天皇でしたので、それゆえに自身の身の危険も察知したのでした。

大海人皇子は、天智天皇の病が深刻になってきたある日、天智天皇より皇位を譲ると言われます。

大海人皇子には皇位継承権があったのもの、回答次第では殺されると判断し、皇位継承の辞退を申し入れ、皇后に政務を任せ大友皇子を皇太子とし摂政としてはどうかと推挙しました。

さらに大海人皇子は、朝廷に残って大友皇子を後押しするとはせず持病を理由に出家を宣言し、すぐに頭を丸めます。朝廷に残ったとしても、大友皇子の政敵とみられ命が狙われると考えたからでした。その後、妃の鸕野讃良皇女(うののさららのこうじょ:後の持統天皇)らを引き連れ吉野宮に下り隠棲を始めたのでした。

このとき、天智天皇臣下の豪族たちは、「虎に翼をつけて放てり」といった表現をしており、猛獣を自由にさせてしまったということで朝廷は大海人皇子を危険視していました。

しかしその一方で、大海人皇子は「吉野には雪が降っていて、雪や雨がずっと降り続くような沈んだ気分で山道を進み吉野に来た」という、吉野に下る際に都落ちの気持ちで向かっていたことがこの歌からも垣間見える歌を残しています。

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天智天皇の崩御により起こった皇位継承と壬申の乱

大海人皇子が出家し吉野に移った後、天智天皇は病の末期を迎え、671年12月に崩御しました。それに伴い大津宮では、皇太子であった大友皇子が大君として即位し政権を担うようになりました。

※大友皇子は大君に即位したものの、即位に関連する儀式を行うまでに壬申の乱がおこり、治世も半年程になってしまったことから、歴代の天皇に数えられていませんでした。そのため、江戸時代までは諱(おくりな)がありませんでしたが、明治3年になり弘文天皇という名が追号されました。

天智天皇の墓を作るため、朝廷は尾張や美濃など東国の農民を集め、造成の準備を始めました。

それとともに招集し造成地に移動していた農民たちには、武器が配られ、大津の都から元の都の飛鳥京にかけての街道には見張りが設置、大海人皇子のいる吉野への食料を運ぶ道を閉ざそうとする動きがあることなどの情報が大海人皇子に入りました。

朝廷は危険とした大海人皇子を追い込む動きに出たのでした。

これを受け大海人皇子は、このままでは危ないと判断し、朝廷に対して反旗を翻し、兵をあげる覚悟を決めました。そして、吉野という土地柄、兵を集めるにも動きが取れないことから、自身の私領地があった美濃の不破へと出立します。

美濃は大海人皇子の舎人(とねり)である村国男依(むらくにのおより)をはじめ、大海人皇子に使える豪族がいたため、美濃を拠点に戦準備を進める目論見でした。

美濃についた大海人皇子は不破を拠点として、東国の豪族を味方に付けていきました。天智天皇の独裁的で強権的な政治に反発心を持っていた豪族たちは、天智天皇の治世に橋渡しとしての役割をしていた大海人皇子であれば、この政治姿勢を変えてくれると考え、味方に付いたのでした。

大海人皇子が吉野を立った際、大友皇子の家臣はすぐに攻撃するべきだと大友皇子に進言します。大津宮から不破までは125km程度しかないことから、大津宮から出兵すれば大海人皇子達が不破に着くよりも先に到達できるからでした。

ですが大友皇子は、自身が大君であるが故の自信があったのか、后の実父であり自らの父の弟にもあたる大海人皇子に対しての攻撃について躊躇していたのか諸説あるものの、この進軍について却下しました。初動で大友皇子が動かなかったこともあり、大海人皇子は無事に不破入りすることができたのでした。

不破に入った大海皇子は、不破街道を封鎖しました。東国の豪族への朝廷からの連絡路を閉ざすことで、東国の豪族が朝廷に付くことを阻害したのでした。

大海人皇子が不破に入ってからの動きに焦った大友皇子は、急ぎ東国、中国地方、九州の豪族に支援を呼びかけるために動きをかけます。

しかし東国については、不破街道が封鎖されているため先に進めず、東国への協力要請はあきらめるしかない状態でした。また九州や中国地方などの西国の豪族も、東国の豪族と同じように、天智天皇時代の処遇への不満や、白村江の戦での疲弊などから、朝廷への協力が得られませんでした。

