乙巳の変とは?その理由、大化の改新との関係、真相、エピソード等わかりやすく解説

大化の改新のきっかけとなった乙巳の変とは?理由、真相、エピソード等わかりやすく解説

乙巳の変とは、645年に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)ら複数の宮中関係者により、大臣(おおおみ)として当時の政権で権力をふるっていた蘇我入鹿(そがのいるか)を宮中で暗殺し、入鹿の父親の蘇我蝦夷(そがのえみし)を自害に追いこんだ政変のことをいいます。

この乙巳の変により一部の蘇我一族は残ったものの蘇我宗家は滅亡し、一族は衰退の一途をたどり結果的には蘇我一族は滅んでしまいます。

そして、乙巳の変が起こるまで権力をふるっていた蘇我氏に代わり朝廷の実権を握った中大兄皇子は皇太子となり、内臣(うちつおみ/ないしん)となった中臣鎌足とともに孝徳天皇のもとで豪族の田荘(たどころ)、部曲(かきべ)を廃止して公地公民制への移行を目指す改新の詔を発布(646年)します。

この646年に発布された改新の詔がもとになる『公地公民』や『班田収受の法』、『租・庸・調などの税制』など一連の政治制度改革のことを大化の改新といいます。

1985年以前に生まれた方は、645年の乙巳の変を大化の改新と歴史の授業で習いましたが、歴史は考古学調査などで新たな発見があれば、内容も変わっていきます。1985年以前に生まれた方は大化の改新をそのまま乙巳の変に置換えてください。

なお乙巳の変の読み方は『いっしのへん』の他、『いつしのへん』『おっしのへん』とも読まれたりします。これらはどれも間違いではなく、学者や書物によって言い方が違うだけであり統一されていないだけです。

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乙巳の変が起きた理由、原因、きっかけ、エピソード

乙巳の変が起きた理由は、中大兄皇子が父の舒明天皇(じょめいてんのう(593~641年))の死後、母の皇極天皇(こうぎょくてんのう(594~661年))即位後に大臣となった蘇我入鹿による政治姿勢に対し危機感を持っていたことだと考えられています。

この蘇我入鹿が権力を持つまでの流れは蘇我氏が朝廷で地位を固めた蘇我稲目(入鹿の曽祖父)の代までさかのぼります。

蘇我稲目が大臣へ

古墳時代末期に第26代天皇として即位した継体天皇(けいたいてんのう(450~531年))から27代・28代・29代と3人の子どもが順に即位します。

第28代宣化天皇(せんかてんのう(467~539年))の際、それまで大伴氏と物部氏の2大豪族が朝廷の政治に関わっていたのですが、経済と外交を担当する大臣(おおおみ)として蘇我氏(蘇我稲目)を加えました。

第29代欽明天皇(きんめいてんのう(509~571年))の時代、朝廷は軍事と裁判を担当する大連(おおむらじ)として大伴氏と物部氏を当て、大臣には兄の宣化天皇に続き蘇我稲目を当てました。

この欽明天皇の時代、朝鮮半島では新羅から攻入られていた任那(みまな)が新羅に併合されてしまう事件が発生します。

その際に、継体天皇の時代に発生していた百済への任那4県の割譲が失政だったと物部氏などにより糾弾され、大伴氏は失脚します。それ以降の朝廷は、物部氏と蘇我氏の二大豪族が中心となって指揮をふるうことになります。

そして蘇我稲目は、欽明天皇に2人(堅塩媛(きたしひめ)、小姉君(おあねのきみ))、用明天皇に1人(蘇我石寸名(そがのいしきな))と3人全ての娘を妃として嫁がせ、天皇と姻戚関係になることで天皇家との結びつきを強くしていきました。

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蘇我馬子が大臣へ

欽明天皇の崩御後第30代天皇として即位した敏達天皇(びだつてんのう(538~585年))の治世では、蘇我稲目も引退し息子の蘇我馬子が大臣となります。敏達天皇が崩御した後、蘇我馬子が推す敏達天皇の異母弟である第31代用明天皇(ようめいてんのう(517~587年))が即位します。

