794年に行われた、「鳴くよウグイス平安京」の語呂合わせで知られる平安京遷都は、日本史上最も有名な遷都の一つです。
しかし、その10年前の784年、桓武天皇は一度、長岡京への遷都を断行しています。
わずか10年の間に二度も都を移す異例の事態。
これは単なる失敗や迷いではなく、桓武天皇が直面していた複雑な政治的課題と、それを解決しようとする強固な意志の表れでした。
平城京は奈良時代を通じて約80年間、日本の中心として機能してきました。
聖武天皇による東大寺大仏の建立、天平文化の爛熟による国際色豊かな都市文化の醸成。
しかし、その華やかさの陰で、朝廷は深刻な問題を抱えていました。
南都六宗と呼ばれる仏教勢力は、次第に政治へ介入し、道鏡事件に象徴されるように、僧侶が権力の中枢に食い込む異常事態を招きました。
また、平城京は天武天皇の血統が約100年にわたって統治してきた「天武系の都」であり、光仁天皇によって復活した天智系皇統にとっては、前王朝の残滓が色濃く残る場所でもありました。
第50代桓武天皇が即位したのは781年。
父・光仁天皇から受け継いだのは、皇統転換という歴史的転換点を迎えた朝廷と、疲弊した財政、そして影響力を増す仏教勢力という難題でした。
天皇は、これらの問題を根本から解決するため、前代未聞の決断を下します。
都そのものを捨て去ることを。
長岡京、そして平安京への二度の遷都は、桓武天皇が目指した「新しい日本」を創るための壮大な挑戦でした。
平城京の限界(なぜ遷都が必要だったのか)
南都仏教勢力の政治介入
奈良時代後期、聖武天皇による「鎮護国家」の思想に基づき、仏教は手厚く保護されました。その結果、平城京周辺には興福寺や東大寺といった「南都六宗」の大寺院が林立し、広大な荘園と独自の経済力を持つ巨大勢力へと成長しました。
この弊害が極点に達したのが、女帝・称徳天皇の時代です。僧・道鏡が法王となって権勢を振るい、あろうことか皇位継承にまで関与しようとした「道鏡事件」が発生します。和気清麻呂らの尽力により道鏡の野望は阻止されましたが、この事件は朝廷内に「仏教勢力の政治介入への強い警戒感」を植え付けました。
即位した桓武天皇にとって、平城京は物理的にも精神的にも仏教勢力の影響が色濃すぎる場所でした。都の中に寺院が密集している限り、僧侶たちの政治的圧力から逃れることは困難です。
「政治と宗教を分離する」ためには、旧来の寺院勢力を平城京に置き去りにし、物理的に隔離された新天地へ政治の中枢を移す必要がありました。事実、後の平安京においては、東寺と西寺を除き、都内への寺院建立が厳しく規制されることになります。
天武系の都からの脱却
遷都のもう一つの大きな要因は、皇統の劇的な転換です。
壬申の乱(672年)以降、約100年にわたり皇位は天武天皇の系統によって継承されてきました。平城京はまさに、天武系の天皇たちが築き上げた都であり、そこには彼らと結びついた貴族たちの既得権益が網の目のように張り巡らされていました。
しかし、宝亀元年(770年)に称徳天皇が崩御すると、天武系の嫡流は断絶します。代わって即位したのが、天智天皇の孫である光仁天皇(桓武天皇の父)でした。これにより、皇統は100年ぶりに「天智系」へと戻ることになります。
天応元年(781年)に即位した桓武天皇は、天智系皇統としての正統性を確立し、独自の政治基盤を築く必要に迫られていました。
母に百済系渡来氏族出身の高野新笠を持つ桓武天皇は、既存の有力貴族とのしがらみが比較的少ない立場にありました。彼が目指したのは、天皇が自ら強力なリーダーシップを発揮する「親政」です。
天武系の色が染みついた平城京を脱出し、一から新しい都を造ることは、旧勢力の影響を断ち切り、天智系による新王朝の権威を天下に示すための不可欠なプロセスでした。
深刻化する財政難と都市機能の停滞
政治的な理由に加え、平城京は都市としてのインフラの破綻も迎えていました。
まず問題となったのは「水」と「衛生」です。
平城京は下水道設備が不十分で、人口の集中に伴い生活排水や排泄物の処理能力が限界に達していました。奈良盆地は大きな河川の流入・流出が少ないため、側溝には汚濁が滞留し、悪臭や疫病の発生源となっていたことが近年の研究でも指摘されています。
さらに深刻だったのが、物流と財政の問題です。