しかしそれでも近隣の豪族や天智天皇寄りであった豪族を中心に兵が集められ、大海人皇子と戦を迎えることになりました。

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壬申の乱の戦い

壬申の乱における主戦場は大和(奈良地方周辺)と近江(琵琶湖周辺)でした。

まず戦いは、まず大和側で起こります。

大海人軍は大和地方から近江に向かって進軍しましたが、近江から派兵された大友軍に敗れ、一度敗走することに。

しかし、美濃から送られた数万の大海人軍が合流し、勝利しました。

以降大友軍の大和地方への進軍はありませんでした。

大和での戦いが終わる頃、大海人皇子軍は近江方面への進軍を開始し、琵琶湖の東沿いに主力部隊を進めました。

そして、近江から進軍してきた大友皇子軍と息長(現在の滋賀県米原市付近)で開戦。この戦いに勝利し、以降の戦いで連戦、連勝していきます。

最大の戦となったのは、琵琶湖南端付近の瀬田川を挟んでの戦いでした。軍の後が見えないほどの兵の数での戦いで、大友軍は瀬田川にかかる橋の板をはずして敵を落とすという罠を仕掛けていましたが、大海人軍に罠を見破られ、総崩れになりました。

瀬田川の決戦に勝利した大海人皇子軍は大津京に向かいさらに進軍し、瀬田川の決戦に負けた大友皇子は、山前(やまさき※)へ敗走しましたが、逃げ切れないと判断し、山前の地で自害し、壬申の乱は終結(672年)しました。

※現在の京都府乙訓郡大山崎町の辺りとみられており、本能寺の変の後、明智光秀の最後の戦いとなった山崎の戦いの舞台にもなった場所。

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天武天皇の即位と中央集権化

壬申の乱に勝利した大海人皇子は、美濃で戦後処理を行ったのち飛鳥に戻り、673年2月に第50代天武天皇(てんむてんのう、~686年、在位673年~686年)として即位しました。

また即位とともに飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)に都を移し、唐の都を手本とした日本で初めての計画都市である藤原京の造成を始めました。

※都は694年に完成しますが、生活公害などへ対処する技術がなかった初めての都市であったことから、公害対策なども含め710年に持統天皇の異母妹に当たる元明天皇により平城京に遷都されました。

天武天皇の目指した政治は、兄天智天皇と同じ天皇を中心とした中央集権の政治体制でした。乙巳の変以降、大化の改新により中央集権化は進んでいましたが、天武天皇の即位により、その政治制度改革は加速して進んでいくようになります。

天武天皇は、まずは国名を日本と定め、大王を天皇と呼ぶようにしました(歴史上、天皇を用いたのはこの天武天皇からでした)。これは天皇を今まで豪族を取りまとめる位置づけだった王から、日本の国の統治者として位置づけたものでした。

また朝廷に大臣職を置かず、豪族を上級役人に登用せず、自身の皇子や天智天皇の皇子たちを要職に就ける皇親政治をとりました。これは、天武天皇の子や天智天皇の子たちが後世、自身と同じように身内同士の抗争を起こさないようにするためでした。

その一方で、官僚制度を見直し、これまでのような家柄だけでなく、勤務評定を行い、才能面を重視して昇進する制度の整備を進めました。

さらに684年には、これまでの姓制度を改め、新たな身分制度として八色の姓(やくさのかばね)が作られました。
これは、壬申の乱の後、各豪族の勢力に大きな差が生じ、従来の姓が示す身分が実態と合わなくなっていたものを実態に合わせるもので、「真人」(まひと)・「朝臣」(あそみ)・「宿禰」(すくね)・「忌寸」(いみき)・「道師」(みちのし)・「臣」(おみ)・「連」(むらじ)・「稲置」(いなぎ)の順位で8つの姓を制定し、「真人」・「朝臣」・「宿禰」という姓は、従来からある臣や連といった姓を持つ豪族の中から皇族との関係が深い豪族に与えられ、高い身分を与えることで皇族そのものの地位を向上させるとともに、家柄を明確にすることで、中央と地方の豪族の関係も明確に線引きしたのでした。