この用明天皇の母親は、蘇我稲目の娘の一人である堅塩媛で、妃には、欽明天皇に嫁いだもう一人の蘇我稲目の娘である小姉君との間に生まれた用明天皇の異母兄弟である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)、蘇我稲目のさらにもう一人の娘である蘇我石寸名(そがのいしきな)を迎えていました。このことから非常に蘇我氏とつながりの強い天皇でした。

この用明天皇が即位するにあたり、穴穂部間人皇女の弟である穴穂部皇子(あなほべのみこ)は、自身が皇位継承することを望んでいました。

ですが当時は、欽明天皇の時代に伝来された仏教を崇拝していた蘇我氏と、仏教を排除しようとする物部氏との間で意見が二分されていました。

先代の蘇我稲目、物部尾輿時代からの崇仏論争が続くなか、敏達天皇が崩御する前に物部氏の進言で仏像を廃棄するという事件があったのです。

仏教をないがしろにされたのちに敏達天皇が崩御したということもあり、蘇我馬子は仏教推進派であった用明天皇を推し、用明天皇を即位させました。これにより、穴穂部皇子は馬子と神仏崇拝で対立していた物部守屋と手を結ぶことになったのでした。

しかし、用明天皇も即位後に病に伏せてしまい、在位期間3年で亡くなってしまいます。

用明天皇からの皇位継承にあたり、物部守屋は穴穂部皇子を天皇にしようと動きをかけ、クーデターを起こそうとします。

それを察した蘇我馬子は、天皇崩御で最高権力者の不在状態であることから、欽明天皇の娘であり、且つ先の敏達天皇の妃であり用明天皇の妹であった炊屋姫(かしきやひめ(後の推古天皇(すいこてんのう)))に天皇の代理としての正当性があることから、皇族の代表という立場として穴穂部皇子誅殺指示の詔をいただきました。

これにより物部守屋の旗印であった穴穂部皇子は、クーデター共謀の罪で誅殺されてしまいました。

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蘇我氏一強時代へ

その後、聖徳太子(厩戸王:うまやどのおう)や用明天皇の異母の弟である泊瀬部皇子(はつせべのおうじ(後の崇峻天皇(すしゅんてんのう)))とともに物部守屋の住居に攻め入り、物部氏に勝利します。ここで蘇我稲目の代より蘇我一族にとって政敵であった物部氏は滅亡し、蘇我一族の一強時代がはじまったのでした。

この事件の後、泊瀬部皇子は崇峻天皇として即位しますが、蘇我馬子は完全に実権を掌握します。しかし、その状況に崇峻天皇は不満を募らせていきます。

そのような背景の中、592年10月、天皇のもとに猪が献上されると、崇峻天皇は「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」ということを発言したといわれています。

これを聞きつけた蘇我馬子は自分のことを言っていると悟り、在位6年目の592年12月に蘇我馬子の命により東漢 駒(やまとのあやのこま)によって暗殺されてしまいました。

天皇が暗殺されたという事件に対し、処分された者がいなかったり、朝廷に動揺が走ったような記録がないことから、崇峻天皇暗殺事件は、宮廷内でのクーデターであった可能性が考えられています。

この事件の後に即位した第33代推古天皇は即位にあたり、自らを敏達天皇との子である竹田皇子(たけだのみこ)を即位させるための橋渡しとして蘇我馬子と考えていたものの、推古天皇即位後に竹田皇子は亡くなってしまいます。

そこで、兄 用明天皇と異母妹の穴穂部間人皇女の子であった聖徳太子を皇太子として立てたのでした。父は用明天皇であり、母は蘇我稲目の血統をついでいた蘇我氏の血族であったということが、皇太子選定に大きく影響したのでした。

聖徳太子は、大叔父に当たる当時の大豪族である蘇我馬子の協力を得て冠位十二階の制定や十七条の憲法、遣隋使の派遣などを行いました。しかし、622年に49歳で薨去(こうきょ)してしまいます。
当時は在位している天皇が崩御しないと皇位継承されなかったため、推古天皇は、聖徳太子に皇位継承することはありませんでした。

