平安時代は、桓武天皇時代の西暦794年の平安京への遷都から1185年の平氏滅亡まで、または1192年の鎌倉幕府成立までの約390年間続いた時代をいい、政治の側面からは
・皇統争いの勃発や平安仏教の基盤が築かれた前期
・藤原氏による摂関政治が行われた中期
・上皇が専制を行う院政が行われた後期
と大きく3つに分けられます。
文化面においては、紫式部による『源氏物語』や清少納言による『枕草子』といった仮名文学、仏教では平安時代初頭から最澄の起こした天台宗、空海の起こした真言宗、浄土信仰が生まれ、日本の風土や生活に根差した国風文化が大きく発展しました。
平安時代の年表
年代の目安 | 天皇 | 在位期間 | 主な出来事 |
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794年 | 桓武天皇 | 781年~806年 | ・平安京遷都(794年) 793年(延暦12年)、長岡京に代わる都として造営が開始されました。 山背国(山城国)愛宕・葛野の両郡にまたがる場所で、唐の長安城を参考にした都でした。 翌794年(延暦13年)に長岡京より遷都されました。 明治時代までの約1075年間、都として機能しました。 |
806年~ | 平城天皇 | 806年~809年 | ・薬子の変(810年の前兆) 「薬子の変」(くすこのへん)とは、810年(大同5年)に起こった政変です。 薬子とは、平城上皇(へいぜいじょうこう)より寵愛を受けた女官「藤原薬子」(ふじわらのくすこ)です。 桓武天皇の皇子である「平城上皇」と「嵯峨天皇」(さがてんのう)の二人の兄弟が対立し、嵯峨天皇が迅速に兵を動かしたことで、平城上皇と藤原薬子は進軍を諦めます。 結果、平城上皇は出家し、藤原薬子は服毒自殺を遂げました。 |
嵯峨天皇 | 809年~823年 | ||
823年〜 | 淳和天皇 | 823年~833年 | ・公営田の設置 |
842年 | 仁明天皇 | 833年~850年 | ・承和の変(842) 842年(承和9年)に起きた政変です。 皇太子恒貞親王(つねさだ しんのう)が廃され、その側近が処罰された事件でした。 |
850年〜 | 文徳天皇 | 850年~858年 | ・藤原良房が台頭 |
858年〜 | 清和天皇 | 858年~876年 | ・藤原良房が摂政に ・応天門の変(866) 866年(貞観8年)に発生した宮廷内の政変です。 応天門が焼失し、大納言の「伴善男」(とものよしお)によって右大臣「源信」(みなもとのまこと)に嫌疑がかけられました。 しかし太政大臣「藤原良房」(ふじわらのよしふさ)の進言により源信は無罪に。 そののち、伴善男が源信を失脚させるために放火したことが判明。 伴善男父子は流刑となりました。 |
876年〜 | 陽成天皇 | 876年~884年 | ・藤原基経が実権掌握 |
884年〜 | 光孝天皇 | 884年~887年 | ・儒教政治復興 |
888年〜 | 宇多天皇 | 887年~897年 | ・阿衡事件(887) 887年(仁和3年)に宇多天皇と藤原基経の間で起きた政治的な紛争です。 基経が関白就任を求める天皇の詔勅に書かれた「阿衡」という言葉を、実権のない職を指すとして拒否したことが発端となりました。 朝廷内で大きな混乱が生じ、天皇が藤原氏に譲歩する形で決着しました。・菅原道真による遣唐使廃止 遣唐使の廃止は894年(寛平6年)、「菅原道真」(すがわらのみちざね)が提案。 遣唐使は630年(舒明天皇2年)から894年(寛平6年)の間に派遣されました。 |
901年 | 醍醐天皇 | 897年~930年 | ・昌泰の変 ・延喜の治 ・延喜格式制定 |
935年〜 | 朱雀天皇 | 930年~946年 | ・承平天慶の乱(935〜940) 承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)は、平安時代中期に起こった平将門の乱と藤原純友の乱を合わせた総省をいいます。 935年から941年にかけて、関東地方で平将門が、瀬戸内海沿岸で藤原純友が、ほぼ同時期に反乱を起こしました。この乱は、中央政府の力が弱まり、地方の武士や豪族が台頭するきっかけとなりました。 |
950年 | 村上天皇 | 946年~967年 | ・天暦の治 |
