奈良時代は、710年の第43代元明天皇(げんめいてんのう、660年~721年、在位707年~715年)による平城京への遷都から始まり、794年に第50代桓武天皇(かんむてんのう、737年~806年、在位781年~806年)が平安京に遷都するまでの84年間を指します。
奈良時代の年表
710年 | 元明天皇が平城京に遷都 |
712年 | 古事記が完成 |
715年 | 氷高皇女が元明天皇から譲位され元正天皇として即位 |
716年 | 出雲大社が建立される |
717年 | 第9回の遣唐使派遣(吉備真備、玄昉、阿倍野仲麻呂らが留学) |
718年 | 養老律令の編纂開始 |
720年 | 日本書紀が完成 藤原不比等が死去 |
721年 | 長屋王が右大臣に 元明天皇が崩御 |
722年 | 百万町歩開墾計画の開始 |
723年 | 三世一身法の施行 |
724年 | 首皇子が元正天皇より譲位され聖武天皇として即位 多賀城が設置される |
726年 | 聖武天皇が興福寺東金堂を建立 |
728年 | 遣渤海使を派遣 基王皇太子が1歳で夭逝 |
729年 | 長屋王の変 藤原光明子が光明皇后に |
730年 | 光明皇后の発願により興福寺に五重塔が建立される |
733年 | 光明皇后の母 橘美千代が死去 |
734年 | 遣日本使が来朝するも日本の国名を「王城国」に変更したと告知ことで新羅に追い返す 光明皇后が橘美千代の菩提供養のため興福寺西金堂を建立する |
736年 | 葛城王を臣籍降下し橘諸兄と改名させる |
737年 | 藤原四兄弟が疫病で全員死亡 玄昉の看病で皇太夫人宮子は回復し、聖武天皇と対面を果たす |
740年 | 藤原博嗣の乱 聖武天皇が東国へ行幸し、恭仁京へ遷都 |
741年 | 聖武天皇が国分寺建立の詔を出す |
742年 | 紫香楽宮の造営開始 |
743年 | 墾田永年私財法の発布 聖武天皇が奈良の大仏(東大寺盧舎那仏坐像)造立の詔を出す |
744年 | 聖武天皇の第二皇子の安積親王(あさかしんのう)が死去 難波宮に遷都 |
745年 | 1月に紫香楽宮を新京とするも5月に平城京へ遷都し戻る 紫香楽で中止した大仏造仏基皇子を弔った金光明寺で開始 玄昉が太宰府観世音寺別当に左遷される |
748年 | 元正上皇崩御 |
749年 | 阿倍内親王が聖武天皇から譲位され孝謙天皇として即位 |
752年 | 奈良の大仏(東大寺盧舎那仏坐像)開眼法要 |
753年 | 鑑真来日 |
754年 | 鑑真により、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇など440人が授戒を受ける |
756年 | 聖武上皇崩御 |
757年 | 道祖王の皇太子身分のはく奪、大炊王の立太子 養老律令の施行 橘奈良麻呂の乱 |
758年 | 大炊王が孝謙天皇より譲位され淳仁天皇として即位 |
760年 | 光明皇太后が崩御 |
764年 | 藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱が起こる 淳仁天皇を廃位し孝謙上皇が重祚し称徳天皇として即位 |
769年 | 宇佐八幡宮神託事件が起こる |
770年 | 称徳天皇崩御により白壁王が光仁天皇として即位 |
772年 | 光仁天皇への呪詛の疑いで井上内親王は廃后、連坐で他戸親王も廃皇太子 |
773年 | 山部親王を皇太子とする |
780年 | 伊治公呰麻呂の乱が起こる |
781年 | 山部親王が光仁天皇より譲位され桓武天皇として即位 |
784年 | 長岡京へ遷都 |
785年 | 造長岡京使の藤原種継が暗殺される 藤原種継暗殺にかかわったとして早良親王の皇太子を廃し淡路へ流す |
794年 | 平安京へ遷都 |
奈良時代の政治
奈良時代は政治的な特徴から次のように分けられます。
平城京遷都から長屋王の変までの前期
飛鳥時代末、第42代文武天皇(もんむてんのう。683年~707年、在位697年~683年)の在位中から平城京への遷都は審議されていましたが、元明天皇(げんめいてんのう。661年~721年、在位707年~715年)により遷都の詔が出され、平城京の造営が始まります。
元明天皇は、文武天皇の子である首皇子(おびとのみこ、後の第45代聖武天皇(しょうむてんのう。701年~756年、在位724年~749年))に皇位継承するための中継ぎとして即位した天皇でした。
