厳島神社の由緒、御祭神、歴史的背景、社殿、年中行事など海上の神殿 厳島の魅力

海上の神殿 神宿る厳島の由緒、御祭神、歴史的背景、社殿、年中行事

海の上に朱塗りの大鳥居と荘厳な造りの社殿が立つ厳島神社。

広島湾北東部に浮かぶ厳島は、天橋立・松島と並び安芸の宮島として日本三景の一つに数えられています。

厳島は、お宮のある島として江戸時代以降は宮島とも呼ばれ、現代でも多くの参拝客で賑わいます。

1996年に世界文化遺産に登録され外国からの観光客も増えて、宮島を訪れる人はここ数年間で毎年400万人を超えています。

厳島の由来は、御祭神である市杵島姫(イチキシマヒメ)の名が転じたものとも、神宿り斎く島として神を祀り仕えるという意味の斎(いつき)からきているともされています。

また初めて文献に登場したのは弘仁2年(811年)で、鳥居の扁額にあるようにその名は伊都岐島神社と記されています。

古代より島中央の弥山(みせん)を中心に島全体が神であり、信仰の対象として神聖視され長らく禁足の地でありました。

そのため、陸地に社殿を立てることを憚り、海にせり出すような形で社殿が創建されたのです。

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御由緒

創建は推古元年(593年)安芸の豪族であった佐伯鞍職(さえきのくらもと)が市杵島姫命の神託を受け、天皇の勅許を得て社殿を造営し宗像三女神を祀ったのが始まりとされています。

佐伯鞍職が初代神主となったその後、藤原氏が神主となった一時期を除き、佐伯氏が代々神主を務めてきました。

平安時代末期に入り、安芸守に任命された平清盛によって平家の氏神として厚い信仰と保護を受け、平家一門による寄進と改修を繰り返し寝殿造を取り入れた荘厳な社殿が造営されました。

御祭神

御祭神は宗像三女神である、市杵島姫(イチキシマヒメ)、田心姫(タゴリヒメ)、湍津姫(タギツヒメ)です。

この三柱の神様の誕生は、古事記や日本書紀に記されております。

素戔嗚尊が黄泉の国にいる母の伊邪那美命を訪ねる際、姉である天照大神に別れの挨拶をするため高天原に向かいました。

素盞嗚尊が高天原に昇ると、天地が揺れ山や川が動き、その勢いと剣幕に天照大神は、弟神が高天原を奪いにきたと疑念を持ちました。素戔嗚尊は自身に邪心なきことを証明するため、契約(うけい)を提案し互いの持ち物からそれぞれ神を生み出すことになりました。

まず天照大神が、素戔嗚尊の十拳剣(とつかのつるぎ)を貰い受け三つに折り割り、天の真名井の水で清め噛み砕き、吹き出した霧の中から三柱の女神が化生しました。

続いて素盞嗚尊は、天照大神が身につけている八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を紐に通して連ね、輪にして巻きつけていた髪飾りと両手の腕輪を貰い受け、一つずつ天の真名井の水ですすいで噛み砕いて吹き出しました。

美豆良(みずら)に結い上げた天照大神の髪の左側につけていた勾玉からは正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)が、右側の美豆良につけていた勾玉からは天之菩卑能命(アメノホヒノミコト)、頭を飾る鬘につけていた勾玉からは天津日子根命(アマツヒコネノミコト)、左の腕輪の勾玉からは活津日子根命(イクツヒコネノミコト)、右の腕輪の勾玉からは熊野久須毘命(クマノクスビノミコト)の五柱の男神が誕生しました。

素盞嗚尊の十拳剣から生まれた三柱の女神が田心姫、市杵島姫、湍津姫の宗像三女神で、交通、海上の安全を守護し豊漁をもたらす海の神として古くから信仰されております。

また、天照大神の八尺瓊の勾玉(やさかにのまがたま)から生まれた五柱の男神は厳島神社内の摂社客人神社に祀られております。

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厳島神社を彩る歴史と伝説の数々

古来より島に神が宿るとされ、人々の信仰を集めた厳島は元は伊都岐島と書き表し、平安時代には在原業平(ありわらのなりひら)や、小野篁(おののたかむら)が恩賀島(たぐいなきしま)、香深き島といった厳島を表す歌枕を用いて和歌を詠んでいることからも、島全体が御神体として崇められていたことがわかります。

