桓武天皇の前の天皇光仁天皇とは何した人?いつから即位?エピソード、家系図などわかりやすく

奈良時代の末期、称徳天皇(しょうとくてんのう。718年~770年、在位:764年~770年)と道鏡による激動の時代が終わった後、皇位に就いたのが光仁天皇(こうにんてんのう。708年~782年、在位:770年~781年)です。
即位時の年齢は62歳と異例の高齢であり、しかもその出自は天智天皇(てんじてんのう。626年~672年、在位:668年~672年)の皇子・施基親王(志貴皇子(しきのみこ)。668年~716年)の子、いわゆる「天智系」の血統でした。

壬申の乱以降、約100年にわたり天武天皇(てんむてんのう。~686年、在位:673年~686年)系が皇統を独占してきましたが、光仁天皇の即位はその均衡を大きく覆し、後の平安時代への道を開く転換点となりました。

光仁天皇の治世は派手さに欠ける「中継ぎの天皇」と評されがちですが、皇后廃后事件や度重なる天変地異といった波乱があり、また財政再建や蝦夷政策の見直しなど、後代につながる重要な施策も行われました。

白壁王の時代:皇位継承から遠ざけられた皇子

出自と家系──天智天皇の孫として

白壁王(のちの光仁天皇)は和銅2年(709年)10月13日に生まれました。
父は志貴皇子で天智天皇の第七皇子、母は紀橡姫(きのとちひめ)で紀氏の出身とされます。
志貴皇子は716年(霊亀2年)に薨去しましたが、当時は天武系が皇統を固めていた時代であり、天智天皇の皇子であった志貴皇子の系統は皇位継承からは遠ざけられていました。
しかし、白壁王が光仁天皇として即位した770年(宝亀元年)、父の志貴皇子に「春日宮御宇天皇」の追尊号が贈られました。

これは単なる名誉称号ではなく、光仁天皇の即位の正統性を高めるための政治的措置でもありました。
天智系皇統の復活を象徴する重要な儀式だったのです。

また万葉歌人としても知られ、『万葉集』に6首の歌が残されています。

白壁王は志貴皇子の第六皇子に当たり、幼名は白壁。
在位前から大納言を務めたことも記録され、王族としての教養・品行に優れたと伝わります。

壬申の乱後の天智系の立場

壬申の乱(672年)後は天武系が皇統を独占し、天智系の白壁王は継承順位の表舞台から遠ざかりました。

白壁王の前半生は、兄弟の早世や政変の余波もあって長く待機の年代が続きます。

白壁王は学問・和歌に通じる父の気風を受け継いだ”文化人肌”で、拙速に派閥形成を図らない姿勢を保ったため、過酷な党派抗争を潜り抜けて命脈を保ちえました。
のちに称徳天皇崩御後、諸臣が「穏健・無派閥の調整役」として白壁王を推戴し得たのは、この長い沈潜があったからこそです。

奈良後期は、藤原仲麻呂の専権とその失脚、称徳天皇と道鏡の台頭など権力の振れ幅が大きい時代でしたが、白壁王は藤原氏いずれの流派にも深く与せず、朝廷合意で担ぎ上げ可能な”中立的皇族”として位置づいていました。

称徳天皇と道鏡の時代から即位へ:皇統転換の政治劇

8世紀後半、朝廷を大きく揺るがしたのが称徳天皇(孝謙上皇の重祚)と、僧侶道鏡との関係でした。
称徳天皇は病弱で政治を直接指揮する力が弱く、その信頼を一身に受けたのが仏教に長けた道鏡でした。
彼は法王(仏教界の最高位)にまで昇進し、朝廷の政務に深く関与しました。

天皇の女帝と僧侶という異例の組み合わせは、「仏教による国家統治」を強めるものでしたが、伝統的な貴族層や皇族には大きな反発を生みました。

特に、世俗政治に僧侶を関与させること自体が危険視され、藤原氏などの有力貴族は道鏡の影響拡大を警戒するようになります。

有名なのが宇佐八幡神託事件(769年)です。
豊前国の宇佐八幡宮に「道鏡を天皇に立てよ」という神託が下ったと称されました。
称徳天皇はこれを信じかけましたが、藤原氏は強硬に反対します。