元明天皇の時代は、中臣鎌足の子である藤原不比等が権力者として、政権運営を担っており、藤原不比等は藤原氏と天皇家のつながりを強化するため、娘の宮子を文武天皇即位前の天皇の妃(ひ)として嫁がせました。
そして天皇即位後に夫人(ぶにん)となり、そこで生まれたのが首皇子でした。
首皇子の誕生により外戚となった藤原氏は、朝廷内で更なる権力を得、奈良時代には子孫が公卿となり、平安時代以降は摂関家として権力を掌握、江戸時代には大臣資格を有する上位公卿17家系のうち14家系を占有するまでになります。
715年、元明天皇は年齢を理由に娘の氷高皇女(ひだかのひめみこ)に譲位し、第44代元正天皇(げんしょうてんのう。680年~748年、在位715年~724年)が即位。
716年には、藤原不比等は、橘三千代との娘である藤原光明子を、首皇子のもとに入内させます。
首皇子の母だけでなく后にも藤原氏の女性を入れ、朝廷との更なる関係強化を図りました。
しかし、720年に藤原不比等が死去すると、元正天皇により朝廷の人事は刷新されます。
天武天皇の第3皇子であった舎人親王(とねりしんのう)を知太政官事(ちだいじょうかんじ)に就任させ、太政官の首班に立たせました。
第10皇子であった新田部親王(にいたべしんのう)は朝廷直轄の軍事力(五衛府・授刀舎人寮)の統括者である知五衛及授刀舎人事(ちごえいおよびじゅとうとねりじ)に就任させました。
草壁皇子以外の天武天皇の皇子たちは皇統を支える立場である位置付けを継承し、公卿の後見的な地位に就かせたのでした。
右大臣には天武天皇の長男である高市皇子(たけちのみこ)の子であり、母が天智天皇の娘であることで、天智天皇・天武天皇双方の孫に当たる長屋王(ながやおう)を就かせ、皇親政治を強化しました。
一方で、藤原氏の処遇は、藤原不比等の長男の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)を中納言、次男の藤原房前(ふじわらのふささき)を参議としました。
不比等の死去により、皇親勢力と藤原氏の権力が逆転したのでした。
724年、元正天皇は23歳になった首皇子に譲位し、第45代聖武天皇が誕生しました。
しかし、聖武天皇の即位後、天皇と長屋王との間ではトラブルが多く起こります。
聖武天皇は即位にともない、母の宮子を天皇の生母であり先代天皇の夫人への尊号である「大夫人(たいふじん)」と呼ぶように指示する勅を出しましたが、この勅に対し、長屋王など臣下が天皇に対して、
「公式令に大夫人という称号は存在せず、皇太夫人があるのみとし、大夫人を使えば違令であり皇太夫人であれば違勅になる。そのため、どうすればいいか。」
上奏しました。
これに対し、天皇は勅を撤回し、新たに詔を出して事態を収拾する異例の事態となりました(辛巳事件(しんしじけん))。
727年9月、光明子(藤原不比等の子)は聖武天皇待望の皇子である基皇子(もといのみこ)を出産します。
聖武天皇は喜び、生後わずか33日しか経っていない状態で立太子しました。
しかし翌728年9月、基皇子は1歳を迎える前に夭折してしまいました。
この基皇子の死去に関し呪詛の疑いが長屋王にかけられ、729年2月に長屋王一家が自害に追い込まれる長屋王の変が起こります。
長屋王の変は、長屋王や長屋王の子の膳夫王(かしわでおう)を排除するため、藤原氏が仕組んだと見られています。
長屋王の存在は、聖武天皇の妃の藤原光明子を皇后として立后するに当たり、障害となっていたからでした。
この事件により、不比等の長男の藤原武智麻呂は大納言に昇格。
太政官の長官である左大臣と右大臣の任命者がいない状態であったため、大納言でありながら太政官の首班となり、皇親勢力から藤原氏に権力基盤が移ったのでした。
藤原四兄弟の政治から藤原仲麻呂の乱までの鎮護国家思想による国造りが行われた中期
藤原氏に権力基盤が移ると、聖武天皇、藤原氏ともに悲願であった藤原光明子の立后を進めます。
(立后とは、天皇の妃や婦人の中から皇后を選出することをいいます。)
しかし、皇族以外の出身者を妃や婦人にすることに問題はありませんでしたが、立后することには問題がありました。
当時の皇后は、天皇が崩御した際に天皇として即位し、皇位継承者が即位できるまでの中継ぎを担うことがあったからでした。
立后の詔が出され、729年8月10日、光明子が皇后に立てられました。
しかし、藤原光明子の立后に反対していた長屋王がいなくなりスムーズに進むと思われていましたが、立后の詔に対する反発は予想外に多くでました。
そのため、詔が出された2週間後の8月24日、官人を招集してこれまでの伝統にはなかった新しい儀式を行い、立后の宣命が出され光明皇后が誕生しました。