聖徳太子薨去後は蘇我馬子を中心に朝廷の政治が動かされるようになり、推古天皇は新しく皇太子を立てませんでした。
そして後継者を擁立しないまま、628年に推古天皇自身も薨去してしまいます。そのため、推古天皇の死後、後継者問題が勃発しました。

皇位継承の候補として、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)と押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の子であった田村皇子(たむらのみこ(後の舒明天皇))の名前があがります。

群臣の間で、どちらが天皇に即位すればいいかと紛議が起こります。ともに欽明天皇を曽祖父とする「はとこの関係」でしたが、時の権力者である蘇我氏の血統を持つ山背大兄王が当初有利とみられていました。

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蘇我蝦夷が大臣へ

この時蘇我氏は、蘇我馬子が推古天皇より2年早い626年に死に、馬子の息子である蘇我蝦夷(そがのえみし)が家督を継ぎ、大臣にも任命され、馬子についで朝廷の政治を取り仕切るようになっていました。そのため、推古天皇崩御後は、後継者問題で揺れた朝廷内の豪族の意見を蘇我蝦夷が取りまとめ、結果として田村皇子を天皇にします。それにより、第34代舒明天皇が誕生しました。

この田村皇子は敏達天皇の孫であり、敏達天皇と息長真手王(おきながまてのおおきみ)の娘 広姫との間に生まれた押坂彦人大兄皇子の子どもであることから、その血統に蘇我氏の血統は含まれていませんでした。

一方で天皇擁立から外れた山背大兄王は、蘇我氏の血統を非常に濃く持っていました。ですが、蘇我蝦夷は蘇我氏の血を持たない田村皇子を天皇にしたのでした。

この背景として、山背大兄王は蘇我氏の血を濃く引いていることもあり、山背大兄王を天皇にすることによる蘇我氏への風当たりを避けるため田村皇子を選んだという説、田村皇子が欽明天皇からの嫡流で敏達天皇の孫であるという事実から下心なく擁立した説などがあります。

ただ説はいろいろあるものの、蝦夷は田村皇子を即位させるため、軍事的な行動を起こしています。

山背大兄王を推していた叔父(馬子の弟)である境部臣摩理勢(さかいべのまりせ)を攻め滅ぼしたのです。

しかし推古天皇が蘇我氏の言いなりにならずに聖徳太子とともに政治を進めることで蘇我氏をコントロールしたのに対し、舒明天皇は、推古天皇のように蘇我氏をコントロールする力は持ち合わせていませんでした。

推古天皇は蘇我馬子が叔父でありながら、元は蘇我氏の領地であった天皇直轄地の割譲の馬子からの申し出をきっぱりと断ったりするなど、蘇我馬子の行き過ぎた態度はたしなめていました。

そのため、蘇我蝦夷の力は衰えることなく第35代皇極天皇(こうぎょくてんのう(594~661年))の時代まで実質政治の実権を握りました。

仮に山背大兄王が即位していたならば、山背大兄王自身が独自の判断で行動し、蘇我蝦夷の意向が通りにくくコントロールすることができなかったかもしれません。ですが、蝦夷自身の考えで政治をコントロールできる舒明天皇が誕生したことにより、蝦夷を中心として蘇我氏の専横は増すばかりだったのです。

舒明天皇が641年に薨去すると、舒明天皇の皇后であった寶皇女(たからのひめみこ)が642年に皇極天皇として即位します。

蘇我蝦夷は、馬子の娘 蘇我法提郎媛(そがのほほてのいらつめ)を母にもち蘇我氏の血を引く古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を次期天皇に擁立するために、その中継ぎとして皇極天皇を擁立したのでした。

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蘇我入鹿が大臣へ

この頃になると、蝦夷は自身や息子の蘇我入鹿(そがのいるか)の墓をつくるのに天下の民を動員するなど、誰にも止めることの出来ない独裁者となっていました。

皇極天皇が即位した後、蘇我蝦夷は子の入鹿に大臣職を世襲します。即位式も皇居ではなく自宅で執り行うなど好き放題の状態となっており、もはや誰も対応ができないような状態になりつつありました。