律令国家の財政を支えるのは、諸国から運ばれる税(米や産物)です。大量の物資を効率よく運ぶには水運が欠かせませんが、大きな川が通っていない平城京への輸送は、難波津(大阪)から陸路に頼る部分が大きく、莫大な輸送コストがかかっていました。
度重なる寺院建立や飢饉への対策で、当時の国家財政は逼迫していました。
より水運の便が良い土地へ都を移し、物流コストを削減して流通を活性化させることは、経済政策の面からも急務となっていたのです。
長岡京遷都──水陸の要衝への進出
710年の遷都以来、「咲く花のにおうがごとし」と謳われ、天平文化の華を咲かせた平城京。しかし、70年あまりの時を経て、この巨大な都は構造的な限界と深刻な「制度疲労」を迎えていました。
天応元年(781年)に即位した桓武天皇が直面したのは、輝かしい都の姿ではなく、政治・宗教・都市機能のすべてが行き詰まった閉塞感でした。彼が目指す強力な王権と律令政治の再建にとって、既得権益と旧弊にまみれた奈良の地は、もはや足かせでしかなかったのです。
延暦3年(784年)11月、桓武天皇は平城京から長岡京への遷都を断行しました。
長岡京が選ばれた理由(地理的・政治的メリット)
桓武天皇が新たな都の場所として選んだのは、山背国乙訓郡(やましろのくにおとくにぐん)、現在の京都府向日市・長岡京市・京都市西京区周辺です。
平城京から北へ約40km離れたこの地が選ばれた最大の理由は、「水運」の利便性にありました。
長岡京の東には、桂川・宇治川・木津川の三つの大河が合流し、淀川となって大阪湾へと注ぐ水系が存在します。
当時の物流の大動脈は水運です。この場所であれば、瀬戸内海から難波津(大阪)を経由して、西日本の物資を船で直接都まで運び込むことが可能でした。
陸路輸送に頼らざるを得なかった平城京と比較すると、物流コストの削減と経済効率の向上は明らかでした。
また、この地域は渡来系氏族である「秦氏(はたうじ)」の勢力基盤でもありました。
秦氏は高度な土木技術と経済力を持つ一族であり、桓武天皇の信頼厚い藤原種継とも深いつながりがありました。
種継の母親は秦氏の出身であり、長岡京造営にあたっては、母方の縁故を通じて秦氏の財力や技術力を最大限に活用したと推測されます。
秦氏の協力を得やすい土地であったことも、選定の大きな要因と考えられています。
藤原種継の抜擢と遷都計画の推進
この巨大プロジェクトの責任者(造長岡京使)として抜擢されたのが、式家の藤原種継(ふじわらのたねつぐ)です。
種継は、光仁天皇擁立の功臣である藤原百川(ももかわ)の甥にあたります。
桓武天皇からの信頼は極めて厚く、事実上の宰相として政治を取り仕切っていました。
造営工事は驚異的なスピードで進められました。
難波宮(大阪)の建物を解体して移築するなど、資材の再利用も徹底され、遷都宣言からわずか半年後には天皇が移り住める状態にまで仕上げられました。
新都に込められた桓武天皇の理想
長岡京の都市計画には、平城京の反省が活かされていました。
都への交通アクセスを改善し、流通を活性化させることで、律令国家の財政基盤を立て直す狙いがありました。
また、既存の大寺院を平城京に残してきたことで、新都は宗教勢力の影響を受けない、天皇を中心とした政治の場として機能し始めました。
初期の長岡京は、経済重視の実利的な都として順調な滑り出しを見せていたのです。
長岡京の悲劇(遷都計画を狂わせた事件)
延暦3年(784年)11月、桓武天皇は長岡京への遷都を実施しました。
しかし、都の造営工事は継続中であり、完成にはまだ時間を要する状態でした。
淀川水系に直結し、物流の便も良いこの地は、平城京の閉塞感を打破して新しい政治を行うための「理想の都」となるはずでした。
しかし、その輝かしい幕開けとは裏腹に、長岡京の運命は造営開始直後から暗転します。
希望に満ちていたはずの都づくりは、天皇の腹心の暗殺、実弟への疑義と死、そして相次ぐ不吉な災いによって、次第に恐怖と怨念に支配された場所へと変貌していきます。
藤原種継暗殺事件(785年)の衝撃
延暦4年(785年)9月、造営監督中の藤原種継が何者かに矢で射られ、暗殺されるという事件が起きました。
桓武天皇が一時的に都を留守にしていた隙を狙った犯行でした。
捕らえられた実行犯は大伴継人(おおとものつぐひと)らで、取調べの結果、大伴氏や佐伯氏といった古くからの名門氏族が多数関与していることが判明しました。