その厳島に神を祀った佐伯鞍職の伝承は聖徳太子が活躍した推古天皇の時代に遡ります。

ある時、大和の地に金色の毛を纏い七色の声で鳴く鹿がいると噂になり、推古天皇がこれを召せと命じたところ、宮廷警護の役人であった佐伯鞍職がその鹿を捕らえることになりました。

鞍職は印南の野に入り鹿を見つけましたが生け捕りにすることは大変難しく悩み抜いた末に、やむなく鹿を射殺して献上しました。

すると周囲の公卿達からは、神の使いともされる神聖な生き物である鹿を射殺すなど、神を畏れぬ不敬な行いであると非難の声が相次ぎ鞍職は大和の地から遠く離れた安芸国に流罪となります。

しばらく経ったある日、恩賀島(現在の宮島)から紅の帆を張った瑠璃ガラスの壺が入り江に入ってきました。

壺の中からは三人の美しい姫が姿を現し、
「我らはイチキシマヒメ、タギツヒメ、タゴリヒメである。元は西国にあったが思うところありてやってきた。
我らが鎮座するに良き場所を探しているので島を案内してほしい」
と仰ったので鞍職は、恩賀島の七浦を案内すると姫達は御笠浜を「いつくしい」(厳かで美しい)と大変喜ばれ、
「この浜に神殿十七間、回廊十八間をもって社殿を造り、我らを伊都岐島大明神として祀れ」と神託を下されました。

しかし、天皇の許可なく社殿を造営するわけにはいかず、まして鞍職自身は流罪となった罪人の身であるため何かしらの霊験を示したうえで朝廷に許しを得なければならないと姫たちに述べると、
「そなたが朝廷に報告する時刻に宮廷の北東の空に奇妙な客星の光が出現し、そこに居並ぶ公卿たちを驚かすであろう。そして多くの烏が集まり宮廷の榊の枝を咥えるであろう。これをもって証拠とし、上奏するが良い。」
とお告げをくだされたので鞍職は都に上り天皇に三女神の御神託を上奏すると、はたしてお告げの通りに宮廷の北東の空に彗星のような奇妙な客星の光が現れ、千羽の烏が榊の枝を咥えて鳴き出したのです。

天皇はこれをもって御神託は真であるとして即座に鞍職の罪を赦し、社殿造営を許可しこれをお命じになり、御笠浜に三女神を祀る神社が創建されたのが推古元年(593年)とされています。

佐伯鞍職はその後、厳島神社の初代神主となり以降は佐伯家が世襲していくことになります。

厳島神社を保護し現在の規模のものに創り上げたのは平清盛でした。

平安末期、平清盛を筆頭に平家一門が隆盛を極め、朝廷と外戚関係を結び絶大なる権力をふるうようになります。

清盛が安芸守に任命された頃のこと、朝廷より高野山の大塔の修理を命じられた清盛は高僧に、
「安芸は厳島に在わす神を崇め、宮を造営すれば必ずやそなたは階位を極めるであろう。」
と告げられた。

高野山は弘法大師の開山による神聖な地であり、先の高僧は弘法大師に相違ないと清盛は当時の神主である佐伯景弘とともに厳島神社の保護に務めるようになります。

お告げの通り、破竹の勢いで出世を果たし長寛2年(1164年)には平家一門の繁栄を願って子や弟達と共に書写した法華経30巻、阿弥陀経1巻、般若心経1巻、清盛直筆の心願をしたためた巻物1巻から成る平家納経を経箱、唐櫃とともに奉納しております。

経典に施された装飾は金箔、銀箔、金具を用いたまさに絢爛豪華なものであり、平家の栄華をうかがい知る事がでるうえに巧みな当時の工芸技術を現代まで伝える貴重な資料として国宝に指定されています。

仁安2年(1167年)に太政大臣にまで上り詰めた際は厳島の神のご加護であると深く感謝し、大規模な造営がなされ現在のような海上に浮かぶ神殿が整備され規模も拡大されました。

清盛が没した4年後の元暦2年(1185年)、壇ノ浦にて清盛の孫である安徳天皇が入水し、平家が滅亡したのちは源氏が厳島神社を信仰、保護したものの1207年、1223年に相次いだ火災によって消失し、再建を繰り返しましたが戦乱の世にあって次第に荒廃していきました。

