飛鳥時代 蘇我蝦夷・入鹿の専横 大化の改新 乙巳の変 改新の詔

飛鳥時代の流れ 蘇我氏の専横 大化の改新 乙巳の変 改新の詔

大化の改新による国政改革

聖徳太子が中央集権国家の礎を築いた後、中大兄皇子と中臣鎌足によって行われた大化の改新によって、日本はさらに中央集権体制を強めます。

ここでは大化の改新に至るまでの流れを紹介します。

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蘇我氏(蘇我蝦夷・入鹿)の専横時代

聖徳太子は天皇を中心とした中央集権国家体制の礎を築きましたが、残念ながら次の世代に国の中心となったのは天皇ではなく、大臣の蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)親子でした。

この二人が大きな権力を持ち、国を私物のように扱う横暴な政治をしたことで、日本は天皇中心の中央集権国家とは程遠い国となっていきます。

628年に推古天皇が亡くなると、朝廷では「次の天皇を誰にするか?」という後継者争いが起きました。この後継者争いの末に政権を握ったのが推古天皇時代の大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)の子である蘇我蝦夷です。

推古天皇の後継者には敏達天皇の孫 田村皇子(たむらおうじ)と聖徳太子の子 山背大兄王(やましろのおおえのおう)という2人の候補者がいましたが、田村皇子を推していたのが蘇我蝦夷、山背大兄王を推していたのが蘇我蝦夷の叔父である境部摩理勢(さかいべのまりせ)という人物です。

しかし、蘇我蝦夷は対立していた境部摩理勢を殺害。その結果、蘇我蝦夷の推していた田村皇子が629年に舒明天皇(じょめいてんのう)として即位することになりました。

蘇我蝦夷は舒明天皇の大臣として政治の実権を握るようになりますが、次第にその専横ぶりが目立つようになります。

例えば、中国の皇帝しか行うことのできなかったとされる行事「八佾(やつら)の舞」を蘇我蝦夷が行ったとされています。

「八佾の舞」とは中国の皇帝のための儀式で演じられたもので、八人ずつ八列の六十四人で行われた舞です。他にも勝手に大量の国民を動員して、蝦夷と蝦夷の子である入鹿の墓を建てさせたりするなど、国を私物化するような行いをしていました。また643年には、本来天皇が授けるはずの蝦夷の独断で大臣の冠である紫冠を入鹿に授け、大臣の座を勝手に譲ったとされています。

さらに大臣になった入鹿は蝦夷を超えるほどの横暴ぶりで、遂には皇族である山背大兄王を自分の仲間に襲わせ、自害に追い込むということまでしてしまいました。

山背大兄王は人望もあり次期天皇候補として有力な存在でしたが入鹿が次期天皇に推していたのは、仲がよく皇位継承後も自分の意のままにできる入鹿のいとこであった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)であり、入鹿は古人大兄皇子を天皇にするためにライバルであった山背大兄王を自殺に追い込んだとされています。

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乙巳の変(いっしのへん)

こうした蘇我入鹿の行き過ぎた振舞いに、立ち上がったのが舒明天皇の子・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、祭祀を行い朝廷に仕えていた一族・中臣氏の中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。

2人は「三韓進調(さんかんしんちょう)の日」という朝鮮三国(高句麗・新羅・百済)が日本に対して貢物を献上する儀式と偽って蘇我入鹿が朝廷に現れる機会を作り、クーデターを計画します。

これにより中大兄皇子は蘇我入鹿を殺害、進退を問われた蘇我蝦夷も自宅で自殺し、蘇我氏の専横時代が終わりを告げるのです。

このクーデターが行われたのは645年でしたが、この年の干支が乙巳であったために、この事件を「乙巳の変」と呼んでいます。

乙巳の変とは?その理由、大化の改新との関係、真相、エピソード等わかりやすく解説

孝徳天皇、中大兄皇子、中臣鎌足による新政権の樹立

乙巳の変の後、政権は新しい形となります。まず、天皇には中大兄皇子の叔父である軽皇子(かるのおうじ)が即位し孝徳天皇(こうとくてんのう)が誕生、中大兄皇子は皇太子というポジションに収まります。