彼らは、天武系皇統の時代には軍事部門を担当するなど重用されていましたが、天智系への皇統転換と藤原種継の台頭により、政治の中枢から遠ざけられつつありました。
遷都による利権の喪失や地位低下への不満が、種継暗殺という凶行につながったと見られています。
早良親王の冤罪と憤死(怨霊伝説の始まり)
この事件の波紋は、皇族にも及びました。
実行犯の供述により、桓武天皇の実弟であり皇太子でもあった早良親王(さわらしんのう)に関与の疑いがかけられたのです。
早良親王はかつて東大寺で出家していた経歴があり、南都仏教勢力や大伴氏などの旧勢力と親しい関係にありました。
桓武天皇と種継が進める急進的な改革に対し、親王周辺には批判的な勢力が集まっていた可能性があります。
桓武天皇は、実の弟である早良親王を乙訓寺(おとくにでら)に幽閉し、皇太子の地位を剥奪しました。
早良親王は身の潔白を訴え、絶食を行いましたが、その声は聞き入れられませんでした。淡路島への配流が決まり、護送される途中、無念のうちに憤死しました。
相次ぐ天変地異と疫病(「祟り」への恐怖)
早良親王の死後、長岡京を不幸が襲います。
桓武天皇の母(高野新笠)や皇后(藤原乙牟漏)が相次いで病死し、皇太子となった安殿親王(後の平城天皇)も原因不明の病に伏しました。さらに、都は大雨による洪水に見舞われ、疫病が蔓延して多くの死者が出ました。
当時の人々は、これら一連の災厄を「無実の罪で死んだ早良親王の祟り(たたり)」であると恐れました。陰陽師による占いの結果も「早良親王の怨霊の仕業」と出たため、桓武天皇の精神的動揺は深まりました。
種継という有能な実務者を失い、怨霊の恐怖に覆われた長岡京。
さらに、桂川と宇治川に挟まれた地形は水運には有利でしたが、たびたび氾濫を起こす「水害に弱い土地」であることも露呈し始めました。
政治的混乱と自然災害、そして精神的な重圧。
これらが重なり、桓武天皇は造営途中の長岡京を放棄し、再び遷都を行うことを決意せざるを得なくなります。
平安京遷都(794年)(なぜわずか10年で都を捨てたのか)
怨霊鎮魂という表向きの理由
長岡京の放棄を決定づけた最大の要因として、当時の人々が抱いた「怨霊への恐怖」が挙げられます。
弟・早良親王の憤死以降、桓武天皇の身辺では不幸が相次ぎました。母や皇后の死、安殿親王(後の平城天皇)の発病、そして疫病の流行。これらすべてが「早良親王の祟り」と信じられました。
当時の精神世界において、怨霊に穢された土地に住み続けることは死を意味します。
側近の和気清麻呂(わけのきよまろ)は、桓武天皇の不安を払拭するため、ひそかに長岡京の視察を行い、「長岡の地は都としてふさわしくない」と進言したと伝えられています。再遷都には、心機一転して怨霊の呪縛から逃れ、精神的な安寧を取り戻すという切実な目的がありました。
長岡京の構造的問題(水害と物流の課題)
怨霊という精神的な理由の裏には、より現実的な都市計画上の欠陥も存在していました。
長岡京は、桂川や宇治川といった水系に近いことがメリットでしたが、それは同時に「水害のリスク」と隣り合わせであることを意味していました。
実際に、長岡京造営中には度重なる洪水が発生し、都の建設現場や資材が流される被害が出ています。
また、長岡京は西側の丘陵地帯と東側の低湿地に挟まれた狭い場所に位置しており、都の拡張性という点でも限界が見え始めていました。「水運の便は良いが、水害に弱く、手狭である」。このジレンマが、わずか10年での放棄という決断を後押ししました。
より強固な政治基盤の構築を目指して
政治的な側面から見れば、長岡京は「ケチがついた都」でもありました。
藤原種継暗殺事件により、大伴氏などの反対勢力を粛清したものの、それは朝廷内に深い亀裂を残しました。また、早良親王の死は桓武天皇の政治的正当性に影を落としました。
血塗られた記憶が残る長岡京で政権運営を続けるよりも、まったく新しい場所で、心機一転して徳政を行う方が、求心力を回復できると考えられました。
桓武天皇は、長岡京での失敗と混乱をリセットし、改めて天皇の威信を示すための舞台として、次の都を求めたのです。
平安京が選ばれた理由
延暦13年(794年)、桓武天皇は平安京への遷都を断行しました。巨額の国費を投じて造営中であった長岡京を捨て、短期間で二度目の遷都を行うことは、当時の常識では考えられない異例の決断でした。
