この記事では元号による時代背景を記載するため、太陰太陽暦と太陽暦を併記します。
壬申の乱に勝利した天武天皇(てんむてんのう。~686年、在位673年~686年)は、兄弟間での皇位継承でトラブルとなったことを踏まえ、自身の皇子たちに同じような思いをさせないよう兄弟間で皇位継承するのではなく、親から子への皇位継承を行う方針を定めました。
天武天皇は皇太子として草壁皇子を選ぶと、それ以外の皇子には草壁皇子に協力し、お互い助け合って争わないよう誓いを立てさせました(吉野の盟約)。
しかし、草壁皇子は天武天皇崩御後の喪中に薨去してしまいます。
天武天皇の皇后であった鸕野讚良(うののさらら)は、吉野の盟約により草壁皇子の子である軽皇子へ皇位継承させるため、自らが軽皇子(かるのおうじ)への橋渡しのために天皇に即位しました。
軽皇子は持統天皇(じとうてんのう。645年~703年、在位690年~697年)から譲位を受け文武天皇として即位するものの、10年後の慶雲4年6月15日(707年7月18日)、25歳で崩御します。
文武天皇の皇位継承予定者であった首皇子(おびとのおうじ)は、このときまだ7歳と幼い子どもであったため、即位させるには無理な年齢でした。
即位の適齢期まで、文武天皇の生母であり草壁皇子の正妃であった阿閇皇女(あへのひめみこ)が、姉の持統天皇に倣い、橋渡しの即位をすることになります。
これにより慶雲4年7月17日(707年8月18日)、第43代元明天皇(げんめいてんのう。660年~721年、在位707年~715年)が誕生し、ここから、第44代元正天皇(げんしょうてんのう。680年~748年、在位715年~724年)が譲位する養老8年2月4日(724年3月3日)までの約17年間、二代二人の女帝による聖武天皇(しょうむてんのう。701年~756年、在位724年~749年)への橋渡しが行われました。
元明天皇が治めた和銅時代
元明天皇が即位した翌年の慶雲5年1月11日(708年2月7日)、秩父の黒谷より純度が高く精錬を必要としない自然銅が産出され、朝廷に献上されました。
この銅は和銅と呼ばれ、銅が産出された記念として、元号は「慶雲」から「和銅」に改元されました。
これ以降、元明天皇が治めた時代の元号は和銅が使われました。
和同開珎の発行
和銅元年5月11日(708年6月3日)より、皇朝十二銭の最初の貨幣である和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)が鋳造・発行されました。
皇朝十二銭とは、律令制度下で朝廷により発行された銅銭をいい、963年に発行された乾元大宝(けんげんたいほう)までの12種類を指します。
和同開珎は、発行当時は1枚で1文という価値がつけられました。
1文は新成人1日分の労働力相当であり、米2kgが買える価値だったと云われています。
米や布を使った物々交換が主流であった飛鳥時代末期に投入されましたが、藤原京や平城京周辺での利用が中心で、国内にはあまり浸透しませんでした。
採掘力から全国に一気に貨幣を流通させるほどの銅資源が確保できなかったことが要因でした。
それでも、和同開珎の発見は全国各地でされており、渤海の遺跡といった海外においても、和同開珎は発見されているため、貨幣としての価値はあったことが推測されます。
平城京への遷都
和銅3年3月10日(710年4月13日)、藤原京から平城京に遷都されました。
平城京は唐の都「長安」を参考に造営された都で、平城宮を中心に南北に走る朱雀大路を境として、東西を左京と右京に分けたうえ東西南北に大小の道路を碁盤の目のように作り、区画分けが行われました。
東西約4.3km、南北約4.8kmの敷地が確保され、総面積は約2,500ヘクタールの広大な都でした。
平城京への遷都計画は、慶雲4年、文武天皇在位中より審議は始まっており、文武天皇崩御後に元明天皇により正式に決定されました。
平城京への遷都には、次のような理由がありました。
- 藤原京の地理的な欠陥解消
- 唐の長安との首都機能の差の解消
- より立派な都を作ることで、天皇の権力や権威を示す
- 大陸との外交や交流の玄関口である難波津からの移動の利便性向上
- 飛鳥地方の豪族の影響を避け、律令制による政治を推し進めるため
藤原京は南高北低の土地で、天皇が南にあり宮殿から街並みを見上げなければいけないことや排水等が逆流するなどの地理的な欠陥でした。
また、京内に流れる飛鳥川や丘陵による平坦でない高低差などもあり、道路も利便性の高いものではありませんでした。
さらに、唐から帰国した粟田真人(あわたのまひと)による長安の最新情報から、藤原京を長安と比較した場合、首都機能があまりにも低いことがわかったのです。