しかしながら、参詣する人々は絶える事がなく、鎌倉時代までは禁足の地として人が住むことは許されませんでした。神主や祭祀を行う僧侶も例外ではなく、祭事のある場合は島の外から船で島に渡っていました。

厳島最古の寺院で弘法大師が弥山の麓に開いたとされる厳島神社の別当寺として祭祀を行っていた大聖院の最高位である座主の住居である座主坊が島内に移されたことにより神社の社人や僧侶が移り住み、町が形成されるようになりました。

戦国時代になると、安芸の国を巡って対立していた毛利元就(もうりもとなり)と陶晴賢(すえたかはる)が天文24年(1555年)に厳島の戦いを起こしました。

合戦の名の通り、厳島神社を含む島全体が戦場となりました。

戦に勝利した毛利元就は日頃から厳島神社を深く崇拝しており、神聖なる島を戦で穢したことを大変恥じ入り社殿を海水で洗い流し、血で汚れた島内の土を運び出しました。

しかしその後、2度目の悲劇が訪れます。

厳島の戦いの後、毛利元就の嫡男である毛利隆元(もうりたかもと)が、毛利傘下である武将の和智誠春(わちまさはる)という武将の饗応を受けた直後に急死してしまいます。毒殺を疑った元就によって和智誠春は弟の湯川久豊とともに厳島島内に監禁されました。

見張りの隙をついて脱走し本殿に立て篭もった和智兄弟の元に、元就は兵を差し向けこれを本殿内で殺害するという事件が起きてしまいます。

大事な嫡男を失った元就の悲嘆と失意は尋常ではなく、和智氏の饗応を拒むよう隆元に進言した家臣にまでも嫌疑をかけ誅殺してしまうほどでした。

死や穢れを忌み嫌う神を祀る神聖な神社の、あろうことか本殿内を血で汚し、自身が厚く信仰する神に対して二度目の過ちを犯したこの事件を機に元就は元亀2年(1571年)、厳島神社の本殿を含めた社殿の建て替えを行いました。

現在の本殿は、この時再建されたものです。

厳島神社はその後も、時の権力者の庇護のもとに信仰を集め続けました。

5〜6世紀頃に仏教が伝来して以来、仏が神の姿をかりて現れ人々を救うという、本地垂迹(ほんちすいじゃく)の思想が広まり、仏教の仏が日本古来の土着の神々と結びつく神仏習合は時代とともに確立していきます。

厳島神社の御祭神である市杵島姫命は、航海を司る海の神で絶世の美女とされており、類い稀な美しさと水を司るという共通点から、仏教の弁財天と習合しました。

弁財天は本来は弁才天と書き、後に「才」の字が「財」の音に通じるところから弁財天と書き表わすようになり、金運上昇のご利益があると信じられるようになり、音楽、芸能、芸術を守護することも相まって江戸時代以降は相撲や歌舞伎など文化の発展に伴い、民衆に広く信仰されました。

伊勢参り、熊野詣とならび厳島詣が盛んになったことで町は発展し、島の周囲にも人々が定住しはじめ現在に至ります。

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海上に浮かぶ巨大な鳥居と荘厳な社殿を現代に伝える先人たちの知恵と技

厳島神社を訪れると、まさに海上神殿と呼ぶにふさわしい荘厳な寝殿造の社殿と、海上に佇む朱塗りの巨大な鳥居に目を奪われます。

寝殿造とは、平安時代の貴族の邸宅に用いられた建築様式です。
本殿の屋根はその特徴である、両流造り(りょうながれづくり)でその屋根から伸びる庇は縋る破風(すがるはふう)という手法で作られています。

潮の満ち引きする浜辺に海の上にせり出すように造営されているため、満潮時と干潮時には違う景色を楽しむことができます。干潮時には鳥居まで歩いて行くことが可能で、夜間はライトアップされており、辺りは幻想的な雰囲気に包まれます。

厳島神社は本殿、幣殿、拝殿、祓殿(高舞台、平舞台などを含む)、摂社である客人神社(まろうどじんじゃ)の本殿、回廊の6棟が国宝に、能舞台、反橋、五重塔、大鳥居などの14棟が重要文化財に指定されています。

現在のように海上に神殿を造営し整備したのは平清盛でした。

その時代より度重なる自然災害に見舞われてきた厳島神社は先人の叡智の結晶と巧みな技によりその姿を現代に伝えています。

社殿の回廊の床板は海水で釘が錆びるのを避けるため金属釘を使わずに敢えて隙間を空けて組み合わせてあります。
これは台風や大波の際は隙間に波を通すことで水の抵抗を分散させ、建物の大破を防ぐ作りになっているのです。