「平安」という名には、相次ぐ災厄を断ち切り、今度こそ平和で安らかな世を築きたいという桓武天皇の悲痛な願いが込められています。
風水思想に基づく理想的な地形(四神相応)
新しい都の候補地として選ばれたのは、長岡京から北東へ約10km、現在の京都市中心部にあたる葛野(かどの)の地でした。
この地は、古代中国の風水思想において、都として理想的な地形とされる「四神相応(しじんそうおう)」の条件を満たしていると考えられました。
北(玄武): 船岡山などの山々が背後を守る
東(青龍): 鴨川が清らかに流れる
西(白虎): 山陰道へと続く大道がある(または桂川)
南(朱雀): 巨椋池(おぐらいけ)という大きな水辺が開けている
三方を山に囲まれた盆地でありながら、南が開けているこの地形は、防衛に適しているだけでなく、「気の流れ」が良い場所として、怨霊に怯える桓武天皇にとって安心材料となりました。
淀川水系による物流の優位性
精神的な安心感だけでなく、経済的なメリットも十分に考慮されていました。
平安京の東を流れる鴨川や、西の桂川は、そのまま淀川水系へとつながっています。これにより、長岡京と同様に、瀬戸内海から大阪を経由して物資を運ぶ水運ルートを確保することができました。
長岡京ほど川に近すぎないため水害のリスクを軽減しつつ、運河や堀を整備することで水運の利便性を維持する。平安京の立地は、水との距離感を絶妙に計算した結果でもありました。
平城京・長岡京の教訓を活かした都市設計
平安京の都市計画には、過去二つの都の教訓が活かされています。
平城京の「水はけの悪さ」と、長岡京の「水害の多さ」。この両方を解決するため、平安京は北から南へ緩やかに傾斜する地形の上に築かれました。これにより、自然な水の流れを利用した排水システムが可能となり、衛生環境が維持されやすくなりました。
また、都の規模は東西約4.5km、南北約5.2kmと広大で、碁盤の目状に道路を配した条坊制が敷かれました。
この整然とした都市構造は、計画的な市街地の拡張を可能にし、行政管理を容易にしました。さらに、北から南への緩やかな傾斜地形を活かした排水システムと組み合わさることで、衛生的で機能的な都市環境が実現しました。
山河に守られた堅牢な地形、水運の便、優れた都市設計──これらすべてが融合したことで、平安京はその後1000年以上にわたり日本の首都として機能し続ける「千年の都」の基盤となったのです。
二度の遷都がもたらした歴史的意義
桓武天皇が生涯をかけて断行した、二度の遷都。 これは、国家の枠組みそのものを根底から作り変える、日本歴史上きっての巨大プロジェクトでした。結果として、その後の日本社会のあり方を決定づける転換点となりました。
古い時代のしがらみを断ち切り、天皇を中心とした新しい統治機構を完成させるための「国家のリセット」そのものだったのです。 遷都によって桓武天皇が手にした果実は、「皇統の正当性の確立」「政治と宗教の分離」、「崩れかけた律令制の再建」に集約されます。
天武系から天智系への皇統転換の完成
奈良時代(平城京)は、壬申の乱に勝利した天武天皇の子孫が皇位を継承する時代でした。しかし、桓武天皇の父・光仁天皇の即位によって、皇統は100年ぶりに天智天皇の系統へと戻りました。
桓武天皇にとって、天武系の色が染み付いた平城京を捨てることは、旧皇統の影響力を物理的・精神的に断ち切るために不可欠なプロセスでした。
平安京への遷都により、新しい都は「天智系皇統のための都」として位置づけられました。
桓武天皇は、自らの血統の正当性を強調するため、郊外の交野(かたの)の地で、中国の皇帝にならって天を祀る儀式(郊祀)を行うなど、天皇権威の再構築に努めました。こうして平安京は、その後数百年にわたり続く天智系天皇家の揺るぎない本拠地となったのです。
仏教勢力と政治の分離(平安仏教の誕生)
平城京では、南都六宗と呼ばれる仏教勢力が政治に深く介入し、道鏡事件のような弊害を招いていました。桓武天皇は、長岡京・平安京への遷都にあたり、既存の寺院の移転を原則として認めませんでした。
平安京の中に建立が許された寺院は、国家鎮護を目的とした官寺である「東寺(教王護国寺)」と「西寺」の二つのみです。
これらは建立当初、特定の宗派に属さない国家管理の寺院でした。