また大臣職を継いだ蘇我入鹿は、天皇に代わって行事を執行したりするなど、父の蝦夷以上の専横が目立ちました。そして、父より引き続き同族の血を引く古人大兄皇子を皇極天皇の次の天皇に就ける野望もあったのでした。

この野望の邪魔になるのがまたしても山背大兄王でした。

山背大兄王は皇統から皇位継承させる順位的に古人大兄皇子よりも高く、また古人大兄皇子が若かったため年齢的にも古人大兄皇子より先に皇位継承をという可能性があったのです。

古人大兄皇子とは仲がよく皇位継承後も自分の意のままにできる関係だったのですが、山背大兄王とはとても仲が悪く、皇位継承することで敵対する可能性があり、政治をわがものにするためには邪魔だったのでした。

蘇我蝦夷が田村皇子を舒明天皇に即位させた際には、叔父の境部臣摩理勢を倒して道を作りましたが、蘇我入鹿は山背大兄王自身を亡き者にしてしまいます。
山背大兄王の住居であった斑鳩宮に兵を送り込み、山背大兄王やその家族など、聖徳太子の血を引く皇家一族を軍事的に攻め入り滅亡させてしまったのです。

この当時、皇室周辺において国政を天皇中心とする改革をするべきという動きが高くなっていました。その動きを抑えるためにも用明天皇からの血統である上宮家の存在は、、入鹿にとっても邪魔だったのです。

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中大兄皇子と中臣鎌足による乙巳の変、大化の改新へ

このような事件があり、蘇我氏への反発を強める豪族も現れるようになります。その中で大きく動いたのが中臣氏(神事・祭祀をつかさどった中央豪族)の一人である中臣鎌足でした。

中臣鎌足は蘇我氏に反発する豪族を結集するとともに、皇族にも仲間を作りました。それが皇極天皇の第二皇子であった中大兄皇子でした。

中大兄皇子とは南淵請安(みなぶちのしょうあん)の塾で一緒に儒教を学んでいました。その塾の道中で、中大兄皇子に蘇我氏打倒の密談を持ちかけたのでした。

中大兄皇子が計画に賛同すると、蘇我入鹿の従兄弟である蘇我倉山田石川麻呂も味方につけ、実行部隊としては、剣技に優れた佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田などを中大兄皇子に紹介します。このように蘇我入鹿討伐チームが形成されていきました。

そして645年7月10日、朝鮮からの使節接見である三国の調の儀式と偽り、天皇や大臣などの有力豪族が出仕する機会をつくり、太極殿に出仕した蘇我入鹿を暗殺したのでした。

この際、蘇我倉山田石川麻呂は、天皇の前で暗殺を行う合図であった外交文書の読み上げを担当し、実行部隊としては佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が蘇我入鹿に切りかかる流れとなっていました。しかし、この二人が怖気づいて動けなかったことから、中大兄皇子が最初に切りかかったとされています。

ここで、驚き席を立って逃げようとした入鹿に対し、佐伯子麻呂が片脚を斬りつけます。葛城稚犬養網田も佐伯子麻呂の後を追い、蘇我入鹿を斬り付け、最後は佐伯子麻呂とともに、入鹿への止めを刺したといわれています。

その後、蘇我氏からの反撃に備え、中大兄皇子は法興寺で軍備を整えます。その際に、蘇我氏側についていた多くの豪族も中大兄皇子側についたことで、蘇我蝦夷は孤立してしまいます。

勝ち目がないことを理解した蘇我蝦夷は自宅に火を放ち自害したのでした。

この7月10日に発生した蘇我入鹿を斬殺し蝦夷を自害させた政変が、乙巳の変です。

そしてこれを機に、中大兄皇子の母皇極天皇は退位し、息子の中大兄皇子に皇位継承をしようとしました。

しかし中大兄皇子はまだ若いことで時期尚早であることと、乙巳の変を起こした張本人であることから辞退し、軽皇子(かるのみこ)を推薦しました。

推薦された軽皇子も三度辞退し、舒明天皇の第一皇子であった古人大兄皇子を推薦するも、古人大兄皇子は後ろ盾であった蘇我氏宗家が滅亡してしまったことにより、この推薦が軽皇子たちの罠かもしれないと察知し、出家して吉野へ逃れました。