使者として派遣された和気清麻呂が「皇位は必ず天つ神の子孫が継ぐべきで、道鏡にはその資格がない」と報告したことで、道鏡の即位構想は頓挫しました。
この事件は単なる宗教上の出来事ではなく、藤原氏や皇族たちが危機感を共有するきっかけとなり、「皇統を守る」という名分のもと、次の天皇選びに向けた動きが本格化することになります。

770年8月4日、称徳天皇は後継者を明確に指名しないまま崩御します。
これは朝廷に大きな空白をもたらしました。
道鏡の影響を嫌う貴族層はもちろん、天武系の後継候補が不在に近い状況もあって、皇位継承は難航しました。

当初は文室浄三(智努王・天武天皇の皇子である長親王の子)が有力候補として吉備真備によって推されました。
しかし、藤原永手・藤原百川・藤原良継らはこれに反対し、浄三自身も固辞したとされます。

浄三が天武系の血統であったため、彼が皇位を継承することは、藤原氏が最も避けたい天武系皇統の継続を意味します。
藤原氏は、道鏡の例に象徴される天武系の仏教偏重政治によって、僧侶が政治に深く介入し、国政が混乱する事態を経験していました。
そのため、これ以上天武系を続けることは国家の安定を損なうと危惧していたのです。

また、天武系天皇が平城京の南都六宗などの仏教勢力と深く結びついていたことも、反対の決定的な理由でした。
世俗貴族である藤原氏にとって、僧侶の影響が政治に入り込む状況は自らの権力を脅かすものであり、彼らは仏教勢力の政治介入を排除し、貴族を中心とした安定的な政治体制を確立することを強く望んでいました。
藤原氏にとって、浄三への反対は、単なる個人への反対ではなく、天武系がもたらした旧体制からの脱却を目指すための重要な一歩だったのです。

一方、文室浄三が固辞した理由は、天武系の血統である浄三が即位すれば、天武系の復活を恐れる藤原氏から命を狙われる可能性が高く、また藤原永手、百川、良継という当時の最有力者たちが揃って反対している状況では、即位しても政治基盤が極めて脆弱になることが明白でした。

浄三は賢明にも、この政治的危険を回避したと考えられます。
そこで注目されたのが、天智天皇の孫にあたる白壁王です。

白壁王を擁立することは、それまでの天武系から天智系へと皇統を転換させることを意味しました。
これにより、藤原氏が排除を望んでいた平城京の奈良仏教勢力との関係を断ち切り、政権を刷新する大きな節目とすることができました。

また、当時の白壁王は62歳だったので、即位しても長期政権になる可能性が低く、藤原氏にとっては次の皇太子を指名する時間ができました。
さらに、白壁王は政治の表舞台から長年離れており、特定の派閥に属していなかったため、どの勢力からも受け入れられやすい「調整役」として最適であり、混乱していた政局の安定を図る上で好都合でした。

そして、最も重要なのは、藤原式家の長期的な権力戦略です。
藤原百川は、白壁王と彼が擁立を画策していた次の皇太子候補である山部親王の母である高野新笠が、自身の妹(あるいは姪)でした。
すなわち、まず白壁王を即位させ、その後に山部親王へと皇位を繋げることで、式家が外戚として恒久的に権力を握るための周到な布石を打ったのです。

称徳天皇崩御後の後継者不在という国家的危機に直面し、天智系の直系として国家を安定させる責任を感じたこと、藤原永手、百川らの強力な支援を得たことで政治基盤の安定が見込めたこと、そして白壁王が高齢であるがゆえに息子・山部親王への円滑な継承を図り、天智系皇統を確立するという長期的視点があったと考えられます。

藤原氏の支援による即位の実現

藤原百川は式家の出身で、この時期の藤原氏の中でも特に政治的手腕に優れた人物でした。
彼は白壁王擁立に尽力し、その後の光仁朝において重要な役割を果たすことになります。
藤原永手は北家の重鎮であり、両者の協力によって白壁王の即位が実現したのです。

こうして天平神護景雲4年(770年)10月1日、白壁王は即位し光仁天皇となりました。
即位時の年齢は62歳、これは当時としては異例の高齢でした。
2026年現在においても、歴代天皇の中で即位時の年齢が最高齢の記録です。

しかし、この即位は単なる「高齢の中継ぎ」ではなく、歴史的に大きな意味を持ちます。
壬申の乱(672年)以来、約1世紀にわたり続いてきた天武天皇系の皇統がここで途絶え、天智系が復活したのです。