969年 | 冷泉天皇 | 967年~969年 | ・安和の変(969) 969年(安和2年)、左大臣源高明(みなもとのたかあきら)が謀反の企てに加担していたとして、大宰府に左遷させ失脚させた事件です。この事件は、藤原氏による他氏排斥の最後の事件とも言われ、摂関政治を確立するきっかけとなりました。 |
970年 | 円融天皇 | 969年~984年 | ・藤原兼家が実権掌握 |
986年 | 花山天皇 | 984年~986年 | ・出家騒動(花山院出奔) |
1000年前後 | 一条天皇 | 986年~1011年 | ・藤原道長の全盛、摂関政治の確立 |
1011年〜 | 三条天皇 | 1011年~1016年 | ・藤原道長と対立 |
1020年頃 | 後一条天皇 | 1016年~1036年 | ・藤原頼通の時代 |
1036年〜 | 後朱雀天皇 | 1036年~1045年 | ・平忠常の乱(1028)後の安定期 |
1050年頃 | 後冷泉天皇 | 1045年~1068年 | ・院政の準備期 |
1069年 | 後三条天皇 | 1068年~1073年 | ・延久の荘園整理令(1069) |
1086年 | 白河天皇 | 1073年~1087年 | ・後三年の役(1083) 1083年(永保3年)、清原武則(きよはらのたけのり)は、前九年の役の功労によって鎮守府(ちんじゅふ)将軍に任ぜられました。 しかし、この官位授与が清原氏の内部抗争を引き起こします。 この内紛に陸奥守である源義家(みなもとのよしいえ)が介入。 清原氏に身を寄せていた「藤原清衡」(ふじわらのきよひら)とともに清原氏を滅ぼします。 その後、安倍氏・清原氏の遺領を引き継いだ藤原清衡は平泉に居を構え、奥州藤原氏へと繋がっていくこととなりました。・1086年、院政開始 |
1090年頃 | 堀河天皇 | 1087年~1107年 | ・白河上皇の院政継続 |
1120年頃 | 鳥羽天皇 | 1107年~1123年 | ・鳥羽上皇の院政 |
1140年頃 | 崇徳天皇 | 1123年~1142年 | ・鳥羽上皇と崇徳天皇の対立 |
1150年頃 | 近衛天皇 | 1142年~1155年 | ・短命天皇、藤原忠通らが実権 |
1156年〜1159年 | 後白河天皇 | 1155年~1158年 | ・保元の乱(1156) 1156年(保元元年)、皇位継承を巡る後白河天皇と崇徳上皇の対立をきっかけに内乱となりました。 この争いに、源氏や平氏などの武士が介入し、武力衝突に発展しました。 結果的に後白河天皇方が勝利し、崇徳上皇は讃岐に配流されました。・平治の乱(1159) 1159年、源氏と平氏の武力衝突が起き発生した内乱です。 保元の乱の後に、後白河上皇の側近である藤原通憲(信西)と平清盛、そして彼らと対立する藤原信頼や源義朝の間で権力争いが激化し、内乱へと発展しました。 平清盛を筆頭とした平氏が勝利し、源氏の勢力は衰退、平氏の全盛時代を迎えることになりました。 |
1160年頃 | 二条天皇 | 1158年~1165年 | ・平清盛の台頭 |
– | 六条天皇 | 1165年~1168年 | ・幼少の即位 |
1170年頃 | 高倉天皇 | 1168年~1180年 | ・平清盛の全盛 ・日宋貿易 |
1180年〜1185年 | 安徳天皇 | 1180年~1185年 | ・治承・寿永の乱(源平合戦) 1180年(治承4年)から1185年(元暦2年)にかけての6年間続いた大規模な内乱です。 平清盛を中心とする平家政権に対する反乱で、源頼朝を盟主とする源氏を中心とした武士団が平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開くきっかけとなりました。 一般的には「源平合戦」とも呼ばれます。・壇ノ浦(1185) 1185年(寿永4年/元暦2年)3月24日、長門国壇ノ浦(現在の山口県下関市)で、源平合戦最後の戦いが起こりました。 この戦いで平氏は滅亡し、源氏が勝利を収め、武家政権の確立へと繋がりました。 |
平安時代いつからいつまで?平安時代の歴史、出来事のまとめ簡単に
平安時代は、794年の平安京遷都から1185年の平氏滅亡まで、または1192年の鎌倉幕府成立までの約390年間を指しますが、大きく前期・中期・後期にわけられます。
平安前期、桓武天皇は、奈良時代末期に崩れつつあった律令制度の再建を目指し、蝦夷征討を進める一方で、地方政治改革や軍制改革などの政策を実施しました。