中国の古代王朝である周などの都市造営を参考にして日本初の本格的な都として造営された藤原京でしたが、唐の都市づくりは遥か先を進むものだったため、それ以降の藤原京造営は止め、国内の豪族や民だけでなく大陸や朝鮮の国々に対して独立国として権威を示すことができる立派な都を作ることにしました。
大陸との外交や交流の玄関口である難波津からの移動の利便性向上も踏まえ、藤原京よりも北に位置する奈良盆地に平城京を造営することになりました。
平城京予定地が藤原京から北進し奈良盆地になった背景には、大化の改新以降、天皇を中心とした朝廷による中央集権を進め大宝律令による律令政治を推し進める中で、飛鳥の旧勢力、とくに諸大寺の圧力を避けることや影響を避ける目的も含まれていました。
遷都が計画されると、平城京は唐の長安を参考に、風水思想に基づいた都市計画により設計されました。
【風水思想で理想的とされる条件】
- 背後に高い山があること
- 前面に流れる水があること
- 周囲に四神砂と呼ばれる地形(山・川・道・平地)があること
奈良盆地はこの思想においても最適な場所でした。
遷都されると、太政官の首班であった左大臣石上麻呂(いそのかみのまろ)に藤原京の留守を任じました。
これにより、平城京で政治を進める太政官の首班として実権を握ったのは、右大臣の藤原不比等でした。
古事記の完成
平城京への遷都が進む中、日本最古の歴史書である古事記が、和銅5年(712年)に完成しました。
天武天皇に仕えた官人である稗田阿礼は、天武天皇より記憶力の良さを評価され、飛鳥時代に存在していた歴史書「帝紀」や「本辞」を読み記憶するように命を受けました。
元明天皇が天武天皇の意志を受け継ぎ後世に正しく歴史を伝えるため、取りまとめるように命じたことが古事記編纂の始まりでした。
稗田阿礼(ひえだのあれ)が習誦し、口述した内容を太安万侶(おおのやすまろ)が編纂して作られたとされています。
古事記は上巻、中巻、下巻に分かれており、神話から天皇の系譜までを記録しており、推古天皇までの歴史が記録されました。
風土記編纂命令
和銅6年(713年)になると、元明天皇は各地の風俗や地理、歴史、農業、地域に残る神話などを記録するため、風土記の編纂を命じました。
唐で作られていた地理書である『地方志』を模範としたもので、律令制度の整備と地方統治の必要性が編纂命令の背景にありました。
風土記には、地名の由来、土地の産物、地域の伝説などが記録されました。
現存するのは常陸国(茨城県)、播磨国(兵庫県)、出雲国(島根県)、豊後国(大分県)、肥前国(佐賀県・長崎県)の5ヶ国のみとなっています。
特に出雲国風土記は、ほぼ完全な状態で現存しているため、奈良時代の地理や文化を知るための貴重な資料となっています。
蝦夷・隼人対策
律令制度による中央集権体制での国家運営の視点から、東北の蝦夷(えみし)、九州の隼人(はやと)といった朝廷に従わない民族に対しての政策も行われました。
元明天皇即位後の和銅元年9月28日(708年11月14日)、朝廷は越後国の庄内地方に出羽郡を新設しました。
出羽郡の設置により、この地に住んでいた蝦夷系住人は、抵抗や困惑の感情を持つようになりました。
蝦夷の人々は独立国として領土主張をしていたわけでなく住んでいただけで、自分たちが生活していた地域に、大和朝廷の支配が広がる懸念があったからでした。
そのため蝦夷の人々は、朝廷から地方役人として現地に出向していた者や非蝦夷系の住人たちと度々衝突しました。
そのため朝廷は、ただ支配を進めるだけではなく、和銅3年4月21日(710年5月23日)には、陸奥国側の蝦夷族長らに君(きみ)の姓(かばね)を与え、律令国家の公民と同じ待遇を保証しました。
このような政策を進めていたため、全ての蝦夷の人々が朝廷に対し非協力的ではなく、朝廷側に付く蝦夷の人も増えていきました。
その中で、大和朝廷に従わない蝦夷の人々が住んでいた東北地方を徐々に律令国として制定したことから、この時代の大和朝廷による領土拡大は簡単に進んだとみられます。
ただし、これらの不満の拡大が奈良時代末から平安時代初期にかけての蝦夷の反乱や蝦夷征伐につながりました。
南九州については、熊襲や隼人といった地域住民が地域を領有し、勢力をふるっていたため朝廷との間での小競り合いが続く状態でした。
九州南部の隼人たちは、南西諸島を経由した中国大陸との交流を活発に行っていました。
700年、南西諸島や九州南部で交流について調査を行っていた覓国使(べっこくし)が、九州南部で現地住民から威嚇を受ける事件が発生したため、朝廷は702年に大宰府から兵を派遣します。