元号は宝亀(ほうき)に改元されました。
この流れがなければ、後に平安京を開いた桓武天皇の登場もなく、日本の歴史の展開は大きく変わっていたかもしれません。
光仁天皇の即位は、「天智系皇統の再生」と「平安時代への架け橋」という二重の意味を持つ画期的な出来事でした。

即位直後、光仁天皇は道鏡を下野国(現在の栃木県)の薬師寺に左遷しました。
これは称徳天皇時代の仏教偏重政治からの決別を象徴する措置でした。
道鏡は下野に赴いた後、まもなく世を去ります。

また、光仁天皇は即位に伴い、皇后に井上内親王(聖武天皇の皇女で天武系)を立て、彼女との間に生まれた他戸親王を皇太子としました。
これは天智系と天武系の融和を図る政治的配慮でもありましたが、この人事が後に大きな政治的事件へと発展していくことになります。

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光仁天皇の治世を揺るがした皇后廃后事件

即位後まもなく、光仁天皇の治世を大きく揺るがす事件が起こります。

宝亀3年(772年)3月2日、皇后に立てられていた井上内親王が光仁天皇を呪詛(まじないで呪う)したという疑惑が突如として持ち上がります。
井上内親王は天武天皇の曾孫で聖武天皇の皇女、つまり天武系の正統な血筋を引く内親王でした。
彼女は光仁天皇との婚姻によって皇后となり、息子・他戸親王も皇太子に立てられていました。

これによって、光仁天皇の即位後も天武系の血統が皇位を継ぐ可能性が高かったのです。
しかし、この呪詛疑惑により、井上内親王は皇后を廃され、同年5月27日には他戸親王も皇太子を廃位されてしまいます。

さらに宝亀4年(773年)10月14日、光仁天皇の同母姉である難波内親王が薨去します。
そして10月19日、この難波内親王の死も井上内親王の呪詛によるものだという新たな疑惑が持ち上がりました。

この二度目の疑惑により、井上内親王と他戸親王は庶人に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の館に幽閉されることになります。

伝承によれば、奈良から五條へ流される際、井上内親王は57歳前後で、懐妊していたとも伝えられています。この年齢での懐妊は極めて稀で、廃后直前まで光仁天皇との夫婦関係が良好だったことを示唆するもので、呪詛の疑いが冤罪である可能性を高めると同時に、井上内親王の悲劇性をさらに際立たせます。
五條では男児を出産したという伝承も残されており、この子は母と兄の恨みを晴らすために雷神になったと語り継がれています。
また皮肉にも、高齢で懐妊し幽閉先で出産したという伝承から、井上内親王は後に「安産の神」として信仰されるようになります。
怨霊から守り神への転化という、日本の御霊信仰の特徴的な展開を示しています。

特に藤原百川や藤原良継ら式家の藤原氏が、天武系による皇位継承の道を完全に断ち切り、藤原式家の藤原氏政治的利益と権力掌握、外戚としての地位を獲得し、その権力を恒久化する周到な戦略がありました。

また、天武系天皇は聖武天皇の大仏建立や道鏡の例に見られるように、仏教勢力と強く結びつき、僧侶が政治に介入することで、世俗貴族の権力が相対的に弱まっていました。
式家は貴族主導の政治体制を確立するため、天武系天皇と強い繋がりを持っていた平城京の南都六宗(興福寺、東大寺など)の政治的影響力を弱体化させ、新しい政治体制を構築する絶好の機会でもあったのです。

実際、この事件により最も利益を得たのは、光仁天皇の別の子・山部親王(後の桓武天皇)でした。
山部親王の母は高野新笠という百済系渡来人の出身で、本来ならば皇位継承の有力候補とは見なされにくい立場でしたが、他戸親王の廃太子により、宝亀4年(773年)1月、山部親王が皇太子に立てられます。

そして宝亀6年(775年)4月27日(5月30日とする説もあり)、幽閉先で井上内親王と他戸親王が同じ日に急死します。
『続日本紀』では「卒」という表現が使われていますが、これは通常、皇族に対しては使われない異例の表現です。
通常であれば「薨」が用いられるべきところ、「卒」という表現は彼らが既に庶人に落とされていたことを示しています。