この宣命では、光明子は基皇子の母であるため皇后に相応しいということ、光明子の父不比等の功績を忘れてはならず、光明子に過失が無ければ軽んじてはならないなど、光明子を擁護する内容や、即位から6年間皇后を定めなかった理由として慎重に人選したからということ、臣下の娘が立后するのは仁徳天皇の前例があるなど、立后するうえでの釈明が臣下に示されたのでした。
光明皇后は仏教への信仰心が強く、皇后になった翌年の730年には興福寺に五重塔を建立、母親である橘三千代の死去を受け、734年には興福寺西金堂も建立しました。
しかし藤原四兄弟が権力掌握した期間は短く、737年の天然痘蔓延により、藤原四兄弟は全滅。
太政官のほとんどの公卿も、天然痘で死去してしまいます。
聖武天皇は、太政官で生き残った鈴鹿王(すずかおう)を、太政官を統括する立場である臨時職の知太政官事(ちだいじょうかんじ)に、橘諸兄(たちばなもろえ)を次期大臣の資格を持つ大納言に任命し、応急的に体制を整えました。
さらに738年には、橘諸兄を正三位・右大臣に任じ、新しい朝廷をスタートさせました。
橘諸兄は、遣唐使として唐に渡った経験のあった下道真備(しもつみちまきび|後の吉備真備)と玄昉(げんぼう)を政策参謀とするよう進言し、政権運営に参画させました。
このような橘諸兄を中心とした朝廷の運営に対し、740年に藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が反乱を起こします。
九州大宰府の役人とされたことを左遷人事と感じていた藤原広嗣は、朝廷に対し政策参謀としている下道真備と玄昉により天災など混乱が生じているため、参謀を解任するべきという内容の意見書を送付します。
遣唐使とともに唐に渡って帰国した者たちで、唐から帰国した船から疫病がもたらされたことから、疫病の責任の一端であるとしたのです。
参謀を参画させた橘諸兄を批判する意見書でしたが、朝廷に対しての謀反と取られてしまい、藤原広嗣の乱を起こしますが、朝廷に捕らえ死罪とされしました。
藤原広嗣の乱が沈静化する頃、聖武天皇は平城京より東の伊勢・美濃といった東国地域への行幸を開始します。
この行幸は、約5年に渡ったことから、彷徨五年と呼ばれています。
5年間も行幸を行った理由は解明されていませんが、この期間中に聖武天皇は平城京から別に造営した都に首都機能の移転を繰り返したため、遣唐使よりもたらされた唐の都造営の情報から複都制を構想していたからではないかと考えられています。
740年12月に恭仁京(現在の京都府木津川市)に到達し、そこに遷都する勅を出しました。
しかし、恭仁京の造営後、首都機能を平城京から移したものの、743年には造営が中止され、744年に天武天皇時代より副都として整備されていた難波宮へ遷都。
さらに、難波に移って間もない頃に、紫香楽離宮に遷都しようとしました。
この度重なる遷都に不満を抱いた人々は、放火をして山火事を度々起こしました。
美濃を震源とする大地震も発生し、余震が何度も紫香楽宮を襲いました。
これらの出来事に対し、聖武天皇は神仏の祟りであり、自身の天皇としての不徳のためとし、745年に平城京に再遷都し、平城京に戻ったのでした。
またこの行幸の間、聖武天皇は国分寺建立に関する詔や大仏(奈良の大仏(東大寺盧舎那仏坐像))造立の詔をだし、鎮護国家思想の政治をはじめていました。
平城京に戻った聖武天皇はさらに仏教へ傾倒しました。
紫香楽宮で中止した大仏造立を平城京近くの寺院で再開させました。
政治に関心がなくなると、元正上皇が朝廷運営のサポートをするようになりました。
748年に元正上皇が崩御すると、749年に聖武天皇は突如出家するとともに、娘の阿倍内親王に譲位しました。
これにより第46代孝謙天皇(こうけんてんのう。718年~770年、在位749年~758年)が誕生しました。
大仏(東大寺盧舎那仏坐像)は752年に完成し、開眼供養には、インドの僧侶である菩提僊那(ぼだいせんな)が招かれました。
753年には、唐より鑑真が来日。
鑑真は戒壇を設けると、聖武天皇や光明皇后をはじめ約440人に対し、仏門に入る者に師僧が戒律を授ける儀式の授戒を行いました。
当時の唐における仏教では、僧になるために10人の授戒僧から授戒を受けて、はじめて僧になれたため、出家僧になれる授戒制度の確立のはじまりでした。
日本には授戒できる僧がいなかったため、授戒を受け僧になる制度もありませんでした。