大臣は左大臣と右大臣に分かれ、大王の側近として内臣(うちつおみ)という役職が出来ました。また、中国の律令制度を参考にするために国博士(くにはかせ)と言う役職も新たに設けられます。

大臣を左大臣と右大臣に分けた理由は、蘇我氏の専横政治に対する反省によるもので、権力の一極集中を防ぐためでした。

左大臣には長老格であった阿部内麻呂(あべのうちまろ)、右大臣には蘇我氏の中でも蘇我蝦夷・入鹿親子に反発し、乙巳の変では中大兄皇子と中臣鎌足側についていた蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)が任命されました。

また、内臣には中臣鎌足が、国博士には遣隋使として随にも行っていた旻(みん)法師と高向玄理(たかむこのげんり)が任命され、新しい政権の形ができました。

この新政権になり、日本で初めての元号「大化(たいか)」が使われるようになったのです。

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改新の詔(かいしんのみことのり)

新政権によって646年に発布されたのが「改新の詔」です。これは豪族による土地・人民の私有化をなくし、天皇を中心とした一つの国としてまとまることを目指すための政治の方針でした。

全部で四カ条からなっており、それぞれの内容は以下の通りです。

第一条は朝廷の私有地である屯倉(みやけ)と朝廷の私有民である名代(なしろ)・子代(こしろ)、豪族の私有地である田荘(たどころ)と豪族の私有民である部曲(かきべ)を廃止することが書かれています。これは私有地・私有民を廃止し、「全ての土地と人は公(天皇)のものである」という公地公民制(こうちこうみんせい)へ移行することが目的でした。

第二条は政治の中枢となる首都を設置し、国・郡といった地方行政組織を整備し、その境界を定めるということが書かれています。
また、国や郡といった各地方の行政組織にはそれを管理する国司(こくし、くにのつかさ)・郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)といった管理官、斥候(せっこう)・防人(さきもり)といった警備官や駅馬(えきば、はゆま、はいま)・伝馬(てんま)などの連絡手段を設置することも書かれていました。
これはそれまで比較的自由に支配されていた地方を、天皇の定める管理方法によって一元的に管理するというもので、各地方での勝手な税金の搾取などの不正を防ぐためのものだったと考えられています。

第三条には戸籍、計帳、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)を作成するということが書かれています。班田収授法というのは、天皇のものである土地(田んぼ)を国に住んでいる人々に貸し与える、というものです。
つまり第三条の内容は、戸籍・計帳によって国に住んでいる人々を把握し、班田収授法により田んぼを貸し与えるというものでした。

第四条はそれまでの肉体的労働によって税を納める労役制度を廃止して、田んぼの面積によって課される新たな税についての制度を定めるということが書かれています。

この改新の詔によって、地方ごとに豪族が自由に支配していた古い土地・人民の支配体制から、天皇を中心とした一つの国家としての新しい支配体制への転換が図られたのです。

このように、聖徳太子の死後、蘇我氏による専横時代などの紆余曲折を経て、新しい改革が行われていきました。一般的には、乙巳の変から新政権の誕生、そして新政権によって行われた「改新の詔」による一連の改革のことが「大化の改新」とされています。この大化の改新により、日本という国が天皇を中心とした中央集権国家になるために、更に一歩進んだのです。

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[参考書籍]
日本の歴史 飛鳥・奈良時代 律令国家と万葉びと(小学館 鐘江宏之)

[参考サイト]
Wikipedia 大化の改新

Wikipedia 乙巳の変

Wikiedia 蘇我蝦夷

コトバンク 境部之摩理勢とは

Wikipedia 舒明天皇

Wikipedia 蘇我入鹿

Wikipedia 改新の詔

日本史辞典.com 【改新の詔とは】簡単にわかりやすく解説!!4か条の内容・大宝律令との違いなど

兵庫教育大学大学院 連合学校教育学研究科 關造和研究室 飛鳥時代へようこそ 改新の詔

まなれきドットコム 面白いほどわかる改新の詔!簡単にわかりやすく徹底解説

大学受験の日本史を極めるブログ 大化の改新を簡単にわかりやすく。

Wikipedia 班田収授法

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