しかし、後に吉備笠垂(きびのかさのしだる)により、新政権転覆を企てている謀反の疑いがあると報告され、中大兄皇子は古人大兄皇子を攻め倒します。

結果的に皇極天皇の弟にあたる軽皇子が第36代孝徳天皇(こうとくてんのう)として即位し、中大兄皇子が皇太子に指名され、孝徳天皇の政権運営に参加します。

実際には中大兄皇子が政権運営を掌握し、ここより大化の改新がはじまりました。

天皇家と蘇我氏の家系図

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乙巳の変に関わった人物

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)

中大兄皇子は、第38代天智天皇(てんじてんのう)として即位した人物です。

乙巳の変の後、律令政治に舵をきる大化の改新を行い、称制(皇太子など次の君主となる人や亡くなった君主の后が長い間天皇に即位せずに政務を行なうこと)を行いました。そのため天皇としての在位期間はわずか4年です。

中大兄皇子は、第34代舒明天皇と第35代皇極天皇(後に重祚して第37代斉明天皇(さいめいてんのう)で即位)を両親とし、626年に舒明天皇の二番目の皇子として誕生しました。

異母兄に蘇我馬子の娘である蘇我法提郎媛を母に持つ古人大兄皇子がいたことから、皇位継承権2番目の皇子という意味を持つ「中大兄」という名前がついています。

中大兄皇子には他にも兄弟として、同母弟で後の第40代天武天皇(てんむてんのう)となる大海人皇子(おおあまのおうじ)、妹で第36代孝徳天皇(こうとくてんのう)の皇后であった間人皇女(はしひとのひめみこ)がいました。

中臣鎌足(なかとみのかまたり)

中臣鎌足は日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。

乙巳の変を画策した張本人で、中大兄皇子に話をもちかけ、乙巳の変を起こしたとされる人物です。

鎌足は幼少期から中国の史書に関心を持った秀才で、遣隋使として隋に渡り、隋の滅亡と唐の立国を見聞し帰国した南淵請安(みなぶちのしょうあん)の塾で儒教を学び、そこで中大兄皇子と出会います。

644年、父中臣御食子(なかとみのみけこ)も就いていた中臣氏の家業であった官職である神祇伯(じんぎはく)への就任を辞退している記録があり、この時点で蘇我入鹿打倒の計画を中大兄皇子と立てていたとみられています。645年、乙巳の変で蘇我入鹿を討ち果たし、蘇我宗家を滅亡させました。

その後は中大兄皇子に仕え大化の改新を進め、臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜りました。これにより、生きていた頃の彼を指す場合は「中臣鎌足」を用い、「藤原氏の祖」として彼を指す場合には「藤原鎌足」の名が用いられています。

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佐伯子麻呂(さえきのこまろ)

佐伯子麻呂は乙巳の変にて蘇我入鹿に切りかかった一人です。

生まれ年は不明。氏族は佐伯連(さえきのむらじ)です。

中臣鎌足の推挙により、蘇我入鹿討伐に加わった一人であり、暗殺の実質的実行者と言われています。中大兄皇子が最初に切りかかったところで、驚き席を立って逃げようとした入鹿に対し、初手となる一撃として、片脚を斬りつけました。また、とどめを刺したのも佐伯子麻呂でした。

乙巳の変の5ヶ月後には、古人大兄皇子が謀反を計画していると密告を受けた中大兄皇子から指示を受け、古人大兄皇子とその子息を殺害したとされています。乙巳の変の功績により、封地40町6反が授けられたという記録が残っているものの、第46代孝謙天皇の田令により、この与えられた土地は永田ではなく、子孫三代に亘って相続させることと定められた功田とされ、後に国に返還されることになりました。

葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)