そのため大宝律令制定時には、僧尼令が制定、僧尼の身分保障などが定められ、僧尼は国の管理下におかれたものの、僧になると税や労役が免除されたため、農民が自分で宣言して僧となる私度僧が増加し、問題になっていました。
756年、聖武上皇が崩御。
遺言として、孝謙天皇の後継に道祖王(ふなどおう)を指名しました。
孝謙天皇は道祖王を皇太子としたものの、言動が皇太子としては不適切であるとし、皇太子とした翌757年に廃太子し、代わりに大炊王(おおいおう)を立太子しました。
この道祖王の廃太子と大炊王の立太子の裏には、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の暗躍がありました。
道祖王の皇太子が廃されると、次の皇太子を決める会議が開かれました。
新田部親王の子で、道祖王の兄である塩焼王(しおやきおう. 天武天皇の孫)や、舎人親王の四男である池田王を推挙する声があがりました。
しかし、藤原仲麻呂は、『臣下のことを一番よく知っているのは君主である』と述べ、天皇の意向に従うと発言し、孝謙天皇に答えを求めます。
この発言は、選択肢から藤原仲麻呂が期待する大炊王を天皇に宣言させる計画でした。
孝謙天皇は、廃太子した道祖王は新田部親王の子であったため、今度は舎人親王の子の中から選ぶとします。
船王は男女関係の乱れ、池田王は孝行に欠ける、塩焼王も聖武天皇から不興を買っていたことを理由とし、対象から退けます。
妥当なのは大炊王となりました。
大炊王は藤原仲麻呂が自宅に住まわせ庇護していた皇族でした。
藤原仲麻呂は孝謙天皇に大炊王を立太子させる宣言をさせることにより、自身に有意な皇族を皇太子にすることに成功したのです。
これにより、藤原仲麻呂の専横が目立ちはじめ、藤原仲麻呂の専横に不満を持った橘諸兄の子である橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が謀反を企てましたが、密告により計画が露呈し、関わったものは捕らえられ処罰されました(橘奈良麻呂の乱)。
この事件の翌年、孝謙天皇は大炊王に譲位し、第47代淳仁天皇(じゅんにんてんのう。733年~765年、在位758年~764年)が即位しました。
藤原仲麻呂は光明皇后を後ろ盾としていただけでなく、この頃は孝謙上皇とも関係が良く、淳仁天皇とも皇太子になる前の皇族時代から面倒を見て来たという立場であったため、政治を我が物顔にできる状態となっていました。
しかし、760年に光明皇后が崩御すると、藤原仲麻呂の後ろ盾がなくなります。
さらに、もう一つの後ろ盾だった孝謙上皇とも対立しはじめました。
孝謙上皇は、母の光明皇后を失くし体調を崩していましたが、僧である道鏡(どうきょう)の看病により回復すると、道鏡を寵愛するようになります。
道鏡を寵愛し始めた孝謙上皇を良く思わなかった藤原仲麻呂は淳仁天皇に、孝謙上皇に僧の道鏡を寵愛するのは周囲に良からぬ噂が立つので控えるよう、意見させました。
この進言に孝謙上皇は怒り、淳仁天皇と孝謙上皇との間の関係にも亀裂が入りました。
762年、孝謙上皇は、淳仁天皇に対して、天皇が行う祭祀だけを行い、国の大事や賞罰など政治に関しては孝謙上皇自身が行うと宣言します。
さらに、孝謙上皇と仲麻呂のパイプ役となっていた藤原仲麻呂の正室の藤原袁比良(ふじわらのおひらこ)を亡くし、藤原仲麻呂の側近であった紀飯麻呂(きのいいまろ)や、中納言の石川年足(いしかわのとしたり)も亡くなり、政治基盤が揺らぎ始めたことで、藤原仲麻呂は焦りはじめました。
そこで、764年、藤原仲麻呂は軍事力を持って政権を奪取しようと謀反を計画します。
しかし、孝謙上皇に謀反についての度重なる密告がされました。
孝謙上皇は密告を受け、皇権の発動に必要となる御璽(ぎょじ:天皇の公印)と駅鈴(情報伝達の最速手段である駅馬使用に必要)を、淳仁天皇から第31代用明天皇の皇子で少納言であった山村王(やまむらおう)に回収させ、淳仁天皇が藤原仲麻呂に都合の良い勅を出せないようにしました。
藤原仲麻呂は息子の藤原訓儒麻呂(ふじわらのくすまろ)に山村王を襲撃させ、御璽・駅鈴を奪いますが、孝謙上皇はすぐに追手を派遣し、仲麻呂の息子を射殺し奪い返しました。
これにより孝謙上皇は天皇として、藤原仲麻呂とその一族についての官位、藤原の氏姓をはく奪する命令を出し、朝敵にも指定しました。
平城京を一族で逃れた仲麻呂は挙兵するも、討伐軍に敗れ一族も皆殺しにされ、仲麻呂の反乱は終息しました。
この乱ののち、藤原仲麻呂の勢力は、政界から一掃されました。