母子が同日に死亡したという不自然さから、暗殺説も根強くあります。
真相は闇の中ですが、この母子の非業の死は、人々の間で「怨霊となって朝廷を祟るのではないか」という不安を呼び起こし、後世に伝わる皇室の怨霊伝説の始まりの一つとなりました。

この「皇后廃后事件」は、単なる一皇族の失脚ではなく、天武系による皇位継承の道を完全に断ち切る重大な出来事でした。
ここから先、皇統は天智系へと一本化されていきます。
こうして、光仁天皇の時代に起きた一連の事件は、結果的に天智系皇統の確立と平安時代の幕開けにつながる重要な分岐点となったのです。

光仁天皇の治世──乱れた世の立て直し

財政再建と行政改革

奈良時代の末期、国家財政は深刻に疲弊していました。
律令制度に基づく班田収授制は名目化し、農民の逃亡や浮浪が増え、戸籍・課役の管理が崩壊していたのです。

光仁天皇はこれを立て直すべく、租税制度の見直しや田地の再整理を行いました。
特に農民の負担軽減と課役の公正化を図り、国家財政の安定を目指しました。
具体的には、不必要な令外官(律令に規定されていない官職)を停廃し、官僚機構のスリム化を図りました。

また、軍団と兵士の制を縮小し、虚弱な兵士に代えて富裕な農民を採用するなど、農民の労役負担を軽減する政策を実施しました。
これらは大規模な改革というより、律令政治の基本に立ち返る実務的な再建が特徴です。

仏教勢力の抑制

光仁天皇の治世は、日本の宗教文化において二つの重要な転換をもたらしました。
一つは仏教勢力の抑制であり、もう一つは怨霊信仰の芽生えです。

称徳天皇の時代、道鏡を中心に仏教勢力が政治を大きく左右しました。
しかし光仁天皇は、仏教を政治から切り離す姿勢を鮮明にします。
もちろん寺社への保護は続けたものの、僧侶を高官に登用することは避け、国家運営の中心を再び貴族と官人に戻しました。
この方針は、後の桓武天皇による「仏教と政治の分離」の流れにつながり、平安時代の新しい国家体制の基盤となります。

光仁天皇は井上内親王・他戸親王の怨霊を鎮めるため、宝亀6年(775年)に秋篠寺を建立しましたが、これは宗教的な慰霊であり、政治への仏教介入とは一線を画するものでした。
桓武天皇はこの路線をさらに推し進め、平城京から遷都することで南都六宗の物理的・政治的影響力を弱め、代わりに最澄(天台宗)や空海(真言宗)といった新しい仏教を保護しました。

これは「奈良仏教の排除」と「新仏教の導入」という二段階の改革であり、その第一段階を光仁天皇が担ったのです。

奈良時代の末期に生じた井上内親王・他戸親王の「祟りの噂」は、その後の日本政治文化に大きな影響を残しました。
井上内親王と他戸親王は、やがて「怨霊として天災を引き起こした」と語られる存在となり、後の時代に登場する崇徳院や菅原道真など「怨霊譚の原型」ともみなされています。

光仁天皇の時代に芽生えたこの怨霊観は、「不当に地位を奪われた者が死後に祟る」という強い政治的メッセージを含んでいました。
そのため為政者は、怨霊を鎮めるための祭祀や神格化を行うことが、統治の一環として不可欠になっていきます。
こうした信仰の流れは、平安京へ遷都した桓武天皇の治世にさらに広がります。

桓武天皇の時代には、早良親王(桓武天皇の同母弟で、冤罪により配流先で憤死)の怨霊が問題となり、後に崇道天皇として追尊されました。
やがて日本特有の怨霊信仰・御霊信仰として定着していくのです。

現在も奈良県五條市には井上内親王と他戸親王を祀る御霊神社があり、京都には上御霊神社・下御霊神社が御霊信仰の中心地として存在しています。
光仁天皇の時代に始まったこの信仰は、日本の宗教文化の重要な一部となって今日まで受け継がれています。

祇園祭の起源も御霊信仰にあると言われており、光仁天皇期の怨霊譚は、現代の日本文化にまで影響を与え続けているのです。

蝦夷政策の転換と三十八年戦争の始まり

北方の蝦夷(えみし)への対応もまた、光仁天皇の治世で重要な課題でした。
即位直後の宝亀元年(770年)4月、陸奥国黒川・賀美等諸郡の俘囚3,920人が「自分たちの父祖は本来王民であったが、蝦夷に略奪されて賤隷となった」と訴え出る事件が起こります。