財政難や治安の悪化に対応するために、十分に機能しなくなった軍団制を解体し、地方有力者を活用する「健児の制」を導入します。
これが、後の武士の台頭につながる結果となりました。
また、地方政治の乱れに対しては、勘解由使(かげゆし)を設置し、国司の交替時の事務引継ぎを厳重に監督させました。
桓武天皇の政治の中心は、天皇とそれを補佐する貴族にあったのですが、藤原氏の台頭や地方の国司の権限強化により、律令制は次第に形骸化しました。
特に藤原氏は天皇との外戚関係を背景として権力を掌握していきます。
866年から、藤原良房(ふじわらのよしふさ)は外祖父として幼少の第56代清和天皇(せいわてんのう)を補佐し、初めて摂政の地位に就きました。
叔父の藤原良房の養子となった藤原基経(ふじわらのもとつね)は良房の死後、清和天皇から第59代宇多天皇(うだてんのう)の4代にわたり摂政として朝廷の実権を握ります。
第59代宇多天皇(うだてんのう)即位時には、史上初めての関白の職を天皇より任じられました。
こうして、成人前の天皇を補佐する摂政だけでなく、天皇の成人後も政務を臣下が関白として統括する摂関政治の基礎体制が確立されました。
そこから藤原家による摂関政治が続き、約100年後の藤原道長の時代になると、娘たちを次々と天皇の后とすることで、天皇家との結びつきを強化し、藤原氏の権勢は全盛期を迎えます。
「一家立三后」と呼ばれるように、道長の娘が3代の天皇の后となり、外戚として圧倒的な影響力を持ちました。
道長の子・藤原頼通も関白として50年にわたり政権を維持し、藤原氏の支配体制を盤石なものとしました。
道長は自らの権勢を、「此の世をば 我世とぞ思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだとされています。
この句を現代語訳すると次のようになります。
「この世はまるで私のもののように思える。満月のように何一つ欠けることがないのだから。」
つまり、道長は自身の権力や栄華が完璧であることを満月(望月)に例えて表現したのでした。
このように、藤原氏は、天皇との婚姻関係を通じて政治的権力を拡大し、摂政や関白として実質的な政権を握りました。律令に規定されていない摂政や関白という令外官という具体的な権限の曖昧さを利用し、律令制度の枠内で権力を最大化させていったのです。
特に藤原道長・頼通の時代には、藤原氏の権力が絶頂に達し、朝廷の中央集権的な律令体制を弱体化させる要因となったのです。
また、律令制は各郡の地方豪族である郡司の地域支配力に依存していましたが、平安時代に郡司階層が衰退し、税収確保が困難になったり地方統治の問題が深刻化したため、中央から派遣される貴族である国司の権限が強化されました。
国司は一定の税を朝廷に納める代わりに、任国を自由に統治する権限を与えられました。
この「受領」と呼ばれる制度により、国司が地方行政を実質的に支配するようになり、中央集権的な律令制は形骸化したのです。
またこの時期は、政治が安定したこともあり、日本の風土や生活に根差した国風文化が大きく発展しました。
宮廷では紫式部による『源氏物語』や清少納言による『枕草子』といった仮名文学が生まれ、華やかな王朝文化が築かれました。
仏教の面では平安時代初頭から最澄の起こした天台宗、空海の起こした真言宗が貴族社会に広まりました。
平安時代中期になると、社会的な災厄や末法思想による現世への絶望感、そして阿弥陀仏への信仰がもたらす明快な救済思想の広がりから、浄土信仰の影響を受けるようになりました。
藤原氏は浄土信仰の中心仏である阿弥陀如来を本尊とした平等院鳳凰堂の建立などを通じて、浄土信仰を深めました。
貴族から庶民にも仏教は広がりを見せるようになり、仏教は文学や建築、文字など文化そのものを形成する重要な要素となりました。
こうして、政治・文化の両面において、藤原氏の影響が色濃く残る平安中期が形成されたのです。
1068年には、藤原氏を外戚としない後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が第71代天皇として即位します。
藤原氏を外戚に持たない天皇としては170年ぶりの即位でした。
後三条天皇は、摂関家をけん制し、天皇親政を進めました。