また、淳仁天皇は藤原仲麻呂との関係が深かったことを理由に廃位され、淡路島に流されました。
淳仁天皇を廃位した代わりに、孝謙上皇が重祚し、第48代称徳天皇(しょうとくてんのう。在位764年~770年)として即位しました。
称徳天皇の重祚から平安京遷都までの奈良時代後期
称徳天皇は、寵愛していた道鏡を政治に参画させるようになります。
道鏡は僧であり太政官の頂点の太政大臣に任じられたため、太政大臣禅師と呼ばれました。
また、現世の頂点である天皇に対し、宗教界の頂点として法王という肩書が設けられ、法王にも任じられました。
769年5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)より、「道鏡を天皇にすべし」という神託が宇佐八幡宮に下ったと朝廷に報告が届きました。
(現在の宇佐神宮に伝わる伝承では、道鏡がそのような神託が下ったと奏上させたとあります。)
称徳天皇はそれを喜び、確認のため、宇佐八幡宮に確認の使いの和気清麻呂(わけのきよまろ)を出しました。
和気清麻呂は、神託が嘘であったと報告を持ち帰ります。
これにより道鏡は天皇になれず、称徳天皇と道鏡の怒りをかった和気清麻呂は別部穢麻呂(わけべの きたなまろ)と改名され、大隅地方(現在の鹿児島県)への流罪となりました。
770年、称徳天皇は崩御します。
後ろ盾を失った道鏡は権勢を失い、皇位を継承した光仁天皇(こうにんてんのう。709年~782年、在位770年~781年)により下野国の薬師寺に左遷されました。
称徳天皇は皇太子を定めないまま崩御してしまったため、後継者がいない状態でした。
草壁皇子から続く男系の直系血統は聖武天皇の崩御で途絶えてしまったものの、聖武天皇の娘である井上内親王(いのうえないしんのう)は生存していました。
井上内親王は、天智天皇の子孫である白壁王(しらかべおう)に嫁いでおり、皇子(他戸親王(おさべしんのう))が生まれていました。
皇子がいる白壁王が皇位を継承すれば、その後の皇位継承で血統の問題がないことから、白壁王が皇位を継承し、が770年10月1日に第49代光仁天皇として即位しました。
井上内親王は立后され皇后となりました。
光仁天皇は62歳の高齢での即位でしたが、精力的に政治に関わり、道鏡を中心とした僧を政治に介入させた仏教偏重政治からの脱却を図りました。
ですが、772年、井上内親王に光仁天皇を呪い殺そうと呪詛したとする疑いが浮上し、皇后から廃されてしまいます。
皇太子の他戸親王も、井上内親王に連坐して廃されてしまうと、773年、光仁天皇の夫人の一人高野衣笠(たかのにいがさ)との子である山部親王(やまべしんのう)が皇太子として立太子されました。
(この呪詛事件は、山部親王の立太子をもくろむ藤原良継や藤原百川など、藤原式家一派の陰謀の可能性も考えられています。)
781年、山部親王は譲位を受け第50代桓武天皇(かんむてんのう。737年~806年、在位781年~806年)として即位します。
桓武天皇は、784年に平城京から長岡京へ、794年にさらに北側の地に造営していた平安京へ遷都しました。
都を奈良から北に離れた長岡京に移した理由は、
・称徳天皇代に法王にもなり天皇の座をも奪おうとした道鏡の出現により、仏教が政治に大きく介入していきた奈良仏教との関係性を絶ち、本来の天皇による政治を行うため
・皇統が天武天皇の血統から天智天皇の血統に戻ったことにより、天武天皇の血統による政治が行われた平城京から離れ、政治の刷新を示すため
と考えられています。
この遷都を指揮したのは、藤原式家の藤原種継でした。
藤原式家は光仁天皇即位時に尽力し、藤原南家や北家から主導権を奪い政治的発言力を上昇させていました。
その中で種継は、光仁天皇の時代には従四位下まで順調に昇進していました。
桓武天皇即位後には782年に参議に任じられ、783年にはいとこの藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の立后により、従三位に叙せられました。
784年には種継より以前から参議だった者より先に中納言に任じられ、長岡京への遷都責任者に任じられます。
785年の正月には既に宮殿を完成させ、新年の儀式は長岡京の宮殿で行われました。
しかし、785年9月に藤原種継は暗殺されてしまいます。
この首謀者には、長岡京への遷都反対派の大伴氏や平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人も複数いました。