葛城稚犬養網田は、乙巳の変を計画するにあたり、中臣鎌足が中大兄皇子に推挙した人物の一人であり、佐伯子麻呂と一緒に蘇我入鹿暗殺に加わった一人です。

入鹿襲撃時には、佐伯子麻呂とともに、入鹿への止めを刺したといわれています。生まれ年は不明。

稚犬養氏(わかいぬかいうじ)は日本神話に登場する神、天火明命(あめのほあかりのみこと)の子孫だといい天孫族と呼ばれていました。

頭の葛城は住んでいた場所から付けられていると見られ、県犬養氏・海犬養氏と共に宮廷護衛を担当した稚犬養氏のうち、葛城に住んでいた稚犬養氏という意味で使われています。

乙巳の変以降については、活躍や功労を称えられたという記録は見つかっていません。

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蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)

蘇我倉山田石川麻呂は蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)とも呼ばれ、蘇我氏でありながら乙巳の変の暗殺の際に加担した実行者の一人です。

生まれ年の記録がなく生まれ年は不明。蘇我倉山田石川麻呂は蘇我馬子の孫であり、蘇我入鹿とはいとこに当たります。

蘇我入鹿から軽んじられていたこともあり、入鹿の専横を許せず反感を持っていたこともあり、皇位継承や政治方針で蘇我蝦夷・入鹿親子と対立をしていた山背大兄王が入鹿により滅ぼされると、中臣鎌足に誘われ中大兄皇子の入鹿暗殺に加担したのでした。

乙巳の変では、天皇の前で暗殺を行う合図であった外交文書の読み上げを担当したとされています。

乙巳の変以降、孝徳天皇の新政権では右大臣に就任するも、孝徳天皇に娘を嫁がせ力を持っていた左大臣阿倍内麻呂や孝徳天皇と上手くいっていない状態で、中大兄皇子や中臣鎌足ともそりが合わない状態であったといわれています。

そのような経緯もあり、異母弟の蘇我日向(そがのひむか)より中大兄皇子を暗殺しようと企んでいるというでっちあげの報告により、山田寺で家族そろって自殺に追い込まれました。

なお、娘の蘇我姪娘(そがのめいのいらつめ)は天智天皇の妃となり、後の第43代元明天皇を産みました。

蘇我蝦夷(そがのえみし)

蘇我蝦夷は蘇我馬子の子であり、多くの姉・妹が天皇や皇族の妃となったことで、天皇家をはじめとし政権に大きな影響力を持っていました。

妹が聖徳太子の妃となっていたため、聖徳太子とは義理の兄弟にあたる蘇我氏本家の豪族でした。生まれ年は不明。

父馬子の後を継いで大臣となり政権を独占しました。

馬子が自身の娘を皇族と結婚させたり、従妹を推古天皇として擁立させたりしたことにより、崇峻天皇や舒明天皇と義理兄弟であったことが蝦夷の力を背景にあります。

自宅を「みかど」という天皇の住む建物の門という意味の呼び方で呼ばせました。つまり、蘇我氏は天皇と同列であるということを周囲に認識させていたのでした。また、生前に自身と入鹿の墓を作り、天皇の墓という意味を指す陵という言葉を使い、大陵・小陵という呼び方で墓を呼ばせたのです。

このようにして、天皇と同列と思わせるほどの権力を保持していたのです。

推古天皇が薨去した後、皇位継承をめぐり、聖徳太子の子である山背大兄王か敏達天皇の孫である田村皇子(舒明天皇)のどちらを押すかで群臣の間で紛議が起こりました。その際に山背大兄王を抑えて舒明天皇を擁立し、自身の大臣としての地位を固めたのでした。

父馬子の死後は、蘇我氏への風当たりが強くなったこともあり、他の権力者に配慮して合議制を取り込むなどの動きも見せていました。

ただ、643年に入鹿を私的に大臣にするなど、専横的な行動も多くありました。645年に乙巳の変で入鹿が殺されると、蝦夷は自宅に火をかけ自害します。これにより蘇我氏宗家は滅亡しました。

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蘇我入鹿(そがのいるか)