また、満潮時には社殿の脚材が海水に浸かるため腐敗の進行が早く、これを建物全体を解体せずに交換するために根継ぎという手法がとられます。

建物が傾かないように、場所を選びながら地面に近い脚材を切り落とし新しいものと交換するのです。
本殿の屋根も寝殿造に見られる桧の皮を使用した桧皮葺で、金属釘ではなく竹釘で固定されています。

そして厳島神社のシンボルとも言うべき大鳥居は朱の大鳥居(あけのおおおとりい)と呼ばれ、平清盛によって立てられました。

現在のものは8代目に相当し、明治8年(1875年)に有栖川熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)によって染筆、奉納された扁額が掲げられています。

樹齢500年以上、根の直径が10mを超える楠木が主柱として使用されており、それを支える4本の袖は腐敗しにくい杉の木が使われています。
この独特の鳥居の形式を両部鳥居といい、平安時代に考案されました。

驚くことに、この鳥居は地中に埋め込まれているのではなく、基礎となる石の上に置かれているだけなのです。
地中に埋めて固定せず、鳥居上部の笠木と島木を組み合わせて箱状にし、中に大量の石を詰め込み、その重みで立たせることで強風や高波による衝撃を逃し倒壊を防いでいます。

柱も根継ぎをすることで取り壊すことなく修善し維持されてきました。

雄大な自然に感謝と畏怖の念を持って信仰した古代人の思いを受け継ぐかのように、自然を制し、逆らうのではなく自然と共存する知恵を編み出すことで神の社を守り、後世に伝えているのです。

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厳島神社創建に因んだ祭祀と華やかな京文化を今に伝える年中行事

厳島神社には年中行事として祭祀はいくつもありますが、佐伯鞍職が厳島神社を創建したことに因んだ祭祀が毎年五月十五日に一日をかけて行われる御島巡りです。

「安芸の宮島廻れば七里、浦は七浦、七恵比寿」
と唄われるように、鎮座の地を求めて宗像三女神が佐伯鞍職に島を案内させたことに因み、島の浦々に祀られている神社を巡拝します。

この巡拝の際、一番大切な儀式が御烏喰式(おとぐいしき)と呼ばれる儀式です。

かつて鎮座の地を求めた宗像三女神に島を案内をする際、先導役となった烏を祀る養父崎浦神社(やぶさきうらじんじゃ)に筏に乗せた御幣と粢団子(しとぎだんご)を供え、島から飛んで来た烏が持ち去ればその年は吉とされます。

この御烏喰式が行われる御島巡りは厳島神社崇拝者の組織である厳島講の加入者でなければ参加できませんが、観光客向けに同じルートで七浦を巡るツアーが用意されています。

厳島神社において、有名な行事の一つが管絃祭というもので、旧暦の六月十七日に執り行われます。大阪の天神祭、島根県のホーランエンヤとともに日本三大船神事とされています。

池や川に舟を浮かべ管絃を合奏する優雅な京の都の公家の遊びを、祭神の市杵島姫命を慰めるために平清盛が神事として執り行ったのが始まりとされています。
海上に船を浮かべ、管絃を演奏しながら行われる祭典は深夜に及び、幻想的な平安の雅を再現します。

平清盛によってもたらされたものは、高舞台にて舞われる舞楽もその一つです。

毎年四月に桃花祭、十月に菊花祭として舞が奉納されます。舞楽とは中国や朝鮮半島から伝来した舞と雅楽と呼ばれる音楽のことです。

平清盛が大阪は天王寺から移した舞楽は二十数曲にもおよび、現在の厳島神社に伝承されています。
この舞楽が奉納される高舞台は大阪の天王寺、住吉大社の石舞台と並び日本の三大舞台の一つとされております。

ライトアップされた大鳥居を背景に夕暮れの海をのぞむ高舞台にて舞われる厳かな舞と、優美な雅楽の音色が祭りをより一層神々しいものにしています。

いにしえより人々に信仰されてきた神宿る厳島。
創建より1500年もの間、時の権力者に庇護されその栄華を誇ってきました。
幾多の戦乱に巻き込まれ、火災や災害に見舞われても、信仰は絶えることなく現代に於いても人々の心の拠り所として崇拝され続けています。

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