また、桓武天皇の皇太弟であった早良親王も関与していたとされ、幽閉され、淡路へ配流され、配流中に恨みを抱いたまま死去してしまいました。
この事件以降も長岡京の造営は続きました。
しかし、飢饉や疫病が大流行したり、皇后や桓武天皇の近親者が相次いで亡くなるなど、不可解な異変が発生するようになりました。
792年、陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊による祟りだとされ、長岡京遷都から10年で平安京へ遷都することになりました。
これにより奈良時代は終焉し、平安時代を迎えました。
奈良時代の文化
奈良時代は文化の発展も顕著でした。
遣唐使が唐から持ち帰った都市造営や建築、仏教に関した最新技術や文化、情報により、飛鳥時代の文化がさらに磨き上げられた時代でした。
天平文化
奈良時代に栄えた文化は天平文化と呼ばれています。
天平文化は、聖武天皇の治世(724年〜749年)を中心に開花した文化で、唐に集まっていたインドやペルシア、アラビアなどの文化も取り入れた国際色豊かな文化が唐から日本にもたらされたことで、飛鳥時代の白鳳文化までの文化と融合したものになりました。
文学
奈良時代には、日本文学が大きく飛躍しました。
奈良時代の代表的な文学には、『古事記』と『日本書紀』があります。
古事記: | 712年に編纂された日本最古の歴史書で、稗田阿礼(ひえだのあれ)によって口述され、大安万侶(おおのやすまろ)が書き記しました。神話や伝承を基に、日本の起源や神々の物語、初代天皇から推古天皇までの歴史を描いています。 |
日本書紀: | 720年に完成した歴史書で、舎人親王らが編纂しました。『古事記』に比べてより公式な記録とされ、漢文体で書かれています。神代から持統天皇までの歴史を、より詳細に記録しています。 |
奈良時代のもう一つの文学の代表作に『万葉集』もあります。
万葉集は日本最古の和歌集で、約4500首の歌が収められ、自然や恋愛、人々の生活を題材にした歌が多く、日本人の感性や心情が豊かに表現されています。
作者には天皇や皇族、貴族だけでなく、庶民や農民も含まれており、多様な社会層の声が反映されています。
特に有名な歌人として、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)、山部赤人(やまべのあかひと)、大伴家持(おおとものやかもち)などがいます。
また、文学ではありませんが、当時の歴史を知るうえで貴重な資料となる書物に風土記もあります。
風土記は、地方の地誌や風物を記録したもので、713年、各地の国司に命じて、風土や産物、伝承などが記録され編纂されました。
現存するのは『出雲国風土記』のみですが、他にも『播磨国風土記』『常陸国風土記』などが知られています。
これらの文献は、地域ごとの特色や古代の文化を知る貴重な資料でした。
宗教
飛鳥時代初頭、聖徳太子により仏教興隆の詔が出されると、豪族が氏寺を作り、それぞれ一族の繁栄を願って個人的に仏教を崇拝する氏族仏教が始まりました。
大化の改新により蘇我氏が滅ぶと、律令制により中央集権的になりつつあった政府に仏教が受け継がれ、氏族仏教から国家仏教に変化し、奈良時代初頭では国家安泰のための仏教となっていました。
701年の大宝律令により国家が仏教を統制したため、私度僧が禁止され、勝手に僧侶になることができなくなっていました。
民間で自由に寺を作ることも禁止され、仏教を庶民に伝えることもできなくなっていました。
天皇や貴族は、仏の力で国家や一族を災難から守ってもらうことに期待し、国家として多くの寺院を建立し、そこに僧侶を住まわせ修行させました。
さらに、飛鳥時代末期に遣唐使の派遣により唐に渡っていた多くの留学僧が、奈良時代初頭に帰国し、帰国時に唐より持ち帰った仏教経典から、法相宗、倶舎宗、三論宗、成実宗、華厳宗、律宗の6つの宗派が生まれました。
これらの宗派は現在のような寺院ごとの宗派ではなく、経典ごとでの学派に近いものでした。
この6つの宗派が南都六宗と呼ばれる奈良時代に生まれた宗派でした。
このような中、特に仏教に傾倒していったのが聖武天皇でした。
聖武天皇は乱れた世を仏の力をもって治めようとしました。
譲位して上皇になった後は、出家し、盧舎那仏の開眼法要に招いたインド人の僧である菩提遷那(ぼだいせんな)、遣唐使の帰還時に唐から来日した鑑真により、日本に仏教の教えや戒律が伝わると、それらの教えを広げる活動を行いました。
一方で、日本古来の神道にも重きが置かれていました。