1069年に行われた延久の荘園整理令では、貴族の荘園を整理し、摂関家の荘園の一部も公領とされました。
荘園整理令は、荘園の不正な設立により税収の減少が深刻化し、これを是正するために行われました。
結果、厳格な審査により不正な荘園を整理し、税収基盤の回復に一定の成果を上げました。
さらに、後三条天皇は藤原摂関家との距離をとるため、女御(にょうご)の源基子(みなもとのもとこ)との皇子であった実仁親王(さねひとしんのう)を立太子しますが、15歳で薨去。
それにともない、夫人であった藤原茂子(ふじわらのしげこ)との皇子であった貞仁親王(さだひとしんのう)が立太子され、1072年に後三条天皇からの譲位で第72代白河天皇(しらかわてんのう)として即位しました。
白河天皇も摂政や関白を置かずに政治を行う親政を行いました。
第73代堀川天皇即位後も、上皇となった白河上皇が政治を担う「院政」が40年以上も行われました。
白河上皇以降、院政は断続的に続き、江戸時代末期の光格天皇の代まで続きました。
この院政では、上皇を支える院近臣(いんのきんしん)や、警護・地方支配を担う武士が影響力を強めました。
この時代の政治体制の変化は、文化や社会構造にも大きな影響を与え、やがて武士が政治の主導権を握る時代へと移行する契機となりました。
1068年以降の後三条天皇の親政、白河上皇による院政により、上皇が政治の実権を握ることで、藤原氏の影響力は徐々に低下し、地方では領主や貴族により上皇や天皇へ寄進する荘園の開発が進み、荘園は拡大しました。
一方で、藤原氏の中央での統治力の低下により地方の統制が困難になり、領主や貴族に反抗する武士層が現れるようになり、治安の悪化が進み、武士が力を持つようになりました。
源氏や平氏といった武士団が台頭し、朝廷や貴族と結びつきながら勢力を拡大したのでした。
その後、皇位継承問題と摂関家の内紛が結びつき、1156年に保元の乱、1159年に平治の乱が勃発しました。
保元の乱は、鳥羽法皇の死後、皇位継承をめぐり、後白河天皇と崇徳上皇の対立によりはじまります。
藤原摂関家内部でも、藤原忠通と藤原頼長が争い、これに源氏と平氏の武士団が加わったことで、武士が朝廷の争いに深く関与し、政治的影響力を持つようになりました。
この源氏とは、814年に、嵯峨天皇が皇子たちを臣籍降下させ、「源」の姓を与えたことに始まります。
平氏は、825年に、桓武天皇の皇子である葛原親王の子孫が臣籍降下し、「平」の姓を与えられたことに始まります。
「平」という名称は、桓武天皇が遷都した平安京にちなむとされています。
このように、武士の起源は天皇を祖先とする皇族の末裔でした。
平治の乱は、保元の乱以降、後白河上皇の側近である信西が実権を握り、平清盛を厚遇しました。
これに不満を抱いた源義朝が、藤原信頼と結びつき、信西を排除しようと挙兵しました。
結果、平清盛が勝利し、源義朝は敗北して殺害され、平氏政権の基盤を築くことになったのです。
これらの争乱では、武士の力により決着がつけられました。
この結果より、武士の政治的地位を決定的に高めることになりました。
この平治の乱に勝利した平清盛は、武士として初めての公卿となり、1167年には太政大臣にまで昇進しました。
平氏一門は朝廷の高官を独占し、平氏政権を樹立し、武士として初めて政権の中心に立ちました。
しかし、平氏の専横に対して、第77代後白河天皇をはじめとする院近臣や旧来の貴族、源氏の武士たちとの間に強い反発が生まれます。
1180年、後白河法皇の子である以仁王(もちひとおう)が平氏追討の令旨を発すると、それを奉じた伊豆の源頼朝(みなもとのよりとも)や信濃の源義仲(みなもとのよしなか)らが挙兵し、全国的な内乱である治承・寿永の乱が起こりました。
源頼朝を実質的な指導者とする源氏軍は、富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で平氏を破り、平氏一門は都を追われました。
その後、源義経らの活躍により、源氏軍は一ノ谷、屋島で平氏を破り、1185年、長門国壇ノ浦の戦いでついに平氏は滅亡を迎えました。
この治承・寿永の乱の終結により、乱を通じて東国の武士団を統率し、全国に守護・地頭を設置する権利を得た源頼朝は、鎌倉を本拠地として新たな武家政権、すなわち鎌倉幕府を創設することで武士政権が確立し、政治の中心が平安京から鎌倉へ移り、約400年にわたる平安時代は終焉を迎えたのです。