あわせて、現在の宮崎県から鹿児島県一帯の地域であった日向国から、鹿児島県西部エリアを分割し、唱更国(後の薩摩国)としました。
日向国が広範囲であったため、新たに律令国に分割し、国司が支配管理できる範囲を狭めることで支配体制を強化したのでした。
元明天皇即位後は、地域の安定化を図るため、和銅6年(713年)4月、日向国南部(現在の鹿児島県東部側)を分割し、大隅国を設置しました。
また、大隅国設置に際し、律令制の指導に当たらせるため、豊前国から約5,000人を移住させ、指導に当たらせました。
しかし、律令制における国郡制の導入や班田収授法の推進による支配体制の強化は、集落や一族といった集団で田畑を利用してきた隼人と、個人に国から土地を貸し与えるといった公地公民制を推進する朝廷との間の緊張を高めることになりました。
皇統の安泰化
元明天皇は、首皇子を皇太子として立太子したものの、年齢を重ねる中で皇位継承まで天皇を続けることは難しいと考えるようになり、その子孫へ皇統が継承されるよう対策を講じました。
まず和銅6年(713年)11月、首皇子の異母兄弟となる広世王(ひろよおう)を臣籍降下させ高円広世(たかまどのひろよ)とし、首皇子が文武天皇の唯一の皇子となるようにしました。
広世王は、文武天皇と石川氏から嬪となった女性との間に生まれた皇子でした。
石川氏は、蘇我倉山田石川麻呂から続く蘇我氏の一族であり、蘇我氏の血統は当時も尊貴性を認められていました。
そのため、持統天皇や藤原不比等が望んだ文武天皇から首皇子への皇位継承路線以外に、蘇我系皇族への皇位継承を模索する路線が、皇族や貴族の中で生まれていました。
これを排除するために広世王は臣籍降下にて高円朝臣が与えられたのでした。
和銅8年(715年)1月には、草壁皇子と元明天皇の娘である氷高内親王を、親王・内親王に適用される位階である品階(ほんかい)における最高位の一品(いっぴん)へ昇叙させました。
2月には氷高内親王の妹にあたる吉備内親王を妃に迎えていた長屋王家を取り立て、長屋王と吉備内親王の子を天武天皇から見た三世王でありながら、皇孫(二世)の待遇とします。
これにより長屋王は親王の待遇、つまり元正天皇の嫡男同等の待遇を得ることになり、草壁直系の皇統に対する守護者の役割を果たすことになりました。
このように、草壁皇子の皇統が安泰となる環境が整うと、和銅8年9月2日(715年10月3日)、娘の氷高内親王に皇位を譲り、氷高内親王が元正天皇として即位し、元明天皇は同日上皇となりました。
元正天皇が治めた霊亀・養老時代
元正天皇の時代には、霊亀と養老2つの元号が使われました。
和銅8年9月2日(715年10月3日)、元正天皇の即位時に縁起の良い亀が献上されました。
これにより元号の和銅は9月2日までとなり、霊亀(れいき)に改元されました。
同日霊亀元年9月2日として霊亀は始まりました。
また、霊亀3年に岐阜県の木曽川水系にある滝に行幸した元正天皇は、その泉の水が美しく美味しかったことに感銘を受け、この泉で老いた体を労わるようにするべきだと言い、その滝を「養老の滝」と命名しました。
それに合わせて、霊亀の元号を養老に改元する勅をだしました。
それ以降、元正天皇の治世は養老の元号が使われました。
養老律令制定
右大臣藤原不比等は、大宝元年(701年)に大宝律令を成立させました。
大宝律令は唐の律令が参考にされていたため、日本に適合していない内容もあり、そのため、藤原不比等は日本に合った律令になるよう、大宝律令施行後も、改修作業を進め、養老2年(718年)に、律6巻、令11巻の全17巻であった大宝律令が、律10巻12編、令10巻30編に改修されました。
しかし、養老4年に藤原不比等が死去したため、以降の改修作業は停止され、施行されたのは、約40年後の757年でした。
聖武上皇の死後、朝廷内で主導権争いが始まる中、藤原不比等の孫である藤原仲麻呂が孝謙天皇と連携して政治的安定を図ることを目的に施行されたのでした。
藤原不比等により養老年間にまとめられた律令であったため、養老律令と名付けられました。
養老律令は、文武天皇の勅による国家として制定された大宝律令を基本的には踏襲しており、大宝律令の制定に関わった藤原不比等が個人で改修を行っていたため、内容に大きな差はなかったとされていますが、大宝律令、養老律令ともに、現在に原文が残されていないため内容の比較はできず、具体的な違いはわかっていません。
養老律令は、平安時代中期に形骸化するまでの間、古代日本の政治体制を規定する基本法令として機能しました。
隼人の反乱