特に孝謙天皇の時代には、律令神祇制度(りつりょうじんぎせいど)が確立され神祇官という役職を置き、国家祭祀と中央での神社に関する行政が法律により区別され行われるようになりました。
この神祇官は政治を司る太政官と並ぶ最高機関の位置付けでしたが、実態としては、太政官より下の官職として扱われました。
同族の神を祀る神社の代表となる神社に祀られた神を国家神とし、国家神として認められた神社には、祈年祭のときに朝廷から供え物が送られました。
このような朝廷から供え物を奉られる神社を官社といい、官社帳に記載され、神祇官により保管されていました。
また、神仏習合が進み、諸国の神社に付属する寺も多く建てられました。
神社に付属させていたのは、日本における神に対し、仏は従属の関係と見られていたからでした。
このように、奈良時代における神道は、日本人の根幹をなす思想に変わりなく、仏教が広く浸透していく中でもその立場は変わらないものでした。
美術
仏教の隆盛に伴い、仏教美術や工芸品も発展しました。
飛鳥時代末期の白鳳文化に続いて唐からの影響を大きく受けており、仏像においては顔つきが幼さから大人の顔つきに、体の表現も均整がとれた仏像が作られるようになっていきました。
表情に悩みを表現するような仏像なども作られており、表現技法も進化しました。
奈良時代を代表する美術品には、東大寺の盧舎那仏像や天平文化後期の最高傑作とされる唐招提寺金堂の盧舎那仏像などがあります。
工芸品には、仏教と共に伝わり大仏開眼で披露された舞に使われた古楽面、奈良漆器があります。
奈良は漆器の日本発祥地とされ、奈良時代に作られた漆器は今も正倉院に収蔵されています。
風俗と生活
奈良時代の風俗は、衣食住や娯楽、社会生活の面で、中国の唐文化の影響を受けつつも、日本独自の特徴が色濃く反映されています。
服装については、唐の影響を受けた華やかなものでした。
貴族や皇族は、絹を使用した豪華な衣装を身にまとい、色鮮やかな染色や刺繍が施されていました。
男性は、上衣と下衣(ズボン)を着用し、冠をかぶるのが一般的でした。
公務の際には、位階により服の色や種類が分けられており、飛鳥時代末期に定められた養老律令による衣服令が適用されていました。
皇族について、天皇は白、上皇は赤、皇太子は黄丹、親王は深紫と定められていました。
臣下については、一位が親王と同じ深紫、二位・三位は浅紫、四位は濃紺、五位は浅紺、六位は深緑、七位は浅緑、八位は深縹、初位は浅縹と決められていました。
また服の種類は、皇太子以下五位までの諸臣は礼服、六位以下の官人は朝服、無位の者は制服とされていました。
女性は、裳(も)というスカート状の衣服を着用し、上衣としては長袖の着物を重ねていました。また、髪型も華やかで、結髪や髪飾りが用いられていました。
食生活については、米を主食とし、魚や野菜、海藻を副食とするのが一般的でした。
特に、精進料理が発展しました。
米が主食で、炊いたご飯や餅、雑炊などが食べられていました。
また、粟や稗、麦などの雑穀も重要な食材でした。
副食は、魚は干物や塩辛、醤(ひしお)などに加工され、野菜や山菜、海藻とともに食卓に上りました。
唐から伝来した新しい食材や調味料も取り入れられました。
仏教信仰により天武天皇は肉食を禁止していましたが、肉の代わりに食べられたのが、唐より伝わった「酥(そ)」「醍醐(だいご)」「酪(らく)」でした。
これらは、牛や羊の乳から作られた乳製品で、「酥」は味のしない練乳、「醍醐」はチーズ、「酪」はバターのようなものでした。
また、ソラマメも唐から伝わりました。
大仏開眼供養を行った菩提僊那が日本に伝えたとされています。
飲み物としては、宮中での日本酒造りが確立した時期でした。
朝廷内には「酒部(さかべ)」という酒造りの機関が作られました。
また、唐から伝わったお茶も徐々に普及し始めました。
住居は、庶民の住処において古代から続く竪穴式住居に加え、掘立柱建物が見られるようになります。
竪穴式住居は、四角形に地表を60cm程度掘り下げた、半地下の構造をしていました。
掘り下げた後の床面には、柔らかい土を使って平坦にならし、4本~6本の柱を立て、柱に梁を並べ、それに土や草を使って屋根を覆ったたてものでした。
夏は涼しく、冬は暖かい特徴があり、地面に固定されているため、地震や台風などの自然災害にも強いメリットのある住居でした。
掘立柱建物は、地表は掘り込まず、柱を差し込む穴を掘り、そこに柱を立て、地面から高い位置に床が作られる高床式になった建物でした。
この様式は、高床倉庫や寺院などにも用いられました。
芸能面では、雅楽や舞楽といった宮廷芸能が盛んで、祭りや儀式の際には、音楽や舞踊が披露されました。
