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富岡製糸場と絹産業遺跡群 日本の世界遺産

富岡製糸場と絹産業遺跡群の遺産価値は「生糸産業の技術革新の歴史を今に伝えていること」です。19世紀末から20世紀にかけての日本の生糸産業の発展は近代社会の中での大きな成功例と言えるでしょう。それまで生産量の限られていた生糸の大量生産を可能にし、日本の生糸の生産量・輸出量は世界一となりました。その後も生産量を伸ばしつつ、粗悪品が多かった日本の生糸の品質を世界最高級の品質にまで高めました。こうして生糸産業の技術革新は日本近代化の礎となりました。富岡製糸場と絹産業遺跡群はこうした生糸の良質化・大量生産化を可能にした技術革新の中心となった建造物群です。構成資産は富岡製糸場、田島弥平旧宅(たじまやへいきゅうたく)、高山社跡(たかやましゃあと)、荒船風穴(あらふねふうけつ)の4つです。

日光の社寺 日光東照宮・二荒山神社・輪王寺 日本の世界遺産

日光の社寺の構成資産は東照宮、二荒山神社、輪王寺の二社一寺に属する103棟です。明治時代の神仏分離令によって分けられたもので東照宮は徳川家康を神格化した「東照大権現」を祀る神社です。敷地内には55棟の建造物がありますが、世界遺産に登録されているのは42棟です。建築的な特徴としては、東照宮本社は近世日本の神社建築の完成形とされる「権現造り」という建築様式が採られています。二荒山神社は 大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命を祀る神社です。この三神は男体山、女峰山、太郎山の神とされています。 輪王寺は千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音が祀られているお寺です。仏教系の建造物群の総称で60棟あまりの建造物があり、38棟が世界遺産に登録されています。

平泉 中尊寺・金色堂・毛越寺・観自在王院跡・無量光院跡・金鶏山 日本の世界遺産

平泉は世界遺産リストに「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」という名前で登録されています。平泉の遺産価値は「浄土思想を基にした平和政治を実現させた街であること」「日本独自の建築・庭園設計が表現されていること」です。11世紀~12世紀にかけて、東北地方の領主・藤原清衡により、浄土思想を基にした理想世界の実現を目指して造られた街で、浄土思想とは、人々が現世及び死後の心の平和を願った考え方です。それらを現実世界に実現するために、日本では寺院などの建築・庭園設計により浄土を現世に創り上げるという独自の方法が編み出されました。中尊寺・毛越寺・観自在王院跡・無量光院跡・金鶏山はそれ自体が仏国土を表現する庭園を備えています。

世界遺産について 成り立ち、決め方、決定機関、危機遺産など

世界遺産は現在、世界167ヵ国に1073件もの数が登録されています(2017年7月時点)。その数は今も増加しており、年間約20~30件ほどのペースで新たな世界遺産が登録され続けています。日本でも2017年には「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群が新たに登録されたばかりです。しかし、そもそも世界遺産とは一体どういうものなのでしょうか?こちらでは知っているようで意外と知らない世界遺産について、「世界遺産とは何なのか?」「世界遺産はどうやって決まるのか?」といった視点から紹介していきたいと思います。

弥生時代 名前の由来、北海道と沖縄の文化、埋葬方法、遺跡

縄文時代は、縄をころがしたような「文様(模様)」の入った土器が見つかったので縄文時代と名づけられましたが、弥生時代という名前は、1884年に1個の壺(土器)が見つかった地名が由来となっています。すなわち壺は、当時の東京府本郷区向ヶ丘弥生町(現在は東京都文京区弥生)にある貝塚で発見されましたが、それまで知られていた縄文時代の土器とは異なる特徴を持った土器だったために、発見場所にちなんで「弥生土器」と名付けられました。よって、この壺の発見までは縄文時代と弥生時代という時代の区分はありませんでした。

日本の歴史 弥生時代の文化・暮らし。食事、仕事、道具、生活の様子など

弥生時代は大陸から米作りと金属の道具が伝わり、生活が現代的になった時代です。縄文時代は狩りをしたり、木の実を採ったりなど、自然にあるものからしか食糧を手に入れることができませんでしたが、弥生時代は大陸から伝わった稲作によって、自分たちで食糧を作ることができるようになりました。さらに、道具も石でできた石器から青銅や鉄で出来た金属器に変わることで、より耐久性が高く使いやすいものになりました。こうして、自分たちで食糧を作れるようになり、高度な道具を使うようになった時代、それが弥生時代です。

弥生時代とは?何年前?いつからいつまで?

弥生時代の時期に関しては、弥生時代の始まりについて、様々な意見があるため、実ははっきりとわかっていません。ここでは「紀元前5世紀~紀元3世紀頃」説に基づいて紹介します。弥生時代は大陸から米作りと金属の道具が伝わり、生活が現代的になった時代です。縄文時代は狩りをしたり、木の実を採ったりなど、自然にあるものからしか食糧を手に入れることができませんでしたが、弥生時代は大陸から伝わった稲作によって、自分たちで食糧を作ることができるようになりました。さらに、道具も石でできた石器から青銅や鉄で出来た金属器に変わることで、より耐久性が高く使いやすいものになりました。こうして、自分たちで食糧を作れるようになり、高度な道具を使うようになった時代、それが弥生時代です。

日本の歴史 縄文時代。縄文人の生活、衣食住、暮らし・食べ物、遺跡、天皇、弥生時代との違い

日本の歴史を習う上で一番最初の時代である縄文時代。しかし、その全貌はまだわからず非常に謎が深い時代でもあります。そんな縄文時代ですが、日本人は一体どんな暮らしを送っていたのでしょうか?ここではそんな日本の歴史のあけぼのである縄文時代の縄文人の生活、衣食住、暮らし・食べ物、さらに遺跡や天皇、弥生時代との違いについて見ていきたいと思います。

日本人のルーツ。日本人の祖先は、どこから来たのか?

1980年代までは、日本人の祖先は旧石器時代以前からもともと日本列島におり、原人から新人を経て縄文人になったという説が主流でした。しかし、現在この説は説得力を失いつつあります。なぜなら、近年のDNAの解析技術が進化したことで、世界中の遺跡から出た人骨などの分析が深く進んだ結果、全人類の起源となる生き物はアフリカから発生し、その子孫が世界中に分散して個別に進化していったことが分かったからです。しかし、最古の日本人がいつごろ現在の日本列島に当たる場所に起こったのかは、まだはっきりと分かってはいません。ただ、多くのヒントが残されているので、そこから大体の予測を立てることはできます。最近まで、日本列島とユーラシア大陸は約500万年前まで陸続きだったと考えられてきました。そのあと、数十万年のスパンで、地球の平均気温が暑くなったり、寒くなったりを繰り返し、そのたびに海面が上下しました。その都度、日本列島と大陸は何度かくっついたり、離れたりを繰り返したと推測されていたのです。