当初は懐柔策を重視していた光仁天皇でしたが、宝亀5年(774年)、方針を転換して大伴駿河麻呂を鎮守将軍に任じ、蝦夷征討を命じました。
これが後に「三十八年戦争」と呼ばれる長期戦争の始まりとなります。

さらに宝亀11年(780年)3月には、伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)の乱が勃発します。
伊治呰麻呂は朝廷に帰順していた蝦夷の有力者でしたが、朝廷の圧政に反発して反乱を起こし、多賀城を陥落させました。
この事件により、それまで朝廷に協力的だった蝦夷たちも一斉に離反し、蝦夷と朝廷の対立は決定的なものとなります。

光仁天皇の時代には蝦夷問題の根本的解決には至りませんでしたが、この時期は桓武天皇の時代に大規模な蝦夷征討を再開する前の”調整期間”となりました。
後に坂上田村麻呂が征夷大将軍として活躍する基盤が、この時期に形成されていったのです。

井上内親王と他戸親王の祟り?晩年に相次いだ天変地異

宝亀6年(775年)4月、井上内親王と他戸親王が幽閉先で急死した後、光仁天皇の晩年には宮廷と国土を揺るがすような大きな災厄が相次ぎました。

記録によれば、775年から780年にかけて、以下のような異変が立て続けに発生しています。

宝亀6年(775年)
7月から8月にかけて、黒鼠の大群が出現
雹(ひょう)が降り、作物に被害
飢饉が発生し、食糧不足が深刻化
野狐が頻繁に出現する異変
風雨による被害

宝亀6年(775年)8月
伊勢(現在の三重県)、尾張(現在の愛知県西部)、美濃(現在の岐阜県南部)を暴風雨が襲う
伊勢神宮が被害を受けるという重大事態

宝亀8年(777年)
11月1日、光仁天皇が病(不豫)に倒れる
12月、皇太子・山部親王(後の桓武天皇)も死の淵をさまよう大病を得る
善珠僧正の祈祷により両者とも回復
宝亀年間を通じて度重なる地震で都の建物が崩壊
疫病の流行により貴族から庶民まで広く命を落とす

こうした天変地異は古代社会において「為政者の徳が失われた兆し」と考えられ、政治と自然災害が密接に結びつけられました。
特に、直前に不自然な形で命を絶たれた井上内親王・他戸親王の存在があったため、宮廷内外では「これはあの母子の祟りではないか」と恐れられたのです。

光仁天皇や藤原百川は、この祟りを恐れ、悪夢に悩まされたと伝えられています。
宝亀6年(775年)、光仁天皇は秋篠寺を建立して怨霊鎮魂を図りました。
開基は善珠僧正で、この寺は井上内親王と他戸親王の霊を慰めるための寺院とされています。

しかし、それでも天変地異は収まらず、宝亀10年(779年)、ついに光仁天皇は井上内親王を皇后に復し、その墓を山陵(天皇・皇后の墓)として扱うことを決定しました。
また、他戸親王も親王の礼をもって葬られることになりました。
これは非業の死を遂げた二人の名誉を回復し、その霊を鎮めようとする試みでした。

奈良時代の末期に生じたこれらの「祟りの噂」は、その後の日本政治文化に大きな影響を残しました。
井上内親王と他戸親王は、やがて「怨霊として天災を引き起こした」と語られる存在となり、後の時代に登場する崇徳院や菅原道真など「怨霊譚の原型」ともみなされています。

光仁天皇の時代に芽生えたこの怨霊観は、「不当に地位を奪われた者が死後に祟る」という強い政治的メッセージを含んでいました。
そのため為政者は、怨霊を鎮めるための祭祀や神格化を行うことが、統治の一環として不可欠になっていきます。

こうした信仰の流れは、平安京へ遷都した桓武天皇の治世にさらに広がります。
桓武天皇の時代には、早良親王(桓武天皇の同母弟で、冤罪により配流先で憤死)の怨霊が問題となり、後に崇道天皇として追尊されました。
やがて日本特有の怨霊信仰・御霊信仰として定着していくのです。