奈良時代の遺産
奈良時代に作られ現存する遺産のうち、世界遺産として登録されているものに『古都奈良の文化財』があります。
この世界遺産は、古都奈良の文化財として8つの寺社などが登録されています。
- 東大寺
- 興福寺
- 春日大社
- 春日山原始林
- 元興寺
- 薬師寺
- 唐招提寺
- 平城宮跡
奈良時代の外交
奈良時代は、中国大陸では唐、朝鮮半島は新羅、半島北部の大陸側は渤海が治めており、この三つの国と外交が行われました。
特に隋に代わって中国大陸を統一した唐は、大帝国となっていました。
唐の朝鮮半島や東南アジアへの影響は大きく、西アジアや中央アジアの国との交流も活発に行われていました。
遣唐使と一緒に唐に渡った学者や僧たちは、時代の先端を進む唐から、多くの知識や技術を日本に持ち帰ったのです。
唐との外交
飛鳥時代より始まった遣唐使が継続して行われていました。
717年の第9回の使節団から779年の第17回使節団まで計9回の派遣が計画され、うち3回が中止となり6回の派遣が行われました。
746年に計画された第11回の派遣は、当時新羅との間で関係が緊張していたため、新羅に対しての警戒から派遣されませんでした。
また、761年、762年に計画された第14回、第15回の派遣は、唐における安史の乱により中止され、そこから奈良時代末の777年までは遣唐使の派遣は行われませんでした。
遣唐使の使節団には、遣唐使の使者以外に留学生や学問僧が多く加わり、多い時には500人近い人々が唐に渡りました。
留学生や学問僧は、唐における建築技術や日常生活における最新の技術、仏教に関する経や知識などを見聞して学び、それらに関する書物や経典を多く日本に持ち帰り、当時の日本の文化的発展、仏教の発展に貢献しました。
新羅との外交
天武天皇以降、新羅と日本の間では、遣新羅使と遣日本使の双方派遣が行われました。
新羅から日本への使者派遣は673年の天武天皇即位から780年の新羅武烈王の王統の断絶まで約30回行われ、780年を最後に外交としての正式な新羅への使者派遣は行われなくなりました。
この間、新羅は隣国の渤海、また唐との関係により、日本に対しての外交姿勢を変えてきました。
732年、渤海に港を奪われた唐は、新羅に対して渤海への攻撃を要請します。
これを受けて、新羅は渤海を攻撃、その結果、唐と渤海は和解します。
新羅は渤海への攻撃の功績が認められ、735年に唐から冊封を受けて、鴨緑江(おうりょくこう|現在の中国と北朝鮮の国境となっている川)以南の地に対しての領有が正式に認められました。
こうして国力を高めた新羅は、同年日本に派遣した遣日本使が、日本の国名を「王城国」に変更したと告知しました。
遣日本使は、日本の朝廷に無断で国名を改称したことを責められ新羅に追い返されました。
翌736年に、遣新羅使として新羅に渡った阿倍継麻呂(あべのつぎまろ)は、新羅の使者を追い返したことが影響したのか、外交使節としての礼遇を受けられませんでした。
これがきっかで、それ以降の新羅から日本への使者は、大宰府で止められて帰国させられました。
752年、新羅王の皇子を含む700名余りの使節団が日本に訪れ、日本に朝貢を行いました。
背景には、745年頃から国内を襲っていた飢餓や疾病により社会が疲弊しているなか、唐や渤海との関係を含む国際情勢を考慮して、日本との緊張緩和を図ったのではないかとみられています。
しかし翌年正月、唐の長安で開催された唐の朝賀において、席次が新羅の下座に置かれていたため、遣唐使の大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い、上座を取る事件が起こりました。
日本からみて新羅は、国としての貢ぎ物を送ってくる従属国でした。
従属国が上座にあることに大伴古麻呂は反発したのでした。
このような小競り合いが原因で、753年の遣新羅使では景徳王は使者に会いませんでした。
新羅が日本からの使者に会わない無礼をしたため、759年に藤原仲麻呂は軍を整え新羅に対しての遠征を計画します。
軍船394隻、兵4万700人という大動員でしたが、孝謙上皇と藤原仲麻呂の仲が悪化したため、実行されませんでした。
8世紀終わりに新羅の国内に混乱が生じると、779年には日本への服属を象徴する貢ぎ物を携え、使者を派遣してきました。
しかし、780年に国内での反乱により、恵恭王が王妃とともに殺害され、新羅は衰退。
これにより、正規の遣新羅使の派遣は無くなりましたが、民間の交易は継続されました。