蘇我入鹿は乙巳の変で暗殺された蘇我宗家最後の豪族です。

生まれ年は不明。若い頃は唐で長年学び帰国した僧である旻(みん)に教えを請い、当時の最先端知識を身に付けた秀才でした。

皇極天皇が即位した翌年である643年に父蝦夷より大臣の地位を譲りうけ、冠位十二階の最高位である紫冠を授けられ、実質的な国政の掌握者になり、その一ヶ月後、聖徳太子の子 山背大兄王を死に追いやり、聖徳太子の血筋を全て抹殺しました。

蘇我入鹿が天皇に据えようとした古人大兄皇子同様、山背大兄王も蘇我馬子の娘を母に持っていたのですが、より自分が操りやすいと考えていた古人大兄皇子を即位させるのに邪魔だと考えての行動でした。

この辺りの行動は、慎重にことを運んだ父蘇我蝦夷とは違い、浅い考えでことを運ぶ人物だったとされています。

自分は天皇と同等の権力者と考え、周囲に権力を見せつけるために、皇族や天皇の子を呼ぶ場合の「皇子」「皇女」の呼び方である「みこ」を自分の子たちにもつけ呼ばせたり、天皇に代わって独断で行事を行ったりと、父蝦夷に続き独裁的な行動をし、その結果、645年7月10日、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)内で暗殺され、蘇我宗家滅亡の原因を作りました。

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乙巳の変にまつわる諸説・真相

日本書紀に書かれている古人大兄皇子の言葉

「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」
現代語訳すると、『韓人が鞍作(入鹿)を殺した。吾は心が痛い。』という意味になります。

韓人が入鹿を殺したと言っているのですが、乙巳の変の通説は、新羅・百済・高句麗の三韓から三国の調の使者が来日し、天皇の前で貢物を納める儀式を執り行うと偽って蘇我入鹿を宮殿におびき寄せ、蘇我入鹿の殺害はこの三国の調の儀式を模した儀式を進めている中で発生した事件であり、入鹿を切ったのは中大兄皇子をはじめ、佐伯子麻呂や葛城稚犬養網田です。

「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」は古人大兄皇子の発言として日本書紀に記載されているのですが、通説の中で話題になっていないため、韓人が誰のことかということが謎のままとなっているのです。

ここで、藤原氏の祖である中臣鎌足の出生には、鎌足自身もしくは鎌足の父が朝鮮半島出身の渡来人だったという話があり、それを利用して、日本書紀の編集をしていた者が、古人大兄皇子の言葉として中臣鎌足も殺害に加わっていたと記録に残したのではないかという説があるのです。

これは、日本書紀は中臣鎌足の子 藤原不比等が編集を指示し作らせた書物ですが、藤原不比等は、日本書紀を編集するにあたり、藤原氏を美的化するために父が乙巳の変で殺害に係わったという記録を残さないように脚色を指示したが、日本書紀を編集していた者が歴史の事実を残すために不比等の目をそらし朝鮮半島出生の説と絡めて、韓人という例えで中臣鎌足も関わっていたと記録を残したというものです。

乙巳の変 実は軽皇子と阿倍内麻呂による謀略説だった?

阿倍内麻呂は推古天皇の崩御時には蘇我蝦夷と議論し、自宅に群臣を集めて協議することができる力も持っていました。このような立場もあり、群臣の一人であった中臣御食子(なかとみのみけこ)の子どもであった中臣鎌足を謀略の駒として使うことができたのです。
また、舒明天皇時代も推古天皇に続いて使えていたこともあり、中大兄皇子も話しができたとされています。

首謀者は軽皇子(第36代孝徳天皇)と阿倍内麻呂だったというものですが、そもそも軽皇子は皇極天皇の弟ということで皇子という立場になったわけであり、皇位継承順でいうとそれほど重要度の高い皇子ではありませんでした。むしろ、皇位継承順位からは程遠い皇族だったのです。

それが天皇になったのは、軽皇子と協力体制をとった阿倍氏が豪族としては力を持った氏族であり、蘇我氏を倒すことで、蘇我氏に代わって力を持つことができる力を持っていたからです。

阿倍内麻呂の娘を軽皇子の妃に出しており、乙巳の変以前より親密な関係だったという見方からもこの説が生まれてきているのです。

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