現在も奈良県五條市には井上内親王と他戸親王を祀る御霊神社があり、京都には上御霊神社・下御霊神社が御霊信仰の中心地として存在しています。
光仁天皇の時代に始まったこの信仰は、日本の宗教文化の重要な一部となって今日まで受け継がれています。

晩年と次代への継承──桓武天皇への譲位

天応元年(781年)4月3日、光仁天皇は病が深刻化し、皇太子・山部親王に譲位して太上天皇(上皇)となりました。この時、光仁天皇は73歳でした。

山部親王が立太子する際には、母の出自が百済系渡来人であることから多くの反対がありましたが、廃后事件によって他に適当な候補がいなくなったこと、また山部親王が学問・人望ともに優れていたことから、次代の天皇としての準備を進めていました。

天応元年(781年)12月23日、譲位から9ヶ月後、光仁天皇は崩御します。
在位11年、享年73歳でした。

和風諡号は「天宗高紹天皇」(あめむねたかつぎのすめらみこと)。
当初は広岡山陵に葬られましたが、延暦5年(786年)、父の施基親王(春日宮天皇)を葬る大和国添上郡田原の田原東陵に改葬されました。
父子が同じ地に眠ることで、天智系皇統の正統性がさらに強調されました。

山部親王は781年4月、桓武天皇として即位しました。
桓武天皇は同母弟の早良親王を皇太弟に立て、784年(延暦3年)には長岡京へ遷都し、さらに794年(延暦13年)には平安京へと遷都します。
「鳴くよウグイス平安京」という語呂合わせで有名なこの遷都により、奈良時代は終わりを告げ、平安時代が始まりました。

桓武天皇は父・光仁天皇の政策を受け継ぎつつ、律令制の再建、蝦夷征討(坂上田村麻呂の活躍)、仏教勢力の抑制(平城京から離れることで南都六宗の影響力を弱める)など、光仁天皇が始めた多くの政策を完成させました。

天智系皇統の復活──皇統転換の歴史的意義

光仁天皇の即位は、約100年続いた天武系皇統の流れを終わらせ、天智天皇の血統を再び皇位に復活させる歴史的転換点でした。

このことによって、桓武天皇が平安京遷都や律令国家の再構築といった大改革を実現する道筋が開かれました。

第一に、平城京・仏教勢力との関係断絶が可能になりました。
天武系は平城京で約100年間統治し、興福寺・東大寺などの南都六宗と深く結びついていました。
天智系の桓武天皇にとって、平城京は「天武系の都」であり、遷都する正統性がありました。
もし天武系が継続していれば、平城京を離れることは皇統の否定を意味し、政治的に極めて困難でした。

第二に、式家藤原氏の全面支援がありました。
光仁天皇擁立を主導した藤原百川、良継ら式家は、桓武天皇の後見人でもありました。
桓武天皇の母・高野新笠は百川の妹(または姪)であり、式家は外戚として全力で桓武天皇を支援したのです。
この強力な政治基盤があったからこそ、大規模な遷都・改革を断行できました。

第三に、律令制再建の必然性と正統性が確立されました。
天武系末期の混乱で、律令制は形骸化していました。
天智系復活は「天智天皇が制定した近江令の精神への回帰」という理念を持ち、律令制再建の正統性を与えました。
桓武天皇は光仁天皇が始めた財政再建、行政改革を継承・発展させることができたのです。

第四に、蝦夷征討の推進が可能になりました。
光仁天皇期に始まった「三十八年戦争」を、桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて本格化させました。

天武系では聖武天皇の大仏建立など仏教事業に国家資源が集中し、また仏教的慈悲思想が武力征服より懐柔を重視したため、蝦夷征討は停滞していました。

一方、天智系の桓武天皇は平城京から遷都することで南都仏教勢力の影響から脱却し、律令制再建で確保した財政・軍事資源を活用できたため、軍事的拡大政策を積極的に推進できる環境にありました。

このように、光仁天皇が天智系を復活させたことで、桓武天皇は「新王朝の開始」という名目のもと、平城京からの脱却、仏教勢力の抑制、律令制の再建、新都建設という抜本的改革を、正統性を持って実行できたのです。

今日の皇室は光仁天皇の男系子孫にあたり、天智系の血統が現代まで続いています。
その意味で、光仁天皇は現在の皇統の直接的な祖となる重要な天皇です。

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