後に東寺は空海に下賜されて真言宗の根本道場となり、西寺は特定宗派に属することなく、律令国家を護る寺として機能し、各地の僧侶を取りまとめる役割を担い、いずれも政治に介入しない官寺として位置づけられました。
これにより、旧来の仏教勢力を奈良(南都)に封じ込め、政治の中枢から物理的に隔離することに成功しました。
その一方で、桓武天皇は皇室の伝統的な神祇信仰を重視しつつも、国家の安泰を祈り、天皇の権威を支える新しい仏教を求めました。
南都仏教のように政治に介入せず、山岳修行を重視し、密教の儀式によって国家を護る。
そうした仏教こそが、桓武天皇の理想でした。
そこで登用されたのが、最澄や空海といった僧侶たちです。
彼らがもたらした天台宗や真言宗(密教)は、山岳修行を重視し、都の喧騒から離れた山中(比叡山や高野山)に拠点を置きました。
特に最澄が開いた比叡山延暦寺は、平安京の北東(鬼門)を守る鎮護国家の道場として、桓武天皇の厚い保護を受けました。政治に口を出さず、純粋に国家の安泰を祈るこれらの「平安仏教」の興隆は、遷都による宗教政策の転換がもたらした大きな果実でした。
桓武天皇の改革政治の基盤確立
奈良時代末期、律令制は地方政治の腐敗や農民の逃亡などにより、制度疲労を起こしていました。桓武天皇は、新都において強力なリーダーシップ(天皇親政)を発揮し、次々と改革を断行しました。
勘解由使(かげゆし)の設置: 地方官(国司)の不正を監督し、交代時の事務引き継ぎを厳格化させるための新職を設けました。
健児(こんでい)の制: 形骸化していた徴兵制(軍団制)を廃止し、代わりに地方の郡司の子弟や有力農民を志願制で採用する少数精鋭の部隊を編成しました。
これらの改革は、平城京では実現困難なものでした。
軍団制は奈良時代から続く制度で、軍団制に関わる貴族や地方豪族の既得権益が複雑に絡んでおり、また健児の制は郡司の子弟を採用する制度でしたが、平城京周辺の郡司は天武系政権と深く結びついており、桓武天皇が信頼できる体制ではなく、さらには従来の軍団制を廃止することは、既存の官僚機構や貴族層からの強い抵抗が予想されたためです。
しがらみのない新都においてこそ、桓武天皇は「新しい酒を新しい革袋に盛る」ように、実務的で効率的な政治システムを構築することができたのです。
長岡京という「幻の都」が果たした役割
わずか10年で放棄され、歴史の中に埋もれてしまった長岡京。
長らく「失敗した遷都」「幻の都」として否定的に捉えられがちでしたが、近年の発掘調査や研究により、その重要性が見直されています。長岡京は決して無駄な徒花(あだばな)ではなく、平安京を完成させるための重要な「実験場」としての役割を果たしていました。
水陸交通の要衝としての都市モデル
長岡京の最大の特徴は、水運を都市計画の中心に据えた点です。
平城京が陸路中心の内陸都市だったのに対し、長岡京は桂川や宇治川に直結し、難波津(大阪)へのアクセスを最優先した「水運都市」として設計されました。
このコンセプトは、その後の平安京にもそのまま引き継がれています。
長岡京での経験──つまり、川を利用した資材運搬や、物流ネットワークの構築ノウハウがあったからこそ、平安京という巨大都市を円滑に運営する土台が築けたのです。長岡京は、日本の都が「内陸型」から「水運・物流重視型」へと転換する、その最初の一歩でした。
平城京と平安京をつなぐミッシングリンク
長岡京の発掘調査からは、難波宮の建築部材が移築・リサイクルされていたことが判明しています。
わずか10年で放棄された長岡京ですが、短期間とはいえ実際に機能した都として、大規模な造営事業のノウハウを蓄積しました。
このとき培われた技術や経験、そして淀川水系を活用した物資輸送のルートが、平安京造営において大いに活かされたと考えられます。
もし平城京から直接平安京へ遷都していたならば、移動距離や工期の面で負担が大きすぎ、事業は頓挫していたかもしれません。
長岡京は、平安京という最終目標への「実験場」であり、必要不可欠な「ステップ」だったのです。
そこで起きた早良親王の悲劇や水害といった手痛い教訓さえも、平安京の選地や都市設計(怨霊対策としての風水や、水害対策の地盤選び)に活かされました。
長岡京という「未完の都」が存在しなければ、「千年の都」平安京もまた、存在し得なかったと言えるでしょう。

-1024x605.jpg)