また天智天皇時代に作られた冠位二十六階を踏襲した上で、685年には冠位を諸王十二階、諸臣四十八階に細分化した新たな冠位制を施行させました。

689年には飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)という日本最古の律令を出します。

この飛鳥浄御原令は、法典というレベルではなかったものの、天皇中心の中央集権体制を法的に裏付けしたので、天皇制を制度として定着させることを盛り込んだほか、定期的な戸籍の作成と、それによる班田収授を定めた内容となっていました。この飛鳥浄御原令が作られたことにより、701年の大宝律令制定に繋がったのでした。

このような政策を進めた天武天皇は、686年に崩御。後継者としていた草壁皇子が先に亡くなってしまったことにより、草壁皇子の皇子であった軽皇子(かるのみこ)が即位できるまでの間、鸕野讃良皇女が第41代持統天皇として690年に正式に即位しました。

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大友皇子は千葉まで敗走?現在にも言い継がれる大友皇子の落ち延びた伝説

大友皇子は壬申の乱で敗れ、山崎の地で自害したと日本書紀では記録されています。大海人皇子は首実験にて弘文天皇であることを確認し葬ったのですが、この首が大友皇子のものではなく影武者のもので、愛知県や千葉県に逃げ落ちたという伝説があります。

愛知県岡崎市に残る伝説

愛知県では、現在の岡崎市の西部に大友皇子が創建に関わったとされる寺社や大友皇子を祭神とする神社があります。大友皇子の名前を地名に残す岡崎市東大友町には、大友皇子が天照大御神を祀るために創建したと伝わる神明社(しんめいしゃ)があり、岡崎市西大友町には大友皇子を開基とする玉泉寺があります。

この岡崎氏大友に伝わる伝説では、大友皇子は大津宮を従者たちと抜け出し伊勢神宮に逃げ落ち、そこから船で伊勢湾を横断し三河湾に入り、矢作川を上って大友の地にたどり着き、この地に舘を建て住み着き生涯を終えたとされています。
大友皇子は、岡崎市にある小針古墳に埋葬されたと言い伝えられています。

千葉県に残る伝説

千葉県君津市や大多喜町に大友皇子とその臣下たちにまつわる伝説や史跡などが数多く残っています。

瀬田川の決戦に敗れた大友皇子は重臣や侍女たちを引き連れ、伊勢まで逃げ落ち、伊勢から船で伊勢湾を横断、房総半島に到着し、現在の君津市や市原市など房総半島西側の周辺を拠点に生活していたという説があり、このエリアには大友皇子を祭神とする神社があるほか、大友皇子の妃であった十市皇女やその子を弔った神社など、色々な伝承が周辺各地に残っています。

大友皇子(弘文天皇)を祭神とする神社は君津市の白山神社で、その背後にある白山神社古墳と呼ばれる前方後円墳には大友皇子が埋葬されていると伝えられています。

白山神社は、御腹川で割腹し自害した大友皇子の怒りを鎮めるために天武天皇が作らせた神社とも言い伝えられており、白山神社古墳の前方後円墳の円墳からは7世紀後半のものと思われる刀や鏡、勾玉といった三種の神器や陶器などが発見されていることからも、大友皇子の墓所としての説は真実味を持っているのです。

なお御腹川は、天武天皇の追っ手に大友皇子が見つかり割腹した場所で、腹を切った場所ということで御腹川の名前がついたという伝説が残っています。

また君津市と隣接する大多喜町には、十市皇女の伝説が残ります。

大友皇子と一緒に逃げていた十市皇女は身籠っており、追手と戦うことを決意した大友皇子と別れて行動することになり、山の中に分け入って辿り着いた筒森の地で出産しました。しかし、それまでの長旅からの疲れや栄養不足の影響で、生まれた赤ちゃんとともに亡くなってしまい、地元の里人により十市皇女と赤ちゃんは弔われ、その際に作られたのが筒森神社というものです。

筒森神社は十市皇女を祭神とし、現在は安産の神様として祀られています。