養老4年2月29日(720年4月11日)、大隅国の国司であった陽侯麻呂(やこのまろ)が殺害されたと、大宰府から朝廷へ報告が伝えられました。
3月4日、朝廷は、大伴旅人(おおともの たびと)を征隼人持節大将軍、笠御室(かさのみむろ)と巨勢真人(こせのまひと)を副将軍に任命し、隼人の征討にあたらせます。
朝廷軍は、九州各地から1万人以上を徴兵し、東側の日向国側からと西側の肥後国側の二手に分かれて進軍しました。
隼人側は数千人の兵が集まり、7ヶ所の城に立て籠りました。
6月17日には5ヶ所の城は陥落されたのですが、残った曽於乃石城(そおのいわき)と比売之城(ひめのき)の2つの城は攻略が進まず、1年半に及ぶ長期戦になりました。
この反乱で隼人側の戦死者と捕虜は1400人に及び、隼人側の敗北で終結しました。
藤原不比等から長屋王へ
養老律令を制定した藤原不比等ですが、2年後の養老4年8月3日(720年9月9日)、病に倒れ没します。
藤原不比等の生涯は、持統天皇に仕え、右大臣として元明天皇・元正天皇に仕えました。
朝廷に仕える活動の中で、息子の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)や藤原房前(ふじわらのふささき)らとともに、藤原氏繁栄の基礎固めも行った生涯でした。
元正天皇は皇親政治を強化していたこともあり、養老5年1月5日に皇族の長屋王を藤原不比等の後任の右大臣として任官しました。
不比等の長男である藤原武智麻呂は従三位に昇進し中納言に任官されましたが、不比等の子たちにとっては政敵が上に立つ形になりました。
元明上皇は、自身の死後の政局を安定させるため、藤原氏主導での政権運営を目指す長男の武智麻呂ではなく、協調路線であった藤原房前を内臣に任命し、長屋王ととともに元正天皇や首皇子を補佐するよう命じました。
首皇子が天皇に即位した際に長屋王を筆頭として藤原四子が政権をサポートするという構想を実現させるための動きでもあり、元明上皇だけでなく不比等も生前に構想を練っていた内容でした。
日本書紀の完成
元正天皇の治世には、古事記に並ぶ最も古い史書の1つの日本書紀が完成します。
天武天皇が壬申の乱後に、自身の皇統を正当化するために編纂を命じたもので、養老4年(720年)に完成したと云われています。
正史としては最古のもので、古代日本の律令国家が編纂した6つの一連の正史である六国史の1つめに該当します。
日本書紀は全30巻で構成されており、天地開闢の神代から、持統天皇代までを扱う編年体の歴史書となっています。
古事記の推古天皇までの記載に対し、約70年後の時代までが盛り込まれました。
神代における神話から各天皇についての記録を残した書物でありながら、第9巻では天皇ではない神功皇后に1巻全体で取り扱っていたり、第29巻では壬申の乱だけで1巻全体を費やしていたりしており、他の巻とは違った例外的な内容も含まれています。
壬申の乱に1巻が使われた背景には、天武天皇が皇統の正当化を目的として編纂させたこともあり、壬申の乱を重要視していたためと考えられます。
百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく)
養老6年(722年)、人口増加に伴う口分田の不足を補うため、朝廷は大規模な開墾計画を策定します。
それが百万町歩開墾計画でした。
民に食糧と農具を支給し、10日間労役させて土地が肥え、稲がしっかり育つ良田を百万町歩開墾しようと長屋王政権下で計画されましたが、実際に施行されたかは不明であり、スローガンとして策定されたのではとされています。
三世一身の法制定
百万町歩開墾計画とは別に、農民による土地の開墾を後押しすることを目的として、養老7年(723年)三世一身の法が施行されました。
この法律ができるまでは、土地は本人の一代限りで国に返す必要がありましたが、三世一身の法施行後は、自分で開墾した土地は、自分・子・孫と三世代で所有が可能になりました。
しかし、結局のところいくら開墾しても、開墾した土地は限定された期間が過ぎれば国に渡さなくてはいけなくなります。
そのため、この法律が目指した農民のやる気にはつながらず、わずか20年でこの制度は崩壊してしまいました。
養老6年に百万町歩開墾計画が策定されるほど、奈良時代には人口が増加しており耕地の不足は深刻化していたものの、土地の問題は解決せず、聖武天皇の治世での墾田永年私財法発布へと続くのでした。
三世一身の法が施行された翌養老8年2月4日(724年3月3日)、元正天皇は皇太子の首皇子に譲位し、聖武天皇が誕生しました。
これにより、女帝二代に渡る橋渡しは完了し、無事文武天皇の皇子であった聖武天皇に皇位を継承できたのでした。